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  11. ガンディー

ガンディー

ジャパンナレッジで閲覧できる『ガンディー』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

ガンディー
がんでぃー
Mohandās Karamchand Gāndhī
[1869―1948]

インドの政治指導者で思想家。「マハートマー(偉大なる魂)」「ラーシュトラ・ピター(国の父)」「バープー(父)」などいくつかの呼称をもち、今日なおインド人大衆の尊敬と親愛の的となっている。

[内藤雅雄]

アフリカ時代

インド西部カーティアワール半島にあった小藩王国ポールバンダルのディーワーン(宰相)の長男として生まれた。4年間のロンドン留学により法廷弁護士(バリスター)の資格を得て、1891年にインドに帰着。1893年に、あるムスリム(イスラム教徒)商人の訴訟事件の依頼を受けて南アフリカのナタールに渡ったことで、彼の人生はコペルニクス的転回を経ることになった。すなわちそこに働くインド人年季雇用労働者たちの市民権獲得のための運動を指導することとなり、22年間ここに滞在し、自ら「サティヤーグラハ(真理の把握)」と名づける大衆的な非暴力的抵抗闘争を成功へと導いた。第一次世界大戦勃発 (ぼっぱつ)直後の1915年1月に、イギリス経由でインドに戻った。この南アフリカ時代に書かれた『ヒンド・スワラージ(インドの自治)』(1909)という小冊子には、独自のインド文明観、農村手工業の発展を強調するインド社会・経済論が展開されている。

[内藤雅雄]

非暴力的抵抗

帰国直後は政治家ゴーカレーの助言でインド内の政治、社会状況の観察と検討に専念するが、1917年にはビハール州チャンパーラン県でのインジゴ(藍 (あい))栽培小作人の争議、翌1918年には故郷グジャラート、アーメダバードの繊維工場労働者の争議を、独特のアヒンサー(非暴力)の原則を貫徹して解決した。アーメダバードの場合、これ以後彼がしばしば用いた断食の行が初めて試みられた。

 彼の名をインドにおける大衆的政治運動の指導者として揺るぎないものとするのは、第一次世界大戦後のローラット法反対、ジャリアンワーラーバーグ(アムリッツァル)虐殺事件糾弾、ムスリムのキラーファト(トルコのカリフ制)擁護を求める声などを背景に1919~1922年に展開された第一次サティヤーグラハ(非暴力的抵抗)闘争であった。ついで1930~1934年には、イギリス支配の一つの象徴としての食塩専売の侵犯(いわゆる「塩の行進」)に始まる第二次サティヤーグラハ闘争を指導し、これを通じて農民大衆を含むインド内のあらゆる階級、階層の人々を未曽有 (みぞう)の規模で反英政治運動のなかに結集していった。

 彼はまたこの過程で、J・ネルーを先頭とする少数派の進歩的グループと、サルダール・パテールやR・プラサードら多数派の保守グループを国民会議派という組織のなかで巧みに統合し、またビルラ財閥に代表されるようなインド民族資本の主流派を引き付けることによって、国民会議派を最大の大衆的民族運動組織として成長せしめた。ただ同時に注意すべきは、バールドーリ決議(1922)やガンディー‐アーウィン協定(1931)にみられるように、自ら理念とするアヒンサーの原則を絶対化するあまり、大衆運動が高揚して彼ないし国民会議派指導部の指令の枠外に発展しようとすると運動の停止を命じ、全体としての大衆的反帝国主義闘争の進展を妨げることになった点である。彼はまた労働者や農民の運動が階級闘争的色彩を帯びることには徹底して反対した。前述のアーメダバードでの労働争議の過程で、彼自らが指導する労使協調型のアーメダバード労働連盟(ALA)が結成されるが、これはその後、国民会議派主導の労働組合運動のモデルとなり、独立直前の1947年5月に発足したインド国民労働組合会議(INTUC)は、まさにこの路線上に位置づけられるものにほかならなかった。

[内藤雅雄]

社会問題の解決

ガンディーはまた前述のような政治運動を進めるなかで(あるいはそれが停止された時点で)、インドの直面する多くの社会問題の解決に取り組んだ。たとえば1920年代から始まる全インド紡糸工連盟設立による農村手工業の発展、1930年代からの不可触民(「ハリジャン―神の子」と彼はよんだ)解放の運動、ヒンドゥー・ムスリム間の統合、新教育(ナイー・ターリム)運動などがそれで、総称してこれらは「建設的プログラム」とよばれた。これらの運動促進のため、新聞『ハリジャン』の発行(1933年2月)や、アーメダバードのサーバルマティやワルダーでのアーシュラム(道場)の建設を行っている。

 ムスリム連盟の指導者M・A・ジンナーとは鋭く対立し、そのパキスタン建国論に反対したが、結局1947年6月に出たマウントバッテン裁定に盛られたインドの分離独立案を国民会議派指導部が承認するのを抑止できなかった。独立後の1948年1月、狂信的ヒンドゥー主義者の凶弾によって倒れた。『自伝―真理の実験』(1927~1929出版)と題する半生記は、試行錯誤の過程を経つつ真理への接近を図ろうとする「マハートマー」の人間的な姿をよく伝えている。

[内藤雅雄]



世界大百科事典

ガンディー
Mohandās Karamchand Gāndhī
1869-1948

インドの政治指導者,思想家。〈バープー(父)〉〈マハートマー(偉大な魂)〉と称され,インド人大衆に親しまれた。カーティアーワールKāthiāwār半島の小藩王国ポールバンダルの大臣の長男として生まれた。4年間のロンドン留学で弁護士資格を得て1891年帰国。93年にある訴訟事件の依頼で南アフリカのナタールに渡ったことでその人生はコペルニクス的転換を見る。すなわちそこに働くインド人年季契約労働者の市民権獲得闘争を指導することとなり,自ら〈サティヤーグラハ(真理の把持)〉と名付ける大衆的非暴力抵抗運動を成功に導く。22年間アフリカに滞在し,第1次大戦勃発後の1915年1月インドに戻る。アフリカ滞在期に執筆された《ヒンドゥー・スワラージHindū Swarāj(インドの自治)》(1909)という小冊子は,彼の特異な文明観,農村手工業の発展を強調するインド社会論を展開している。17年にビハール州チャンパーラン県でのインディゴ(藍)小作争議,翌年グジャラート州アフマダーバードの繊維労働者の争議を〈アヒンサー(非暴力)〉の原則を貫徹して解決。そして第1次大戦後,ローラット法反対,アムリッツァル虐殺糾弾,ムスリムのヒラーファト運動を糾合して19-22年に展開された第1次サティヤーグラハ闘争は,彼をインド民族運動の最高指導者として位置づけた。30年には,イギリス行政の象徴である塩税の侵犯(塩の行進)に始まる第2次サティヤーグラハ闘争を指導し,これを通じて農民大衆を含むインド内のあらゆる階級・階層の人々を未曾有の規模で反英政治闘争に組み入れていった。彼はまたこの過程で,少数派ではあるがJ.ネルーを先頭とする国民会議派内急進派と,V.パテールやR.プラサードら多数・保守派を会議派組織の中で巧みに統合し,かつビルラー財閥をはじめとするインド民族資本の支持をもとりつけることによって,会議派を最大の大衆的民族運動組織へと成長させた。ただ同時に,バールドーリー決議(1922)やガンディー=アーウィン協定Gāndhī-Irwin Pact(1931)にみられるように,その理念とする〈アヒンサー(非暴力)〉の原則を絶対化するあまり,大衆運動が高揚した時に彼ないし会議派指導部の思惑外へそれが発展しようとすると運動の停止を命じ,全体としての大衆的反帝国主義闘争の推進を妨げることもあった。彼はまた,農民や労働者の運動が階級的色彩を帯びることには徹底して反対した。彼はインド民族の政治的独立と同時に,インド社会に巣食う不可触民制やヒンドゥー・ムスリム対立の除去という課題にも真摯に取り組むが,最終的には会議派指導部のインド分割承認への動きを阻止することはできず,独立後の48年1月30日,狂信的ヒンドゥー主義者の手によって暗殺された。《自叙伝--真理の実験An Autobiography--The Story of My Experiments with Truth》(1927-29)と題した彼の半生記は,多くの試行錯誤を通じて真理に肉迫せんとする〈マハートマー〉の人間的な姿をよく伝える書物である。
[内藤 雅雄]

[索引語]
Gāndhī,M.K. マハートマー・ガンディー サティヤーグラハ サチャグラハ 非暴力 ヒンドゥー・スワラージ Hindū Swarāj インドの自治 アヒンサー 塩の行進 ガンディー=アーウィン協定 Gāndhī-Irwin Pact 自叙伝--真理の実験 An Autobiography--The Story of My Experiments with Truth
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1. ガンディー(Indirā Gāndhī)
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2. ガンディー(Mohandās Karamchand Gāndhī)
世界大百科事典
Gāndhī,M.K. マハートマー・ガンディー サティヤーグラハ サチャグラハ 非暴力 ヒンドゥー・スワラージ Hindū Swarāj インドの自治 アヒン
3. ガンディー(ガーンディー)Gān̐dhī, Indirā
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世界人名大辞典
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5. ガンディー(〔英〕Gandhi, Rajiv
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6. ガンディー(Indira Gandhi)
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7. ガンディー(Mohandās Karamchand Gāndhī)
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8. ガンディー(Rajiv Gandhi)
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9. ガンディー M. K.
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10. ガンディー〔Indira〕
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11. ガンディー〔Mohandas Karamchand〕
日本史年表
1948年〈昭和23 戊子〉 1・30 ガンディー 、ヒンドゥー過激派によりニューデリーで暗殺される。
12. ガンディー〔Rajiv〕
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13. ガンディー
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17. バーガンディー
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20. アシュヴァゴーシャ
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21. アナーキズム 6ページ
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23. アフマダーバード
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24. アフリカ人民族会議
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27. アムリッツァル事件
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32. アンベードカル
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34. アーザード(Abul Kalam Āzād)
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37. アーナンド M.R.
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45. インド【India】
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49. インド教 154ページ
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50. インド共産党
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発展させる前提を確立した。1960年代末、ネルー時代が終わりを告げた後、インディラ・ガンディー首相からラジブ・ガンディー首相へ時代が進むなかで、国民会議派政権は
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