ドイツの作曲家。ハイドン,モーツァルトと並びウィーン古典派三巨匠と呼ばれるベートーベンは,先人二人の完成させた古典派様式を至上の高みにまで洗練させ,独自の様式を築き上げ,晩年には来たるべきロマン派時代の萌芽を思わせる作風まで示している。
生涯と作品
1770年12月16日(洗礼日17日)にケルン選帝侯居城の町ボンに生まれる。同名の祖父ルートウィヒも父親ヨハンも選帝侯宮廷楽士を務め,祖父は楽長にまでなった人であった。ベートーベンは祖父,父と続いた宮廷楽士の地位を継ぐべく早くから音楽教育を受けた。父やその同僚から手ほどきされた少年ベートーベンは7歳を少し過ぎた頃には初めて公開演奏会に出演するほどの早熟ぶりをみせている。1781年からは宮廷オルガニストのC.G.ネーフェに師事してJ.S.バッハやC.P.E.バッハらの厳格な音楽様式を学んでいる。83年には初めてのピアノ・ソナタ《三つの選帝侯ソナタ》WoO47を出版するなど創作面での才能も示し始めている。92年11月にウィーンに移るまでボンの宮廷楽団でビオラ奏者を務めながら音楽家としての基礎知識を身につけた。モーツァルトが他界してちょうど1年後のウィーンに住むようになったベートーベンは高度な作曲技法を学ぶべくJ.ハイドン,J.シェンク,J.アルブレヒツベルガーらのもとで修業を重ねた。しかし,ウィーンでのベートーベンはまずピアニストとして名声を確立していくのである。そうした彼にとって早急に必要な作品は自作のピアノ曲であった。《ピアノ・ソナタ》作品2の3曲(1793-95),《ピアノ三重奏曲》作品1の3曲(1793-95),そして2曲の《ピアノ協奏曲》作品19(1795)と作品15(1795。1800改訂)等がウィーン初期,つまり作曲修業時代に早くも成立している。
ここでこれら諸作品の被献呈者をみることも彼の人間像を考えるうえでむだではなかろう。少なくともそこには彼の細心の神経と処世術,さらには厳しい批判精神と革命的精神をかいまみることができよう。例えば,ウィーンでの最初の偉大な師であるハイドンに献呈しているのは栄誉ある番号の作品1ではなく作品2であった。作品2の3曲セットのソナタはいずれも伝統的な3楽章制には従わず,交響曲のような4楽章制をとっており,しかも第3楽章は伝統的なメヌエットではなくスケルツォへと性格を一新させている。長い間,実用的舞曲あるいは娯楽的音楽として用いられていたメヌエットは,ベートーベンの意図する芸術作品には,あまりにも内容が軽すぎたのである。これは作曲家としての強い自己主張であり,師ハイドンへの挑戦と批判と考えることもできよう。ベートーベンが自由な創作活動を送ることのできた陰には音楽を愛する多くの有力貴族の保護があった。故郷ボンを離れる際に〈……たゆまぬ努力をもってハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取り給え〉と記念帳に記したワルトシュタイン伯爵らの紹介もあってベートーベンはウィーンの社交界に難なく参会できた。ウィーンでの最初の住居はリヒノウスキー侯の持家であった。社交界における最も人気あるピアニストになっていく彼のパトロン(愛護者)たる貴族のうちロプコウィツ侯やキンスキー侯は名門ワルトシュタイン伯の縁故者でもあった。さらにハイドンやモーツァルトとの関係でも知られるファン・スウィーテン男爵らとの親交が貴族社会の中にベートーベンの不動の地位を築き,交友の輪も拡大させていった。社交界は彼に演奏家としての活躍の場を提供するだけでなく,子弟の家庭音楽教師としての仕事,さらには作品の購入者を得るという意味で非常にたいせつな場であった。師ハイドンにではなく,リヒノウスキー侯に作品1を献呈している理由もこの辺にあったと考えて誤りではなかろう。
作曲家としては伝統的なスタイルによる多くの試みののち《第1交響曲》作品21(1800)を公開演奏するという大事業を果たすのである(1800年4月2日)。交響曲は作曲家の真価を世に問う最も重要な曲種であり,多くの作曲家が流行のスタイルを踏襲して無難な初作を発表するのが普通であった。しかし,ベートーベンはピアノ・ソナタがそうであったように,ここでも革新的な試みを行っている。このハ長調交響曲は下属調(ヘ長調)の属七和音から開始されるのである。一見不安定に思える響きにより始まるアダージョの導入部は,12小節ののちに現れる主調ハ長調のアレグロ主部をいっそう力強い確固としたものにさせる効果を発揮している。アダージョ導入部は第1楽章だけでなく終楽章にも設けられている。また第3楽章メヌエットは内容的には完全にスケルツォへと変質しているのである。一般に《第1交響曲》《第2交響曲》作品36(1802)はハイドンやモーツァルトの影響下にあるという評価が強調されがちであるが,これら2作品にも,のちの独創的才能の芽生えをみることができる。交響曲史上前人未到の大形式を打ち立て,独創性を十分に発揮するのは確かに《第3番・英雄交響曲(エロイカ)》作品55(1804)からであるが,すでにこの時点で作品番号をもつ全32曲のピアノ・ソナタのうち22曲まで作曲しており,ソナタ(様式)における種々の革新が多くの傑作(《悲愴ソナタ》作品13,1798,幻想曲風ソナタ《月光》作品27の2,1801,《田園ソナタ》作品28,1801,《テンペスト》作品31の2,1803,《ワルトシュタイン》作品53,1804)で実を結んでいたのである。
そうした経験をオーケストラ作品に生かし始めたのが《英雄交響曲》なのである。この作品あたりから音楽内容は18世紀的気軽さや明快さ,娯楽性から完全に脱却して人間の倫理性や道徳性といった荘重さや情緒の深さが追求されるようになっている。ソナタ形式の展開部が提示部の長さを上回る規模になるのも《英雄交響曲》からであるし,楽器編成上でもホルンを3管に増強したり,チェロとコントラバス声部を独立・分離させるという改革も行ったのである。彼の追求する音楽が必然的に要求する編成の拡大は《第5番・運命》作品67(1808)に至って前例のないトロンボーン3管の導入をみることになる。この曲ではさらにピッコロやコントラ・ファゴットも使用され始めるのであるが,こうした彼の交響曲における編成上の最大の革新が晩年の《第九交響曲・合唱付》作品125であることはよく知られたことである。
ベートーベンを語るうえで避けて通れないことに耳疾がある。難聴の兆候は早くも1798年ころから現れていた。音楽家にとって致命的ともいえる耳の病いがしだいに悪化していき,一時は自殺さえ考え,いわゆる2通の〈ハイリゲンシュタットの遺書〉(1802年10月6日,10日付)を書き残すまで追い込まれている。結果的にこの遺書内容は危機克服の証言として現在では解釈されているが,この機を境に彼の不屈の精神による運命への決然たる挑戦が始まっているのである。その結果が《英雄交響曲》であり,《ワルトシュタイン・ソナタ》であり,《熱情ソナタ(アパッショナータ)》作品57(1805)などである。
19世紀初頭のウィーンはフランス軍の侵攻に再三脅かされるようになり(1805年11月15日ベルベデーレ宮をナポレオンが占領),音楽界の大きな支持層であった貴族階級の人々の疎開や没落が目だつようになっていた。ベートーベン唯一のオペラ《フィデリオ》作品72第1稿(1805)初演(1805年11月20日)の失敗もその時期が有力貴族不在のフランス軍占領下という最悪条件にあったことも考慮しなければならないだろう。しかし,不安定な社会情勢下にあっても1806-08年は〈傑作の森〉と呼ばれる創作の絶頂期にあたり,《交響曲第4番》作品60(1806),《第5番・運命》,《第6番・パストラーレ》(《田園交響曲》)作品68(1808),《ピアノ協奏曲第4番》作品58(1806),《バイオリン協奏曲》作品61(1806),《コリオラン序曲》作品62(1807)などの大管弦楽曲が次々に生み出されている。
1809年に《ピアノ協奏曲第5番・皇帝(エンペラー)》作品73を作曲して後期様式時代に入っていく。この年にはフランス軍が再度ウィーンを包囲し,最大のパトロンであったルドルフ大公が疎開していき,ピアノのための《告別ソナタ》作品81a(1810)が作曲されることになる。また,大公のためには翌1811年に《ピアノ三重奏曲》作品97(《大公トリオ》)を作曲し,このジャンルにおける古今の作品中の最高傑作を大公に献呈している。これら2曲はこの時期のカンタービレ(歌うような)様式を代表する作品でもあり,主題の抒情的な美しさも大きな特徴となっている。1812年までに《第7交響曲》作品92(1813年初頭),《第8交響曲》作品93(1812)を完成させ,残された15年間の晩年における大管弦楽曲は《ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)》作品123(1823)と《第9交響曲》作品125(1824)の2曲を残すだけであった。内省的な深みを増した孤高の晩年様式の中心は室内楽曲とピアノ作品へと移っていく。
2曲の交響曲を完成させた1812年は有名な〈不滅の愛人への手紙〉が書かれた年でもある。生涯を独身で貫いた彼は1805年ころからのヨゼフィーネ・ダイム伯夫人,09年ころのテレーゼ・マルファッティとの恋愛に失敗し,12年に最後の〈不滅の愛人〉(M. ソロモンのアントーニエ・ブレンターノであるという説が有力)との恋愛にも失敗してしまうのである。なお,この手紙が書かれた避暑地テープリッツで文豪ゲーテと数度にわたって会見していることも彼の生きた時代を考えるうえで見のがすことのできない出会いであろう。重なる失意と衰えいく健康により1813年から16年の間に創作上の停滞がみられる。この間には弟カールの死(1815)やこれに伴う甥カールの後見問題,長年にわたる最良の音楽仲間であったシュパンツィヒ弦楽四重奏団のラズモフスキー家の経済的困窮による解散(1816年2月),ロプコウィツ侯の死(1816年12月)等々の生活環境の大きな変化と雑事による多忙さにも悩まされている。難聴も極度に進行し,原始的なメガホン式補聴器を使用する日常になっていき,18年ころからは筆談帳を用いねばならないほどになっていった。いつ頃から完全に耳が聴こえなくなったか明らかではないが,24年5月7日の《第9交響曲》初演時のエピソードによれば,曲が終わったときの聴衆の歓声と大喝采の拍手にさえ気がつかなかったという。
1817年にスランプを抜け出した彼は変ロ長調の《ピアノ・ソナタ(ハンマークラビーア)》作品106(1818)で孤高期のスタイルを打ち立てていく。20-22年の間に最後の三大ピアノ・ソナタ(作品109,110,111)を,23年には《ディアベリ変奏曲》作品120をも完成させピアノ音楽の金字塔を築き上げている。《ミサ・ソレムニス》と《第9交響曲》で大きな成功を収めたのち,残された3年間(1824-26)に最後の弦楽四重奏曲5曲(作品127,130,131,132,135)を作曲し,この分野における音楽史上の最高傑作群を残したのである。4ヵ月に及ぶ病臥のすえ,27年3月26日に肝硬変により56年3ヵ月の生涯を閉じている。
自律した音楽家
ベートーベンを音楽史のなかで正しく把握するには18世紀後半から19世紀前半に至るほぼ1世紀間の文化史・社会史的理解が手助けとなろう。こうした手続きは必ずしもすべての音楽家研究に必要不可欠というわけではない。ハイドン,モーツァルトの場合ならば,その評伝と作品を研究することである程度十分な姿を描くことができる。確かに彼ら2人がかかわっていたフリーメーソンのことを知れば,ある特定の作品解釈にとっては有効かもしれない。しかし,当時のヨーロッパ世界を大きく揺り動かしていた社会思想や思潮,社会運動と結びつけてハイドンやモーツァルトを語ることはさして重要とは思われない。彼らがフランス革命精神に心を大きく動かされたとは思われないし,18世紀後半の有名なドイツの文学運動シュトゥルム・ウント・ドラングの思潮から大きな影響を受けたとも思われない。近年の研究ではハイドンやモーツァルトのある時期の作品様式をこの思潮と結びつけて解釈する説も紹介されているが,彼らの場合はあくまでも創作行為の結果として現れる作品特性においての影響であり,思想や思潮が人間ハイドン,人間モーツァルトの心を揺り動かしたわけではない。彼らのもっぱらの関心事はよい作品を書くことであり,それらが王侯貴族に喜びをもって受け入れられることであった。したがって,彼らの作品は多くの場合に注文によってか,あるいは特定の機会のために書かれている。少なくともハイドンはその生涯の大半をエステルハージ家の楽長として仕えていたのである。
ベートーベンは初期作品においてこそ,この二人の先人を範として出発したかにみえるが,その時代を生きる人間としての,また音楽家としての意識は彼らとまったく異にしていた。自由・平等・博愛というフランス革命の精神とともにベートーベンの心を強くとらえていたのは,ゲーテやシラーが引き継いでいたシュトゥルム・ウント・ドラング思潮であった。自然な人間性の要求と,因襲との闘争,言い換えれば,新しい生命に対する内的欲求とすでに規範化していた理想や制度に対立する精神であった。この時代は王侯貴族の没落と市民革命の時代ということになろうが,ベートーベンをハイドンやモーツァルトから著しく区別しているのも,彼がこの時代の新しい市民としての性格をもっていた点にある。
ルドルフ大公をはじめとする多くの貴族をパトロンにもっていたベートーベンではあるが,そこにはもはや人間関係における従属的意味はまったく存在していなかった。彼の意識のなかにある経済的生活基盤はあくまでも自作品出版による収益であった。音楽史上で最初に〈自律した音楽家〉といわれる理由もそこにある。したがって,彼が注文によって作品を書くことはまれであった。自己の創作意欲に基づいて書いた作品を貴族に献呈して,その代償を受けとることと注文によって作品を書くこととは厳格に区別されなければならない。他人のためでも特定の機会のためでもなく,自己の理想を追究していく創作態度が,例えばハイドンやモーツァルトのように交響曲を量産する必要性もなくしたし,制限された楽器編成や規範的形式にとらわれる必要もなくなったのである。その結果べートーベンの多くの作品は音楽様式に大きな進展をもたらすことになったのである。ハイドンおよびモーツァルトらによって,きわめて高い次元にまで完成された古典様式は,驚くほどの短期間のうちに変質され,ひいては新しいロマン主義様式の基本理念を先取りするまでに至ったのである。
ベートーベンの最初の作品全集は1862年から65年にかけて全24巻でライプチヒで出版された。なお,この全集には88年になって追補として第25巻が加えられ,さらに最初の刊行からほぼ1世紀を経た1959年から71年にかけて,W.ヘスにより〈旧全集の追補版〉が全14巻加わっている。現在刊行中の新全集は1959年にベートーベン・アルヒーフ(ボンの生家を本部とするベートーベン・ハウス協会の付属研究機関で,生家の隣家に没後100年の1927年に設立された)がノルトライン・ウェストファーレン州の委託を受けて,校訂・編纂し始めたもので,予定の50巻のうち1985年現在で約半数がミュンヘンのヘンレ社から出版されている。この新全集には日本の児島新(1929-83)がアルヒーフ研究員として中心的校訂者に加わっていた。多大な数に上る研究書のなかで伝記資料としては依然としてA.W.セーヤー《ベートーベン伝》が権威を保っている。作品に関する包括的な情報を知るには編者たちの名をとって一般に〈キンスキー・ハルム〉と呼ばれる《主題付・書誌学的解題付作品目録》(1955)が最も基本的であり,この目録で作品番号をもたない作品に付されたWoO番号が,作品番号とともに用いられている。しかし,現在では古くなった諸説や誤説を改め,さらに新事実に基づく情報を得るためにはこの目録の補足版ともいえるK.ドルフミュラーの《ベートーベン書誌のために》が不可欠となっている。
[平野 昭]
日本人とベートーベン
いわゆる〈洋楽クラシック〉の分野の中では,日本で最も愛好されている作曲家がベートーベンであることは,種々のアンケートの集計がよく示している。近年は《第9交響曲》を年末に演奏するという習慣が,欧米には類をみないほどに,全国的に広がった。
1885年(明治18)音楽取調所(のちの東京音楽学校,東京芸術大学)第1回卒業演奏会において《君は神》(C.F.ゲレルトの詩による《六つの歌曲》作品48の第4曲《自然における神の栄光》と推定されている)が管弦楽器伴奏の合唱で演奏された。87年の卒業演奏会では《シンフォニー》(《第1交響曲》の第2,第3楽章と推定されている)が演奏された。
96年同声会(東京音楽学校卒業生の団体)音楽会において《月光ソナタ》が演奏された。
1905年日比谷公園音楽堂第3回演奏において《エグモント序曲》(作品84の劇のための音楽に含まれる)が陸軍軍楽隊により演奏された。
上記のような細々とした演奏記録はあるものの,明治や大正初期においては,ベートーベンの交響曲もピアノ・ソナタも日本人にとっては演奏が困難であったので,聴く機会もあまりなかった。1913年東京音楽学校教師になったドイツ人クローンGustav Kron(1874-?)は,同校の管弦楽団を指揮してベートーベン作品の演奏に力を入れ,13年《バイオリン協奏曲》,18年《第5交響曲》,19年《第6交響曲》,24年《第9交響曲》の日本初演を行った。大正後期には本格的交響楽団が生まれるが,その最初のものである東京シンフォニー・オーケストラは22年末に結成され,翌23年の第1回公演で《第5交響曲》を取り上げた。この頃からのレコードの普及も日本のベートーベン愛好家を増やした。33年のA.シュナーベルのピアノ・ソナタ全集は,ヨーロッパ全体の売上げにほぼ匹敵する1000組が予約され,39年のトスカニーニ指揮の《第5交響曲》は3万組の売上げを示した。
いわゆるベートーベン演奏家として名高い,ドイツ系の一流音楽家が来演するようになったのは比較的遅い。37年F.ワインガルトナーが新交響楽団(現,NHK交響楽団)を指揮し,人々は初めて真に充実したベートーベン交響曲の音を聴くことができた。36年に若いW.ケンプが来演したが,このピアニストの円熟したベートーベン解釈を直接に聴くことができたのは第2次世界大戦後である。戦後は日本の管弦楽団の水準も高まり,またカラヤン(1956年初来日)やK.ベーム(1963年初来日)などの非凡のベートーベン解釈を鑑賞できるようになった。
いったいベートーベンはなぜこのように日本で愛好されているのか。それには主として次の二つの理由が考えられる。第1は,日本のクラシック・ファンの大部分は青年層で占められているという特殊事情である。ベートーベンの音楽はつねに力強い生命力をもつエネルギーにあふれている。運命との戦いのあとには自由の勝利が獲得される。この特徴は若い世代に圧倒的に働きかける力である。第2の理由はむしろベートーベンの音楽そのものの特殊性に見いだされる。彼は古典派とロマン派の境目に生きた人であり,そのことによって自己の独創性を完ぺきなまでに発展させた。彼の作曲技法,ことに和声,リズム,メロディーは意外にも簡潔で,その言おうとするところはきわめて明瞭である。全体の構成や曲想の転換もまたはっきりとしており,誤解される余地がない。西欧の音楽にある程度親しんだ,西欧文化圏以外の人々にとって,実はベートーベンの音楽は最も理解しやすく,最も共感しやすいのである。ハイドン,モーツァルトまでの音楽の宮廷性とロマン派以後の音楽の市民性とからは,かけはなれた汎人間的性格をもっている。およそ他の文化圏の音楽を理解することは,その音楽の地方様式や時代様式が壁となって,実はなかなかむつかしいことなのであるが,ベートーベンはその壁に取り囲まれなかった特殊の天才であった。〈楽聖〉とまであがめられたベートーベンの日本における人気はふしぎではない。
[渡辺 護]
[索引語]
Beethoven,L.van 悲愴ソナタ 月光 田園ソナタ テンペスト ワルトシュタイン 英雄 運命(音楽) 第九交響曲 ハイリゲンシュタットの遺書 熱情ソナタ フィデリオ パストラーレ 田園交響曲 皇帝 エンペラー 告別ソナタ 荘厳ミサ曲 ハンマークラビーア ミサ・ソレムニス ベートーベン・アルヒーフ ベートーベン・ハウス協会 月光ソナタ エグモント序曲 クローン,G. Kron,G. 東京シンフォニー・オーケストラ
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