小谷の方
おたにのかた
? - 一五八三
安土桃山時代の女性。名は市、織田信長の妹。永禄十年(一五六七)末か翌年の初めごろ、近江浅井郡小谷城主浅井長政のもとに嫁し、長政が天正元年(一五七三)八月信長に滅ぼされた時城を脱出して織田氏のもとへ帰った。『総見記』によれば、信長は妹という理由でしばらく弟信包に預けた後、清洲城へ移して扶持米を与え、その三人の女とともに養育したという。そしてお市はのちに織田氏の宿老柴田勝家に嫁すことになった。この再婚は信長の命令であったともいうが、勝家が「縁辺之儀弥其分ニ候」(『南行雑録』所収天正十年十月六日付覚書)と述べているから、羽柴秀吉と申合せのあったことが推測される。おそらく信長の死後、天正十年六月二十七日の清洲会議によって決定したものであろう。そしてこれには、のちに秀吉ならびに織田信雄と対抗した織田信孝の尽力があり、婚儀は信孝の拠点岐阜において行われ、お市はその女とともに勝家の居城越前北庄に起居することとなった。しかし翌十一年、賤ヶ岳の戦において惨敗した勝家と運命をともにし、四月二十四日北庄城において自殺した。秀吉の功業を記した『秀吉事記』には、勝家は城を出るように説得したが、お市はともに自害することを主張したと伝えている。三人の女は秀吉に引き取られ、長女は秀吉の側室(淀君)、次女は京極高次室(常高院)、三女は徳川秀忠室(崇源院)となった。淀君の命によって描いた画像(絹本著色浅井長政夫人像、重要文化財)が、高野山持明院に伝えられる。 [参考文献]
『大日本史料』一一ノ四 天正十一年四月二十四日条、桑田忠親『淀君』(『人物叢書』七)、同『桃山時代の女性』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三〇)、高柳光寿「お市の方」(『青史端紅』所収)、奥野高広「織田信長と浅井長政との握手」(『日本歴史』二四八)
『大日本史料』一一ノ四 天正十一年四月二十四日条、桑田忠親『淀君』(『人物叢書』七)、同『桃山時代の女性』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三〇)、高柳光寿「お市の方」(『青史端紅』所収)、奥野高広「織田信長と浅井長政との握手」(『日本歴史』二四八)
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