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ドストエフスキー

ジャパンナレッジで閲覧できる『ドストエフスキー』の日本大百科全書・世界大百科事典・デジタル版 集英社世界文学大事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

ドストエフスキー
どすとえふすきー
Фёдор Михайлович Достоевский/Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy
[1821―1881]

ロシアの小説家。トルストイと並んで19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。「魂のリアリズム」とよばれる独自の方法で人間の内面を追求、近代小説に新しい可能性を開いた。農奴制的旧秩序が資本主義的関係にとってかわられようとする過渡期のロシアで、自身が時代の矛盾に引き裂かれながら、その引き裂かれる自己を全的に作品世界に投入しえた彼の文学は、異常なほどの今日性をもって際だっており、20世紀の思想・文学に深刻な影響を与えている。

[江川 卓]

生い立ち

1821年10月30日(新暦11月11日)モスクワのマリヤ貧民救済病院の医師の次男に生まれ、教育熱心だが気むずかしい父と、商家の出身で敬虔 (けいけん)なキリスト教徒であった母のもとで育った。幼時から都会的環境に親しむ機会が多く、このことはロシアの都市文学の先駆者としての彼の風貌 (ふうぼう)を決定づけた。反面、彼が10歳のとき父がトゥーラ県に農奴6人の持村を手に入れ、そこでの幼時体験は、小品『百姓マレイ』(1876)にみられるような農民理想化の傾向、後年の「土壌主義」(ロシア・メシアニズム)の主張の素地を形づくることになる。18歳のときには、父がこの持村の農奴の恨みを買って惨殺される事件もあり、これは最後の長編『カラマーゾフの兄弟』の父親殺しの主題にまでつながる深刻な衝撃を作家に与えたとみられている。

[江川 卓]

新しいゴーゴリの登場

モスクワの私塾で学んだのち、17歳でペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)の工兵士官学校に入るが、学生時代はプーシキン、ゴーゴリをはじめとするロシア文学、西欧の古典、現代作家の作品を耽読 (たんどく)し、とくにシラーに熱中した。卒業後は工兵廠 (しょう)に勤めるが、勤務には「ジャガイモのように」飽き飽きして1年ほどで退職、たまたま翻訳したバルザックの『ウージェニー・グランデ』の好評に力を得て職業作家を志し、処女作『貧しき人々』(1845)を書き上げた。都会の裏町の「小さな人間たち」の社会的悲劇、彼らのなかに潜む人間性の輝き、心理的相克を描き出したこの中編は、写実的ヒューマニズムを掲げていた当時の批評界の大立て者ベリンスキーに認められ、24歳の無名作家に一躍「新しいゴーゴリ」の名声をもたらした。続いて発表した『分身』(1846)、『プロハルチン氏』(1846)、『主婦』(1847)などは、ベリンスキーらから心理主義への病的な傾斜を指摘されて不評に終わったが、これらの作品にもすでに後年の大作家に固有のテーマ、思想、方法などの原型がみてとれる。とりわけ初期作品を通じてみられる独自のパロディー感覚、文体への強い関心などは注目に値する。

[江川 卓]

死の体験と流刑

ベリンスキーとの不和と前後して、空想的社会主義思想への関心をみせ始め、『白夜』(1848)、『ネートチカ・ネズワーノワ』(1849)などの佳編で人間情熱の諸相を探る一方、フーリエの思想を奉ずるペトラシェフスキーのサークルに接近していった。この時期の革命的青年たちとの交流は、生涯にわたって彼の創作に大きな痕跡 (こんせき)を残すことになる。1849年春、彼は他のサークル員とともに逮捕されて、同年末死刑の判決を受けるが、セミョーノフ練兵場で銃殺になる直前、「皇帝の特赦」と称して懲役刑に切り替えられた。死と間近に対決したこのときの異常な体験は、のちに『白痴』や『罪と罰』で生々しく物語られる。シベリアのオムスク監獄で過ごしたその後の4年間は、不幸な囚人たちのうちにロシアの民衆を発見する過程であったと同時に、スラブ的神秘主義、苦悩と忍従の思想への傾斜を深めさせた、彼の思想的転身、いわゆる「信念の更生」の時期としても記憶される。シベリアへの途次、トボリスクでデカブリストの妻たちから贈られたロシア語訳『新約聖書』は、彼の生涯の愛読書となった。出獄後5年間は中央アジアのセミパラチンスクで兵卒として勤務し、この間、税務官吏の未亡人マリヤ・イサーエワと結婚、『伯父さまの夢』(1859)、『ステパンチコボ村とその住人』(1859)などブラック・ユーモア的な心理小説を発表。59年末、10年ぶりに首都ペテルブルグへの帰還を許されると、農奴解放を前に高揚した社会的空気のなかで、兄ミハイルとともに雑誌『時代 (ブレーミヤ)』(1861~63)を創刊、時事問題、文学論に筆を振るうかたわら、シベリアの獄中体験に基づくユニークな作品『死の家の記録』(1861~62)と長編『虐げられた人々』(1861)を発表した。『罪と罰』のスビドリガイロフの前身ともいうべきワルコフスキー公爵の悪魔的な影を背景に、弱い善意の人間たちのもつれ合った愛の形をメロドラマ的に展開させたこの長編は、公爵の隠し子で異様な魅力をたたえた美少女ネルリの死で縁どられている。

[江川 卓]

ヨーロッパ旅行と賭博癖

その後の数年間は、農奴解放後に訪れた政治的反動、社会的幻滅の時代として、また彼の個人生活のうえでの重大事件、つまり、1862年の最初の西欧旅行(63年の『夏象冬記』にその印象が語られる)、愛人スースロワとの異常な恋愛体験(『賭博 (とばく)者』にその一端が描かれる)、64年には妻と兄の死などが重なった時期として注目される。彼の文学上の転機をなし、後期の大作群を解く鍵 (かぎ)と一般に認められている中編『地下室の手記』(1864)がこの時期に書かれたのは偶然ではない。『時代』の廃刊に続いて刊行された雑誌『世紀 (エポーハ)』の経営失敗などから、彼の個人生活はなかなか安定せず、67年、中編『賭博者』(1866)の口述が縁で知り合った速記者アンナ・スニートキナと再婚して以後は、債鬼の追及を逃れて4年間の国外生活を送らねばならなかった。てんかんの持病に悩まされ続け、賭博癖が輪をかける逼迫 (ひっぱく)した生活のなかから、彼の名を不朽のものにした大作『罪と罰』(1866)、『白痴』(1868)、『悪霊』(1871~72)、中編『永遠の夫』(1870)などが次々と生み出されていったのは驚異である。

[江川 卓]

円熟の晩年

外遊から帰って比較的落ち着いた生活に恵まれた晩年の10年間には、長編『未成年』(1875)と、彼の生涯の思索の集大成ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』(1879~80)のほか、1876年以降は個人雑誌『作家の日記』を刊行して、時事的随想や文芸評論のほか、『柔和な女』(1876)、『おかしな男の夢』(1877)などのユニークな中編をここに発表した。死の半年ほど前に行ったプーシキン記念講演は、スラブ派、西欧派の双方から熱狂的な歓迎を受け、不遇であった彼の晩年に花を添えた。1881年1月28日(新暦2月9日)肺動脈破裂で死去。

[江川 卓]

ドストエフスキー的世界の展開

彼の後期の大作群は、時代の先端的な社会的、思想的、政治的問題、さらには文化や科学の状況にまで鋭敏に反応しながら、同時に人間存在の根本問題を提起しえている点に特色が求められる。とくに注目されるのは、理論的殺人者ラスコーリニコフにおける人間を追求した『罪と罰』以降、調和と和解をもたらすべき「美しい人」ムイシキン公爵の敗北を描いた『白痴』、革命の思想と組織の病理をついた『悪霊』、青年の野心の生態を扱った『未成年』、父親殺しを主題に神と人間の問題に正面から取り組んだ『カラマーゾフの兄弟』と、各作品が取り上げる題材を異にしながらも、総体としては内面的な統一性で強く結ばれている点だろう。ここには題材を超えた神話的、フォークロア的世界観の存在も感得され、「ドストエフスキー的世界」ということが語られるのもこの意味においてである。『罪と罰』の両極的な人物像であるソーニャとスビドリガイロフが、それぞれ『白痴』のムイシキン、『悪霊』のスタブローギンへと受け継がれ、さらに『カラマーゾフの兄弟』におけるゾシマ長老とイワンの対決に発展するのなどはその一例で、彼の作品世界の人物たちは、この世に生きる者が必然的に負わねばならない「肯定と否定」の相克を作者自身とともに体現している趣 (おもむき)がある。この相克の生々しさを、いわゆる「ポリフォニックなロマン」の形式のなかにそのまま再現しえたところに、ドストエフスキーの天才を認めるべきであろう。

[江川 卓]

絶えざる再評価と影響力

彼がロシアだけでなく世界の文学、思想に与えた影響はきわめて広範だが、とくに注目されるのは時代の経過とともに彼の文学が絶えず「再発見」されてきたことである。19世紀末から20世紀初頭のロシアで、メレジコフスキー、ローザノフ、シェストフ、ボルインスキー、イワーノフ、ベルジャーエフらによって、彼の作品の哲学的、宗教的意味が明らかにされ、それはニーチェからカミュ、サルトルに至る実存主義的思想の系譜に引き継がれた。他方、1920年代にロシア・フォルマリズム、とくにバフチンがドストエフスキーの創作に「ポリフォニー」と「カーニバル」の原理を発見したことは、1960年代の構造主義的思想傾向の台頭とともに再評価され、現代の記号論的文学理解にも大きな影響を与えている。ソ連ではスターリン時代にドストエフスキーがほとんど禁書同然になる一時期があったが、50年代後半以降は研究も盛んで、72年からはもっとも完璧 (かんぺき)なアカデミー版30巻全集の刊行も行われている。日本では1892~93年(明治25~26)に内田魯庵 (うちだろあん)が『罪と罰』を訳して以来、第二次世界大戦後の米川 (よねかわ)正夫、小沼文彦の個人訳全集に至るまで、主要作品については10種近くもの翻訳が出そろっており、世界でももっともドストエフスキーが広く読まれている。明治期の長谷川二葉亭 (はせがわふたばてい)、北村透谷 (とうこく)、島崎藤村 (とうそん)、大正期の白樺 (しらかば)派の作家たち、萩原朔太郎 (はぎわらさくたろう)、芥川龍之介 (あくたがわりゅうのすけ)らに彼の影響をみいだすことは容易であり、昭和10年代のシェストフの「不安の哲学」の流行を経て、小林秀雄 (ひでお)、埴谷雄高 (はにやゆたか)らの独自なドストエフスキー観も生み出された。戦後は、いわゆる第一次戦後派の文学がドストエフスキーの大きな影を負っているといえる。

[江川 卓]



世界大百科事典

ドストエフスキー
Fyodor Mikhailovich Dostoevskii
1821-81

ロシアの小説家。慈善病院の医師の次男としてモスクワに生まれた。17歳でペテルブルグの陸軍中央工兵学校に入学。在学中,シェークスピア,ラシーヌ,シラー,ホフマン,バルザックなど西欧文学を読みふける。1839年父が領地の農奴に殺された。父の時代錯誤者的性格を見ぬいていたが,事件については語っていない。43年卒業し工兵団製図局に勤務するが,文学への志を捨てがたく,退役し,《貧しい人たちBednye lyudi》(1846)を書く。この処女作が批評家ベリンスキーの激賞を受けて文壇にはなばなしく登場した。続いて《分身Dvoinik》(1846),《女あるじKhozyaika》(1847),《白夜Belye nochi》(1848)など,あこがればかりは強いのに現実には無力な夢想家を主人公とした小説を書く。しかし不評で,しだいに行きづまる。

 47年ころから〈ユートピア社会主義者〉の集り〈ペトラシェフスキー会〉に加わる。49年4月,仲間33名とともに逮捕され,ペトロパブロフスク要塞監獄に拘留された(ペトラシェフスキー事件)。ロシア正教会を批判したベリンスキーのゴーゴリあての手紙を朗読したことがおもな罪状であった。同年12月22日,銃殺刑を申し渡されたが,執行直前に停止され,4年の懲役刑とその後の兵役義務の判決を受けた。この〈模擬〉死刑の体験は《白痴Idiot》(1868)になまなましく描かれている。

 シベリアのオムスクで刑に服したが,その体験については《死の家の記録Zapiski iz myortvogo doma》(1862)に詳しい。このころてんかんの発作が起こりはじめたという。54年2月出獄。セミパラチンスクの守備大隊に配属された。この町で知ったマリア・イサーエワと57年に結婚,文壇復帰を図って執筆を再開する。59年4月,兵役解除となり,同年12月,10年ぶりにペテルブルグへ帰った。

 農奴解放令発布の年である61年,兄ミハイルと雑誌《時代Vremya》を発刊する。《虐げられた人たちUnizhennye i oskorblyonnye》(1861),《死の家の記録》を連載し,また時評によって論壇でも活躍を始める。62年初めて西欧諸国を旅し,《夏の印象をめぐる冬の随想Zimnie zametki oletnikh vpechatleniyakh》(1863)を発表。西欧文明が〈死に至る文明〉であるという考えが固まる。ルーレット賭博に手を出しやみつきとなったが,その経験は当時のアポリナリア・スースロワとの恋愛とともに,《賭博者Igrok》(1866)の材料となった。64年4月妻マリアが,続いて7月兄ミハイルが,死んだ。

 64年,《地下室の手記Zapiski iz podpol'ya》を発表して,同時代の合理主義的進歩派にかみつく。66年《罪と罰》を発表し,文名があがる。67年,《賭博者》の速記者アンナ・スニートキナと結婚し,妻とともに外国へ旅立つ。以後4年間,ジュネーブ,フィレンツェ,ドレスデンなどを転々としながら《白痴》,《永遠の夫(万年亭主)Vechnyi muzh》(1870),《悪霊Besy》(1872)を書く。

 71年7月,ペテルブルグへ帰る。72年,週刊誌《市民Grazhdanin》の編集者となり,《作家の日記》を連載。妻アンナの努力が実ってようやく生活が安定する。75年,《未成年Podrostok》を発表。76年から月刊個人雑誌《作家の日記Dnevnik pisatelya》を発行し成功する。79-80年《カラマーゾフの兄弟》を発表。これと《作家の日記》によって,〈国民の教導者〉の位置に立つ。80年6月,モスクワのプーシキン記念祭で講演。〈予言者〉と評された。81年1月28日,死去。ペテルブルグにあるアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に葬られた。

文学の主題と影響

ドストエフスキーは若いころから〈人間という秘密〉の解明を自分の文学の課題としていた。彼によれば,〈現代〉ロシアの人間は,病者,死産児である。その病者が〈新しいエルサレム〉〈生ける生〉,すなわちあらゆる人が友となり愛しあう世界にあこがれている。美しい理想にあこがれる〈高貴な感情をもつ片輪者〉の生態,それがドストエフスキー文学の一貫した主題であった。

 20世紀の多くの作家たち(例えばジッド,モーリヤック,カミュ,トーマス・マン,フォークナーなど)が,ドストエフスキーから深い思想的影響を受けた。現代文明のうちで増大しつつある人間破壊の事実に気づいたとき,彼らは,19世紀ロシアの病んだ人間を凝視し続けたドストエフスキーを,自分たちの〈同時代人〉として発見したのである。

 日本では1892年(明治25),内田魯庵による《罪と罰》の,英訳からの部分訳が最初の作品紹介であった。魯庵は二葉亭四迷,北村透谷とともに,明治期の優れたドストエフスキー理解者・紹介者である。

 大正に入り,米川正夫,中村白葉,原久一郎,昇曙夢などによってロシア語からの直接訳がなされるようになり,1917年(大正6)には最初の全集も刊行されて,ドストエフスキーの読者は増えていった。大正期は白樺派の求道的人道主義の反映もあって,室生犀星や山村暮鳥にうかがわれるように,ドストエフスキーは弱者・受難者への同情の作家という理解が主流をなしていた。しかし,萩原朔太郎にみられるように,ドストエフスキーを介して人間の悪魔的本性を発見するという,人道主義とは逆方向の理解の芽も現れてきていた。

 ドストエフスキーが日本の知識層の間に広く深く浸透したのは昭和初期,プロレタリア文学運動が圧殺され,一般に知識青年が社会のうちに望ましい自己発揮の場を得られなくなっていった時代である。このとき,シェストフの《悲劇の哲学》(河上徹太郎訳,1934)が示した,絶望した理想家,自虐的反問者としてのドストエフスキーの像は,青年たちの強い共感をよんだ。小林秀雄がドストエフスキーの人物たちにもっぱら〈意識の魔〉ばかりを見たのも,彼の批評活動の出発がこの閉塞の時代であったことと無関係ではない。

 第2次大戦後の日本でドストエフスキーは,埴谷雄高,椎名麟三,武田泰淳あるいは森有正など,人間の根底と全体と究極に触れる思想を獲得しようとする文学者たちによって,それぞれの精神的課題を先取りしていた〈偉大な先達〉として称揚された。この畏敬すべき先行者というドストエフスキー観は,さらに高橋和巳,大江健三郎など戦後の新しい世代の文学者にも引きつがれた。昭和期のドストエフスキーの基本的イメージは,近代の人間の難問と苦悩を一身に担った大いなる思索者であり,いわば事あるたびに知識人が返り,教えを請うべき〈永遠の教師〉である。

 しかし,長く続いたこのドストエフスキー観も,1970年ころから変化を見せ,ドストエフスキー文学がさまざまな新しい知的方法論の実験材料として利用される動きが出てきている。バフチンの《ドストエフスキーの創作の諸問題》(1929。邦訳1968)がこの動きを先導している。この傾向は,読者のうちから広い意味での求道者風人生論愛好の態度が消えてゆき,ロシア文学が日本人の精神的共有財産の地位を徐々に失ってゆく現象と並行しているように思われる。また,これまでの日本のドストエフスキー解釈においてロシア文学者の貢献は主として翻訳の面に限られていたが,しだいにロシア文学者による歴史的・文献学的なドストエフスキー研究も参照されるようになってきている。
[中村 健之介]

[索引語]
Dostoevskii,F.M. 貧しい人たち Bednye lyudi 白夜 Belye nochi 白痴 Idiot 死の家の記録 Zapiski iz myortvogo doma 地下室の手記 Zapiski iz podpol'ya 罪と罰 スニートキナ,A. 内田魯庵 シェストフ,L. 悲劇の哲学 バフチン,M.M.


デジタル版 集英社世界文学大事典

ドストエフスキー フョードル・ミハイロヴィチ
Фёдор Миха́йлович Достое́вский
ロシア・ソヴィエト 1821.10.30-1881.1.28
ロシアの小説家。レフ・トルストイと共に19世紀ロシア・リアリズム文学を代表する世界的巨匠。現実の客観的反映を重んずるトルストイに対して,〈魂のリアリズム〉と呼ばれる独自の方法で,人間の内面的,心理的な矛盾と相克を追求,近代小説に新しい可能性をひらいた。農奴制的旧秩序が崩壊し,新しい資本主義的諸関係がそれに代わろうとする過渡期のロシアで,自身が時代の矛盾に引き裂かれながら,その引き裂かれる自己を全的に作品世界に投入しえた彼の文学は,異常なほどの今日性をもって際立っており,20世紀の思想,文学に深刻な影響を与えている。
 ドストエフスキーはモスクワのマリヤ慈善病院の医師の次男に生まれた。父のミハイルは聖職者の家系の出だが,この家系をさかのぼると,1506年にリトアニアのドストエヴォに領地を賜った古い貴族の家柄につながる。1828年に父は八等官として貴族の身分を与えられ,31~32年にはトゥーラ県にダーロヴォエ,チェレモシナの2つの持ち村を手に入れた。農奴100人ほどの小領地である。作家が10歳のころから一家は毎夏この持ち村を訪れるようになり,ドストエフスキーはここで初めてロシアの農村に親しむことになる。〈狼(おおかみ)がきた〉という幻聴におびえる少年の彼をやさしく抱き上げて,「キリストさまがついていらっしゃる」と十字を切ってくれたという『百姓マレイ』Мужик Марей(1876)の物語も,ここでの記憶である。なお父は,持ち村の農奴たちへの苛酷(かこく)な扱い,村の娘たちへの手出しなどの恨みを買って,39年に農民たちによって惨殺された。長らく秘密にされていたこの事件は,生涯にわたって作家に深刻な衝撃を与えたようで,『罪と罰』(66,解説後出)のスヴィドリガイロフ,『カラマーゾフの兄弟』(79−80,解説後出)のフョードル・カラマーゾフなどには,この事件の反映を見いだすことができる。教育熱心だが,気むずかしく,暴君的だった父とは対照的に,富裕な商家ネチャーエフ家の出であった母のマリヤは,従順で信心深い女性で,作家は37年に死んだこの母から大きな感化を受けている。『新旧約聖書から取った百四の物語』という本をテキストに使って,作家に読み書きの手ほどきをしてくれたのもこの母であり,またモスクワの教会に幼い彼を伴っていったのも母であった。
 1833年に彼は年子の兄ミハイル・ドストエフスキーと共にフランス人スシャールの経営するモスクワの私塾に入り,翌年にはチェルマークの指導する寄宿学校に移った。ここは文学的雰囲気に恵まれた学校で,ドストエフスキーはこの時期に西欧,ロシアの文学作品に広く親しんだらしい。37年にプーシキンがダンテスとの決闘に倒れた事件には非常な衝撃を受け,「もし母の喪に服していなかったら,プーシキンのために喪に服したかった」と述べたという。5月,ペテルブルグへ出て,コストマーロフ経営の寄宿制予備校に入り,工兵学校への入学準備に励む。このころ5歳年上のシドロフスキーを知り,その特異な性格と文学的教養に強い影響を受ける。
 1838年1月,ドストエフスキーは工兵士官学校に入る。兄ミハイルは試験に失敗し,少し遅れて入学する。軍の学校へ進んでもドストエフスキーの文学熱は冷めず,このころまでにバルザックユゴーサンドシェイクスピアディケンズ,ウォルター・スコットゲーテシラーホフマンセルバンテスラドクリフらの西欧作家に親しみ,ロシア文学ではカラムジンジュコフスキー,プーシキン,レールモントフゴーゴリらに親しんでいた。40~41年には,現存していないが,『マリヤ・スチュアルト』と『ボリス・ゴドゥノフ』の2つの史劇を創作している。当時兄ミハイルも,シラーの『スペインの王子ドン・カルロス』『群盗』,ゲーテの『ヘルマンとドロテーア』などを訳し,兄弟で見せ合って,評価しあっていた。2人の関係には単なる兄弟の枠を越えた親友同士のような雰囲気があったといえる。
 5年半にわたる工兵士官学校の課程を終えて,43年8月,ペテルブルグ工兵団工兵局製図室付きを命ぜられる。しかし半年ほどで「勤務はじゃがいものように飽き飽きしました」という心境になり,1年ほどで辞表を提出する。たまたま翻訳したバルザックの『ウージェニー・グランデ』が44年の「レペルトゥアールとパンテオン」誌に載り,好評を得たことに力を得て,職業作家を志し,数次の改作と推敲(すいこう)を経て45年5月処女作『貧しき人々』(46,解説後出)を完成した。この作品は15年後,「ヴレーミャ」誌に載った随想『詩と散文で綴るペテルブルグの夢』Петербургское сновидение в стихах и прозе(61)に語られるように,44年1月,ふいに彼を襲ったいわゆる〈ネヴァ川の幻影〉が着想の発端になった。
「あたりを注意して見回すと,ふいに何やら奇妙な人たちが見えてきた。どれもこれも奇妙で不可思議な人物たち,あくまでも散文的な人物たちで……完璧(かんぺき)な九等官たちなのだが,それでいながら何やらファンタスティックな九等官たちである。ふと見ると,だれやら,このファンタスティックな群像のかげに隠れて,しかめ面をして見せるものがあり,彼が糸だかゼンマイだかを引っぱると,これらの人形たちが動きだす。そしてそのだれやらはげらげらと笑いだし,いつまでも哄笑(こうしよう)を続けるのだ! するとそのとき,私の脳裏には別の物語が浮かび始めた。どこかの暗い間借り部屋の片隅に,だれやら九等官らしき心根の男がいる。清廉潔白,志操堅固で,上司に忠勤を励むタイプ。そして彼と一緒に一人の少女がいる。辱しめられた,悲しげな少女。そしてこの2人の物語の一部始終が私の心を深く引き裂いた。あのとき私が夢に見た群像を全部集めたら,さぞかしみごとな仮面舞踏会ができたことだろう」
 見るとおりここでは『貧しき人々』一編が〈仮面舞踏会〉の一齣(こま)として構想されている。しがない小役人マカール・ジェーヴシキンと薄幸の少女ワルワーラの悲恋物語として,〈ちっぽけな人間〉への同情の目を注いだ人道主義的,写実主義的な傑作とこの作品を評価したベリンスキー流の解釈には,作者自身がここで異を唱えているわけである。この点を踏まえることで,ベリンスキーがその後のドストエフスキーの作品を正しく評価できなかった理由も明らかになるだろうし,パロディーと一種の〈カーニバル〉手法のうえに処女作を構築しえたドストエフスキーの才能の特異性を納得できることになるだろう。
 しかし,ともあれ彼の文壇へのデビューは,まれに見る華々しいものであった。『貧しき人々』の原稿を夜を徹して読んだグリゴローヴィチとニコライ・ネクラーソフが,感動のあまり朝の4時に作者をたたき起こして,「新しいゴーゴリの出現」を祝福した話は,ロシア文学史上あまりにも有名なエピソードである。この小説は,当時の批評界の大立者ベリンスキーにも絶賛され,24歳の無名作家の名を一躍高めた。ドストエフスキーは社交界にも出入りするようになり,当時ペテルブルグの文芸生活の中心であったパナーエワのサロンに訪れるようになった。ドストエフスキーは夫人に淡い恋情を抱いて,しげしげとサロンに通ったが,社交なれしない不器用な人柄がわざわいして,社交界での評判は芳しくなかった。
 だが処女作の成功にひきかえ,『分身』(46,解説後出),『プロハルチン氏』Господин Прохарчин(46),『主婦』Хозяйка(47)など,続いて発表された作品の評判はあまり芳しくなく,ベリンスキーもそこに異常心理への病的な関心とリアリズムからの逸脱を見て,作者を手厳しく非難した。しかしこの時期の作品も,処女作からの単なる後退ではなく,後期の作品で発展させられる彼独自のテーマ,思想,方法意識などの原型を豊かに含んだものであった。内気なゴリャートキン氏と,その前に突如出現したシニカルなそっくりさん新ゴリャートキン氏の葛藤(かつとう)を,独特の文体模倣の手法で描き出した『分身』は,後期の作品に見られる人格の心理的分裂のテーマを先取りしたものだし,『プロハルチン氏』にも,ナポレオン的,ロスチャイルド的強者思想の萌芽(ほうが)がうかがえる。『主婦』の呪術(じゆじゆつ)師ムーリンの悪魔的超人性は,『虐げられた人々』(61,解説後出)のワルコフスキー公爵,『悪霊』(71−72,解説後出)のスタヴローギンらの原型となっており,『ポルズンコフ』Ползунков(48)には,後年のドストエフスキー文学で重要な要素となる道化の問題への最初の接近が見てとれる。『九つの手紙から成る小説』Роман в девяти письмах(47),『他人の妻と寝台の下の夫』Чужая жена и муж под кроватью(48),『クリスマス・パーティーと結婚式』Елка и свадьба(48),『正直な泥棒』Честный вор(48)のような小品にも,病的な人間心理への深い透徹と,社会的な弱者,とりわけ子供への強い同情を読み取ることができる。特に『弱い心』Слабое сердце(48)は,他者への気遣いと恐怖から自分を見失って破滅する〈弱い心〉の悲劇を描いた傑作である。これに加えて,処女作以来顕著に現れていたパロディー精神,文体への強烈なこだわり,フォークロアへの関心が,すでに後年のドストエフスキー文学を予感させている。
 このころからドストエフスキーは空想的社会主義の思想への関心を見せ始める。愛すべき佳品『白夜』Белые ночи(48)で,偶然知り合った可憐(かれん)な乙女の恋人との邂逅(かいこう)をわきから見守る,いわゆる〈空想家〉のタイプを創造し,『ネートチカ・ネズワーノワ』Неточка Незванова(49,未完)では,不遇な音楽家の執念,女主人公をめぐるレスビアン的関係など,人間の情熱の深淵(しんえん)を探り,小品『小英雄』Маленький герой(57)では年上の女性への少年期の初恋体験を生々しく綴るなど,作品面には反映していないが,彼はベリンスキーが死去した48年ごろから,フーリエの思想を奉ずるペトラシェフスキーのサークルに接近していった。このサークルは一種の談話会で,直接に革命的行動を目指したものではなかったが,ドストエフスキーはここで急進的なグループに近く,印刷機の保管など実際的活動にも参加していたらしい。この時期のいわば革命体験は,生涯にわたって彼の創作に大きな痕跡(こんせき)を残すことになる。49年春,彼はサークルにもぐりこんだスパイの密告で,ほかのサークル員と共に逮捕される(ペトラシェフスキー事件)。ゴーゴリに宛てたベリンスキーの有名な書簡を朗読した,というのが直接の罪状であった。ドストエフスキーらは,ペテルブルグのペトロパヴロフスク要塞(ようさい)内の陰惨な石牢(いしろう)アレクセーエフ半月堡(ほ)に収容され,苛酷な取り調べを受けたが,ドストエフスキーはこの取り調べで不屈の態度を見せ,当局の追及に対してしぶといばかりの抵抗を見せたらしい。しかし当局は彼らに残酷な死刑執行の芝居を仕組んでみせた。死刑の判決を受け,銃殺される直前に,皇帝の特赦と称して,初めて実際の判決が示されたのである。ドストエフスキーは4年の懲役,その後兵卒勤務であった。しかし,死と間近に対決させられたこの時の恐怖の体験は,のちに長編『白痴』(68,解説後出)の主人公ムイシキン公爵の口から生々しく語られるように,生涯消えない傷痕(きずあと)を彼の心に印(しる)した。持病の癲癇(てんかん)もこの前後から急激に悪化する。
 ドストエフスキーは約1カ月かかって,シベリアのオムスクの監獄に到着した。途中トボリスクでは,同地にいたデカブリストの妻たちから,1823年版のロシア語訳聖書を贈られた。この聖書はその後生涯を通じて愛蔵され,死の時にもこの聖書で聖書占いを行ったと伝えられる。シベリアでの獄中生活については,体験録風の小説『死の家の記録』Записки из Мертвого дома(60−62)に詳しい。小説そのものは,妻を殺してシベリアに送られたゴリャンチコフという架空の人物の手記ということになっているが,作者自身の体験を綴ったものであることは疑いがない。ツルゲーネフをして〈ダンテ的〉と評させた監獄の風呂場の場面をはじめ,この小説は帝政時代の監獄の実情をつぶさに伝え,またさまざまな囚人のタイプをリアルに描き出しており,のちの彼の小説に登場する人物たちの原型ともなっている。また獄中で彼が記憶した囚人たちの独特の言葉遣いやフォークロアは,出獄後,『シベリア・ノート』Сибирская тетрадь(1934,36没後発表)の形にまとめられて,これまたその後の作品で広範に利用されている。
 しかしシベリアの獄中では,ドストエフスキー自身の考え方にも微妙な変化が起きたことを否定できない。彼にとって最大の衝撃であったのは,一般囚人に代表されるロシアの民衆が,知識人政治犯を〈旦那衆(だんなしゆう)〉とみなし,彼らに憎悪と敵意をさえ抱いていたことだった。自分たちは本来の民衆からあまりにも遊離していたのではないか——この発見と内省が,かつての空想的な革命家を忍従の思想の説教者に,西欧派的思想家をスラヴ的神秘主義者,ロシア正教の徒に変えていく。苛酷なここの条件のもとで彼の内部に価値の転換が,いわゆる〈信念の更生〉と呼ばれるものが起こったのである。
 1854年2月,ドストエフスキーはオムスク監獄を出獄,セミパラチンスクへ護送されて,シベリア独立軍団部隊に配属される。1年半ほどは一兵卒として勤務し,その後下士官に昇進するが,この間,かつて彼の作品の愛読者であったヴランゲリが州検事として赴任し,2人の間に友情が芽生える。ヴランゲリはドストエフスキーに同情して,さまざまな便宜をはかってやった。このころ,『ニコライ1世陛下の崩御を悼む』На смерть Николая I,『アレクサンドラ皇太后陛下の誕生日に寄せて』На день рождения имп. Александры Федоровныなど,改悛(かいしゆん)の情を表明するための詩をいくつか書き,またトトレーベンに宛てて恩赦の嘆願書を書き,「人間も思想も変わるものです」と,本心とは少し違う告白を行う。また55年ごろから,税務官吏イサーエフの家に頻繁に出入りし,その夫人マリヤ・イサーエワに恋情を募らせる。その年8月,クズネツクに移っていたイサーエフが死去し,57年2月,ドストエフスキーはマリヤ・イサーエワと結婚する。このころ,ドストエフスキーには世襲貴族権が復権され,また少尉補にも任官されて,作品執筆の余裕ももてるようになる。
 この地で書かれたのは,中編『伯父様の夢』Дядюшкин сон(59)と長編『ステパンチコヴォ村とその住人』Село Степанчиково и его обитатели(59)だが,この2作は,ドストエフスキーの作品系列ではいくぶん例外的現象となっている。「モルダソフ年代記」の副題をもつ『伯父様の夢』は,北方の町モルダソフを舞台にぼけた大金持ちの老公爵を結婚させようとする陰謀が失敗する物語で,どちらかというと不器用な喜劇仕立てといった趣向である。『ステパンチコヴォ村とその住人』も喜劇仕立ての作品だが,善人そのもののような地主ロスターネフ大佐と,その食客でありながら,やがて一家で専制的な役割を演ずるようになる偽善者フォマ・オピスキンの2つの性格を創造しえた点で,独自の意義をもつ。特にモリエールのタルチュフを深化させたようなフォマの人物像は長い文学的生命を保つことになった。
 1859年7月,ドストエフスキーは中央への帰還を許され,一時トヴェーリに居住したのち,同年末,ほとんど10年ぶりに首都ペテルブルグの土を踏むことができた。
 首都に帰ったドストエフスキーは,61年の農奴解放令を前に高揚した社会的空気の中で,兄ミハイルと共に雑誌発行の準備を進め,61年1月,雑誌「ヴレーミャ」の発刊にこぎつける。同誌はグリゴーリエフストラーホフらの寄稿者を集め,〈土壌主義〉を編集方針に掲げて,当時のジャーナリズムの一中心となった。〈土壌主義〉とは,民衆という〈土壌〉から遊離してしまった貴族,知識人を民衆に近づけることによってのみ,人類の幸福もロシアの救いも見いだされるという立場で,ロシアは西欧のような革命の動乱と非人間的な資本主義を通じてでなく,君主制と正教教会のもとにロシア独自の発展の途(みち)を進むべきであると説いて,ロシア・メシアニズム的思想を鼓吹した。ドストエフスキー自身,この立場にたって,雑誌に次々と論文を発表し,『〓〓ボフ氏と芸術の問題』Г-н—бов и вопрос об искусстве(61)では,ニコライ・ドブロリューボフの芸術観を〈功利主義〉と断じ,続いて『「呼び子」と「ロシア通報」』《Свисток》и《Русский вестник》(61),『「ロシア通報」への答え』Ответ《Русскому вестнику》(61),『書物と読み書きの能力』Книжность и грамотность(61),『純粋さの見本』Образцы чистосердечия(61),『「ロシア通報」の哀歌的記事について』По поводу элегической заметки《Русского вестника》(61),『理論家の二つの陣営』Два лагеря теоретиков(62),『スラヴ派,モンテネグロ人および西欧派』Славянофилы, черногорцы и западники, самая последняя перепалка(62)などの論文を精力的に執筆して,カトコーフ「ロシア通報」,ネクラーソフの「同時代人」などに激しい論争を挑んだ。そのほか同誌には『ペテルブルグ年代記』Петербургская летопись(47)の14年後に書かれた随想『詩と散文で綴るペテルブルグの夢』,ゴーゴリのパロディーと見られる中編『いまわしい話』Скверный анекдот(62)などが発表されたほか,63年2,3月号には,62年夏のドストエフスキーの最初の西欧旅行の印象を綴った『冬に記す夏の印象』Зимние заметки о летних впечатленияхが掲載された。ロンドンの万国博覧会をはじめ,じかに見た西欧ブルジョワ文明に対して,ドストエフスキーは概して否定的であり,万国博で目にしたガラス製の宮殿〈水晶宮〉はのちに『地下室の手記』(64,解説後出)で揶揄(やゆ)の対象となる。この旅行の途次,ロンドンでゲルツェンとも会見したが,印象記にはゲルツェンに対する論争的調子も聞かれる。
「ヴレーミャ」にはまた,前期の仕事の総決算ともいうべき長編『虐げられた人々』とシベリアの獄中体験に基づくユニークな長編『死の家の記録』も連載された。この2作によってドストエフスキーは10年の空白をおいて文壇への返り咲きを確実にする。
 この間,61年の「ヴレーミャ」誌に短編を寄稿したのが縁で知り合った女子学生アポリナリヤ・スースロワと愛人関係になるが,63年夏,ドストエフスキーに飽きたスースロワが外国に出発したのを追って,パリへ赴く。同地でスースロワからスペイン人医学生サルバドールとの関係を打ち明けられ,〈兄妹〉のような間柄でという約束で,ドイツ,スイスを経て,彼女とイタリアへ旅する。この旅行中,ドストエフスキーは賭博(とばく)に熱中し,しばしば一文無しになるが,この時の体験はのちに中編『賭博者』Игрок(66)で生かされる。63年10月,スースロワと別れてモスクワに帰り,肺結核が高じて精神的にも変調を来たしていた病妻の看護に打ち込む。
「ヴレーミャ」誌は,63年4月,ポーランド問題を論じたストラーホフの論文『宿命的問題』を掲載したかどで発行禁止の処置を受けていたが,ようやく「エポーハ」と名を変えた新雑誌の発行許可がおり,ドストエフスキーは同誌の64年1号に発表するため,中編『地下室の手記』を,隣室に病妻のうめき声の聞こえる中で書き上げる。スースロワとの愛欲生活の思い出,病妻への自責の念が重なって,この中編の執筆環境は凄絶(せいぜつ)なものであったらしい。しかし,そういう状況の中で書かれたこの『地下室の手記』は,ドストエフスキー自身の文学観をも一転させるほどの迫力にあふれた傑作となり,ジッドをして,ドストエフスキーの後期の大作群を解く〈鍵〉とまで絶賛させることになった。
 1864年4月,妻のマリヤがモスクワで死去する。妻の遺体を前に書きとめられた4月16日付の日記「マーシャはテーブルの上に横たわっている。再びマーシャに会えるのだろうか?」は,続いてキリストのみがよくなしえた他者への愛の可能性,女犯(によぼん)も結婚も必要でなくなる人類の未来への考察を含み,その後のドストエフスキーの作品を理解するためにかけがえのない重要文献となっている。続いて7月,幼時から親友以上の存在であった兄ミハイルが死去し,作家は兄の遺族の世話を一人で続けねばならなくなり,「エポーハ」誌の事務などに忙殺される。この間,有名な数学者ソフィヤ・コワレフスカヤの姉であるアンナ・コルヴィン=クルコフスカヤを知り,彼女に結婚を申し込んで断られたりしている。なお65年3月には『鰐(わに),異常な出来事,またはアーケードでのアクシデント』Крокодил. Необыкновенное событие, или Пассаж в Пассажеが「エポーハ」誌に発表された。これは,人間を飲み込んでしまった見世物の鰐をめぐるファンタスティックな物語で,ドストエフスキーの純文学的ないたずらとでもいった作品であった。
 大作『罪と罰』は65年,ヴィースバーデンで着想された。賭博ですって一文無しになり,ホテルで食事も出してもらえぬ状況になり,「ロシア通報」誌の編集長カトコーフに宛てて前借300ルーブルの無心をした時,この長編の構想が売り込まれたのだった。「これは一つの犯罪の心理的報告書です」と始まるこの手紙には,すでにのちの長編の骨格が完璧に書かれており,カトコーフもただちに300ルーブルを送付している。もっとも,この時に構想されていたのは300枚程度の中編であったらしいが,やがて別に構想されていた長編「酔いどれたち」からマルメラードフ一家の悲劇が入り込んできて,いま見るような大長編となった。
『罪と罰』が「ロシア通報」誌に連載されていた66年末,悪徳出版業者ステロフスキーと交わした契約のために,ドストエフスキーは短期間に中編1本を仕上げなければならない羽目になり,急遽(きゆうきよ)速記者をやとって,中編『賭博(とばく)者』を一気に書き上げた。この口述が縁で,その時の速記者アンナ・スニートキナと翌年再婚することになる。彼女は才能豊かな主婦で,口述筆記で夫の仕事を手伝うかたわら,出版社との交渉,夫の著作の刊行なども手がけ,彼との間に4人の子を儲(もう)けた。2週間ほどしか生きなかった長女ソフィヤ,のちに〈エーメ〉の名で父親の回想録を出す次女リュボーフィ,長男のフョードル,3歳で死亡して作家に大きな悲しみをもたらし,『カラマーゾフの兄弟』にもその面影をたどることのできる次男のアレクセイである。彼女自身も夫との生活について『日記』と『回想』(1925)を残している。
 1867年2月に結婚式を挙げた45歳の作家とまだ20歳のアンナは,新婚早々,夫の激しい癲癇の発作に新妻が驚かされる一幕などを経て,4月には早くも西欧旅行に旅立った。債鬼の追及を逃れるためで,当初は秋ごろまでの予定だったが,この旅行は4年間にも長引いた。ドレースデン,バーデンを経て,8月にはジュネーヴに落ち着くことになるが,この間は,頻発する癲癇の発作と,どうにも収まらない作家の賭博癖のせいで,新婚旅行とはほど遠いものであったらしい。ただ各地の美術館で西欧絵画の傑作に親しむことができて,これはその後のドストエフスキーに強烈な印象を与えることになる。ドレースデンで見たラッファエッロとホルバインの「聖母」,ティツィアーノの「皇帝の金貨」,ロランの「アシスとガラテヤ」,レンブラントの諸作,バーゼルで見たホルバインの「死の舞踏」,とりわけ「キリストの遺骸(いがい)」などである。最後の作品について作家は妻に「こういう絵は信仰を奪いかねない」ともらしたと伝えられ,これはそのまま『白痴』の重要なモチーフとして利用されることになる。ジュネーヴではまたロシアから亡命してきたオガリョーフバクーニンらの革命家と付き合い,また8月末に開かれたガリバルディらの自由平和連盟国際会議にも顔を出したという。
 このころから長編『白痴』の稿が進み始め,これは68年の「ロシア通報」に連載された。その間スイスのヴヴェ,イタリアのミラーノ,フィレンツェなどを旅する。再びドレースデンに戻った69年には,「黎明(れいめい)」誌に中編『永遠の夫』(70,解説後出)の原稿を送っている。またこの時期には,長編「無神論」「大いなる罪人の生涯」などの創作プランが相ついで書かれ,ドストエフスキーの創作意欲の高揚を物語っている。この創作プランには,後年のドストエフスキーを悩ませていた根本的な問題——深刻な動揺ののちに,最後には「キリストを,ロシアの大地を,ロシアのキリストとロシアの神を獲得することになる」という思想がさまざまなバリエーションで語られており,プランそのものは独立した形でまとめられることにはならなかったが,その主要な要素は『悪霊』,『未成年』(75,解説後出),『カラマーゾフの兄弟』など後期の大作群でそれぞれに実現されることになった。
 1869年11月,革命家ネチャーエフが,秘密結社からの脱退を申し出た農業学校生イワーノフをリンチ殺人する事件があり,たまたまこの事件を知ったドストエフスキーは,それを材料に「たとえ政治的パンフレットになろうとも」という覚悟で新作『悪霊』の執筆にかかった。『悪霊』は71年1月から「ロシア通報」に連載されるが,その連載中の71年7月,ドストエフスキー夫妻は4年ぶりでペテルブルグに帰る。同年末,『悪霊』の重要なエピソードである「スタヴローギンの告白」の章が,「ロシア通報」編集部から「家庭的な雑誌にふさわしくない」と掲載を拒否され,それをめぐるごたごたのために『悪霊』は約1年間休載となり,結局この章を欠いたままで72年12月に完結する。
 同年末,保守派の有力者メシチェルスキー公爵の発行する雑誌「市民」に編集人として参加する話が本決まりとなり,ドストエフスキーは翌年から同誌に「作家の日記」の欄を受け持つことになる。この欄は極めて自由に利用され,文壇デビュー当時,ペトラシェフスキー時代の回想記あり,ネクラーソフの『ヴラース』やレスコフの『封印された天使』をめぐる随想あり,さらには,墓地の地下での亡者たちの対話を描いた実験的な小説『ボボーク』Бобок(73)ありと,そのジャンルも多様で,非常な好評を博した。このために「市民」の発行部数が3倍に伸びたという。これは74年1月,同誌の編集を辞退するまで続いた。
 1874年4月,ネクラーソフとの間で次作『未成年』を「祖国雑記」誌に掲載する話がまとまる。進歩派と目されていた同誌に保守派のドストエフスキーが作品を発表するのは,文学史的な事件であった。6月,ドストエフスキーはドイツの保養地エムスに赴き,7月に帰国後はペテルブルグ南方のスターラヤ・ルッサにこもって『未成年』の創作に打ち込んだ。この長編は約束どおり75年1月から「祖国雑記」誌に掲載される。この進歩派との〈協力〉が一因をなして,多年友情で結ばれていたアポロン・マイコフ,ストラーホフとの間がこじれる。
 1876年からドストエフスキーは,月刊で個人雑誌形式の単行本『作家の日記』Дневник писателя(76−77,80−81)の刊行に踏み切る。これは「市民」誌の「作家の日記」欄よりもさらに自由な形式の文集であり,ドストエフスキー個人の人気も手伝って,当初2000部で出発したものが,数カ月後には早くも6000部に達したという。時事問題に敏感に反応し,ロシア政府の対外政策,ビスマルクのドイツを論ずるかと思えば,バルカンの動乱に関連してスラヴ同胞のためにロシアが立ち上がるべきだと論陣を張り,トルストイの『アンナ・カレーニナ』を本格的に論評し,ロシアの国民性とロシア民衆について深遠な考察を披露するいっぽう,裁判事件,市井の出来事にも目くばりを怠らず,その間には『キリストの樅の木(ヨールカ)に召された少年』Мальчик у Христа на елке(76),『百姓マレイ』,『百歳の老婆』Столетняя(76)などの小品をちりばめ,また『柔和な女』Кроткая(76),『おかしな男の夢』Сон смешного человека(77)といった本格的な中編も同誌に発表された。『柔和な女』は,両手に聖像を抱いて飛び降り自殺を遂げたモスクワのお針子ボリーソワの死に想を得た作品で,この事件をまず「これまでの自殺にはない,何やら柔和な,謙虚な自殺である」と評論的に取り上げ,翌月号にはこの事件にヒントを得た中編小説を発表した。これは中年の質屋の若い嫁を主人公に,彼女が質屋への反発を感じ,不倫を犯したり,ついには質屋にピストルを擬する緊迫した関係を語りながら最後には彼女が聖像を抱えて窓から飛び降り自殺するまでを,彼女の遺体を前にした質屋の手記の形で,いわば〈意識の流れ〉とでもいった手法で突き詰めた密度の高い作品で,〈他者の意識〉という重い主題を扱って成功した珍しい佳編である。それに対して『おかしな男の夢』は,SF仕立てのユニークな作品で,他の星に存在する原初の人類のユートピアが罪ある人間によって堕落させられる顚末(てんまつ)を語りながら,人類の見果てぬ夢としての地上の王国への懐疑と渇望を描いている。
 最後の大作『カラマーゾフの兄弟』の執筆に没頭するため,78年初め,『作家の日記』は休刊となる。しかしこの時期にもドストエフスキーの創作意欲をかきたてるような事件はあとを絶たなかった。78年3月には,ペテルブルグ市長トレーポフを狙撃(そげき)した革命家ヴェーラ・ザスーリチに対する裁判を傍聴し,被告に対する無罪判決に大きな衝撃を受けた。79年夏には,〈人民の意志〉派が皇帝アレクサンドル2世に対して死刑の宣告を下し,以後皇帝暗殺未遂事件が頻発することになる。事実,皇帝はドストエフスキーの死後1カ月の81年3月1日に,〈人民の意志〉派のグリネヴィツキーによって暗殺されることになる。『カラマーゾフの兄弟』の続編の構想をそのまま実現したような事件であった。
『カラマーゾフの兄弟』は79年1月から「ロシア通報」に連載が開始され,80年11月まで掲載された。この間,春から秋にかけてはスターラヤ・ルッサで過ごしており,この町が『カラマーゾフの兄弟』の舞台の原型となっているともいわれる。少しさかのぼるが,ドストエフスキーは77年夏に久しぶりでトゥーラ県のかつての領地を訪れ,ダーロヴォエ村,チェレモシナ村を訪ねた。また78年夏には,若い哲学者ウラジーミル・ソロヴィヨフと共にカルーガのオプチナ修道院を訪れ,アンヴローシー長老と面会した。これらの事件は『カラマーゾフの兄弟』の創作に大きな影響を与えている。79年夏には再びエムスを訪れている。
 1880年6月,モスクワのプーシキン像除幕式を機に記念講演会が催され,ドストエフスキーはここで『プーシキンについて』Пушкинの有名な講演を行った。プーシキンを〈世界的な現象〉であると断じ,〈ロシアの国民的受難者〉プーシキンを国民的正義によって復権させるべきであると論じて,『ジプシー』のアレコや『エヴゲーニー・オネーギン』のタチヤーナにロシア文学が創造した最も重要な,最も美しい人間像を見てとったこの講演は,聴衆に圧倒的な感銘を与え,出席していたツルゲーネフは感動のあまりドストエフスキーを固く抱擁した。この講演は,多年対立していた西欧派とスラヴ派を和解させたものとしても評価される。
 この講演は,再刊された『作家の日記』の80年8月特別号に掲載された。『作家の日記』は81年1月,2月,3月号まで出るが,すでにこの時にはドストエフスキーは世を去っていた。
 1881年1月26日(西暦2月7日)夜,ドストエフスキーはペテルブルグのクズネチヌイ横町にあった自宅で喀血(かつけつ)する。その後も喀血が続き,1月28日(西暦2月9日)午前7時,妻のアンナに聖書占いをしたいと告げた。トボリスクでデカブリストの妻たちからもらった聖書が開かれた。マタイ福音書3章のイエスの言葉「いまはとどむるなかれ」が出てきた。死期を悟ったドストエフスキーは,その夜の8時38分に永眠した。死因は肺気腫(きしゆ)にともなう肺動脈の破裂であった。遺体はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院の墓地に葬られた。
 ドストエフスキーが本国だけでなく,その後の世界文学に与えた影響ははかり知れないほど大きい。ニーチェから実存主義に至る思想の系譜は彼の存在を抜きにしては考えられないだろう。そのほかにも,シュテファン・ツヴァイクカフカ,ジッド,プルーストカミュワイルド,トーマス・マン,ハインリヒ・ベルドライサー,S.アンダーソンら,個々の作家に与えた影響も無視できないものがあり,ロシアでは,アンドレーエフガルシン,ソヴィエト時代のレオーノフらに直接的な影響が指摘される。
 ドストエフスキーについては,すでに存命中からベリンスキーの諸論文をはじめ,『虐げられた人々』を論じたドブロリューボフの『うちのめされた人々』,『罪と罰』解釈に新しい視点を持ち込んだピーサレフの『生活のための闘い』,ミハイロフスキーの『非情なる才能』など多様な評価が目立ったが,1900年前後のロシアで,哲学者ソロヴィヨフのドストエフスキー観を受け継ぐ形で,この評価には大きな転換が見られた。このころ,ローザノフの『ドストエフスキーと大審問官伝説』,メレシコフスキーの『トルストイとドストエフスキー』,ヴォルインスキーの『カラマーゾフの王国』『偉大なる憤怒(ふんぬ)の書』,シェストフの『ドストエフスキーとニーチェ——悲劇の哲学』,少し遅れてはベルジャーエフの『ドストエフスキーの世界観』などが出て,人間を霊的に,悲劇的に捉えようとしたドストエフスキーの独自な思想,哲学に注目しようとする新しい傾向が確立した。この傾向はその後も長く影響を保つことになる。これに対してマルクス主義批評の側からは,ドストエフスキーの思想の反動的な側面を強調しようとする動きが目立ち,ゴーリキーの『カラマーゾフ主義について』などが現れた。この動きは,作家の創作に初めて社会学的な分析を試みたペレヴェールゼフの『ドストエフスキーの創作』などを経て,スターリン死後に出たエルミーロフの『ドストエフスキー』あたりにまで継承される。
 しかしソヴィエト時代にもドストエフスキー研究はそれなりに深められた。まず挙げなければならないのは,レオニード・グロスマン(『ドストエフスキーの詩学』,ドストエフスキーの本格的な年譜である『ドストエフスキー,生涯と創作』),ドリーニン(『書簡集』『後期長編の研究』),文体論研究に成果を上げたヴィノグラードフらの仕事で,ほかにコマローヴィチ(『ドストエフスキーの青春』『ドストエフスキーの〈世界調和〉』『カラマーゾフの兄弟の原型』),ベーリチコフ(『ペトラシェフスキー裁判におけるドストエフスキー』),ベーム(『ドストエフスキーの創作の源泉にて』)などの活躍が目立った。しかしこれらの中で,ドストエフスキー理解に革命的な役割を果たしたのは,トゥイニャーノフの『ゴーゴリとドストエフスキー——パロディーの理論のために』,とりわけバフチンの『ドストエフスキーの創作の諸問題』だろう。この書はドストエフスキーの文学の本質を〈モノローグ〉の文学に対立する〈ポリフォニー〉の文学と規定し,メニッペア劇,ソクラテスの流れをくむ対話の文学として位置づけた。またカーニバルの概念を大胆に適用して,ドストエフスキーの解釈に全く新しい地平を開いた。このバフチンの視点はルナチャルスキーの論文『ドストエフスキーの〈多声性〉について』で正当に支持され,その後の発展が期待されたが,折あしくソ連はスターリン個人崇拝の時期に入り,ドストエフスキー研究はほとんど禁圧された。
 スターリン時代の約25年間には,作品の再版そのものもほとんど途絶え,研究書も1939年にゲオールギー・チュルコーフの『ドストエフスキーはいかに仕事したか』,47年にキルポーチンの『若きドストエフスキー』の2冊が出たにすぎなかった。スターリン死後の56年以降,まず10巻選集が刊行され,さらに72年からは,異本を網羅し,詳細な注解をほどこした全30巻の全集が出て,ドストエフスキー研究はようやく科学的な基礎をもつことになった。研究書の刊行も未曾有(みぞう)の活況を呈し,バフチンの著作が63年に増補再刊されたほか,シクロフスキーの『肯定と否定——ドストエフスキー論』,グロスマンの評伝『ドストエフスキー』,カリャーキンのユニークな著作『ラスコーリニコフの自己欺瞞(ぎまん)』,セルゲイ・ベローフの『〈罪と罰〉注釈』,フリードレンデルの『ドストエフスキーと世界文学』,ほかにキルポーチン,セレズニョーフ,詩人のセルゲイ・ソロヴィヨフ,チルコーフ,ヴェトローフスカヤらの著作が出ている。さらに72年には雑誌「ヴレーミャ」と「エポーハ」についてのネチャーエワの研究,75年にはドストエフスキーの作中人物名を研究したアーリトマンの著作なども刊行された。
 ドストエフスキー研究は海外でも盛んで,ツヴァイクの『三人の巨匠』,フロイトの『ドストエフスキーと父親殺し』,ジッドの『ドストエフスキー』などすでに古典となったもののほか,モチュリスキーの本格的評伝『ドストエフスキー・生涯と作品』,J. M.マリーの『ドストエフスキー』,E. H.カーの『ドストエフスキー』,トゥルナイゼンの『ドストエフスキー』,西ドイツに亡命したマイエルのユニークな『罪と罰』論『夜の中の光』などが知られ,また最近はイギリスの研究家ピース,アメリカのテラス,フランク,フランスのパスカル,カトーらの著作が出色である。
 日本では米川正夫,小沼(こぬま)文彦による個人訳全集がそれぞれ刊行されているほか,1892,93(明治25,26)年の内田魯庵(ろあん)による『罪と罰』の本邦初訳以来,幾多の訳者による翻訳が出ている。評伝も1914年の瀬戸義直,15年の新城和一(わいち),21年の谷崎精二,36年の中山省三郎(せいざぶろう)のものに続いて,39年には小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』が出て,日本的なドストエフスキー理解の基礎が置かれた。この間36年には木寺黎二(きでられいじ)の『ドストエフスキイ文献考』も出ている。その後も池島重信,阿部六郎,河上徹太郎,唐木(からき)順三,西谷(にしたに)啓治,森有正(ありまさ)ら,主として哲学者グループによるドストエフスキー読解の作業が続き,米川正夫,昇曙夢(のぼりしよむ),中村白葉,中村融(とおる)らロシア文学畑の人々による研究がこれを補完していたが,1950年代中期以降,埴谷雄高(はにやゆたか),椎名麟三(しいなりんぞう),秋山駿(しゆん),日野啓三,寺田透,桶谷(おけたに)秀昭,加賀乙彦ら,文芸畑の人々による発言が活発になり,その多くの人によって独自のドストエフスキー論も書かれた。これと並行して,新谷(あらや)敬三郎,内村剛介,原卓也,江川卓,中村健之介ら,ロシア文学専門家の研究も深められた。そのほか,太宰治,野間宏,武田泰淳,小島信夫,後藤明生,大江健三郎ら戦後文学の担い手たちにドストエフスキーの文学が与えた影響の大きさははかり知れないものがある。
(江川 卓)
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検索コンテンツ
1. ドストエフスキー
日本大百科全書
経て、小林秀雄ひでお、埴谷雄高はにやゆたからの独自なドストエフスキー観も生み出された。戦後は、いわゆる第一次戦後派の文学がドストエフスキーの大きな影を負っている
2. ドストエフスキー(Fyodor Mikhailovich Dostoevskii)
世界大百科事典
しかし,長く続いたこのドストエフスキー観も,1970年ころから変化を見せ,ドストエフスキー文学がさまざまな新しい知的方法論の実験材料として利用される動きが出てき
3. ドストエフスキー
日本国語大辞典
(Fjodor Mihailovic〓 Dostojevskij フョードル=ミハイロビチ─)ロシアの小説家。トルストイとともに一
4. ドストエフスキー(Dostoevsky, Fyodor Mikhailovich
世界人名大辞典
郎,高橋和巳,加賀乙彦,中上健次,村上春樹,三田誠広にも影響を与えている.バフチーンの《ドストエフスキーの詩学の諸問題, 1963》はポリフォニー小説論,メタ言
5. ドストエフスキー フョードル・ミハイロヴィチ
世界文学大事典
ィヨフのドストエフスキー観を受け継ぐ形で,この評価には大きな転換が見られた。このころ,ローザノフの『ドストエフスキーと大審問官伝説』,メレシコフスキーの『トルス
6. ドストエフスキー ミハイル・ミハイロヴィチ
世界文学大事典
ロシアの作家。フョードル・ドストエフスキーの兄。2人の兄弟愛はミハイル宛の多数の手紙で確かめられる。1849年のペトラシェフスキー事件に連座するが,直ちに釈放さ
7. ドストエフスキー(年譜)
日本大百科全書
182110月30日モスクワのマリヤ貧民救済病院医師の次男として生まれる1837母死す。プーシキン没1838ペテルブルグの工兵士官学校入学、文学作品を耽読183
8. ドストエフスキーする[新語流行語]
情報・知識 imidas
トランプで賭事に興じること。「セブン‐イレブン」のCMから。ドストエフスキーが、小説『賭博者』からもうかがわれるように、病的な賭事好きであったのは有名。彼の作
9. 『ドストエフスキーと大審問官伝説』
世界文学大事典
1−83)とともにドストエフスキーの評価史の転換点となった評論。ベリンスキー,ドブロリューボフからミハイロフスキーへと受け継がれた社会的,政治論的解釈に対し,ド
10. 『ドストエフスキーと悲劇的小説』
世界文学大事典
る」。ドストエフスキーの創作の基本的性格として近代的な唯我論への批判を見るイワーノフの視点はプンピャンスキーの『ドストエフスキーと古代文明』(1922)を経てバ
11. 日本近代文學とドストエフスキー
日本近代文学大事典
自覚が生れ、その表現の方法が求められ、ドストエフスキーの文学がはじめて創作意識にのぼった(昭和)。  明治期。日本で最初に翻訳紹介されたドストエフスキーの小説は
12. 特集 ロシアと宗教 『罪と罰』のラスコーリニコフにドストエフスキーが込めた宗教観=桑子かつ代
週刊エコノミスト 2021-22
の長編小説ではない。ロシアの歴史に大きな影響を与えた宗教異端派の物語だ。  ロシアの文豪ドストエフスキーの『罪と罰』は世界各国で翻訳され、日本でも幅広く読まれて
13. 二十世紀フランス小説 12ページ
文庫クセジュ
ロシアやイギリスの小説を賞賛することは、だからフランスの作品をきびしく批判することにつながってくる。ドストエフスキーやトルストイは、これまでにない法則に従う世界
14. 二十世紀フランス小説 54ページ
文庫クセジュ
、人間を引き裂く葛藤を感じ取ることができる。こうした特徴を通じてベルナノスは、いみじくもドストエフスキーに比肩しうると言われたことがあったほどの心理洞察に達して
15. 二十世紀フランス小説 68ページ
文庫クセジュ
介の教師にすぎず、風刺のきいた茶番劇の、主人公らしからぬ主人公でしかありえないのだ。彼はドストエフスキーの小説に出てくるような人物で、実らぬ恋に恨みをいだき、ニ
16. 二十世紀フランス小説 69ページ
文庫クセジュ
注ぐことでプロレタリア小説のモチーフを引き継ぐセリーヌは、インタビューで、はばかることなく自分をラブレーやドストエフスキーに引きくらべながらも、自分は民衆作家な
17. 二十世紀フランス小説 110ページ
文庫クセジュ
覚えるが、たちまち自分が嘲笑と蔑視を引きおこしていることに気がつく。主人公の探求の旅は、ドストエフスキーを思わせる一連の屈辱的体験を経たすえに、奇妙な啓示の瞬間
18. 二十世紀フランス小説 192ページ
文庫クセジュ
ドストエフスキー(フョードル) Fedor Dostoïevski (1821-1881) 14, 15, 49, 60, 61, 95 ドス・パソス(ジョン)
19. 愛書趣味 79ページ
文庫クセジュ
・アレクセイエフ。ドストエフスキー作『カラマーゾフの兄弟』(プレイアッド、三巻、四折判、石版画百枚あり) ・アレクセイエフ。『ファルグ詩集』(一九四三年、新フラ
20. 愛書趣味 206ページ
文庫クセジュ
Pierre 138 ドジソン DODGSON, Charles Lutwidge 134 ドストエフスキー DOSTOΪEVSKY, Fidor Mikhaï
21. 赤岩 栄
日本近代文学大事典
『永遠者の探求』(昭23)『イエス伝』(昭25)『キリスト教脱出記』(昭39)など多数の著書をもつ。ドストエフスキーを通して椎名麟三と知りあい、椎名に洗礼を授く
22. アカーキー・アカーキエヴィチ(Akaky Akakievich Bashmachkin
世界人名大辞典
奪われ,警察や役所の長官に直訴するが相手にしてもらえず,狂死する.やがて幽霊になって長官の外套を奪う.ドストエフスキーはフランスの外交官E.M.ヴォギュエに「わ
23. 秋山 駿
日本近代文学大事典
生殺し事件を考察した『想像する自由』、のちに改題して『内部の人間の犯罪』を発表、つづいてドストエフスキー『白痴』に登場する少年に題材を求めた『イツポリートの告白
24. 悪魔の文化史 159ページ
文庫クセジュ
(1)いかにして悪魔を最終的に追い払うか。(2)いかにして人間に原初の無垢を回復せしめるか。また、ドストエフスキーにおいては、悪魔自身がわざわざ登場してくる。悪
25. あく‐りょう[‥リャウ]【悪霊】
日本国語大辞典
(みづち)の悪霊(アクレウ)を圧鎮(おししづむ)」【二】(原題 {ロシア}Bjesy )長編小説。ドストエフスキー作。一八七一~七二年に発表。いわゆる「ネチャー
26. 『悪霊』
世界文学大事典
タヴローギンについては,別に「スタヴローギンの告白」の章も残っていて,善悪を超越した最もドストエフスキー的な人物像として有名である。日本での赤軍派リンチ事件の時
27. 悪霊(ドストエフスキーの小説)
日本大百科全書
ロシアの作家ドストエフスキーの長編小説。1871~1872年に『ロシア報知』に発表。聖書に、悪霊(悪鬼)に憑つかれておぼれ死ぬ豚の群れの記述があるが、この作品は
28. 「アテネイ」
世界文学大事典
1924~26年にレニングラード(現ペテルブルグ)で刊行。プーシキン,グリボエードフ,レールモントフ,ドストエフスキーらに関する論文を掲載。エイヘンバウム,トマ
29. アドニアス・フィリョ
世界文学大事典
の粗野な人々の悲劇を内省的,形而上学的に描いている。悪夢のような血なまぐさい暴力の世界はドストエフスキーやフォークナーの作品と比較される。代表作『死の従僕』Os
30. アドニアス・フィーリョ
日本大百科全書
。省略の多い、詩的な強さを備えた文体と、悪夢のような血なまぐさい暴力的な雰囲気はしばしばドストエフスキーやフォークナーと比較される。国立図書館長、国立出版研究所
31. アナーキズム
世界文学大事典
動としてはマルクスのコミュニズムに敗北,そこから破壊的なテロ行為に走る活動家が続出した。ドストエフスキーの『悪霊』にはこうしたアナーキストの姿が描かれている。
32. アナーキズム 143ページ
文庫クセジュ
ヴェリズムは、多くの革命家たちに衝撃をあたえた。一〇年間の獄中生活ののち、壊血病で獄死。ドストエフスキーの『悪霊』のモデルとなったことは、よく知られている。  
33. アナーキズム 144ページ
文庫クセジュ
治によってもたらされる暗くよどんだ抑圧的雰囲気、そして同時代の目撃者であり当事者であったドストエフスキーがえがく『悪霊』、その鏡にてらしてみればたやすく想像でき
34. アヴァクーム ペトローヴィチ
世界文学大事典
に基づく力強い筆致と,人間性豊かな内容はこの作品を中世ロシア文学の傑作の一つとしており,ドストエフスキーをはじめ近代ロシアの作家たちにも深い影響を与えた。
35. 阿部和重
日本大百科全書
後藤明生めいせい、三木卓たく(欠席)、李恢成りかいせい/イフェソン。当時の選評としては、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』と比したうえで「たいへん力量のある
36. 安部 公房
日本近代文学大事典
奉天の両親のもとで療養する。一七年の春に復学したが、かつてE=A=ポーに感動した中学生、ドストエフスキーに熱中した休学者は、今や軍事教練を嫌ってニーチェ、ハイデ
37. 阿部 六郎
日本近代文学大事典
壮文社)『虚無と実存』(昭23・11 新潮社)『ドストエフスキー』(昭24・2 新潮社)などがある。これらはニーチェ、リルケ、ドストエフスキーなどについて、思弁
38. アムヴローシー(オプチナ修道院の)Amvrosy
世界人名大辞典
導を務めた.この時代にオプチナ修道院の名声と影響力は最盛期を迎え,帝政ロシア晩期の知識人ドストエフスキー,V.S.ソロヴィヨフ,L.N.トルストイ,K.N.レオ
39. 荒 正人
日本近代文学大事典
近代文学社)『赤い手帳』(昭24・3 河出書房)などの評論集に収録、刊行された。その間にドストエフスキーの読書会をもち、現代英米文学研究会を創始するなど、作家作
40. アリーン ラーシュ
世界文学大事典
mig(44)や小説『私の死は私のもの』Min död är min(45)にもみられる。ゴーリキーやドストエフスキーを思わせる語りのみごとさと,読者の積極的な
41. アルセリャーナ フランシスコ
世界文学大事典
通して,おぼろげに」は好評だった。その後,フィリピン大学で教鞭を執り80年に定年退官した。その文学理論にはドストエフスキーの影響が濃く,明哲な自己認識なくして的
42. アルツィバーシェフ(Mikhail Petrovich Artsybashev)
世界大百科事典
派の〈愛と死の神秘思想〉の影響を受けた典型的なモダニズムの作家であるが,他方トルストイやドストエフスキーの影響も強く(例えば小説《ランデの死》(1904)におけ
43. アルツイバーシェフ(Artsybashev, Mikhail Petrovich
世界人名大辞典
5]~1927.3.3〕 ロシアの作家,劇作家.ゴーゴリ,レールモントフ,L.N.トルストイ,ドストエフスキー,A.P.チェーホフの影響を受ける.19世紀末から
44. アルト ロベルト
世界文学大事典
ペイン素描』Aguafuertes españolas(36)として出版される。アルトはドストエフスキー,ゴーリキー,ニーチェに影響を受け,サルトル以前に実存主
45. アルベルタッツィ(Giorgio Albertazzi)
世界大百科事典
63年パリ諸国民演劇祭上演の《ハムレット》(F. ゼッフィレッリ演出)で国際的評価を得る。他にドストエフスキーの作品を多く脚色演出している。溝口 廸夫 Albe
46. アンチ=ユートピア
世界文学大事典
会〈クリスタル・パレス〉の主張はドストエフスキー『地下室の手記』(64)でパロディー化される。ユートピア文学のジャンル全体を批判したものとしてドストエフスキー
47. アントーノフ セルゲイ・ペトローヴィチ
世界文学大事典
リズムから逸脱したものとして,保守派から厳しく批判された。 その後評論に転じ,ゴーゴリやドストエフスキーを論じた『一人称で』От первого лица(73
48. アンドレエフスキー セルゲイ・アルカジエヴィチ
世界文学大事典
作風で人気を博した。批評家としてはレールモントフ,ツルゲーネフの一連の研究で知られ,またドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』についての論文(89)も名高い。
49. アンナ・カレーニナ
世界大百科事典
,同時代の批評家は,貴族社会を描いた当時流行の姦通小説という枠組みでしかみなかった。しかしドストエフスキーが指摘したように,思想性をもつすぐれた社会小説であり,
50. アンネンスキー(Annensky, Innokenty Fyodorovich
世界人名大辞典
摘を含む評論《反映の書:Книга отражений, 2巻, 1906,09》では,ドストエフスキーやゴーゴリ,同時代の詩人たちを論じた.
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