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  11. 狩野探幽

狩野探幽

ジャパンナレッジで閲覧できる『狩野探幽』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

狩野探幽
かのうたんゆう
一六〇二 - 七四
江戸時代前期の狩野派画家。名は守信、幼名四郎次郎、また采女。探幽斎・白蓮子と号す。狩野孝信の長男として慶長七年(一六〇二)正月十四日京都に生まる。母は佐々成政の女。四歳にして習熟者のように描くほど早熟の天才であったと伝える。早くも同十七年駿府で徳川家康に謁し、江戸へ赴く。元和三年(一六一七)幕府御用絵師となり、同七年江戸鍛冶橋門外に屋敷を受領した。これによって探幽の画系は鍛冶橋狩野と称される。同四年父孝信の遺跡を相続、幕府御用絵師としての本格的活動を始める。同五年東福門院入内に備え御所拡張工事が行われ、その障壁画制作に参加した。同九年改築の大坂城に描き、以後江戸城改築のごとに障壁画を制作した。寛永三年(一六二六)後水尾天皇の行幸を迎えるため造営された二条城行幸殿、同十一年家光上洛に備えて増築の名古屋城上洛殿、同十三年完成の日光東照宮、同十四年芝増上寺安国殿、同十八年大徳寺本坊方丈、同十九年寛永度造営御所・聖衆来迎寺、続いて承応・寛文度造営の御所と、非常に多くの障壁画を描いた。南禅寺本坊小方丈障壁画も探幽とその一派の作に擬せられる。また探幽は触目の古画を丹念に縮写した(『探幽縮図』)。これは彼の卓越した描写力を示すとともに、中国・日本絵画史の研究資料としてきわめて重要なものである。この間寛永十五年法眼、寛文二年(一六六二)宮内卿法印にまで昇っている。延宝二年(一六七四)十月七日没。七十三歳。江戸池上本門寺南之院に葬らる。法名玄徳院法印守信日道大居士。探幽は豪壮な桃山様式を形式的に継承する一方、再び漢画と大和絵を分離させ、淡泊瀟灑な新画風を開拓、江戸時代の絵画に非常に大きな影響を与えた。社会的には徳川幕藩体制に深くくい込んで、江戸狩野の基礎を確立し、以後の繁栄へと導いた。代表作に遺存する障壁画のほか、「鵜飼図」屏風(大倉集古館蔵、重要文化財)などがある。
[参考文献]
朝岡興禎編『古画備考』三七、武田恒夫『狩野探幽』(『日本美術絵画全集』一五)、田島志一編『東洋美術大観』五、土居次義「大徳寺方丈の探幽画」(『近世日本絵画の研究』所収)、春山武松「狩野探幽伝・伝記篇」(『東洋美術』八)、河野元昭「探幽筆陽明門雲竜図天井画について」(『美術研究』三〇一・三〇二)、安村敏信「狩野探幽の伝記史料について―付『狩野探幽年譜』―」(『文化』四二ノ一・二)
(河野 元昭)


世界大百科事典

狩野探幽
かのうたんゆう
1602-74(慶長7-延宝2)

江戸初期の画家で江戸狩野の確立者。狩野孝信の長男で,永徳の孫にあたる。幼名采女(うねめ),名は守信。1635年(寛永12)に剃髪して探幽と号した。時の政権の動きに機敏に対応して勢力を伸ばしてきた狩野派は,徳川幕府の成立とともに江戸への進出を図り,幕府の要請に従ってその居城修築に必要な絵師を江戸へ送り込んだ。探幽もその一人として父と共に京都から江戸へ下り,1617年(元和3)幕府御用絵師となって父の跡目を弟尚信に譲り,21年には鍛冶橋門外に屋敷を拝領,23年京都の狩野宗家を弟安信に継がせ,自らは別家して鍛冶橋狩野家をおこす。探幽は,江戸幕府の安定にすばやく対応し,弟たちを相ついで江戸へ下らせ幕府の画事に携わり,幕藩体制の中で御用絵師としての地位を固め,自らを中心とした江戸狩野を確立していった。38年(寛永15)には幕府への多年の功績により法眼に,さらに62年(寛文2)には画家として最高位の法印に叙された。二条城二の丸障壁画《松鷹図》(1626)では,祖父永徳の豪放な巨木表現をさらに大規模に展開すべく意欲を示しているが,そこにはすでに形式の固化がうかがわれる。以後,1634年制作の名古屋城上洛殿障壁画あたりを境に筆数を減じ,余白の余韻を生かした瀟洒(しようしや)で淡白な画風へと転ずる。大徳寺本坊障壁画《山水図》(1641)はその完成された姿である。それは,幕藩体制整備の時勢における武士階級の生活感情に即したものといえる。探幽は,画題的にも儒教精神に適合したものを取り入れたため,地方の諸大名もこぞって狩野派の絵師を招き,狩野派が全国的に繁栄することになった。一方,探幽は《若衆観楓図》のような風俗画にも筆を染めているが,その画風は,やまと絵学習で得た細密描写と漢画の和様化をたくみに融合したものである。探幽の古画学習を裏づけるものに《探幽縮図》があり,やまと絵,漢画,中国画の多彩な分野を模写している。すぐれた写生画を含む膨大な数の縮図の美術史的意義は近年再評価されつつある。しかし,探幽の意図とはうらはらに,《縮図》が江戸狩野派の粉本主義を助長したことも否めない。探幽が江戸絵画史上に残した大きな功績のひとつとして,文化的に未開発な江戸の地に絵画文化の母胎を移植したことがあげられる。そこから,やがて浮世絵に代表される江戸庶民芸術が生まれてくる。
[安村 敏信]

[索引語]
江戸狩野 狩野孝信 鍛冶橋狩野 松鷹図 山水図 若衆観楓図 探幽縮図
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検索コンテンツ
1. 狩野探幽
日本大百科全書
桃山後期から江戸初期の画家。狩野孝信(たかのぶ)の長子として京都に生まれる。次弟に尚信(なおのぶ)、末弟に安信があった。名を守信、初め采女(うねめ)と称した。幼
2. 狩野探幽
世界大百科事典
1602-74(慶長7-延宝2) 江戸初期の画家で江戸狩野の確立者。狩野孝信の長男で,永徳の孫にあたる。幼名采女(うねめ),名は守信。1635年(寛永12)に剃
3. かのう‐たんゆう【狩野探幽】
日本国語大辞典
江戸初期の画家。京都の人。孝信の子。名は守信。宗家を弟尚信に譲り幕府の御用絵師となり、鍛冶橋狩野家を起こす。二条城、名古屋城をはじめ、多くの寺社、大名屋敷の障壁
4. かのうたんゆう【狩野探幽】
国史大辞典
考』三七、武田恒夫『狩野探幽』(『日本美術絵画全集』一五)、田島志一編『東洋美術大観』五、土居次義「大徳寺方丈の探幽画」(『近世日本絵画の研究』所収)、春山武松
5. かのう-たんゆう【狩野探幽】
日本人名大辞典
1602−1674 江戸時代前期の画家。慶長7年1月14日生まれ。狩野孝信の長男。元和(げんな)3年幕府御用絵師となり,7年(1621)鍛冶橋(かじばし)狩野家
6. かのうたんゆう【狩野探幽】
日本架空伝承人名事典
江戸初期の画家で江戸狩野の確立者。狩野孝信の長男で、永徳の孫として京都に生まれる。幼名采女、名は守信。江戸幕府の成立とともに江戸へ下り一六一七年(元和三)幕府御
7. 狩野探幽[文献目録]
日本人物文献目録
蔵図解』-『狩野探幽筆小倉百人一首帖』-『狩野探幽筆花鳥図解』-『狩野探幽筆勧学図』-『狩野探幽筆韓退之図』-『狩野探幽筆清見潟図』-『狩野探幽筆琴棋書画図解』
8. 狩野守信・狩野探幽
日本史年表
幕府、 狩野守信(探幽) を御用絵師とする(重修譜)。 1626年〈寛永3 丙寅④〉 この年 狩野探幽 、二条城の襖絵を描く。 1662年〈寛文2 壬寅〉 5・
9. いけがみほんもんじ【池上本門寺】東京都:大田区/池上村地図
日本歴史地名大系
日朗筆大曼荼羅は都指定文化財。境内墓地に徳川吉宗室の墓、山内寺院の南之院墓地に将軍家御用絵師狩野探幽の墓がある。江戸開城前に西郷隆盛(南洲)と勝海舟が会見したと
10. 石川丈山画像
日本大百科全書
との風雅の交友を楽しみ、詩文に遊ぶ自適の生涯を送った。詩仙堂の名は、中国の詩人36人を選んで狩野探幽(かのうたんゆう)にその像を描かせ、壁に掲げたことにちなむ。
11. いしかわじょうざん【石川丈山】画像
国史大辞典
ひところ母を養うために大名の客臣となったこともあるが、没後は洛北一乗寺村に一庵を建てて隠棲した。そして狩野探幽に、漢から宋までの詩人三十六人の画像を描かせ、これ
12. いしだゆうてい【石田幽汀】
国史大辞典
一七二一―八六 江戸時代中期の画家。名守直、幽汀は号。播州明石に生まれ、京都の石田家の養子となる。狩野探幽の画系をくむ鶴沢探鯨に学んで画名を挙げ、禁裏絵師となり
13. 一休和尚年譜 1 173ページ
東洋文庫
かみそしったちはき禦さむ心こそ いつさひぎやうをぎりすてんため、一休子宗純隻画筆[印][印]」(狩野探幽模写) (1)(2)(3)(4)の賛は、若干の異同がある
14. いわつきじょうあと【岩槻城跡】埼玉県:岩槻市/岩槻城下地図
日本歴史地名大系
高岩筋に四区分されて支配された(吉田家文書)。なお重次は川越の仙波東照宮に一二面の鷹絵額(伝狩野探幽筆)、岩槻久伊豆神社に螺鈿鞍などを奉納、正春は寛文一一年時の
15. えいふくじ【栄福寺】千葉県:千葉市/若葉区/坂尾村地図
日本歴史地名大系
書によれば天文一九年(一五五〇)本庄胤村の寄進、延宝六年(一六七八)板倉重直の補綴で、作者は狩野探幽門人の片山三清守長。山門の左右から寺の三面を囲む高さ一メート
16. 絵金
日本大百科全書
く影響された。3年後に帰国して藩のお抱え絵師に取り立てられるが、数年後にスキャンダル(一説に狩野探幽(たんゆう)らの偽作を行うという)によりその地位を失い、以後
17. 江戸小咄集 1 56ページ
東洋文庫
禿も一様の牡丹づくし、子鼻女郎の顔を見れば獅(一)張付戸の略。片面紙張の戸 (二)狩野探幽(たんにゆう)のこと。江戸初期の画家。鍛冶橋狩野の祖。幕府の御用絵師(
18. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
教。『信長記』刊1624(寛永1)2月 江戸に猿若座(のちの中村座)できる1625(寛永2)狩野探幽、二条城の襖絵を描く1627(寛永4)吉田光由『塵劫記』。土
19. 江戸時代美術画像
世界大百科事典
や霊廟を営んだ。二条城二の丸御殿(1624-26)はその代表的な遺構の一つであり,内部を彩る狩野探幽一門の障壁画の巨大な松の枝ぶりが長押(なげし)の上にまで延び
20. えんつうじ【円通寺】茨城県:水戸市/千波村
日本歴史地名大系
本堂のほか常陸大掾氏の守護仏と伝える観音像を祀る観音堂があり、寺宝に伝道元禅師真筆、伝後醍醐天皇綸旨二通、狩野探幽筆の涅槃図などがある。
21. 近江八景
世界大百科事典
山秋月,粟津晴嵐,唐崎夜雨,比良暮雪,三井晩鐘の8景がそれである。絵画作品としては江戸時代に狩野探幽,鳥居澄久,葛飾北斎などが描いているが,とくに安藤広重の名所
22. おおえやまえまき【大江山絵巻】
国史大辞典
十四世紀後半の製作と推定されよう。『考古画譜』によると、『大江山絵巻』としてはこのほか、狩野元信筆の三巻本、狩野探幽筆三巻本、土佐光起筆三巻本などあったことが知
23. おおにし-じょうりん【大西浄林】
日本人名大辞典
寛永のころ京都三条釜座(かまんざ)で茶の湯釜をつくった。作品は蘆屋(あしや)風で,鮮明な地文を特徴とした。狩野探幽(かのう-たんゆう)の下絵をもちいたものがある
24. おおままち【大間町】新潟県:佐渡郡/相川町/相川町
日本歴史地名大系
大間町橘屋庄兵衛預リ、此縁ヲ以て寺町円徳寺丹那ニ成」という記事がある。胖幽の父は画家久隅守景で、師匠は狩野探幽。延宝二年(一六七四)相川に流され、橘屋に預けられ
25. おおみどうじ【大御堂寺】
国史大辞典
池禅尼墓からは常滑窯の大甕に入った平安時代末期の経筒二個が発見されている。このほか、徳川義直寄進の狩野探幽筆という義朝最後の図がある。寺の東には長田屋敷跡という
26. おおみどうじ【大御堂寺】愛知県:知多郡/美浜町/柿並村
日本歴史地名大系
寄進した。寛永一六年(一六三九)徳川義直二五〇石寄進の黒印状を所蔵する。なお義直は伽藍を修復し、狩野探幽に命じて義朝最後の図や大法会の図を描かせ、自ら絵解を記し
27. 尾形光琳
世界大百科事典
発揮した点にある。《鳥獣写生帖》(文化庁)は,彼が写生に関心をもっていたことを示すものだが,これ自体は狩野探幽の模写であることが近年判明した。二大傑作は,法橋叙
28. おがた-もりよし【尾形守義】
日本人名大辞典
江戸時代前期の画家。寛永20年生まれ。父は筑前(ちくぜん)福岡藩の御用絵師尾形仲由。藩命により狩野探幽(たんゆう)の門人となり,師の名守信(もりのぶ)の一字をと
29. かいぜんじ【海善寺】静岡県:下田市/下田町
日本歴史地名大系
なり、家茂は寺庭に松を植えたが(増訂豆州志稿)、「徳川家茂手植の松」は今も樹勢が盛んである。狩野探幽筆と伝えられる出山釈迦の大幅がある。境内には唯念と徳本の六字
30. 改訂 京都民俗志 193ページ
東洋文庫
紫野大徳寺方丈の猿回の水墨絵は有名である。都林泉名勝図会に、花園妙心寺法堂天井の竜を描く時、狩野探幽が塔頭海福院に滞留していた。酒狂してたわむれに襖へ唐の猿回を
31. 改訂 京都民俗志 203ページ
東洋文庫
える◎ 虎 桃山時代の蟇股や欄間の彫刻に虎は多い◎襖絵にもたくさん現われている。東山南禅寺の狩野探幽筆水飲の虎はすこぶる名高く、毎夜外へ出るので近所が濡れていた
32. 改訂 京都民俗志 220ページ
東洋文庫
絵があるo 竜 禅堂の鏡板には、墨絵の竜がたいてい描かれている。花園妙心寺の法堂の天井の竜は狩野探幽が描いたが、眼睛を点ずるの日には、にわかに暴風雨が起こったと
33. かしく‐うめ【畏梅・可祝梅】
日本国語大辞典
女子の手紙の末尾に書く「可しこ(かしく)」の書体に似せて書いたもの。*狂歌・万紫千紅〔1818〕「狩野探幽斎かしく梅の画にこれがかのかの探幽がふでにかく梅とし聞
34. かじかわ-ぶんりゅうさい【梶川文竜斎】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代前期の蒔絵(まきえ)師。梶川家3代をつぎ,幕府につかえた。狩野探幽(1602-74)の下絵による鷹が雀を追う図の印籠(いんろう)が現存する。
35. かじばし‐かのう[かぢばし‥]【鍛冶橋狩野】
日本国語大辞典
江戸幕府の御用絵師狩野四家の一つ。江戸鍛冶橋(東京都中央区八重洲)内外に屋敷を賜わった狩野探幽の系統をさす。[発音]カジバシカノー〓[カ]<2>
36. 歌仙絵画像
日本大百科全書
岩佐勝以(いわさかつもち)(又兵衛)筆の『三十六歌仙絵額』(川越市・喜多院(きたいん))などが残る。このほか狩野探幽(かのうたんゆう)筆『新三十六歌仙画帖』や尾
37. かつたちくおう【勝田竹翁】
国史大辞典
後年勝田家が表絵師の一家となる基礎を築く。貞享四年(一六八七)以前に八十一歳で没したと推定される。同世代の狩野探幽の影響を受けながらも、より古風な作風を示す。代
38. かつらりきゅう【桂離宮】京都市:西京区/下桂村地図
日本歴史地名大系
苑路と橋とによってつないでいる。中書院と笑意軒は寛永一八、九年頃智忠親王によって増築され、その襖絵は狩野探幽・尚信・安信三兄弟が並んで彩管を振るったと伝えられる
39. かとう-えんたく【加藤遠沢】
日本人名大辞典
1643−1730 江戸時代前期-中期の画家。寛永20年生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)(福島県)の人。狩野探幽の門にはいる。山水・人物画を得意とし,久隅守景
40. かのう-ありのぶ【狩野有信】
日本人名大辞典
1606−? 江戸時代前期の画家。慶長11年生まれ。狩野探幽(たんゆう)の門人。松平信濃守(しなののかみ)につかえた。寛文12年5月13日67歳筆としるされたも
41. かのうさんらく【狩野山楽】画像
国史大辞典
天王寺の絵堂に「聖徳太子絵伝」板絵(重要文化財)を描き、寛永初年には、家光再建の大坂城本丸に狩野探幽や尚信を助け、障壁画制作を担当したと伝える。寛永八年(一六三
42. かのう-たんしん【狩野探信(1)】
日本人名大辞典
1653−1718 江戸時代前期-中期の画家。承応(じょうおう)2年生まれ。狩野探幽の長男。父の跡をうけて鍛冶橋(かじばし)狩野家をつぐ。御所や江戸城の障壁画制
43. かのう-たんせつ【狩野探雪】
日本人名大辞典
1655−1714 江戸時代前期-中期の画家。明暦元年生まれ。狩野探幽の次男。朝鮮贈呈屏風や御所の障壁画制作などにたずさわる。延宝3年(1675)別家して一家を
44. かのう-どううん【狩野洞雲】
日本人名大辞典
1625−1694 江戸時代前期の画家。寛永2年生まれ。狩野探幽の養子となるが,探幽に探信,探雪の2子ができ,万治(まんじ)2年に別家。寛文7年(1667)幕府
45. 狩野尚信[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:11件 『狩野探幽の勉励並に安信尚信の評』-『狩野尚信筆猿曳図』-『狩野尚信筆山水画巻解』-『狩野尚信筆山水屏風
46. 狩野派画像
世界大百科事典
狩野松栄 四季花鳥図 狩野光信 風俗画 狩野秀頼 狩野孝信 狩野山楽 狩野貞信 狩野長信 京狩野 狩野探幽 狩野安信 狩野尚信 鍛冶橋狩野 木挽町狩野 中橋狩野
47. 狩野守信
日本大百科全書
狩野探幽
48. かのうもりのぶ【狩野守信】
国史大辞典
狩野探幽(かのうたんゆう)
49. 狩野安信[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:0件 【逐次刊行物】:12件 『永真安信に就いて』狩野探道『画道要訣 牧心翁遺稿』-『狩野探幽の勉励並に安信、尚信の評』-『狩野守信、尚信、安信筆宇治
50. かみおぐむら【上尾久村】東京都:荒川区地図
日本歴史地名大系
より寺名を譲渡された(尾久の民俗)。文明一五年(一四八三)一〇月七日銘の三尊来迎図の板碑、伝狩野探幽作の屏風絵、普化宗関連の古文書などを有する。悪疫退散祈願を目
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