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尾崎紅葉

ジャパンナレッジで閲覧できる『尾崎紅葉』の日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本近代文学大事典

人名
尾崎 紅葉
おざき こうよう
慶応3・12・16、新暦明治元・1・10~明治36・10・30
*1868~1903
本文:既存

小説家。江戸の芝中門前町に生れた。本名は徳太郎。縁山、半可通人などの別号があり、俳句には十千万堂(十千万)などの別号を用いた。慶応三年一二月一六日は太陽暦では一八六八年一月一〇日に当たる。なお、一説では慶応三年一二月二七日の出生とする。父は惣蔵、母はよう。尾崎家は代々伊勢屋という屋号の商家であったが、惣蔵は廃業して、角彫りの名人谷斎として有名で、根付け彫りなどにすぐれた作品を遺している。しかし、いわゆる名人気質で、多作家ではなかったから、生活は余裕がなく、そのため幇間として料亭や角力場などに出入りした。いつも緋縮緬の羽織を着た坊主頭の谷斎は人目を引き、「赤羽織の谷斎」といわれて大衆の人気者でもあった。母の庸は、当時芝神明町に住んでいた漢方医荒木舜庵、せんの長女で、かぞえ年一九歳のとき紅葉を生んでいるが、荒木家はそのころ家計が苦しく、舜庵は茶碗の上絵を描いたり、寒暖計の目盛りを入れたりするような内職をしていたといわれるので、娘の庸は、あるいは柳田泉が推測しているように「神明社の茶汲み女」かなにかのような勤めに出、そこで谷斎と結ばれることになったのかもしれない(『ある幻想的ロマンス―尾崎紅葉の素性―』)。しかし不幸にも、庸はそののち明治三年にはるを生んだが、五年五月一九日かぞえ年二四歳で没した。紅葉は満五歳であった。つづいて八月には妹のはるも夭折した。紅葉は荒木家に引取られ、祖父母の手によって育てられることとなった。谷斎は二年後の七年、平井とくと結婚し、紅葉とは別居したままで二七年二月に没するが、紅葉がこの父のことをひたかくしにしていたことは硯友社同人らの記述によって知られる。しかし、その芸術家としての血統が伝わっていることは否定すべくもない。なお、継母とくは三一年一〇月に没している。

 紅葉はまず明治六年七月、久我富三郎の寺子屋梅泉堂に入り、この梅泉堂はのち私立梅泉小学校と改称されたが、この学校で小学校の教育をうけ、ついで一四年東京府第二中学(現・都立日比谷高校)に入学したが、在学二年で中退し、三田英学校の大学予備門受験科に入って英語を修め、一六年九月、首尾よく神田一ツ橋の東大予備門に入学した。この間、中学中退前後から岡千仭の漢学塾綏猷すいゆう堂、石川鴻斎の崇文館に入って漢学、漢詩文を学んだ。明治一五年五月、「頴才新誌」に発表された漢詩『柳眼』は当時の文学活動を物語っている。予備門入学後、友人らと文友会、凸々会などに参加する一方、人情本などをも耽読し、一七年八月には『春色連理うめ』を筆写したりした。この年九月、芝神明町での竹馬の友、山田武太郎すなわち美妙斎が予備門に入学、友情が復活した。かくして翌一八年二月、美妙、石橋思案、丸岡九華らと硯友社を結成、文壇でのはなばなしい活動の第一歩を踏出したのである。同年五月、機関誌「我楽多文庫」を筆写回覧本の形式で創刊。同誌はその後印刷され、また公刊されるようになり、紅葉ら同人の文壇進出を果たして、二二年一〇月、改題された「文庫」の二七号をもって終刊した。紅葉はこの雑誌にはじめ半可通人などの別号で戯作風の小説、雑文、批評、新体詩、落語、狂歌などを書いていたが、坪内逍遙の『当世書生気質』『小説神髄』(明18~19)などの影響をうけ、ヨーロッパ文学に範をとって近代小説確立への方向を目ざすようになった。明治一九年、大学予備門から改称された第一高等中学の英語政治科へ、さらに進んで二一年帝大法科大学政治科に入学していながら、翌年には文科大学和文科に転じ、二三年には学年試験に落第したのを契機に、そのまま中退して創作活動に専念することとなった。紅葉の経歴は、他面から彼のこうした文学への決意を、そのまま解明かしてもいる、といえよう。

 その作家活動をたどると、明治二二年四月、『新著百種』第一号に書下ろし刊行された出世作『二人比丘尼色懺悔』の出現までの文壇登場以前、すなわち「我楽多文庫」時代を習作期と見ることができよう。この時期は、『江島土産滑稽貝屛風えのしまみやげこつけいかいびようぶ』(明18・5~19・5)『にせ(偐)紫怒気鉢巻むらききいかりのはちまき』(明19・5~20・1)などのような戯作風の小説、『書生歌』(明18・6)の新体詩から出発したが、文明開化のいわゆる鹿鳴館時代風俗をとらえた「写実」的な『娘博士』(明20・10)『風流京人形』(明21・5~22・3)『YES AND NO』(明22・1)などの小説へと進み、その清新さが読者の注目をよんだ。前記のように逍遙から示唆せられたところが大きい。が、もともと洒落を愛し、ユーモアを好んだ江戸っ子の彼は、一九、三馬、京伝など、江戸後期の文学に多くを学びつつ、しだいにイギリス近代文学のユーモアにも心ひかれていったので、そういう明るいユーモラスな色調が、この時期の文学をおおっている。その意味では、硯友社同人たちをいきいきと描いた『紅子戯語』(明21・10~12)をもって、この時期を代表させることもできる。未刊のまま稿本として遺されていた明治二一年作の『夢中夢』(「改造」昭3・4)も「諷刺戯作」という角書つのがきが示すように、この傾向を追ったものといえる。一方、彼は淡島寒月を介して西鶴を知り、二一年ごろから『好色一代男』などを愛読するようになった。それは次期のいわゆる西鶴調文体を成熟させる萠芽となり、たまたまこの二一年都の花主筆となって袂をわかった山田美妙の言文一致体にたいし、彼なりの文体樹立への意欲を思わせたのである。

 明治二二年四月の『二人比丘尼色懺悔ににんびくにいろざんげ』は「涙を主眼とする」中世的な悲哀の情趣をたたえた優艶な小説として歓迎され、紅葉をはなばなしく文壇に登場させた。それは鹿鳴館時代が過去った反動としての復古的思潮に投じたともいえるが、いまひとつ紅葉年来の苦心になる「一風異様の文体」が魅力として人びとの心をとらえたためである。文章家紅葉が、こののちさらに文章の練磨、新文体の創造へと、全力を傾注するようになるのはもはや必至であった。すなわち、二五年ごろまでの紅葉は、主として西鶴を学んだ雅俗折衷体の文章をみがきあげて、『伽羅枕』(「読売新聞」明23)『三人妻』(「読売新聞」明25)のような、前期における代表作を生むこととなる。紅葉は、この時期、もっとも創作力が活潑で、明治二二年一二月、東大在学中に読売新聞社に入社し、同紙につぎつぎと長短編を発表しながら、他方で「我楽多文庫」につづく硯友社の機関誌ともいうべき「小文学」「江戸紫」「千紫万紅」などにも諸短編を書き、また『此ぬし』(明23・9刊『新作十二番』)『新桃花扇・巴波うずま川』(明23・12刊『新著百種』)などの書下ろし刊行や、求められて「都の花」に中編『二人女房』(明24・8~25・12)を連載するなど、めざましい活躍を見せた。彼は二四年三月、牛込横寺町の新居で樺島喜久と結婚したが、かぞえ年二五歳であったにもかかわらず、すでに文壇の大家と仰がれ、泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、山岸荷葉ら、入門を志す子弟があいついで横寺町の宅をたずねた。紅葉はそのような自身の立場を考え、たえずその創作に新機軸を出そうとした。文体の上で西鶴を学んだのもそのひとつだが、さらにその構想やストーリイの展開の技法にも西鶴を摂取して『伽羅物語』(「読売新聞」明24・1・1「筆はじめ」所載)や『子細あつて業物も木刀の事』(「千紫万紅」明24・6、8)などを書き、また田山花袋が『東京の三十年』で回想しているように、ゾラをはじめとする近代ヨーロッパ文学をしきりに愛読して心理的写実主義を体得しようとしていた。妻をよく理解していながら、どうしても愛することのできない夫の心理を追求した『焼継茶碗』(「読売新聞」明24・5・15~6・25。のち『袖時雨』と改題)などはその一成果であり、ゾラを題材として翻案した『むき玉子』(「読売新聞」明24・1・11~3・21)もこの時期の作である。このほか『二人椋助』(明24・3 博文館刊『少年文学』第二編所収)『鬼桃太郎』(明24・10 博文館刊『幼年文学』第一号所収)のような児童文学のこころみもあり、『二人女房』における文体の言文一致体への移行も注目される。

 明治二六年からは、いわば後期に当たる。その前半、すなわち二七、二八年ごろまでは翻案や鏡花、花袋その他との合作なども多く、当時の批評家らに想が枯れたなどと酷評されたこともあるが、紅葉は新生面を開拓しようとして摸索していたのであり、『隣の女』(「読売新聞」明26・8・20~10・7)『紫』(「読売新聞」明27・1・1~2・16)『冷熱』(「読売新聞」明27・5・27~7・6)などに見られる言文一致体の修練とあわせて、その写実主義を完成するために日夜努力を惜しまなかった。未完成に終わったが、野心的長編の『男ごゝろ』(「読売新聞」明26・3・1~4・13)のあと、盲人の無気味な愛執の念をとらえた『心の闇』(「読売新聞」明26・6・1~7・11)に写実の深まりを見せ、『不言不語いわずかたらず』(「読売新聞」明28・1・1~3・12)ではその怪奇味をより強調するとともに当時愛読していた『源氏物語』にもとづく雅文体で芸術的完成度を高めようとした。やがて愛弟子風葉の発病入院という身辺生活に取材した『青葡萄』(「読売新聞」明28・9・16~11・1)の私小説的作品を経て、花袋らも激賞した写実主義の最高作『多情多恨』(「読売新聞」明29)に到達した。この長編は、また、いわゆる「である」調の口語文を彫琢しつくした言文一致体の小説として、その意義が高く評価されている。その後の多くの作家に与えた影響も大きい。

 紅葉が晩年にその全精力を傾け、文字どおり心血を注いだ大作は『金色夜叉』である。「読売新聞」紙上に明治三〇年から三五年にかけて断続連載、あしかけ六年におよんだが、完成せず、健康もすぐれぬまま読売を退社し、さらに三六年からは雑誌「新小説」に連載することとして、まずその『新続しんしよく金色夜叉』を再掲し、稿をつづけようと企図した。が、三月号の再掲部分までで中絶し、その続稿は成らなかった。成らなかった理由は、紅葉みずから『十千万堂日録』明治三四年一月二二日の条で、「一に胃患の為に妨げられ、二に客来の為に碍げられ、三に推敲の為に礙けらる」と述べ、「金色夜叉の三害と作すか」といっている。そのことばどおり、胃病は明治三二年ごろから彼の肉体をむしばみはじめ、ついにその生命を奪ったのであった。紅葉は三二年七月から八月にかけて新潟、佐渡に旅行したが、それは『煙霞療養』(「読売新聞」明32・9・1~11・13、原題『反古ほご裂織ざつこり』)の旅であり、その後も三四年五月には修善寺、三五年五、六月には成東などへおもむいて療養につとめたが、病状は好転せず、三六年三月大学病院に入院して、胃癌という診断をうけた。しばらく妻喜久の実家である芝新堀町の樺島方で養生したが、やがて牛込横寺町の自宅に帰り専心療養につとめた。が、病勢はさらに進み、「モルヒネの量増せ月の今宵也」などのいたましい作句をなしている。また、当時の心境は、没後の三七年三月刊、巌谷小波編『病骨録』(文禄堂)などによって知られる。かくてこの年一〇月三〇日、家族、知友、門弟らにみとられつつ没した。

 明治三〇年以後の紅葉は、文壇の大家でかつ社会的名士でもあり、生活も多忙なうえに、弓術、写真その他、趣味人でもあったから、『金色夜叉』をのぞけば、ほかには『寒牡丹』(「読売新聞」明33・1・1~5・10)のような翻訳、翻案の作品が多い。が、随筆、紀行、また俳句にはとくに熱心で、かつての談林風から飛躍して情趣深い佳句を遺している。秋声会の一員でもあり、星野麦人ら門弟たちの「俳藪」を指導した。なお、小説の面で多数の門下を育成したのは有名で、世に「牛門」といわれ、泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉はその「四天王」と称された。人がらとしては、信義にあつく、義俠心に富み、親分はだでもあったから硯友社の総帥に推され、つねに文士の社会的地位の向上を心がけていたことも忘れられない。文章報国を念願していた一代の文章家で、文字どおりの明治の文豪でもあった。

 博文館版『紅葉全集』全六巻(明37)、中央公論社版『尾崎紅葉全集』全一〇巻のうち三巻(昭16~17)がある。

(岡 保生 1984記)

代表作

代表作:既存
伽羅枕
きゃらまくら
中編小説。「読売新聞」明治二三・七・五~九・二三連載。明治二四・一〇、春陽堂刊。遊女佐太夫の半生を物語ったもので、佐太夫はもとお仙といい、江戸の旗本水野石見守と京祇園の芸子との間に生れたが、数奇な運命をたどり、早くから花街での生活を体験する。彼女の生き方を決定したのは、彼女が江戸に下ったとき、すでに父は死し、ただひとりの肉親―大名の奥方となっている異腹の姉と対面したことによる。彼女は姉妹とはいえ、あまりにもはなはだしい身分のへだたりに感じ、自分はもはや「不治の不具」となった以上、「大不具となりて世間を気味悪がらすべきぞ」と決意し、吉原の佐太夫として全盛をきわめることとなる。そして意地強く「粋」をつらぬくのである。紅葉は『作家苦心談』(「新著月刊」明30・6)の中で、「殆ど事実そのままを多少敷衍した」というが、西鶴の好色ものの影響は打消しがたい。文体も、いわゆる西鶴調で一貫している。北村透谷に『粋を論じて伽羅枕に及ぶ』がある。
三人妻
さんにんづま
長編小説。前編明治二五・三・六~五・一一、後編明治二五・七・五~一一・四、「読売新聞」連載。明治二五・一二、上、下二巻のち改訂版明治三六年・一二、春陽堂刊。前編は、天性の利発と豪胆により一代で巨万の富をきずいた葛城余五郎が、お才、紅梅、お艶という三人の妾を手に入れるまでを描き、後編はこの三人が各自の行き方をとり、本妻のお麻をまじえてたがいに交渉も生れるが、お才と紅梅はいわば自業自得の結果に追込まれ、お艶にのみ幸運が恵まれる、という筋。紅葉は『作家苦心談』(前出)で「或豪商が死んだ時に三人の妾が髪の毛を切つて、殉死の心持で、棺に入れたといふ雑報から思ひ付いた」と述べている。この「雑報」が、明治二五年二月一四日の「読売新聞」所載『明治新編三人比丘尼』であること、また「豪商」が岩崎弥太郎であることを、勝本清一郎が明らかにした(『尾崎紅葉』)。当時「女物語の作者」として世評の高かった紅葉が、その自信をもって、女性たちの愛欲図絵をたくみに描きあげた代表作。谷崎潤一郎が絶賛したのは有名である。
多情多恨
たじょうたこん
長編小説。前編明治二九・二・二六~六・一二、後編明治二九・九・一~一二・九、「読売新聞」連載。明治三〇・七、春陽堂刊。物理学院の教授鷲見すみ柳之助は最愛の妻お類をなくして悲嘆にくれていた。彼の身を案じる親友の葉山誠哉や、お類の母などが、彼のために配慮したが、柳之助の亡妻を思う気持ちは依然として烈しかった。しかし、勧められるまま、葉山の家に同居した柳之助は、はじめ葉山の妻お種を虫が好かぬと思っていたが、その誠実さに打たれて、しだいに彼女に親しむようになり、ある夜などお種の寝室にはいって介抱してもらったりした。このことがもとで二人の間が疑われ、柳之助は葉山家を去って下宿することとなったが、いまでもお類の肖像画とお種の写真を座右に掛けて日を送っている。紅葉はこの作を書く前年に『源氏物語』を愛読しており、その「桐壺」の巻における帝の亡き更衣を追慕するめんめんたる情に動かされ、ここにヒントをえてこの作を構想することとなったものと推定される。紅葉は、すでに『心の闇』ですぐれた心理描写の技倆を見せており、この作では、すすんで近代知識人の内面を微細に描写しようとした。心理的写実主義の代表作で、みずから「自家の米の飯」と称していたという。その文体においても洗練しつくした言文一致体(「である」体)を用い、この文体はここに近代文体として定着するにいたった。紅葉にきびしかった田山花袋もこの作だけは高く評価している。
金色夜叉
こんじきやしゃ
長編小説。「読売新聞」明治三〇・一・一~三五・五・一一、断続して六年連載。その後「読売新聞」連載の終わりのほうを『新続金色夜叉』と題して「新小説」(明治36・1~3)に再掲、続稿の予定であったが実現せず中絶した。単行本は、前編明治三一・七、中編明治三二・一、後編明治三三・一、続編明治三五・四、続々編明治三六・六、五冊刊行。なお、続々編七版明治三八・七には新続編が付加された。博文館版『紅葉全集』第六巻(明37)、塩田良平校訂の中央公論社版『尾崎紅葉全集』第六巻(昭16)に所収。高等中学生の間貫一は寄食している鴫沢家の娘宮と婚約していたが、宮は資産家の富山唯継に嫁すこととなり、裏切られたとして熱海の海岸で彼女を蹴倒し行方をくらます。やがて貫一は高利貸しとなり、金銭にのみ執着するが、赤樫満枝に横恋慕されたり、暴漢に傷つけられたり、主家の鰐淵家が放火のため焼亡したりする。宮の後悔していることを聞き、親友荒尾譲介にも忠告される。しかしなお貫一は宮を許そうとしなかったが、ふとしたことから彼の心もようやくなごむようになった。その貫一に呼びかける宮の悲痛な手紙で中絶している。明治文学最大の人気作品で、演劇、映画、流行歌などで大衆に親しまれた。紅葉は『「金色夜叉」上中下編合評』(「芸文」明35・8)で、間貫一をとおして「愛と黄金との争ひを具象的に」現そうとしたという。そして愛の勝利を描こうとしたのだが、未完に終わった。門弟小栗風葉に『金色夜叉・終編』(明42・4 新潮社)があり、完結させている。
(岡 保生 1984記)

全集

  • 『紅葉全集』全6巻(1904 博文館《覆刻版1979 日本図書センター》)
  • 『尾崎紅葉全集』全4巻(1925~26 春陽堂)
  • 『紅葉全集』全12巻・別巻1(1993~95 岩波書店)
  • 分類:小説家
    修正PDF:1000001102.pdf
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    日本大百科全書(ニッポニカ)

    尾崎紅葉
    おざきこうよう
    [1867―1903]

    小説家。本名徳太郎。「紅葉」は、生地、東京・芝紅葉山 (もみじやま)にちなむ。ほかに縁山 (えんざん)、半可通人 (はんかつうじん)、十千万堂 (とちまんどう)などの別号がある。江戸・芝中門前町に、慶応 (けいおう)3年12月16日生まれる(太陽暦では1868年1月10日にあたる)。父惣蔵 (そうぞう)は屋号を「伊勢屋 (いせや)」という商人だったが、谷斎 (こくさい)と号し角彫 (つのぼ)りの名人でもあった。が、名人気質 (かたぎ)で生活は苦しく、幇間 (ほうかん)となり生計をたてていたので、世間ではむしろ「赤羽織の谷斎」として知られていた。紅葉はこの父を恥じ、友人にもひた隠しにしていた。幼時に母と死別し、以後は母方の祖父母荒木氏に引き取られ、養育された。東京府第二中学校(現都立日比谷 (ひびや)高校)を経て、大学予備門(現東京大学教養学部)に入学、ここで石橋思案 (しあん)、山田美妙 (びみょう)らと硯友社 (けんゆうしゃ)を結成、機関誌『我楽多 (がらくた)文庫』を創刊した。1885年(明治18)のことである。同人も増加して雑誌も発展し、硯友社はやがて文壇に勢力を示すようになったが、紅葉は親分肌の性格で友情に厚く、つねにその中心であった。

     帝国大学に進学、法科から和文学科に転科したが、1889年12月読売新聞社に入社し、作家としてたったので、翌1890年には退学した。これ以前の1889年4月、「新著百種」第1号として『二人比丘尼色懺悔 (ににんびくにいろざんげ)』を刊行。情趣深い「悲哀小説」として好評を博し、人気作家としてデビューしたことによる。この後『読売新聞』に次々と艶麗 (えんれい)な女性風俗を写実的に描いた長短編を連載。1891年3月、牛込 (うしごめ)区横寺 (よこでら)町に新居を構え、樺島菊子 (かばしまきくこ)(喜久子)と結婚、やがて泉鏡花 (きょうか)、小栗風葉 (おぐりふうよう)、徳田秋声 (とくだしゅうせい)らが続々入門し、その声望は高く「横寺町の大家」として文壇に仰がれた。『伽羅枕 (きゃらまくら)』(1890)、『二人 (ににん)女房』(1891~92)、『三人妻』(1892)など、作風の特色を遺憾なく発揮している。

     その後、翻案や弟子との合作を試みた時期を経て、盲人の執念を描いた『心の闇 (やみ)』(1893)などから、1896年、性格、心理の描写に優れた言文一致体の『多情多恨』を出し、さらに1897年以降、一代の大作『金色夜叉 (こんじきやしゃ)』(1897~1902)の執筆に従事、明治年間で最高の読者の人気を集めたが、中途で病没した。明治36年10月30日。「死なば秋露のひぬ間ぞおもしろき」の句がある。俳人としても一家をなしたが、本格小説家としての力量は「紅葉山脈」として大正・昭和の作家たちにも仰がれている。

    [岡 保生]



    世界大百科事典

    尾崎紅葉
    おざきこうよう
    1867-1903(慶応3-明治36)

    明治期の作家,俳人。江戸生れ。本名徳太郎。別号は十千万(とちまん)堂のほか初期に多い。家は代々の商家で,父は谷斎(こくさい)と号した牙彫(げぼり)の名人であり,素人幇間(ほうかん)でもある奇人であった。紅葉は幼時に母を亡くして後は,母方の実家で養育された。少年時から文筆を好み,大学予備門に入って,1885年,学友石橋思案や山田美妙らと文学結社硯友社(けんゆうしや)を興し,同人誌《我楽多(がらくた)文庫》を発行した。初めは戯作的な文章を書いたが,89年《新著百種》第1号の《二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)》が出世作となり,同年末に坪内逍遥,幸田露伴とともに《読売新聞》に迎えられ,同社の新聞小説を書いて職業作家の地位を確立した。90年に東大中退。《むき玉子》(1891),《三人妻》(1892)などの当代風俗小説によって人気を呼び,“読売の紅葉か,紅葉の読売か”とまで言われて文名を上げ,明治中期の最有力作家となる。古典や西洋文学の摂取,〈である〉調の言文一致体などにみられる文体の模索等により次々と試作して時代への適合に精進し,晩年には《多情多恨》(1896),《金色夜叉(こんじきやしや)》(1897-1902)の力作長編で満天下をわかせたが,健康を害して没した。次代の作家から,写実の浅薄さや通俗性が批判されたが,文学を芸術性と大衆性の両面において調和させ発展を期した意義は評価されねばならない。また作家の経済生活の確立に腐心し,小栗風葉や泉鏡花らの後進も育てた。秋声会の俳人で句集もある。〈泣いて行くウエルテルに会ふ朧(おぼろ)かな〉。
    [土佐 亨]

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    国史大辞典
    此ぬし紅葉山人 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
    10. 尾崎紅葉画賛(著作ID:4384877)
    新日本古典籍データベース
    おざきこうようがさん 尾崎 紅葉(おざき こうよう) 俳句 
    11. あ
    日本国語大辞典
    うかがひすまして斬(きり)つけたれば、手ごたへして呀(ア)とさけぶ」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・四・一「呀(ア)といふ間にもう回復(とりかへし)がなら
    12. ああ【嗚呼】
    日本国語大辞典
    者何足〓云」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・二「〓(アア)もう何を為
    13. ああ‐して
    日本国語大辞典
    元のやうにならねへからといって、呼ねへといふやうにもなりませず」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉下・四「自分も那(アア)して近所へ来た嫁を見に出た事もあ
    14. あい‐あい
    日本国語大辞典
    世風呂〔1809~13〕二・上「アイアイ、今帰(けへ)ります」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉下・五「其処は親子の情で、又色々世話にもなるといふ心から、
    15. あい‐えつ【哀咽】
    日本国語大辞典
    此歌〓」*金色夜叉〔1897~98〕〈尾崎紅葉〉後・七・二「直道が哀咽(アイエツ)は渾身(こんしん)をして涙に化し」*陸雲‐与戴季甫書「重
    16. あい‐がん[‥グヮン]【哀願】
    日本国語大辞典
    豪奪したることを訴へ新条約に従て之を恢復せしめんことを哀願せり」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉下・一「義理と人情が糾(から)むで可憐(しをら)しい哀願
    17. あい‐ぐすり[あひ‥]【合薬】
    日本国語大辞典
    9~13〕二・上「ハイ、私にも合(ア)ひ薬(グスリ)でございますが」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・一「那(ああ)云ふ病気には又別に結構な適薬(アヒグスリ
    18. あいけ‐ねずみ[あゐけ‥]【藍気鼠】
    日本国語大辞典
    *染物早指南〔1853〕「藍気鼠 灰墨(はいずみ)少々、唐藍同断、明礬水、豆汁」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・三・一「黒綾のモーニングに藍気鼠の綾の窄袴
    19. あいさつ‐ぶり【挨拶振】
    日本国語大辞典
    〔名〕人とあいさつを交わすときのことばやしぐさの様子。あいさつっぷり。*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・五・二「お種は挨拶ぶりに少しばかり笑を含む」*妾の半
    20. あい‐しょう[あひシャウ]【合症】
    日本国語大辞典
    〔名〕薬などが、患者の病状にうまく合うこと。*不言不語〔1895〕〈尾崎紅葉〉三「何がな御対症(アヒシャウ)の薬もと」
    21. あい‐じ[あゐヂ]【藍地】
    日本国語大辞典
    〔名〕紋や縞(しま)、絣(かすり)などの模様以外の部分の色が藍である生地(きじ)。*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉上・六「藍地(アヰヂ)に紺万筋(こんの
    22. アイス
    日本国語大辞典
    」と音が相通じるところから生じたしゃれで、明治時代の学生用語。*金色夜叉〔1897~98〕〈尾崎紅葉〉中・一「此奴が〈略〉我々の一世紀前に鳴した高利貸(アイス)
    23. あい‐そ【愛想・愛相】
    日本国語大辞典
    「夢に迄見た小歌に出会って、欠(かけ)半分の愛想(アイソ)も出ずに」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・三・三「出てゐる方は愛相(アイソ)に出てゐるのであるか
    24. あいそ‐げ【愛想気】
    日本国語大辞典
    回「愛相気(アイソゲ)もなく断るのは、実に気の毒だから困るよ」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉中・三「隠居は、なるほど人付(ひとづき)の悪い、愛想気(ア
    25. 会津八一
    世界大百科事典
    新潟市に生まれ,早熟の天才ぶりを発揮し,中学時代すでに新聞俳壇の選者になったり,当時北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手をつとめたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和
    26. あい‐て[あひ‥]【相手】
    日本国語大辞典
    *雑俳・柳多留‐九〔1774〕「初恋に下女すばらしい相(あイ)人也」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・七「お種も客と云ふのでなければ、用の間を欠いて対手(ア
    27. あいて に とって不足(ふそく)はない
    日本国語大辞典
    相手としてじゅうぶん対抗するだけの力量を持っている。互角に渡り合える相手である。*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉下・二「どうだ合手(アヒテ)に取(ト)っ
    28. 相手にとって不足は無い
    故事俗信ことわざ大辞典
    相手として十分対抗できる力量を持っている。互角に渡り合える相手である。 二人女房(1891)〈尾崎紅葉〉下・二「どうだ合手(アヒテ)に取(ト)って不足(フソク)
    29. 『愛と偶然の戯れ』
    世界文学大事典
    コメディー=フランセーズでは19,20世紀を通じてマリヴォーの代表的レパートリーとなっている。また,わが国では尾崎紅葉がこれを翻案して『八重襷』を書いた。 ドラ
    30. あい‐の‐て[あひ‥]【合手・間手】
    日本国語大辞典
    味線をとって爪弾をする。口舌の中に色気の合(アヒ)の手(テ)を交へ」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・九・一「但取着も無く時々風が出ては梢を鳴(なら)して、
    31. あい‐のり[あひ‥]【相乗・合乗】画像
    日本国語大辞典
    アヒノリ)したる男の上なり」(2)「あいのりぐるま(相乗車)」の略。*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・五・二「もうお帰りかい、ぢゃ合乗でも申付けやう」(3)
    32. 愛は屋上の烏に及ぶ
    故事俗信ことわざ大辞典
    「愛、屋烏(おくう)に及ぶ」に同じ。 冷熱(1894)〈尾崎紅葉〉五「何心無く入口の片隅を眼下に見ると、愛(アイ)は屋上(ヲクジャウ)の烏(カラス)にもおよぶと
    33. あい は 屋上(おくじょう)の=烏(からす)[=鳥(とり)]にも及(およ)ぶ
    日本国語大辞典
    いかりは水中の蟹(かに)にもうつり愛(アイ)は屋上の鳥(トリ)にも及(およ)ぶと云へる事」*冷熱〔1894〕〈尾崎紅葉〉五「何心無く入口の片隅を眼下に見ると、愛
    34. あい‐ぽ・い[あゐ‥]【藍─】
    日本国語大辞典
    〔形口〕(「ぽい」は接尾語)藍色がかっている。濃い青色の感じが強い。*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・三・一「秩父銘撰(めいせん)の藍ぽい羽織を着て」
    35. あい‐むかい[あひむかひ]【相向】
    日本国語大辞典
    *日葡辞書〔1603~04〕「Aimucaino (アイムカイノ) イエ」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉中・四「額(がく)は大小二面を相対(アヒムカイ
    36. あい‐よう
    日本国語大辞典
    お三味さん〈略〉』『アイヨウ、お撥(ばち)さんか。お早いの』」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉上・五「『姉さんてば』と力を入れて呼ぶと、『あいよう』と(
    37. あ‐いろ【文色】
    日本国語大辞典
    三・一六回「あかしは消て鵜羽玉の間路(アイロ)もしれぬ闇とはなりぬ」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・四・二「華美(はで)な縮緬の文色(アイロ)に薄暗い座敷
    38. あ・う[あふ]【合・会・逢・遭】
    日本国語大辞典
    )はよっぽど大あたまだから三割ましをかけねへきゃア合(アヒ)ません」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・七・二「少し酷いけれど言って遣る。それくらゐの事を言は
    39. あえん‐どい[‥どひ]【亜鉛樋】
    日本国語大辞典
    〔名〕トタン板でこしらえた樋。*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・九・一「頭の上の谷川の流と亜鉛樋の貧しい独語(つぶやき)は絶間無く響いて」
    40. あお‐いき[あを‥]【青息】
    日本国語大辞典
    まくは問屋で許さぬとんとん評子(ひょうし)で青息(アヲイキ)ふくやら」*伽羅枕〔1890〕〈尾崎紅葉〉四九「青呼吸(アヲイキ)を吐(つ)きながら主宰(うはやく)
    41. あお‐ぐろ・い[あを‥]【青黒】
    日本国語大辞典
    云なり」*羅葡日辞書〔1595〕「Liuor Auoguroqi (アヲグロキ)イロ」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・三・一「『然(さ)うですなあ』と柳之
    42. あお‐ざ・める[あを‥]【青褪】
    日本国語大辞典
    云ぞ」*人情本・春色梅美婦禰〔1841~42頃〕四・二四回「色青ざめて身を振はし」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・三・二「羸(やつ)れてゐる、色も蒼白(ア
    43. あお‐じろ・む[あを‥]【青白】
    日本国語大辞典
    〔自マ五(四)〕青白くなる。とくに、顔色が青ざめて、血の気がなくなる。*不言不語〔1895〕〈尾崎紅葉〉三「良(やや)有りて奥様は夕月の如く蒼白みたる面を擡(あ
    44. あお‐ひげ[あを‥]【青髭】
    日本国語大辞典
    笠で見えず、下から覗て見た所が鬼髭だが、まあ是も青髭と見るさ」*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉中・七「中将姫に青髭(アヲヒゲ)があったりする殺風景は」(
    45. あお‐み[あを‥]【青味】
    日本国語大辞典
    〔1891〕〈斎藤緑雨〉七「上着は青味(アヲミ)の勝った鉄色の地に」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・八「一面に蒼味(アヲミ)を失って」(2)吸い物、刺身、
    46. 青山霊園
    日本大百科全書
    霊園には大久保利通としみち、後藤新平、森有礼ありのり、犬養毅つよし、浜口雄幸おさちらの政治家、尾崎紅葉、国木田独歩、岡本綺堂きどうらの作家、さらに乃木希典のぎま
    47. あおり‐つ・ける[あふり‥]【煽付】
    日本国語大辞典
    76〕〈総生寛〉一四・下「フラスコの口から洋酒をあふり附(ツケ)て」*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・一「柳之助はコップに半分ばかりを一息に嚼了(アフリツ)
    48. あお・る[あふる]【煽・呷】
    日本国語大辞典
    低い位置から上向きにして写す。【二】〔自ラ五(四)〕風などのために物が動く。*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉後・五・三「階子口(はしごぐち)への通路の扉(ひら
    49. あか‐あか【明明】
    日本国語大辞典
    8〕「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」*不言不語〔1895〕〈尾崎紅葉〉一四「燈火のみぞ耿耿(アカアカ)と」*海やまのあひだ〔19
    50. あか‐うま【赤馬】
    日本国語大辞典
    浄瑠璃社会の隠語。*楽屋図会拾遺〔1802〕下「酒を赤むま、又せいざ」*三人妻〔1892〕〈尾崎紅葉〉前・一〇「山本(ふもと)の五郎兵衛が宿で売る赤馬(アカウマ
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