〈物理〉がphysicsの訳語として定着したのは明治以後であるが,漢語として〈物の道理〉を示す意味で用いられたのは古い。現在の物理学に近い概念を表すことばとしては,幕末〈窮理学〉〈格物学〉〈理科〉〈理学〉などがあり,1863年(文久3)洋書調所が開成所に改組されるに当たっての学科名としては窮理が採用され,その後理学に変わり,また65年(慶応1)長崎の分析究理所の科目名に物理の名がみえる。明治政府の学制の整備に伴って,72年(明治5)小学校の教科書に文部省は片山淳吉の《理学啓蒙》を採用し,直ちに《物理啓蒙》と改名,77年文部省が翻訳編集した《百科全書》中の1巻に〈物理学〉があり,81年井上哲次郎の《哲学字彙(じい)》という洋和対照辞典ではphysicsに物理学が当てられているから,ほぼこのころから訳語として定着し始めたとみてよい。
physicsの語源はギリシア語のフュシスphysisで,諸説あるが,ここでは,〈みずから成長する〉という意味のphyseinから生まれたと解しておく。直接的にはギリシア語のphysika,すなわち〈自然の事物〉の意を受け,アリストテレスの《自然学physika》に象徴されるように,それを扱う学問の意味で用いられた。ちなみに自然学として,ラテン語でもphysicaがそのまま転写して使われるが,意訳されるときは〈de rerum natura〉とされるのが習慣で,これを日本語で〈ものの本性について〉と訳すのは適切ではない。
こうした語源からいって,もともとphysicsは,自然についての一般的な知識の追究総体をさすことばで,例えば英語でも,16世紀に使われ始めたときはそうであった。したがって今では医師(内科医)の意味を表すphysicianも自然学者という内容をもっていた。またアリストテレスにあるphysiologia=physiologyもほとんど同様の意味で用いられ,ここから〈生理学〉に当たる概念が独立,分離するのは後年のことである。同じようにphysicsが今日の物理学として独立したのは19世紀である。〈物理学者〉の意味のphysicistはW.ヒューエルが1840年に〈力と物質,および物質の諸性質について〉とくに専門的に研究する人間として新しく鋳造したことばであって,そのころヨーロッパで,実質上物理学が成立しつつあったことを物語っている。
物理学は,自然現象のなかで,物質,力,エネルギーを基礎概念としてとらえられるようなものを扱う学問であると一応の定義を与えることができる。原則として無生物界のみを対象とする点で生物学と,また,物質を扱いつつも,それ自体の変性や変化には立ち入らない点で化学とは異なるとこれも一応いっておくことができる。ただ,物理学は,のちにみるように,自然科学の中の一つの分野であると同時に,自然を探究する際の一つの(有力な)態度もしくは方向をも含意するために,今日では,それは化学,生物学の境界を超えて,そうした領域にも深く食い込んでいる。
自然学と物理学
歴史的にいえば,物理学の歴史は,古代ギリシア以来の自然学からそれが分離,独立する過程としてとらえられる。当然のことながら,アリストテレスが代表する古代ギリシアの自然学には,天体現象から生命現象に至るいっさいが含まれており,しかもそうしたすべての現象は有機的連関を保ち,統一的な概念枠のなかで把握されるべきものであるという前提があった。したがって,それは,自然観であると同時に哲学そのものでもあった。
その本性はイスラムに渡っても同様であり,〈12世紀ルネサンス〉を経て,西方ラテン世界に導入されたときにも変わらなかった。変わった点があるとすれば,13世紀に西方ラテン世界で成立したスコラ学は,アリストテレス的自然学をキリスト教神学の傘下にがっちりと収めることに成功しており,それゆえ,そこでは自然学は,さらに哲学であるのみならず神学でもあることになった。ルネサンス期にヨーロッパ世界は,広義の新プラトン主義の奔入を受け,非常に動的で一種魔術的な自然観を新しく手に入れた。静的で整然たる秩序を合理的と考えるスコラ学と,新たに加わった動的で象徴主義的な自然の姿を合理的と考えるルネサンス自然観との葛藤や融合のなかから,コペルニクス,ケプラー,ガリレイ,デカルト,ニュートンらの,16世紀後半から17世紀へかけてのいわゆる科学革命期の仕事が生まれてくる。彼らの仕事は,しばしば,今日の物理学の基礎を築いたと考えられるが,少なくとも歴史的にみる限り,ことはそれほど単純ではない。第1に彼らは例外なく,依然として自然学を聖なる構造のなかで(つまりキリスト教神学の有機的一部として)とらえており,第2には,彼らの多くはルネサンスの自然観に濃厚に浸されていて,ニュートンの体系でさえ今日の物理学の性格とはおよそ異なった神秘的な要素を色濃くもっていた。
→自然
原子論的発想と力学
しかし,18世紀以降しだいにあらわになる〈物理学的〉(と呼びうる)な態度は,前代のそうした人々の仕事のなかのある特定の部分を誇張し選別して凝縮した結果として成立したものであるといえよう。ここでいう〈物理学的〉態度とは,おおまかにいえば二つに分類される。その一つは,原子論的発想である。それ自体はデモクリトスにまでさかのぼりうる原子論は17世紀前半のヨーロッパに大々的に紹介されて,きわめて多くの信奉者を獲得する。真空のなかを色も味も匂いもその他いっさいの感覚的性質をもたない原子がしかるべき運動をするというそれだけの構図で,この宇宙におけるあらゆる事物を説明しきろうとするこの発想が,18世紀以降の自然学の中心を占めるようになる。
第2には,力学がある。物体の運動を力との関係のなかで,定量的に正確にとらえようとするこの学問は,ある形ではアリストテレス以降の伝統のなかにもあった。アリストテレスの自然学からあえて〈物理学的〉な場面だけをひき出して解説すればその大筋はこうである。まず,世界は天体の世界(天上界)と地上の世界(月下界)とに分けられる。天上界は完全であり,変化は許されない。位置変化としては完全な運動である等速円運動のみが許されており,それは完全な天体の本性から必然的に起こるものであって,何らかの力が加えられてやむを得ず動かされることによって起こるものではない。
他方,月下界では,運動は2種類に分けられる。一つは自然運動としての落下運動である。すなわち天体の場合と同様,その物体を構成する要素の本性に従って起こるものであり,天体を構成する完全な原質エーテルに対して,月下界の物質は土,水,空気,火から構成されているため,土,水,空気が共有する宇宙の中心へ向かう本性に従って,火を除くすべての地上的物質は下方に落下することになる。もう一つは,他からの運動力を受けて起こされる強制運動である。物質は一般に静止の状態にあることが常態であり,落下以外は外から力を受けて初めて運動状態となる。そのとき,加えられた運動力に比例する運動の大きさ(速さ)が生ずると考えられた。
力と運動の関係を論ずる力学的発想が,のちに物理学が成立していく過程で,その中心的課題の一つとなるが,そうした意味では,アリストテレスは,P=WV(Wは物体の重さ,Pは加えられた運動力,Vは生じた速さ)という力学法則をもっていたということができる。そして,逆に,この面からみて二つの重大な問題が残されたことが,のちの近代的局面で,力学を物理学の中心にすえる働きをしたと考えられるかもしれない。というのも,P=WVという考え方は,運動力が増せば速さも大きくなるという常識にかなう論点をもつ反面,運動力が加わらないときは速さがない,つまり静止しているという帰結をもち,それは,手から離れたボールやこぎ終わったボートが,直接外から運動力を加えられないにもかかわらずなおしばらくは運動を続けるという経験になじまないからである。一言でいえば,近代にいう慣性的運動の説明が必要になる。これが問題の第1である。第2は,落下運動の増速現象である。落下運動は,上の運動法則の適用外の自然運動ではあるが,しかし落下の原因は,上述のように中心に向かう傾向であって,それは不変のはずである。もし原因が不変であるなら結果としての落下運動も不変でなければならない。では増速はどう説明するか。
こうして,アリストテレス的な力学はその後の歴史のなかに二つの宿題を残したのである。ルネサンス後期から近代初期の自然学者の多くがこの二つの課題に取り組んだが,ケプラー,ガリレイ,デカルト,ニュートンらの仕事がそれに当たる。
→原子論
機械論的自然観の成立
近代的な状況のなかで現れた重要な論点を列挙しておこう。第1には,天上界と月下界の区別の崩壊である。コペルニクス説から無限宇宙論を発展させたG.ブルーノは,ルネサンス魔術の文脈のなかにいたが,その所説はアリストテレス的コスモス像の破壊への一撃となり,ケプラーは,太陽に〈動かす霊anima motrix〉を想定して,惑星もまた,外からの力によって動かされているという考え方を明確に示した。こうした動きのなかから,天体の運動を論ずることと,地上の運動を論ずることとが,一つの文脈に統一されることになる契機が生まれた。第2に慣性概念の確立がある。すでにケプラーに先駆的にみられる慣性の概念は,当初物質が静止していようとする性質(つまり怠惰な性質)としてとらえられたが,ガリレイ,デカルトからニュートンへの展開のなかで,それは運動状態にもいわれるようになった。運動している物体は,静止に戻ろうとする性質をもつのではなく,その運動状態を続けようとする性質をもつのである。
こうして慣性概念の確立をみたところから,第3の,そしておそらくはもっとも重要な運動法則の定式化が生まれる。ニュートンの手によって行われ,ニュートンの運動の(第2)法則と呼ばれるようになったこの定式化は,周知のようにf=mα(mは物体の質量,fは加えられた力,αは生じた加速度)という形をもち,アリストテレスの強制運動におけるP=WVという形と比較すると,外力が運動(つまり速さ)を生ずるのでなく,運動の変化(つまり加速度)を生ずると考えられている点に最大の新しさがある。この新しいニュートンの運動法則を土台にして,近代物理学のみならず,自然科学全体を律するような自然観が誕生した。それは主として18世紀啓蒙主義時代に成立したが,それは,原子論的論理と力学という二つの発想の融合の結果としてとらえられる。
こうした二つの発想の融合は,今日からみれば結局デカルトのプログラムであったということもできる。デカルトは原子論に対しては否定の態度を崩さず,また,彼自身は自然学こそ神学そのものだと考えていたけれども,さらに彼は運動に関する力学的法則を慣性法則以外には具体的には与えなかったが,神が世界創造に当たって,素材とそれがいかにふるまうかというふるまい方だけを創造したというデカルトの自然観は,素材としての原子と,ふるまい方としてのニュートンの運動法則という形で具体化されることによって,いわば神抜きで実現されるようになった。この実現の過程を担ったのが,18世紀フランスの啓蒙主義者たちであり,〈ラプラスの魔〉によって象徴されるような形で一応の完成をみたのが18世紀末から19世紀初めにかけてであった。
原子論的発想と力学的発想との融合を,しばしば〈機械論的自然観〉と呼ぶが,デカルトが機械論的自然観の出発点と考えられている理由は,上のような事情からである。なお〈機械論的〉という概念には,部品を用意し,それに動力を与えることによって動く機械のアナロジーがこめられているが,英語のmechanisticが含意するように,力学mechanicsの意味も含まれている。この場合,世界は原子という部品が,ニュートンの運動(力学)法則に厳密に正確に従って運動する大機械なのである。
→運動 →機械論 →力
物理学の確立
このような機械論的な自然観は,その後の自然科学の中心となるとともに,そうした自然観に基づき,もっとも具体的な形で自然のなかにその正当性をあとづける分野としての物理学という概念が19世紀初めごろからようやくはっきりしてくる。興味深いことに,力学以外の分野でのこの自然観の成功が,物理学の成立にさらに貢献することになった。
電気,磁気,エネルギー現象などに対する関心の発生と,その後の推移がそれを物語る。機械論的自然観が18世紀末に確立されるのと時を同じくして,そこからははみ出るような神秘的な現象が目につき始めた。啓蒙主義の機械論的自然観に反発し,自然の神秘性にあらためて立ち戻ろうとするロマン主義がこうした現象への関心を助長した。またロマン主義が唱える自然の根元的な力,万象を生み出すいきいきとした力への信頼は,電気力と磁気力との間の神秘的な互換性や,熱機関に働く力へと人々の目を向けさせた。つまり電磁気現象や熱現象への関心は,必ずしも機械論的自然観から生まれたものではなく,むしろそれへの反発をてこにしていたといえる。
しかし,やがて19世紀後半になると,ちょうど力学におけるニュートンの運動方程式に匹敵するマクスウェルの方程式が生まれて,電磁気現象が,場という新しい概念は導入したとしても力学的モデルに類似の方法で解決され,熱現象もまた,ボルツマンを頂点とする古典的統計力学によって,一応の解決をみるに及んで,物理学的態度の成功は固まった。そして,われわれは,今日,そうした物理学的な態度の成功した現場を総称して,物理学と呼んでいる。
20世紀に入って,相対性理論と量子力学が生まれて,古典的なニュートンの運動方程式に従う運動力学の枠内に収まらない非常にマクロな運動現象と,非常にミクロな世界での運動現象を扱うことに成功したが,これが,物理学の根本的な変革に当たるのかどうかは見解が分かれる。他方,上に述べた物理学的態度が成功を収める現場は,従来,物理学とは一線を画されてきた化学や生物学にも見いだされてきており,その意味で,すべての自然科学は結局,物理学の出店にすぎないという,しばしば物理帝国主義と呼ばれる暗黙の了解が生まれている。
→エネルギー →磁気 →電気 →熱