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井上靖

ジャパンナレッジで閲覧できる『井上靖』の日本近代文学大事典・日本大百科全書のサンプルページ

日本近代文学大事典

人名
井上 靖
いのうえ やすし
明治40・5・6~平成3・1・29
1907~1991
本文:既存

小説家。北海道上川郡旭川町で生れたが、旭川は父の勤務地で、郷里は静岡県田方郡上狩野かみかの村大字湯ケ島字久保田。父隼雄はやおは同村門野原の旧家石渡いしわた家の出で、母八重は井上文次の長女。井上家は七代ほど前の明和(1764~1771)のころ、四国から流れてきて湯ケ島に草鞋を脱ぎ、そのまま医者として住みついた家系で、曾祖父潔は最も著れ、初代軍医総監松本順の門に入り、県立三島病院長となり、晩年は郷里に退いて開業し、名望は伊豆一円にとどろいた。父隼雄も軍医で、任地を転々とし、幼年期の靖もそれに従がったが、大正二年に父母の膝下を離れ、湯ケ島に帰って、潔の妾で、戸籍上は祖母であったに托され、二人は六年間、分家の裏手の土蔵の中に暮らすこととなった。この元芸妓の孤独な老女との同棲は、靖少年の心に濃い影を投じた。この二人は強固な心の同盟を結び、親戚や村人を敵に廻して共同生活を送った。言わば彼女によって少年ははじめて世間というもの、他人というものの真実に触れた。かのは潔の師松本順を敬愛してやまず、人を尊敬する態度の美しさを、井上は彼女から学んだと言っている。『グウドル氏の手套』『あすなろ物語』その他、彼はかの女の肖像をしばしば小説に書いている。

 大正九年一月、かの死し、彼は父の任地浜松に行き、一一年には父が台北に転任のため、伯母の縁故で三島へ行き、沼津中学へ通った。四年生のころ、二、三の文学ずきの友人から文学への眼を開かれ、また中学生らしい放埒ぶりを身につけた。彼らは小学生のときから三重吉、白秋らの、雑誌「赤い鳥」を中心とした綴り方、童謡などの運動に触れた、早熟の少年たちであった。このグループのリーダー格であった藤井寿雄の「秋が来た/カチリ/石英の音」という三行詩を見せられ、詩の何たるかが分ったと井上は言っている。自叙伝的連作小説『しろばんば』『夏草冬濤』『北の海』などに書かれている。

 昭和二年四月、金沢の第四高等学校理科に入学、家業の医学を修めるつもりであったが、柔道部に入り、中学時代の徹底的な学業放棄が、ここでも続いた。だが、かつての放埒ぶりとは反対に、ここでは、柔道では練習量がすべてを決定するという考えのもとに、明けても暮れても道場での寝業の練習に没頭するという、極端な厳格主義、禁欲主義を自分に課した。三年生のとき、ゆえあって柔道部を退部したが、いまさら勉強生活にも帰れず、もはや医学部に進む気持ちはなく、離れていた文学にふたたび帰り、富山県の石動いするぎの詩人大村正次が出している詩誌「日本海詩人」に井上泰の名で投稿した。そして父隼雄を始めとする井上家の期待に反いて、昭和五年、理学部志望を棄て、その年定員の余剰があった九州帝大法文学部にはいった。だが聴講の興味を失い、上京して駒込の植木屋の二階にド宿して、気ままな生活を送った。このころ彼は民衆派詩人福田正夫主宰の詩誌「焰」の同人となって詩を作り、また植木屋の息子にアナーキストがいて、辻潤、高橋新吉などのダダイストたちも、見すぼらしい身なりでときどき現れた。昭和五、六年といえば、学生たちの間に風靡したマルクス主義運動が、次第に地下に追いこまれていた時代だったが、そのような一運動に対して終始冷静な第三者であった井上が、最も運動の渦に近づいた時期があったとすれば、この頃であった。だが、「あらゆることに、私は怠惰であり、常に傍観者でしかなかった」(詩『瞳』)という彼は、大胆不敵な決断と行動への意欲をかかえながら、同時にそれを凍結させてしまうような、人生からの退隠への欲求が生れてくる。それは井上家の家系には間歇的に現れてくるようで、六年に陸軍軍医少将に昇進した父隼雄は、退職して郷里湯ケ島に還り、以後二度と聴診器を手にせず、後半生をみずからの手で埋没させてしまった。息子の医学断念を知った衝動もあったかもしれぬ。井上はその翌年四月、九州帝大二年目を終わりながら、京都帝大哲学科に入学し、教授植田寿蔵のもとで美学を専攻した。二年ほど学生生活を延長することが魅力だったと、彼は言う。放埒怠惰の生活はなおつづき、学校へはほとんど顔を出さず、卒業試験を放擲して、さらに一年延長し、一一年、数え年三〇歳で、六年間の大学生活に終止符を打った。

 昭和八年、「サンデー毎日」の半年ごとの懸賞小説に応募して選外佳作となり、翌年と翌々年は沢木信乃の匿名と本名で応募しともに入選し、三〇〇円ずつの賞金を得た。一一年七月には、同誌の千葉亀雄賞懸賞長編小説に、時代小説『流転』を書き、一〇〇〇円の賞金をせしめている。また、懸賞小説の技量を買われて、昭和一〇年春、新興キネマ脚本部に声がかかり、月に二、三回、京都東京間の国鉄二等パスを持って東京大泉撮影所に通ったこともあった。一〇年六月に、雑誌「新劇壇」に発表した戯曲『明治の月』が、同年一〇月に新橋演舞場で、守田勘弥、森律子らによって上演された。放埒な生活がやまなかった彼は、始終小遣いに困り、賞金稼ぎをして浪費した。だが、金のために短時日で仕上げた作品が、たちまち賞を受けるという幸運に、彼は有頂天になってばかりいたわけではない。自分の心がそれによって満されるわけではないやっつけ仕事が、世に受容れられたことの、苦い味のする空虚さを、彼は噛みしめた。それがきっかけで、原稿註文は殺到したが、みな断った。文学をやりたいという気持ちは強くなったが、それはこれらの読物やシナリオのような、いつでも書ける安易な仕事とは別の内面的な欲求だった。

 昭和一〇年、田辺元門下の哲学科の仲間たちと「聖餐」という同人雑誌を作り、詩を発表した。学生時代に、彼が最も心をこめた文学作品といえる。同人に高安敬義という年少の秀才があり、始めは井上が後見役のような形で、詩作や古美術鑑賞などに引廻したが、高安はまたたく間にそれらに関する文献を読みあさり、逆に井上にその非凡な見解を披露した。井上が書いた卒業論文『ヴァレリーの純粋詩論』は、高安の講義に基づくところが多かった。

 昭和一〇年一一月、彼は京都帝大名誉教授で、軟部人類学の創始者足立文太郎の長女ふみと結婚した。文太郎は井上潔の甥で、井上家に育てられた。井上一族に流れる学問の血統を代表する人で、井上は彼をモデルとして『比良のシャクナゲ』(「文学界」昭25・3)を書いている。父隼雄にすれば、靖を結婚させることでその放埒な生活に終止符を打ち、いつまでも卒業する気のない彼の身を固めさせようとしたのだ。そのもくろみは図に当たり、翌年三月卒業、八月には『流転』入選が機縁で、毎日新聞に入社、「サンデー毎日」編集部勤務となった。

 部署は社内でも居心地がよいので、小説家志望は捨ててもよいと思った。だが、翌年九月には日支事変に応召し、第三師団輜重隊に入隊し、北支方面に駐屯して、病気になり、翌年四月には除隊となった。この短い戦争経験について、彼はほとんど語らず、わずかに『元氏』などの散文詩を作っているにすぎない。かつて左翼思想の嵐にいささかも動じなかった彼は、戦時下の思想的な動きにも超然と身を持した。

 応召前から彼は学芸部に転じていたが、帰ってから宗教欄つづいて美術欄を担当し、新聞記者でありながら学究的な雰囲気の中にあって、仏教経典の解説を書き、美術批評をやった。またしばしば大和や京都へ調査や取材に出かけて、古美術についての知識を身につけた。これは井上にとって、大きな蓄積の時代であり、同時にまた成長と変貌の時代でもあった。幼少時代からの孤独で非社交的な性質が、この記者時代に矯め直され、それは後に彼の作品に幅と拡がりと健康さとをもたらした。

 終戦のとき、彼は社会部勤務で、終戦の玉音拝聴の記事を井上が書いたのは、その端正で達意の文章が社内でも注目されていたことを物語る。終戦直後から彼には詩作が多くなったが、二二、二三年には、『闘牛』と『猟銃』とを脱稿、文芸雑誌「人間」の懸賞募集に応じたが、二編とも選外佳作。時は戦後派文学の時代で、彼の青年時代からの友人野間宏らの擡頭期であった。だが、これらの作品がたまたま佐藤春夫の知るところとなり、その紹介で雑誌「文学界」に相次いで発表され、そのうち『闘牛』(「文学界」昭24・12)によって芥川賞を受けた。四十代の新人としてデビュウした彼は、「小説を書く以外、もう私には別段他に何も面白いことはないようである」と言った。この言葉は、「びょうぼう磧のごとき過ぎし歳月、そのおちこちに散乱する私の愚かな所行の数々」(散文詩『半生』)と彼自身がいった空しく過ぎ去った過去半生を踏まえて言っているのである。彼はもともと物語作家としての才能がきわめて豊かだったから、このたびの再デビュウには、適宜に内面の第一次的欲求と読者へのサーヴィスとの二本だてで進む。東京へ移住し、二六年新聞社を退社し、多忙な作家生活にはいる。新聞小説、中間小説などのエンターテインメンツとしては、『あした来る人』『射程』(昭32・5 新潮社)『氷壁』(昭32・10 新潮社)『城砦』『化石』(昭42・6 講談社)『夜の声』『欅の木』『四角な船』『星と祭』その他がある。題材としても多彩で、たとえば『射程』の主人公は、前の『闘牛』後の『氷壁』につながる現代の行動者の典型で、今日の社会機構の中で絶えず行動に直面していることを求める現代人に見るニヒリズムを描き、今日の根源の病患の一つをえぐり出す。だが、その物語性において最も成功したのは『氷壁』で、これは登山界を騒がせたある事件を捕え、絶えず冒険に生きる山男に寄せる氏の夢を造型した。その後は終始崩さぬペースで、ときに原爆病、ガン患者、環境汚染など、アクチュアルな題材をも取上げ、「中間小説の良心」と言われながら、ジャーナリズムの欲求を充たし、読者を楽しませてきた。だが、これらの仕事が井上にとって第一義的にやりたいことではなかったし、世間的成功の半面にともなう心の空虚がなかったわけではない。彼は比較的たやすくできて名声と金とをもたらすそれらの仕事と並行して、『玉碗記』『漆胡樽』『異域の人』などの西域小説というべき系列の作品があり、それはふくらんで『天平の甍』『楼蘭』(昭34・5 講談社)『敦煌』(昭34・11 講談社)『洪水』『蒼き狼』(昭35・10 文芸春秋新社)『風濤』(昭38・10 講談社)『おろしや国酔夢譚』(昭43・10 文芸春秋)などの労作となる。若いときからシルクロードに対する浪漫的な夢があり、それは美術への嗜好とともに、彼の中の学問的な血に支えられ、内的なモチーフの深さをうかがわせる。ほかに『後白河院』(昭47・6 筑摩書房)『淀どの日記』(昭36・10 文芸春秋新社)『額田女王』の歴史小説があり、歴史は彼の人間の運命について考えめぐらす最上の場であるようだ。

 ストーリー・テラーとしての稀有の才能にめぐまれながら、物語離れの強い欲求を心に持ち、それが彼を述べて作らぬ歴史のほうに引き寄せ、同時に始終鷗外の言う歴史離れの欲求も心に秘めている。だが年とともに、東洋の詩人、芸術家の心をしばしば見舞う作ることへの嫌悪を、彼も見せてくる。歴史とともに、彼が主として短編小説において試みる私小説の比重は、井上の仕事の全体を考えてもきわめて大きいし、質的にも彼の最良のものを含む。それは彼が終始作ることをやめない散文詩の世界と相接している。『通夜の客』(「別冊文芸春秋」昭24・12)『比良のシャクナゲ』『澄賢房覚え書』(「文学界」昭26・6)『ある偽作家の生涯』(昭26・12 創元社)など初期の好短編にも自己の投影は濃厚だが、『姨捨』(昭31・6 新潮社)『孤猿』などを経て、『花の下』『月の光』(昭44・10 講談社)『雪の面』という『わが母の記』三部作、『墓地とえび芋』『道』(「新潮」昭46・6)『桃李記』(昭49・9 新潮社)『鬼の話』(「新潮」昭45・2)などになると、できるかぎり作為を避けた自然の姿勢で、自分とその周辺を捕え、おのずから到達した老作家の円熟した至境を見せている。物語の名手として印象づけられている作者も、歴史小説と私小説と散文詩の世界があることは、大きな救いであった。さらに『カルロス四世の家族』『美しきものとの出会い』などのすぐれた美術に関するエッセイや『西域物語』のような歴史、地理的随筆の世界があることも、彼の作家的な幅と厚みを思わせるものである。

 昭和二六年、毎日新聞社を退社して創作に専心するようになって以後、順調なコースを歩み、とくに語るべき事歴はない。三二年、中野重治、本多秋五、堀田善衞、山本健吉らとまだ国交のない中国を訪問して以来、ヨーロッパ、アメリカ、ソ連(中央アジアを含む)、インド、中近東、ネパールなど、旅行も多く、彼の作品の舞台も世界各地に拡がっている。文学賞を受けることも多く、公私の役職も数知れず勤めた。三九年、日本芸術院会員に推され、五一年文化勲章を受けた。

『井上靖小説全集』全三二巻(昭47~50 新潮社)。

(山本健吉 1984記)
本文:新規

1981(昭和56)年5月、日本ペンクラブ第9代会長に就任。1984(昭和59)年5月に開催された第47回国際ペンクラブ東京大会では、実行委員長を務めた。大会メインテーマは「核状況下における文学――なぜわれわれは書くのか――」。開会式では「共存共栄の哲学」と題した講演をした。1981(昭和56)年11月、講談社より『本覚坊遺文』を刊行。弟子の本覚坊の視点から千利休を描いた長篇歴史小説である。井上靖の創作観、芸術観を千利休の侘茶にかける思いに託して表現し、歴史に擬した私小説の趣もある。日本文学大賞受賞。

1982(昭和57)年1月より『すばる』に散文詩の連載を開始。途中、2年間の中断を挟みながらも、死に至るまで続けた。その成果は『乾河道』(1984・3 集英社)、『傍観者』(1988・6 集英社)、『星闌干』(1990・10 集英社)の三冊の詩集に見ることができる。1989(平成1)年9月、新潮社より長篇歴史小説『孔子』を刊行。1991(平成3)年1月29日、急性肺炎のため死去。満83歳。勲一等旭日大綬章が贈られる。同年3月、『すばる』に遺作となった散文詩「病床日誌」が掲載された。

作家逝去の後、藤沢全著『若き日の井上靖研究』(1993・12 三省堂)が刊行され、井上靖の九州帝国大学在学は、実は入学年の10月まで、わずか半年間であったことが判明した。さらに新潮社版『井上靖全集』編集の過程で、文壇デビュー以前の未発表草稿計23点が発見された。その中からユーモア小説「昇給綺談」が、曾根博義の解説と併せて世田谷文学館「井上靖展」(2000・4~6)の図録に掲載され、小説6篇(「昇給綺談」「就職圏外」「復讐」「黒い流れ」「白薔薇は語る」「文永日本」)と戯曲1篇(「夜霧」)が、高木伸幸編『井上靖未発表初期短篇集』(2019・3 七月社)として刊行された。

(高木伸幸 2021記)

代表作

代表作:既存
猟銃
りょうじゅう
短編小説。「文学界」昭和二四・一〇。昭和二五・三、文芸春秋新社刊の『闘牛』に収録。井上の出世作。同じ題名の散文詩が作中に挿入され、その詩を雑誌で見て告白する気になったある孤独な男の半生が語られる。それは三人の女、その姪と、かつての妻と、恋人であった女の遺書で、その三通によって、「人生の白い河床をのぞき見た中年」の孤独者の人生をおりざるをえない経緯が、甘い恋愛事件を通して語られる。
異域の人
いいきのひと
短編小説。「群像」昭和二八・七。昭和二九・三、講談社刊。作者の若いときからつちかった西域への夢を、半生を西域で送った後漢の人班超に托したもの。作者は四二歳になってから三〇年間を西域で過ごした班超の行実を簡潔にたどり、果敢であるとともに、人民に心やさしく、しかも結局は孤独な魂を描く。衰老任に堪えず洛陽に還った彼は、そこで長年の労苦が、街に胡風、胡俗があふれるという不思議な結果を見、漠地の黄塵に皮膚と眼の色の変わった彼が、幼童から「胡人!」と呼ばれるにいたる。生涯を賭けた仕事が崩壊する姿を、死の二十数日前に知るという、無惨な目にあう。歴史の盲目的意志の前に蟻のような人間の営みの意義如何は、作者のいつも胸に抱いている問いである。
天平の甍
てんぴょうのいらか
長編小説。「中央公論」昭和三二・三~一〇。昭和三二・一二、中央公論社刊。名僧鑒真の来朝という、日本古代文化史上の大きな事実の裏に躍った五人の留学僧の運命を描き出した長編小説。歴史の波に木の葉のように翻弄される五人の学僧の背後に、鑒真という大きな存在が捉えられ、それは歴史的意志の象徴のごときものとして印象される。これは中国にも翻訳されて感銘を与え、昭和三八年、鑒真の一二〇〇年記念には、鑒真研究家安藤更生らと訪中して、記念行事に列した。
補陀落渡海記
ふだらくとかいき
短編小説。「群像」昭和三六・一〇。昭和三七・四、新潮社刊の『洪水』に収録。昔の人が海の彼方に想定した補陀落という浄土で往生を遂げるため、熊野南端の浜の宮から舟出する風習があった。補陀落寺の住職金光坊は、老齢に達して世間から渡海を決行することを期待され、周囲から追いつめられた果てに死地に赴く恐怖の心情が描かれる。深沢七郎の『楢山節考』とならぶ、戦慄すべき地獄図絵である。
小磐梯
こばんだい
短編小説。「新潮」昭和三六・一一。昭和三七・四、新潮社刊の『洪水』に収録。明治二一年七月、小磐梯が蒸気爆発して、永久に消滅した事件を描いた。噴火の予感が次第に昂まり、村の悪童たちが、「ブン抜ゲンダラ、ブン抜ゲロ」という合唱のさなかに、山がぶん抜けて村を呑みこんだと書かれ、この童話と史実の混淆したような情景は、作者の創作である。柳田国男が語る濃尾境の「やろか水」の伝説を換骨奪胎したもの。それは、雨で木曾川の水位が高くなり、対岸の淵のあたりで頻りに「遣ろうか」と喚ぶ声が聞こえ、しまいに怖ろしくなった一人が思わず「いこさばいこせ」と叫ぶと、たちまちどっと大水が押寄せて、一帯の低地を海にしたという話。始め作者は桜島噴火として書こうとして二九年に出かけたが放擲し、後磐梯に変更して完成した。作者の想像力の働き方を示す、珠玉の名編。
わが母の記
わがははのき
連作小説集。「群像」昭和三九・六発表の『花の下』、昭和四四・八発表の『月の光』、昭和四九・五発表の『雪の面』を、作者の母八重を描いた三部作として、昭和五〇・三、講談社刊。母の死を書いた『雪の面』以外は母の生存中の作。花、月、雪を添えた題名に、三部作にしようとした作者の意図が見える。母の老耄を描いているが、それは同時に、人間にとって最も第一義的な生と死、哀別離苦以外の事項がすべて脱落した、言わば最も純化された存在としての人間を書いているとも言えよう。最も詩的な作品、人間的な暖みのある作品、同時に老と死を描きながらユーモラスでもある作品である。
(山本健吉 1984記)
代表作:新規
孔子
こうし
長篇小説。『新潮』1987・6~1989・5、1989・9 新潮社刊。孔子の死から33年後、かつて孔子教団の下働きを務めていた蔫薑のもとへ、魯都の孔子研究会のメンバーが訪ねてくる。蔫薑が孔子との思い出を語り、孔子の思想について自らの解釈を披露していく。本作の構想期間中、井上靖は前出の大会テーマを掲げた国際ペン東京大会の運営に携わっていた。その経験を少なからず反映させた小説と言える。米ソ対立により核戦争勃発の不安が色濃かった1980年代。その世界情勢を孔子が生きた春秋時代に重ねつつ、平和希求者としての孔子の姿を強調している。より広い視野から大きなテーマを展開し、井上靖文学の最後を飾る長篇となった。野間文芸賞受賞。
(高木伸幸 2021記)

全集

  • 『井上靖エッセイ全集』全10巻(1983~84 学習研究社)
  • 『井上靖歴史紀行文集』全4巻(1992 岩波書店)
  • 『井上靖全集』全28巻・別巻1(1995~2000 新潮社)
  • 『井上靖短篇集』全6巻(1998 岩波書店)
  • 分類:小説家
    修正PDF:1000000532.pdf
    既存新規:増補


    日本大百科全書(ニッポニカ)

    井上靖
    いのうえやすし
    [1907―1991]

    小説家。明治40年5月6日、北海道旭川 (あさひかわ)生まれ。井上家は代々伊豆湯ヶ島の医家であった。父隼雄は軍医で、旭川第七師団勤務中に長男靖が生まれた。3歳のとき父母のもとを離れて湯ヶ島に帰り、曽祖父 (そうそふ)潔の妾 (めかけ)であったかのの手で育てられる。沼津中学を経て、1927年(昭和2)旧制四高に入学し、柔道部選手生活を送る。30年、九州帝国大学法文学部に入学したが、上京して福田正夫の主宰する詩誌『焔 (ほのお)』の同人となる。32年、京都帝国大学哲学科に転じ、同人雑誌『聖餐 (せいさん)』を刊行。36年卒業後、『サンデー毎日』の懸賞小説に『流転』(1936)が入選したのが機縁で、毎日新聞大阪本社に入社。37年、日華事変に応召して華北に駐屯したが、病気で内地送還となり社に復帰。以後、宗教記者、美術記者を勤め、かたわら安西冬衛 (あんざいふゆえ)、野間宏 (のまひろし)など関西の詩人と交わる。終戦後、突如あふれるように詩を発表し始める。48年(昭和23)東京本社に転じ、50年『闘牛』(1949)によって芥川 (あくたがわ)賞を受賞。

     井上の文壇登場後、中間小説と新聞小説の全盛期が訪れ、多作に耐えつつ、『あした来る人』(1954)、『氷壁』(1956~57)などで新聞小説作家の地歩を固める一方、『異域の人』(1953)などで歴史小説の主題も温めていった。『天平 (てんぴょう)の甍 (いらか)』(1957)、砂漠の小国の興亡を描いた『楼蘭 (ろうらん)』(1958)、ジンギス・カンを描いた『蒼 (あお)き狼 (おおかみ)』(1959~60)ののち、高麗 (こうらい)側から元寇 (げんこう)をとらえた『風濤 (ふうとう)』(1963)で彼の歴史小説は堅固な年代記的手法を確立し、この手法は『おろしや国酔夢譚 (すいむたん)』(1966~67)でいっそう深化され、歴史の運命相を映し出している。さらに、利休の死の秘密に取り組んだ『本覚坊遺文 (ほんかくぼういぶん)』(1981)では伝統文化の本質に迫り、歴史小説のいっそうの深化をみせている。また母やゑの老耄 (ろうもう)を描いた『月の光』(1969)などの短編で、人間の原存在に触れる動きもみせている。多くの作品が諸外国で翻訳され国際的評価も受けている。1964年芸術院会員に推され、76年文化勲章受章。

    [福田宏年]

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    1. 井上靖
    日本大百科全書
    小説家。明治40年5月6日、北海道旭川あさひかわ生まれ。井上家は代々伊豆湯ヶ島の医家であった。父隼雄は軍医で、旭川第七師団勤務中に長男靖が生まれた。3歳のとき父
    2. いのうえ‐やすし【井上靖】
    日本国語大辞典
    小説家。北海道旭川生まれ。新聞記者から作家となり、新聞小説・歴史小説に新境地を開いた。昭和二四年(一九四九)「闘牛」で芥川賞受賞。作品「氷壁」「天平の甍」「敦煌
    3. いのうえやすし【井上靖】
    国史大辞典
    新潮社より『井上靖全集』全二十八巻・別巻一が刊行されている。 [参考文献]福田宏年『井上靖の世界』、長谷川泉編『井上靖研究』、武田勝彦編『井上靖文学・海外の評価
    4. いのうえ-やすし【井上靖】画像
    日本人名大辞典
    1907−1991 昭和後期-平成時代の小説家。明治40年5月6日生まれ。毎日新聞につとめ,昭和25年「闘牛」で芥川賞。26年作家生活にはいり,「氷壁」など中間
    5. 井上 靖
    日本近代文学大事典
    展開し、井上靖文学の最後を飾る長篇となった。野間文芸賞受賞。 『井上靖エッセイ全集』全10巻(1983~84 学習研究社) 『井上靖歴史紀行文集』全4巻(199
    6. 井上靖[文献目録]
    日本人物文献目録
    徹太郎『新らしき意匠家井上靖』佐藤春夫『井上潔と井上靖 1‐6』杉野大沢『井上靖』尾崎淳『井上靖』沙東丸五『井上靖』進藤純孝『井上靖』三好行雄『井上靖』山本健吉
    7. いのうえ・やすひろ【井上靖浩】[現代人名-狂言方]
    能・狂言事典
    和泉流 名古屋市 1971 四世井上菊次郎の長男。父及び祖父の三世井上菊次郎に師事
    8. あい‐ぎゅう[‥ギウ]【愛牛】
    日本国語大辞典
    〔名〕かわいがっている牛。*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「遂に手塩にかけた愛牛をして田村牛を屠(はふ)らせ」[発音]アイ〓ュー
    9. あいこう‐か[アイカウ‥]【愛好家】
    日本国語大辞典
    *放浪時代〔1928〕〈龍胆寺雄〉二・四「みんな美術の愛好家(アイカウカ)で」*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「スポーツ愛好家として知られてゐるF伯の闘牛漫談が大き
    10. アイゼン
    日本国語大辞典
    持つ金具。凍った雪上を歩くときに、すべり止めにつける。クランポン。*氷壁〔1956~57〕〈井上靖〉三「靴にはもちろんオーバー・シュウズ。その上にアイゼンを履く
    11. アクセント
    日本国語大辞典
    」(2)強調して表現する点。話などの重点。また、全体のめりはりとなる点。*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「その横顔にも人と面接したり指図したりする動作にもぴちぴちし
    12. 芥川賞
    日本大百科全書
    もったが、第二次世界大戦中の授賞には戦時色が表れた。戦中末期から戦後にかけて一時中絶。戦後では井上靖やすし、安部公房あべこうぼう、松本清張せいちょうら、独自の分
    13. あくたがわしょう【芥川賞】
    国史大辞典
    芥川賞受賞作は『文芸春秋』誌上に発表される。年二回の授賞で、すでに七十回を越えている。石川達三・井上靖・石原慎太郎・大江健三郎など受賞者として著名。 (村松 定
    14. アクチブ
    日本国語大辞典
    〓パッシブ。*猟銃〔1949〕〈井上靖〉彩子の手紙「英文法の試験の時、動詞の能動態(アクティブ)と受動態(パッシブ)の問題が出たこと
    15. 旭川(市)画像
    日本大百科全書
    。このほか文化施設に、市立博物館、道立旭川美術館、旭山動物園、川村カ子トかねとアイヌ記念館、井上靖記念館(1993年開館)、三浦綾子記念文学館(1998年開館)
    16. 「朝日新聞」
    日本近代文学大事典
    舟橋聖一『花の素顔』、獅子文六『自由学校』、林芙美子『めし』、石坂洋次郎『丘は花ざかり』、伊藤整『花ひらく』、井上靖『氷壁』、石川達三『人間の壁』、松本清張『大
    17. あし を 棒(ぼう)にする
    日本国語大辞典
    れは知って居るといふ知った人に妾(わたし)も父様も足を棒にして問ひ廻り」*姨捨〔1955〕〈井上靖〉「先刻から足を棒にして探してゐるぢゃありませんか」
    18. 足を棒にする
    故事俗信ことわざ大辞典
    それは知って居るといふ知った人に妾(わたし)も父様も足を棒にして問ひ廻り」姨捨(1955)〈井上靖〉「先刻から足を棒にして探してゐるぢゃありませんか」
    19. あじ‐み[あぢ‥]【味見】
    日本国語大辞典
    〔名〕飲食物の味加減を調べるために少量口に入れてみること。また、飲食すること。*黯い潮〔1950〕〈井上靖〉四「夕食が出来るまで、貰(もら)った酒をひとつ味見し
    20. あたり‐やく【当役】
    日本国語大辞典
    あれは、若宮君のこのごろでの当り役…楽屋でもみんなさういってをったんで」*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「カルメンのホセが当り役の有名なオペラ歌手が、闘牛について語
    21. 足立文太郎
    世界大百科事典
    現,大阪医科大学)の初代校長になった。学士院恩賜賞受賞(1930),学士院会員。女婿に作家の井上靖がいる。長門谷 洋治
    22. あだち-ぶんたろう【足立文太郎】
    日本人名大辞典
    系統」で学士院恩賜賞。のち「日本人の静脈系統」を発表。軟部人類学の創設者として知られる。作家井上靖は娘婿(むこ)。昭和20年4月1日死去。81歳。伊豆(いず)田
    23. アトラクション
    日本国語大辞典
    に軽いアトラクションのやうなものを一緒に演(や)ってゐる小屋であった」*黯い潮〔1950〕〈井上靖〉二「講演会のアトラクションに、幾つかの流行歌を唄った」[発音
    24. 天城湯ヶ島画像
    日本大百科全書
    仁科にしな峠、天城峠など景勝地に恵まれ、文学作品の舞台となった。川端康成やすなりの『伊豆の踊子』、井上靖やすしの『猟銃』で有名であるが、梶井基次郎かじいもとじろ
    25. 荒井寛方[文献目録]
    日本人物文献目録
    【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『荒井寛方』井上靖『日本美術年鑑』-
    26. 有吉 佐和子
    日本近代文学大事典
    映画化もされて評判を呼んだ。また、三六年六月から一カ月、中国人民対外文化協会の招きで、亀井勝一郎、井上靖、平野謙らと訪中。翌三七年三月、プロモーターの神彰と結婚
    27. 生沢 朗
    日本近代文学大事典
    行動美術協会創立とともに参加、会員となるがのちに退会した。井上靖『氷壁』の挿絵を担当し、三二年一一月、『氷壁画集』(朋文堂)を刊行。四六年九月、井上靖らとシルク
    28. いくざわ-ろう【生沢朗】画像
    日本人名大辞典
    昭和26年「週刊朝日」などの表紙絵をかき,33年行動美術協会退会後は挿絵に専念。立原正秋「冬の旅」,井上靖「氷壁」などの挿絵を担当した。昭和59年11月22日死
    29. いけずうずうし‐さ[いけづうづうし‥]【図図─】
    日本国語大辞典
    接尾語「さ」のついたもの)いやになるほど厚かましいこと。また、その度合。*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「仕事師の面貌をまる出しにしてくる、ちょっと顔をそむけたくな
    30. いしおか-しげお【石岡繁雄】
    日本人名大辞典
    の欠陥を追及,12年後に通産省に安全基準をつくらせた。このナイロンザイル事件に想をえた作品が井上靖「氷壁」。59年石岡高所安全研究所を設立。平成18年8月15日
    31. 石川近代文學館
    日本近代文学大事典
    伊藤整の選定による。金沢は泉鏡花、徳田秋声、室生犀星はじめ多くの特色ある文学者を輩出、一方旧四高の所在地として井上靖、中野重治ほか幾多英才が文学的、芸術的伝統豊
    32. 石原広一郎[文献目録]
    日本人物文献目録
    【書誌】:0件 【図書】:3件 【逐次刊行物】:0件 『熱血児石原広一郎』井東憲『石原広一郎氏』井上靖『私の履歴書 22』日本経済新聞社(編刊)
    33. 伊豆[市]
    世界大百科事典
    る温泉郷になっている。湯ヶ島温泉は単純泉,セッコウ泉で,泉温は50℃。木下杢太郎,若山牧水,井上靖らの文人に愛され,川端康成の《伊豆の踊子》は湯ヶ島で執筆された
    34. 伊豆(市)画像
    日本大百科全書
    寺日記』、岡本綺堂おかもときどうの『修禅寺物語』、川端康成かわばたやすなりの『伊豆の踊子』、井上靖いのうえやすしの『猟銃』などの作品が有名。市域の一部は富士箱根
    35. 伊豆半島画像
    日本大百科全書
    設けられるなど多面的に整備が進んでいる。 自然的な観光資源に加えて川端康成かわばたやすなりや井上靖やすしなどの文学作品の舞台としての伊豆には、文学散歩コースが知
    36. いたん‐し【異端視】
    日本国語大辞典
    〔名〕正統からはずれているとみなし、そのように扱うこと。*猟銃〔1949〕〈井上靖〉「日本猟人倶楽部の機関誌であるだけに、その中にあっては、私の猟銃観は、大なり
    37. いちおう も=二応(におう)[=再応(さいおう)]も
    日本国語大辞典
    ませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めてお出でなさるんだから』」*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「大阪新夕刊の経済状態を一応も二応も調査してゐない筈はなかっ
    38. いち‐まい【一枚】
    日本国語大辞典
    「強いといふことは、尊いといふこと、正しいといふことより、一枚上手ぢゃ」*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「それよりも時折はっと津上自身をむしろ一枚も二枚も人の悪い人
    39. いねこき‐き【稲扱機】
    日本国語大辞典
    *生活の探求〔1937~38〕〈島木健作〉一・三「まだ暗いうちから稲扱機で扱きはじめたが」*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「電気モーターをつけた新式の稲こき器が尼ヶ
    40. 井上潔[文献目録]
    日本人物文献目録
    【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『井上潔と井上靖 1‐6』杉野大沢
    41. いま の 今(いま)まで
    日本国語大辞典
    見るにつけても我親を、嘸(さぞ)や非道な愛情(なさけ)無い親と恨んで居たであらう」*猟銃〔1949〕〈井上靖〉彩子の手紙「門田が結婚したと言ふただそれだけの事が
    42. いりゅう‐ひん[ヰリウ‥]【遺留品】
    日本国語大辞典
    囲からは加害者の遺留品(ヰリウヒン)らしいものは何も発見されなかった」*黯い潮〔1950〕〈井上靖〉二「遺留品として小さい風呂敷包みが一個」[発音]イリューヒン
    43. 上村松園[文献目録]
    日本人物文献目録
    1』-『現代美術全集 12』座右宝刊行会(編)『松園』河北倫明(編)『日本近代絵画全集 17』-『上村松園』井上靖『上村松園』川村曼舟『上村松園』神崎憲一『上村
    44. うし‐ずもう[‥ずまふ]【牛角力・牛相撲】
    日本国語大辞典
    *風俗画報‐五八号〔1893〕人事門「従来此地方の人民亦大に闘牛戯(ウシズマフ)を喜び」*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「往年のやうに人気をかっ浚(さら)ふにはまだ
    45. うすがみ を=剥(は)ぐよう[=剥(は)がすよう・へぐよう・へがすよう]
    日本国語大辞典
    ・一「其度毎に若干か損をして次第に薄紙を剥ぐやうに身代を減らしたさうで」*猟銃〔1949〕〈井上靖〉みどりの手紙「心の痛みは、薄紙を剥がすやうに、次第に鎮まって
    46. 薄紙を剥ぐよう
    故事俗信ことわざ大辞典
    直して」日本俚諺大全(1906~08)「薄紙(ウスガミ)を剥(へ)ぐやう」猟銃(1949)〈井上靖〉みどりの手紙「心の痛みは、薄紙を剥がすやうに、次第に鎮まって
    47. うすら‐あかる・い【薄明】
    日本国語大辞典
    上滝太郎〉一三・五「大きな朧月が、うすら明るい空にぼやけて浮んでゐた」*黯い潮〔1950〕〈井上靖〉一「海面は薄ら明るかったが」[発音]
    48. うすら‐び【薄日】
    日本国語大辞典
    文明〉灰ふる日「灰をかぶり林いづればうすら日に桃あかあかと咲ける原あり」*闘牛〔1949〕〈井上靖〉「今に雪でも舞ひ落ちて来さうな、薄ら陽の、寒い日の午後だった
    49. 歌川広重[文献目録]
    日本人物文献目録
    親』尾崎久弥『広重』内田誠『広重』野口米次郎『広重』高橋誠一郎『広重』近藤市太郎(解説), 井上靖(論説)『広重』岡畏三郎(解説)『世界名画全集別巻 広重東海道
    50. うち‐あげ【打上・打揚】
    日本国語大辞典
    月暦「今の川開と云へば、単に花火の打揚(ウチアゲ)を意味し」*ある偽作家の生涯〔1951〕〈井上靖〉「その最後の打揚げの花火といふのは、二千六百年か何かの時のお
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