18世紀末から現代に至るまで最もポピュラーな鍵盤楽器。鍵盤で弾く点ではオルガンやハープシコードなどと同じだが,オルガンがパイプに空気を送って発音する気鳴楽器であるのに対して,ピアノは弦の振動で発音する弦鳴楽器である。またハープシコードが爪状のプレクトラムで弦をかき鳴らす撥弦楽器であるのに対して,ピアノはハンマーで弦を打つ打弦楽器である。ハープシコードと区別するために,18世紀後半から19世紀初頭のドイツでは,ピアノをとくにハンマークラビーアHammerklavierとも呼んだ。ハープシコードではストップの操作によって音量が階段状に変化した(テラス状強弱法)のに対して,ピアノは打鍵の強さによって音量を急激にも漸次的にも自由に変えることができる。1709年にフィレンツェの楽器製作者クリストフォリBartolomeo Cristofori(1655-1731)が最初のピアノを試作したとき,彼はその楽器を〈強弱のつけられるハープシコードgravicembalo col piano e forte〉と名づけた。ここからピアノフォルテpianoforteまたはフォルテピアノfortepianoという名が起こり,さらにピアノと略称されて今日に至った。このようにピアノは,打鍵によって強弱を自由に変化できるという点に大きな特色がある。しかも強弱の幅は,オルガンを除けば,楽器の中で最も大きい。18世紀後半からピアノがしだいにハープシコードとクラビコードを駆逐して鍵盤楽器の王座を占めた背景には,音楽の表現が自由な強弱変化を重視するようになったこと,そしてまた,音楽の場が限られた共同体の枠内から出て幅広い大衆へ,したがって大きな音量を要求する大会場へ移行したという事実が存在していた。現代のピアノは19世紀後半にほぼ完成されたが,これは音量が豊かなだけでなく,オルガンを除けば楽器の中で最も幅広い音域をもち(図
今日のピアノには,弦を水平に張ったグランド・ピアノ(平型ピアノ,図
打弦楽器としてのピアノの前身は14世紀以来のダルシマーや17世紀末にドイツのP.ヘーベンシュトライトが考案した楽器パンタレオンなどにみることができるが,一般にピアノの発明者とされているのはイタリアのクリストフォリである。彼は1709年にハンマー打弦の楽器を試作し,1720年代にこれを改良して,基本原理において今日のピアノとほとんど等しい楽器を作り上げた。しかし彼の発明はイタリアでは注目されず,むしろドイツとイギリスで発展した。ドイツではG.ジルバーマンがクリストフォリの考案を採用して何台かを試作し,1740年代にはフリードリヒ大王のポツダム宮殿にも採用されて,晩年のJ.S.バッハがそれを試奏した。クリストフォリやG.ジルバーマンの打弦機構はいわゆる〈突き上げ方式Stossmechanik〉で,ハンマーは鍵と独立して別の固定的な支点をもち,ハンマーの付け根をレバーが突き上げて打弦する。これは今日のピアノと同じ原理である。それに対して,J.A.ジルバーマンは〈はね上げ方式Prellmechanik〉を考案した。この方式ではハンマーが鍵の後部に乗り,打鍵によって鍵の前部が下がると後部が上がり,ハンマーがはね上がって打弦する。この方式はシュタインJohann Andreas Steinらによって改良され,1790年代のウィーンで完成の域に達した。これは一般にウィーン式アクションと呼ばれて一時ドイツとウィーンで流行し,ハイドン,モーツァルト,フンメル,ベートーベン,チェルニーらが愛用した。一方,イギリスでは突き上げ方式が発達し,1776年にエスケープメント(離脱装置)も発明され,ブロードウッドJohn Broadwood(1732-1812)がさまざまな改良を加えて,1790年代にイギリス式アクションによる標準的なピアノを完成させた。このように,18世紀末からピアノには軽快なウィーン式アクションと力強い音のイギリス式アクションが共存したが,広い会場での公開演奏会の発達に伴ってイギリス式が勝利を収め,ウィーンでも1820年代にはイギリス式に移行した。《ハンマークラビーア・ソナタ》(作品106。1818)をはじめとするベートーベン晩年の雄大なピアノ曲は,イギリス式アクションによるブロードウッド製のピアノなしには生まれえなかったであろう(彼は1817年に同社から最新のピアノを贈呈されている)。
19世紀前半にはさらにさまざまな技術的くふうと改良がなされた。アクションの面では1822年にフランスのエラールSébastien Érard(1752-1831)とその甥ピエールPierre É.(1794-1865)がダブル・エスケープメントを考案,これは世紀後半に一般化した。世紀中ごろには種々の試みの末,フェルト巻きのハンマーが使われ始めた。音域に関しては,18世紀前半には大字ハ~3点ヘ(4オクターブ+4度)の55鍵がふつうだったが,以後しだいに拡張され,19世紀前半には下1点ハ~4点イ前後(およそ6オクターブ+6度),後半には下2点イ~5点ハ(7オクターブ+3度)の88鍵に達した。弦の材質改良(鋼鉄線や低音用の巻線)や,低音弦と中・高音弦を斜めに交差させる張り方も世紀前半に行われ,これによって音量が増し響きも豊かになった。こうした弦数の増加と張力の増大に伴って骨格を補強する必要性も生じ,金属製のフレームが使用されるようになった。アップライト・ピアノが登場するのもこの頃である。世紀後半には以上の新機軸が一体化されて,今日のピアノとほぼ同じものが生産されるようになった。会社としては,ウィーンのベーゼンドルファー社(1828-),ドイツ出身のH.E.シュタインウェークがニューヨークに創設したスタインウェー社(1853-),そしてベルリンのベヒシュタイン社(1853-)などがとくに有名で,いずれも今日まで優れた製品を生産し続けている。20世紀ではいくつか細かい改良が行われているほか,超大型のコンサート・グランド・ピアノや8オクターブに及ぶ音域のもの(ベーゼンドルファー)も製造されているが,本質的な変化はない。特殊なものとしては,19世紀末からレコードが普及するまで一時流行したロール紙を使った自動ピアノ(ピアノラ)や,弦振動を電気的に増幅する電気ピアノ,電子音の合成により人工的に音を作り出す電子ピアノなどがあり,とくに電子ピアノは音楽教育やポピュラー音楽でもよく使用されている。
日本にピアノが伝来したのは幕末期で,シーボルトが1823年(文政6)に持参したものがおそらく現存最古のものと思われる(萩市熊谷美術館)。80年には音楽取調掛の教師として来日したメーソンLuther Whiting Mason(1818-96)がアップライト・ピアノを持参しており,その後同掛でもアメリカからスクエア・ピアノを10台購入している。製作の面では,西川虎吉がドイツとアメリカのモデルに倣って1887年ころに作製したものが国産第1号といわれている。続いて山葉寅楠(1851-1916)が97年に日本楽器製造(株)(現,ヤマハ[株])を設立,アメリカに学んだ翌年の1900年にアップライト・ピアノを,02年にグランド・ピアノの製造・販売を開始した。この方面で貢献した人々にはこのほか,山葉直吉,松本新吉,松本広,福島琢郎,小野ピアノの小野好,そして第2次大戦後に独立工房を開いた大橋幡厳らがいる。また河合小市は1927年に河合楽器研究所(現,河合楽器製作所)を創立してただちにアップライト・ピアノ,グランド・ピアノの製造を開始,同社は現在でもヤマハに次ぐ生産規模を誇っている。大戦末期は製造が中止されたが,戦後すぐに大小の会社が林立し,まもなく戦前をしのぐ活況を呈した。やがて生産体制が手工業型から近代的な量産型に移行するとともに企業数は減少したが,現在の生産台数は世界第1位を誇り,品質も国際的にかなりの評価を得ている。83年通産省統計によると,生産台数は32万8000台(うちアップライト・ピアノは9割),輸出は8万8000台,輸出金額は240億円,国内の販売金額は約1183億円である。
今日,日本におけるピアノ文化の発展にはめざましいものがある。戦後は国際的に活躍する演奏家や教育者も増え,1978年以後は国際コンクールも開催されている。また戦前には一部階級に限られていた西洋音楽の教育と鑑賞が広く一般に開放され,家庭におけるピアノの保有率やピアノ人口も飛躍的に増大している。しかし数の上での増加が音楽文化の真の質的向上とは必ずしも一致しないことも事実で,ピアノ教育のあり方が常々問い直されている。一つには,西洋音楽の歴史が浅い日本ではその文化的・精神的背景を無視しがちであり,表面的な読譜と指先の機械的な技術の訓練だけに終わってしまう傾向があるという批判である。また入門用としてよくバイエル教則本(バイヤー)が使用されてきたが,日本でのバイエルの流行はメーソンが音楽取調掛でたまたまこれを教材としたことから始まったにすぎず,初心者の音楽的関心を伸ばす上で必ずしも常に適切であるとは限らない。現在ではほかにも特色ある教則本が多数知られているが,何を使うにせよ要はその使い方であり,真の音楽理解に目を向けさせる教育方法である。今一つは音感教育の問題である。ピアノは平均律で調律されているが,これは便利である反面,オクターブ以外は純正な響きではないという欠点をもつ。幼児期からピアノだけを通して絶対音感をたたき込まれると,誤った音感が形成されるおそれがある。
ドイツ語では鍵盤楽器,とくにオルガンを除いた弦鳴楽器を総称してクラビーアというが,ハープシコードやクラビコードのための音楽も現代ではピアノで演奏されることが多いため,すべての弦鳴クラビーア音楽をひっくるめてピアノ音楽ということがある。しかし厳密には18世紀後半以後の,ピアノによる演奏を意図した作品に限られる。もっとも18世紀以前は楽器指定がなかったりあいまいであることが多く,古典派の盛期に至るまでは使用すべき楽器が何であるかは必ずしも明確でない。狭義のピアノ音楽のおもな形態としては,ソナタをはじめとする独奏曲,連弾曲,2台または3台のピアノのための音楽,そして管弦楽を伴う協奏曲などがある。
クラビーア音楽の歴史は14世紀ころにさかのぼるが,当初は初めから器楽として書かれたものはあまり多くなく,声楽曲の楽器演奏か編曲が主体だった。声楽から独立して器楽独自の様式が生まれたのは16世紀からであるが,オルガン音楽と他のクラビーア音楽との様式的区別はなおあいまいであった。16世紀末エリザベス朝期のイギリスのバージナル楽派(バージナル)に至って初めて,ハープシコード音楽独自の作曲様式と奏法が確立される。17世紀に入るとイタリアのフレスコバルディがさまざまなジャンルのオルガンおよびハープシコード音楽を作曲し,続く世代に大きな影響を残した。フランスではシャンボニエールがクラブサン楽派を創始し,ドイツではフレスコバルディの弟子フローベルガーがバロック組曲の形式を確立した。18世紀前半では,フランスのF.クープランとラモー,ドイツのJ.S.バッハとヘンデル,イタリアのD.スカルラッティらが代表的存在である。とりわけJ.S.バッハは三つの組曲集において諸国民様式を総合すると同時に,バロック組曲を完成に導き,一方,2巻の《平均律クラビーア曲集》では対位法クラビーア音楽の頂点を築いた。長男の教育用に書いた2声と3声の《インベンション》とともに,これらは今日でも最も優れたピアノ教材となっている。スカルラッティは600曲に及ぶハープシコード・ソナタを残したが,それらは3度・6度の重音奏法や幅広い分散和音,各種の装飾音,両手の交差など,ピアノ奏法を基礎づけるのに大きな役割を果たした。前古典派ではイタリアのアルベルティDomenico Alberti(1710ころ-40ころ),ガルッピBaldassare Galuppi(1706-85)らのソナタ,J.S.バッハの息子たちのソナタと協奏曲が重要である。エマヌエルはハープシコードとクラビコードのための作品を250曲ほど残し,また《正しいクラビーア奏法の試論》2部(1753,62)を著して演奏理論史でも一時代を画した。弟のクリスティアンは1768年からピアノを使用している。
ピアノの使用が本格的になるのは18世紀最後の四半世紀である。ハイドンやモーツァルトも初めはハープシコードを使用していたが,前者の1788年以後の作品,後者の晩年の作品はいずれもピアノを想定して書かれている。この時期の最も重要なジャンルはソナタであるが,協奏曲や変奏曲も古典派様式独自の発展をとげた。モーツァルトはウィーン式ピアノの特性を生かして〈歌うアレグロ〉といわれる流れるような様式を完成させた。とくに協奏曲の分野での功績にはぬきんでたものがある。ベートーベンは32曲のソナタ,5曲の協奏曲,数多くの変奏曲において,ピアノによる劇的・性格的表現の一つの極限をきわめ,演奏技術の新たな可能性を開拓した。ソナタでは他にM.クレメンティが重要である。
19世紀はピアノの改良,演奏技術の発展,演奏会の定着などに伴って職業的ピアノ奏者が登場し,ビルトゥオーソの時代を迎える。作品がほぼピアノ音楽だけに限られ,〈ピアノの詩人〉と呼ばれたショパンや,超人的な技巧を要求する難曲を多数書いたリストも,作曲家であると同時に大演奏家でもあった。創作の面ではこの時代は二つの傾向に大別される。一つはソナタや協奏曲,変奏曲などの古典的なジャンルである。これらは依然として重要視されたが数の上では大幅に減少し,その形式と内容もロマン的な表現に塗り変えられた。シューベルト,メンデルスゾーン,世紀後半ではブラームスもある程度古典的な形式感を保っていたが,ショパン,シューマン,リストらの作品は完全にロマン的な様式を打ち出した。もう一つは性格小品(キャラクター・ピース)と呼ばれる,自由な形式のすぐれてロマン派的な作品群である。幻想曲,無言歌,即興曲,練習曲,間奏曲,セレナード,バラード,ラプソディ,舞曲(マズルカ,ポロネーズ,ハンガリー舞曲,ワルツ)などが含まれる。技巧的な難曲もあれば,繊細で抒情的な感受性をたたえたものもある。シューベルトの《楽興の時》やシューマンの《謝肉祭》《子どもの情景》,リストの《巡礼の年》などのように文学的標題をもち組曲の形をとるものが多い。以上のほか作曲家としては,フランスのフランク,サン・サーンス,フォーレ,ロシアのチャイコフスキー,ムソルグスキー,ラフマニノフ,ノルウェーのグリーグら枚挙にいとまがない。
ピアノ表現があらゆる面で極限まで拡大された時代としてとらえられる。印象派のドビュッシー(《子どもの領分》,《前奏曲集》2集)はドイツ・ロマン派的な感情表出と論理的和声法をしりぞけ,感覚的な音響世界を打ち出した。同じフランスのラベル(《鏡》《夜のガスパール》)はそれに精巧な形式感を付与し,ロシアではスクリャービンがまったく独自の和声語法を開拓した。ソ連のプロコフィエフ,新古典主義のストラビンスキー,そしてハンガリーの民族的要素を厳密な作法の中に昇華させたバルトーク(《アレグロ・バルバロ》《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》,子どものための《ミクロコスモス》6巻)らは,リズム的要素を強調してピアノの打楽器的用法を発展させた。十二音音楽(シェーンベルク,ベルク,ウェーベルン)や第2次大戦後のメシアン,ブーレーズ,シュトックハウゼンらのミュジック・セリエルは,極度に精緻な構造性を追究した。一方,アメリカのケージは1938年にピアノ弦に異物を挿入して特殊な音響を生じさせるプリペアード・ピアノを考案,種々の内部奏法への道を開いた。彼はその後偶然性を導入し,52年には奏者がいわゆる演奏をまったく行わない《4分33秒》を発表,大戦後のヨーロッパと日本に大きな衝撃を与えた。新しい奏法としては上記のほか,一定音域内の音をすべて鳴らすトーン・クラスターや倍音奏法などがある。日本でもさまざまな様式で多数のピアノ曲が書かれている。ドイツ,フランスの近代・現代の書法は機会あるごとに取り入れられてきた。戦後は十二音技法が導入され,上記のケージの考案もいち早く紹介されている。
ピアノは他のクラビーアとの構造上の違いがそのまま奏法に反映されている。レガートから鋭いスタッカート,急速な同音反復に至るあらゆるタッチの変化,最弱音から最強音に至るなめらかな音量変化,打鍵のエネルギーと速度やペダルの使用に応じたさまざまな音色変化など,打鍵中の音程・音量の変化以外は実にさまざまな種類の奏法が可能である。奏法は運指法とペダルの用法に大別され,それぞれ楽器性能の変化に応じて発展してきた。したがって時代によって指使いは異なるが,どれが最良の運指法であるかは一概にはいえない。それぞれの楽器にとって,それなりに合理的な方法があるといってよい。19世紀前半までは打弦機構の違いによってウィーン式,イギリス式,フランス式などの奏法があり,それぞれの伝統を形成した。奏法書としては,18世紀ではクープランの《クラブサン奏法》(1716)とエマヌエル・バッハの前掲書があるが,これらはまだハープシコードもしくはクラビコードの奏法を扱っている。ピアノ奏法書は1801年以後出版されるようになった。初期のものにはクレメンティ(《グラドゥス・アド・パルナッスム》),J.B.クラーマー,フンメル,チェルニー,モシェレスとフェティス(共著)らのものがあり,ほとんどが現在でも教則本として使われている。なお近年,現代ピアノ以前に書かれた曲を,その時代のモデル(もしくはその複製)を使って,当時の音高,調律,奏法で再現する歴史的演奏も盛んになりつつあり,今後の成果が注目される。
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