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シューベルト

ジャパンナレッジで閲覧できる『シューベルト』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

シューベルト
しゅーべると
Franz Peter Schubert
[1797―1828]

オーストリアの作曲家。歌曲をはじめ管弦楽曲、室内楽、ピアノ曲などに多くの優れた作品を残し、ドイツ・ロマン派初期を代表する。

[石多正男]

生涯

1月31日、教員で敬虔 (けいけん)なカトリック教徒の父フランツ・テオドールと、シュレージエン地方出身の母エリーザベトの間に、ウィーンに生まれた。幼くして父にバイオリンの手ほどきを受けたのち、リヒテンタール教区教会のオルガン奏者ホルツァーMichael Holzerに師事。ホルツァーはシューベルトの才能を「なにか新しいことを教えようとしても、この子はもうそれを知っている」と語った。1808年、採用試験に及第して帝室王立神学校の合唱隊員になった。ここではアントニオ・サリエリなど当時一流の作曲家の教えを受けると同時に、友人シュパウンJosef von Spaun(1788―1865)が組織した学生管弦楽団のバイオリン奏者、のちには指揮者を務めた。また、学校の休暇には父や兄たちと弦楽四重奏曲を楽しみ、多くの音楽体験を重ねた。13年神学校を去るまでに、すでにドイッチュ番号82(以下Dと略称)の交響曲第1番、弦楽四重奏曲、歌曲などを作曲している。家に帰ったシューベルトは師範学校に通ったのち、16年まで父の学校で教員を務めた。内気な性格のため教職に苦労したが、作曲の面では秀作を残した。この時期の代表作には、1814年リヒテンタール教会で作曲者の指揮のもとに演奏されたミサ曲ヘ長調(D105)、歌曲『糸を紡ぐグレートヒェン』(D118)、15年には歌曲『さすらい人の夜の歌Ⅰ』(D224)、『野ばら』(D257)、『魔王』(D328)などがある。シューベルトの作品に魅せられた友人たちが集まって、彼の音楽に親しむシューベルティアーデはこのころから行われるようになった。18年と24年の2回、シューベルトはヨーハン・エステルハージ伯爵家の音楽家庭教師として、ハンガリーのゼレチュに招かれた。その令嬢であるマリーとカロリーネを指導するためであったが、彼は後者に思いを寄せたといわれる。ハンガリー滞在を機に、連弾用ピアノ曲『ハンガリーのディベルティスマン』(D818・作品54)が作曲された。当時ウィーンの音楽界で輝かしい成功を収めるためには、オペラで成功することがもっとも近道であった。彼も死ぬまで再三にわたりオペラを書こうとしている。1816年友人のショーバーFranz von Schober(1796―1882)から当時の有名なオペラ歌手ヨーハン・フォーグルを紹介された。この歌手のためにシューベルトは19年ジングシュピール『双生子 (ふたご)』(D647)を作曲した。しかし、他の劇場作品と同様、これも数回公演されただけで忘れられてしまった。彼の名はむしろ21年に『魔王』が作品1として出版されたことにより、歌曲作曲家として知られていった。フォーグルはこの時期、シューベルトの歌曲を世に広めるうえで大きな貢献を果たした。有名な交響曲「未完成」(D759)は22年に作曲された。この交響曲は通常交響曲が4楽章であるのに対し、第2楽章までしか完成されていないためこの名がある。なぜ未完成に終わったかについては諸説あるが、近年では、22年末に発病した病気(おそらく梅毒)のためであろうといわれている。この病による頭痛は一生シューベルトを苦しめる結果になった。23年病苦のなかで作曲された歌曲集が、水車職人の悲しい物語『美しい水車屋の娘』(D795・作品25)である。24年のシューベルトの手紙の一節は当時の彼の心を浮き彫りにしてくれる。「僕はこの世でもっとも不幸な、もっとも哀れな人間だと思う。決して治ることのない病気をもった人間のことを考えてみてください。」
 彼を苦しめる病気が進む一方、彼の名声はしだいにオーストリア国外にも広がっていった。1825年にはベルリンで当時の有名な女性歌手アンナ・ミルダ・ハウプトマンが『魔王』を演奏、また、シューベルトはイギリスの作家スコットの『湖上の美人』からの詩に作曲した『エレンの歌』(D837~839・作品52。第3曲が有名な『アベ・マリア』)に英語の原詞を添えて出版した。彼は自分の名をイギリスにも広めたかったのであろう。死の前年の27年、第5曲に『菩提樹 (ぼだいじゅ)』を含む歌曲集『冬の旅』(D911・作品89)を作曲、死の年の3月には自作だけのコンサートを催し成功を収め、その後、交響曲「グレート」(D944)、弦楽五重奏曲(D956)、歌曲集『白鳥の歌』(D957)などの大作を完成させたが、28年11月19日、31歳10か月の若さで没した。その遺骸 (いがい)は、本人の希望により、ウィーンのウェーリング墓地のベートーベンの墓のそばに葬られた(両者の遺骸は1888年に中央墓地に移されたが、もとの二つの墓碑は現在シューベルト公園とよばれる旧ウェーリング墓地にある)。

[石多正男]

作品

シューベルトの作品は作品番号の与えられているものがきわめて少なく、それも作曲年代順と一致しないので、今日ではドイッチュOtto Erich Deutsch(1883―1965)が全作品を年代順に整理した通し番号、ドイッチュ番号(略称D)の使用(ないしは作品番号の併用)が一般になっている。ドイッチュの作品目録によると、シューベルトの全作品は998を数え、このうち歌曲は630曲余りある。これらによってシューベルトは、彼以前には民謡の域を出なかった歌曲を芸術歌曲にまで高めたのである。その旋律の流麗さ、和声の美しい移りゆき、伴奏ピアノの自律性などに高い評価が与えられている。このため彼はしばしば「歌曲の王」とよばれる。しかし、彼の才能はオペラ、ミサ曲、交響曲、室内楽、ピアノ曲などにも発揮されており、いずれも音楽史的に重要な位置を占めている。以下、各ジャンルの主要作品を概観する。括弧 (かっこ)内の作品に続く数字は作品の完成年である。

[石多正男]

教会音楽

ミサ曲は完成したものが6曲ある。第5番変イ長調(D678・1822)と第6番変ホ長調(D950・1828)が今日でもしばしば演奏される。小品ながら『ドイツ・ミサ曲』(D872・1827)も少年合唱団などの演奏により広く親しまれている。

[石多正男]

舞台作品

オペラが3曲、ジングシュピールが5曲、劇音楽『ロザムンデ』(D797・1823)のほかに、未完成のものが10曲もある。

[石多正男]

合唱・重唱曲

あまり知られていないが、シューベルトは声楽カノン、三重唱曲、四重唱曲のほか、規模の大きい二重合唱のための作品など、この楽種で総計100曲以上作曲している。作者の生前から愛好された作品に、男声四重唱曲『小さな村』(D598・作品11の1・1817)、『ゴンドラをこぐ人』(D809・作品28・1824)、男声八重唱と低音弦楽器のための『水上の精霊たちの歌』(D714・作品167・1821)、女声四重唱のための『詩篇23番』(D706・作品132・1820)などがある。

[石多正男]

交響曲

今日残された完成作は7曲であるが、未完に終わった第8番「未完成」(D759・1822)はあまりにも有名。1828年に完成されたハ長調交響曲(D944)は、シューマンが述べた「天国的な長さ」をもち、「グレート」ともよばれる。なおこの交響曲は、旧シューベルト全集では第7番とされたが、その後「未完成」よりもあとに作曲されたことを考慮して第9番、さらに近年では「未完成」を第7番、これを第8番とよぶようになっている。またこの交響曲は、紛失したと考えられていた『グムンデン・ガシュタイン交響曲』(D849)と同じ作品ではないかという説が近年出されている。

[石多正男]

室内楽

弦楽四重奏曲は今日残された完成作が13曲ある。これに未完成の2曲(D68とD703)を加えて第15番までの通し番号がつけられている。第13番イ短調「ロザムンデ」(D804・作品29・1824)と第14番ニ短調「死と乙女」(D810・1824)はともに緩徐楽章に変奏曲が用いられている。ピアノ五重奏曲「鱒 (ます)」(D667・作品114・1819)も第4楽章に自作のリート『鱒』を主題とした変奏曲を使っている。弦楽五重奏曲(D956・1828)はバイオリン(2)、ビオラ(1)、チェロ(2)の編成で、シューベルトの室内楽の最高傑作に数えられる。ほかに、ピアノ三重奏曲、旋律楽器とピアノのための作品がいくつかある。

[石多正男]

ピアノ曲

完成したソナタは13曲ある。そのほか、リート『さすらい人』(D493・作品4の1・1816)の主題を用いた幻想曲「さすらい人」(D760・作品15・1822)、二つの即興曲集(D899・作品90・1827、D935・作品142・1827)などがある。また、30曲を超えるさまざまの連弾曲はモーツァルトの作品とともに今日でも広く親しまれている。

[石多正男]

歌曲

「生涯」のなかで触れた作品以外にも佳作はきわめて多い。自然の美しさ、快さを歌ったものに『水の上で歌う』(D774・作品72・1823)、『春に』(D882・作品101の1・1826)、『セレナード(きけ、きけ、ひばり)』(D889・1826)、『緑の中での歌』(D917・作品115の1・1827)、音楽への感謝、音楽のすばらしさを歌ったものに『音楽に寄せて』(D547・作品88の4・1817)、『ミューズの子』(D764・作品92の1・1822)、恋心を歌った『君こそは憩い』(D776・作品59の3・1823)、世界の子守歌のなかでもっとも親しまれている『子守歌』(D498・作品98の2・1816)、ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』からの3曲の『ミニョン』(D321.1815、D726と727.1821)、3曲の『竪琴 (たてごと)弾き』(D478・作品12・1816・1822)などがある。

[石多正男]



世界大百科事典

シューベルト
Franz Schubert
1797-1828

オーストリアの作曲家。初等学校を経営するモラビア出身の父フランツと,母エリーザベトの第4子としてウィーン市外のリヒテンタールに生まれた。早くから楽才を示し,11歳で王室礼拝堂の少年聖歌隊員に採用され,国立神学校で音楽教育を受けた。彼はすでにこの時期にサリエリに才能を認められ,演奏と作曲に腕をふるった。16歳の変声と共に神学校を去り,教員養成課程に進み,父の学校の助手として働きながら作曲を続けた。17歳のときに《交響曲第1番》ニ長調を,そして《糸を紡ぐグレートヘン》を,さらに翌1814年,《野ばら》《魔王》《たゆみなき愛》等のリートの名作を作り,歌曲作曲家としての将来を決定づけた。友人の勧めでゲーテの詩によるリートをゲーテに送って無視されたのもこの時期である。彼はJ.vonシュパウンをはじめ,マイヤーホーファー,A.ヒュッテンブレンナー,クーペルウィーザー,J.M.フォーグルら,文学青年や音楽家の友人に恵まれ,安定した職のないままに,友人の家に寄寓したり,エステルハージ伯家の音楽家庭教師としてハンガリーに滞在したり,父の手伝いをしたり,かなり自由な生活をしながら作曲を続けた。特に歌手フォーグルの紹介でウィーンの上流家庭の社交集会で,詩の朗読等と共に自作のリートを紹介する機会を得て,名声を博した。その結果21年には《魔王》の予約出版が成功し,ウィーンとオーストリアで知名の音楽家となった。1820年ころには彼のまわりに多くの芸術家や愛好者が集まり,彼の新作を聞くための〈シューベルティアーデ〉ができた。22年にはシュタイアーマルクの音楽協会の名誉会員に推挙されたが,その返礼として《未完成交響曲》を作曲した。翌23年は特に実りの多い年で,リート《美しき水車小屋の娘》のほか,ロマンティック劇《ロザムンデ》,ピアノ独奏曲《楽興の時》等を作曲し,ピアノ曲や劇音楽にも新境地を開いた。シューベルト自身は,その数多いリート作曲にもかかわらず,ベートーベンを崇敬して,交響曲作家を志し,また初めからオペラの作曲に異常な情熱を燃やした。しかし,良い台本に恵まれなかったことと,彼の音楽の性質から,ついにオペラでは成功しなかった。24年には弦楽四重奏曲《死と少女》,26年には《ドイツ・ミサ曲》を,そして翌27年には作品90と142のピアノの《即興曲》,晩年のリートの傑作《冬の旅》やピアノ三重奏曲が生まれる。この年の3月26日にベートーベンが没し,シューベルトはその葬儀に参列している。28年1月28日の夜シュパウン邸で盛大な〈シューベルティアーデ〉が催されたが,これが最後の催しになった。この年にハイネとレルシュタープの詩を得て13のリートを作曲したが,それは彼の死後《白鳥の歌》として出版された。また9月には弦楽五重奏曲ハ長調の傑作が生まれている。若い頃からの不節制とチフスのためこの年31歳の短い生涯を閉じた。

 シューベルトのリートは,ドイツ・ロマン派のリート芸術の出発点に位置するが,その深い言葉の把握,またそのピアノ伴奏と一体をなすみごとな作曲法は,どちらかというとモーツァルト,ベートーベンらのウィーン古典派(古典派音楽)の技法と精神に近い古典的なものである。彼のリートこそロマン主義的であるとする考え方もあるが,H.W.フェッター,T.ゲオルギアデスらのシューベルトの研究者は,これをむしろ古典的なものとしてとらえている。これに反し,よく歌う旋律,ウィーン風のリズム,豊かな音色と鮮やかな転調等によって特色づけられる彼の交響曲,室内楽曲,また即興曲や《楽興の時》の抒情的ピアノ作品は,たとえ彼がベートーベンを師と仰いだにせよ,明らかにロマン派(ロマン派音楽)の器楽の世界に直接つながるものである。

 《シューベルト,生涯と創作の記録》《シューベルト,作品目録》を残したドイッチュOtto Erich Deutsch(1883-1967)を名誉会長として,《シューベルト新全集》刊行のため,〈シューベルト協会〉が1963年カッセルに設立された。
[谷村 晃]

[索引語]
Schubert,F. 野ばら 魔王(シューベルト) シューベルティアーデ ロザムンデ 楽興の時 ドイッチュ,O.E. Deutsch,O.E. シューベルト協会
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ドイツの哲学者。エルランゲン,ミュンヒェン大学教授を歴任。シェリングやF.バーダーの影響を受ける。〈原神話〉の中では人間と自然は根元的に調和しているとするロマン
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27. ウォルフ(Hugo Philipp Jakob Wolf)
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28. ウォルフ(Hugo Philipp Jakob Wolf)
日本大百科全書
作曲したのち、ウィーンの精神科病院で1903年2月22日に世を去った。ウォルフの作品の大半は歌曲で、シューベルト以後の芸術的ドイツ・リートの最後の頂点とみなされ
29. 美しい水車屋の娘
日本大百科全書
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30. 美しき水車小屋の娘
世界大百科事典
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31. うつくしきすいしゃごやのむすめ【美しき水車小屋の娘】
日本国語大辞典
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32. ウンダーリヒ(Fritz Wunderlich)
日本大百科全書
時にデビューし、モーツァルトの『魔笛まてき』のタミーノなどでオペラ歌手として活躍したほか、シューベルトの歌曲の分野でも、甘美で叙情性にあふれた声と表現により、短
33. ウーラント(Ludwig Uhland)
世界大百科事典
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34. エコセーズ
日本大百科全書
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日本大百科全書
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38. 音楽画像
世界大百科事典
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文庫クセジュ
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42. 改訂新版 音楽の形式 89ページ
文庫クセジュ
し音楽は終始一貫しているという、有節的な構成を借りている。この型は単純すぎるものであるが、シューベルトは部分的にこれを守っている。彼のリートの非常に多くは厳格に
43. 改訂新版 音楽の形式 90ページ
文庫クセジュ
この楽章が前後の楽章と対立的にもっている歌うような性格から出ている。たとえばベートヴェンふうのアダージョとシューベルトやシューマンの歌曲にときおり指摘される構想
44. 改訂新版 音楽の形式 96ページ
文庫クセジュ
音楽が歌詞に適合しないこと、音楽的展開のないことなどである。デュパルクやフォーレは、以前にシューベルトがやったように、あまりに厳格なその枠を破っていて、旋律は、
45. 改訳 音楽の歴史 3ページ
文庫クセジュ
―― モーツァルト 第六章 ロマンチスムの到来…九一 革命と帝政 ―― ベートーヴェン ―― シューベルト ―― ヴェーバー ―― シューマン ―― メンデルス
46. 改訳 音楽の歴史 97ページ
文庫クセジュ
命は、かくて二つの時代のあいだにまたがり、同じオーストリア生まれのハイドンのクラシシスムとシューベルトのロマンチスムのあいだに位置する。彼はベートーヴェンを予告
47. 改訳 音楽の歴史 105ページ
文庫クセジュ
シューベルト  ベートーヴェンとシューベルトは互いにごく近くに生き、互いにきわめて強い尊敬の念をいだきあっていたけれども、会ったことはいちどもなかったらしい。ほ
48. 改訳 音楽の歴史 106ページ
文庫クセジュ
 フランツ・シューベルト(一七九七 ― 一八二八)はヴィーン郊外のリヒテンタールに生まれた。子供のころは宮廷礼拝堂で歌っていた。音楽の勉強がつづけられるよう補助
49. 改訳 音楽の歴史 107ページ
文庫クセジュ
 シューベルトは歌曲をピアノ音楽に採りいれて、『楽興の時』を書いた。これは彼につづくロマン派の人びとに多くの霊感を与えたものである。しかしそのほかにも、彼の室内
50. 改訳 音楽の歴史 108ページ
文庫クセジュ
ひよわな肉体につつまれた霊感にとんだ精神ともいうべき人で、四十歳で世を去り、モーツァルトやシューベルトよりわずかに長生きしたにすぎない。はじめカルルスルーエでヴ
「シューベルト」の情報だけではなく、「シューベルト」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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一八四一-一九〇六明治時代の代表的ジャーナリスト。天保十二年(一八四一)三月二十三日、医師福地苟庵と松子の長男として長崎に生まれる。幼名は八十吉、長じて源一郎と称す。諱は万世。桜痴は、江戸で馴染みとなった芸妓「桜路」に因んで付けた号。少年時代より神童
アーネスト・サトウ(東洋文庫)
幕末・明治維新の激動期に,日本語を自在に駆使して活躍したイギリスの外交官アーネスト・サトウ。日本,シャム,清国,モロッコ各地でのエピソードを交えてその生涯を活写する。1999年02月刊【閲覧画面サンプル】【目次】表紙(扉)はじめに序章神秘な異国日本へ
モネ(岩波 世界人名大辞典・世界大百科事典)
フランスの画家,印象派の開拓者,指導者.パリに生まれる.少年時代をルアーヴルで過ごして海と陽光の美しさに啓発され,同地でブーダンに師事し風景画に開眼する.パリに戻り[1859],はじめトロワイヨン,のちグレールに師事し,P.A.ルノワール,シスレー
ロダン(日本大百科全書・世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典)
フランスの彫刻家。生気に満ちた写実主義、モニュメンタルな表現性、象徴主義的なテーマ、彫刻を量塊(マッス)としてとらえ、その動きと表現的な肌によって周辺空間と関連させる手法などにより、19世紀の彫刻に活気を与え、現代彫刻への道を開いた近代彫刻最大の芸術
ベートーベン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ドイツの作曲家。盛期古典派から初期ロマン派への転換期に56歳の生涯を送ったベートーベンは、古典派音楽様式を極点にまで高めるとともに、19世紀の音楽家たちにとっての偶像的な存在となり、後世に無限の広範な影響を与えた。[中野博詞]▲生涯フランドルから移住
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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