あらゆる自然的・人工的な事物、現象、事項および行動に関して解説を行い、さらに具体的に理解を助けるために挿画、地図、写真、図、表などを添えて、それらの項目を五十音(またはイロハ順)あるいはアルファベット順に配列した事典。近年は特定分野ないし一事項についての総合事典を「百科」と命名する傾向も現れている。中国語の場合には機械的な配列ができないので分類配列を行い、類書 (るいしょ)と称する。類語として百科辞典、百科事彙 (じい)、百科全書などがある。
百科事典とは英語でエンサイクロペディアencyclopaedia、アメリカ英語でencyclopedia、フランス語でencyclopédie、ドイツ語ではEnzyklopädieであり、いずれもギリシア語のegkúklios paideiaを語源としたものである。これはegkúklios(円環をなす、円満な)とpaideia(教育)の合成されたもので、全円的に集めた知識の教育の意であり、ギリシア哲学者の教育の理想を示したものであった。その理想はアリストテレスがアテネ郊外リケイオンに学校を開いて実現に努めた。また、彼は全知識の体系的著述も行い、それらのうち論理学、形而上 (けいじじょう)学、政治学、文芸学、心理学および自然科学は残存して、その思想は現代まで影響力をもっている。
西洋
ギリシア人は創造的で円満なる知識の教育をしたが、他の学者の説を整理することはしなかった。一方、ローマ人は創造よりも分類整理の術に長じていた。バロMarcus Terrentius Varro(前116―前27)の『学問論』Disciplineum9巻は当時の学問概説であり、プリニウス(大)はまた『博物誌』Naturalis Historiaで宇宙論、気象学、人類学、植物学ほかの各分野の専門書から抜いた知識を37の書に分類し、研究に役立てた(刊行は1473年)。
中世
中世になるとセビーリャ(スペイン)の聖職者イシドルスの『語源論』Etymologiae20巻がある。中世にはアラビア人はイスラム文化を盛り上げ、その結晶として多くの百科事典が出た。イブン・クタイバは『最高の伝統』Kitab‘Uyūn al-Akhbārを編し、古伝承や名句を分類編集した。イブン・アブド・ラッビヒはこれを増補して『無類の首飾り』Iqdとした。ペルシア人学者アル・フワーリズミーは『科学の鍵 (かぎ)』Malātih al-‘Ulūmを編し、アラビア固有の学問とギリシア渡来学問とを別にまとめた。のちに、ペルシアの法学者アド・ダウワーニad-Dauwānī(1427―1501)は歴史と技術の発明百科事典『Unmūdag al-‘Ulūm』を編した。
14世紀ごろから文芸復興と宗教改革が南と北とでヨーロッパの精神界を揺り動かし始めるが、そのはしりともみられるのがドミニコ会の僧ボーベのバンサンVincent(1190?―1264)の『大鏡』Speculum mausであった。歴史、自然、教義、道徳の四鏡に分かれ、当時の広範な知識を集成した百科事典である。
近代
1630年になるとドイツ人アルシュテットJohann H. Alsted(1588―1638)は『分類百科事典』Encyclopædia septem tomio distinctaを著し、初めて「エンサイクロペディア」の語を用いた。これはプリニウス以後の分類型大著であったが、ラテン語で書かれたので一般には利用されなかった。
百科事典をアルファベット順配列に改めたのは1674年に発行された『大歴史辞典』Grand dictionnaire historiqueで、編者はフランスの僧モレリである。人名と地名の項目も多く、フランス語で書いて歓迎され、英語とドイツ語に訳された。また、現代的百科事典のはしりは、イギリス人チェンバーズが1728年ロンドンで出した『百科事典(サイクロピーディア)』Cyclopædia ; or an Universal Dictionary of Arts and Sciences4巻であろう。これは全知識をアルファベット順の大項目にまとめ、系統的記述で、喜ばれて版を重ねた。ただ、人名と地名はとっていない。リースAbraham Rees(1745―1825)が1778~1788年に5巻の増訂版を出し、1819~1820年には45巻の同名の事典が発行されている。また、イタリア語訳は1748~1749年9巻で発行された。さらに、フランス語訳はミルズJ. MillsとセリウズG. Selliusが企て、パリの出版者ル・ブルトンLe Bretonに持ち込んだが、契約は成立しなかった。しかし、ル・ブルトンは企画をあきらめず、ついに英語の翻訳者として知られたディドロに頼み、ディドロは友人ダランベールと共同で引き受けた。執筆を進歩的思想の名士に頼み、専門に応じて分担させ、ボルテール、モンテスキューをはじめビュフォン、ルソーなど啓蒙 (けいもう)主義の一流の顔がそろったので、彼らは「百科全書派(アンシクロペディスト)」とよばれた。1751年にいよいよ第1巻が発行されると、大学をはじめ知識階級に好評であった。1772年に本文17巻と図版11巻を完成した。1780年にさらに本文4巻、図版1巻、索引2巻を完成した。『百科全書』Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers35巻である。この事典は国王専制と僧侶 (そうりょ)の横暴を人民側から批判し、技術と生産を尊重したので、フランス革命の基礎を築いたとされている。
現代
現代百科事典の初めは『ブリタニカ百科事典』Encyclopaedia Britannicaである。銅版画家ベルAndrew Bellら3人は、市民たちの教養のためエジンバラで百科事典を100冊の分冊で発行することにし、1768年から毎週発行して71年に完了し、3冊に製本した。大項目主義で、各分冊に天文、地質、動物などをまとめ、また、小項目も数項目を収めた。その第9版と第11版は大学者や大詩人の執筆で、外国名士も執筆させるなど、Scholar's edition(学者版)ともいわれ、国際的に有名になった。しかし大資金を要して、経営は赤字続きで、1927年シカゴのシアーズ・ローバックに買収され、アメリカ式経営で立て直された。『アメリカーナ百科事典』Encyclopedia Americana13巻は、ドイツ系の政治学者リーバーFrancis Lieber(1800―1872)が『ブロックハウス百科事典』第7版を基礎に1829~1833年に出版。1918~1920年版30巻で、その権威を認められている。1923年から毎年改訂し、年鑑も補充発行して新機軸を出した。『ブリタニカ』も1936年から毎年改訂、1938年年鑑発行を開始、1975年大項目だけの本編20巻と小項目だけの付編10巻および参考文献の巻1冊を付す編成とし、以後この方式をもって改訂を続けている。
ドイツではツェドラーJ.H.Zedlerが1732~1750年に『万有百科大事典』Grosses vollständiges universal Lexikon aller Wissenschaften und Künste64巻を出版し、包括的学問の収容と詳細明確な論述を誇り、1955年再版した。もっとも普及し明確さを誇るのは『ブロックハウス』である。1796年からレバーG. Löberが破産で発行を中絶していた『家庭辞典』Frauenszimmer Lexikonを買収して改訂し、『会話辞典』Konversations Lexikon8巻として1808年に完成した。小項目主義で人名・地名が多く、好評であった。『Brockhaus Enzyklopädie』20巻(1966~1976)は22万項目を収める。この事典の形式は好評で、『アメリカーナ』のほか、オランダの『ウィンクラー‐プリンス百科事典』Grote Winkler Prins(1870)、イギリスの『チェンバーズ百科事典』(1859~1868)に採用された。現代のドイツでは1953年初刊の『ヘルダー大百科事典』Der Grosse Herder12巻や1972年初刊の『ベルテルスマン百科事典』Bertelsmann Lexicon10巻、1966年初刊の『デーテーファウ百科事典』dtv-Lexicon20巻など、学生や一般教養層を対象にしたものが版を重ねている。また、ロシアではエフロンI. A. Ephronがブロックハウスと共同出版で、『ブロックハウス・エフロン百科辞典』Entsiklopedicheskii Slovar'82巻・補巻4(1890~1907)を刊行した。革命前のロシアを知るための格好の事典である。ソ連時代には、国定の『ソビエト大百科事典』Bol'shaya Sovetskaya Entsiklopediyaが刊行され、第1版(1926~1947)65巻・別巻1、第2版(1950~1958)50巻・索引(2巻)、第3版(1969~1978)30巻という構成になっている。ロシアでは国家的プロジェクトによる『ロシア大百科事典』が刊行されている(1998~2003)。
フランスでラルースは1866~1876年に『19世紀万有大辞典』Grand dictionnaire universel du XIXe siècle15巻を発行し、のち小項目主義の『大ラルース』Grand Larousse encyclopédique10巻(1960~1964)、次に大項目主義の『大百科事典』La grande Encyclopédie20巻(1971~1976)を発行した。ほかに、水準の高い百科に『キレ百科事典』Dictionnaire encyclopédique Quillet10巻(1968~1970)がある。これは辞典をも兼ね、重要項目は詳説、約8万項目を収録している。現代フランスの百科事典としては、ディドロの『百科全書』の継承を目ざす『ユニベルサリス百科事典』Encyclopaedia Universalis20巻が1975年に完成している。
イタリアには『イタリアーナ百科事典』Enciclopedia italiana di scienze, lettere ed arti36巻(1929~1939、補遺7巻、1938~1962)がある。これは哲学者のジェンティーレの編集で、ファッショ色が濃いが、イタリアの都市の歴史や芸術家の伝記は質量ともに優れている。『イタリア大百科事典』Grande dizionario enciclopedicoも古い伝統を誇る。1984年に完成したディドロ『百科全書』の編纂 (へんさん)方針を復活したエイナウディ版『百科全書』Enciclopediaも特色がある。
中国
中国の学問は伝統的に古典注釈学で、その集成したものが類書、すなわち百科事典であった。これは西洋の百科事典の初期と同様に、古典の集積である。
類書
漢~宋
秦 (しん)末漢初2世紀までには『爾雅 (じが)』が経典の注釈と事物の解説を兼ねて分類式に19編つくられ、辞典と事典の祖となった。次に魏 (ぎ)には『皇覧 (こうらん)』120巻、北斉 (ほくせい)には『修文殿御覧 (しゅうぶんでんぎょらん)』350巻の大著が、類書形式で編集されたが、散逸してしまった。現存の最古の類書は隋 (ずい)の虞世南 (ぐせいなん)の『北堂書抄』160巻である。これは、彼が隋の秘書郎時代に、秘書省の書庫北堂の貴重書を閲読抄出し、19部890類に編して注釈を加えたものである。唐時代には散逸していた文献を収めている貴重なもので、明 (みん)代に万暦 (ばんれき)版本(1576~1627)が刊行されている。唐官撰 (かんせん)の『芸文類聚 (げいもんるいじゅう)』100巻は欧陽詢 (おうようじゅん)らの編で45部、精密厳正な選択と注釈である。
唐以来、官吏試験の科挙制度が行われ、その準備のために類書が続出したが、名著といわれるものに徐堅 (じょけん)(695―729)ら編『初学記』30巻、白居易 (はくきょい)(楽天 (らくてん))編『白氏六帖 (りくちょう)』30巻がある。後者は、宋 (そう)の孔伝 (こうでん)が続30巻をつくり、さらに後人が新編を加え100巻とし、『白孔六帖 (はくこうりくじょう)』という俗書にした。宋には、勅撰三大類書がある。『太平御覧 (たいへいぎょらん)』1000巻は李昉 (りぼう)(925―995)らが勅命で985年完成したが、古書珍籍を広く集めて55門に分類、刊行されたものである。次に李昉ら勅撰の『太平広記』500巻(983成稿)は瑞祥 (ずいしょう)神仙の文を集めたもの。また、『冊府元亀 (さっぷげんき)』(1013)1000巻は、宋の真宗の宰相王欽若 (おうきんじゃく)(962―1025)らが君臣の行状功績を編したもので、名著といわれる。宋の王応麟 (おうおうりん)(1023―1096)の『玉海 (ぎょくかい)』200巻は科挙に重用され、その『小学紺珠 (こんじゅ)』10巻は初学者向きの名著とされる。
明代
明の永楽帝は武力によって即位したが、文学を奨励した。彼は解縉 (かいしん)(1369―1415)らに命じて大類書をつくらせ、『永楽大典 (えいらくたいてん)』2万2877巻目録60巻が1409年に成った。一事項に全文を引用して、一大文庫を収める形式をとったものだが、清 (しん)の乾隆 (けんりゅう)帝時代にこのなかから『四庫全書 (しこぜんしょ)』に十数部の逸書を収めた。しかし、この大著も散逸して世界に現存するものは800余巻にすぎない。明の有名な類書は万暦年間に集中している。馮琦 (ひょうき)編『経済類編』100巻、徐元太 (じょげんたい)編『喩林 (ゆりん)』120巻、章潢 (しょうおう)編『図書編』127巻、明末の董斯張 (とうしちょう)編『広博物志』50巻、兪安期 (ゆあんき)編『唐類函 (とうるいかん)』200巻などである。なかで王圻 (おうき)編『三才図会 (さんさいずえ)』106巻は天地人あらゆる事項を14門に分類、各項を図説しており、現代の百科事典に近い。
清代
清の聖祖康煕 (こうき)帝は1701年に張英(1637―1708)らに『淵鑑類函 (えんかんるいかん)』450巻を編せしめた。これは、唐以後の詩文と事跡の集成である。聖祖はさらに古今の文献を網羅して大類書をつくることを陳夢雷 (ちんぼうらい)などに命じたが不備のため、さらに蒋廷錫 (しょうていしゃく)(1669―1732)らに命じた。帝の死後1725年に『欽定 (きんてい)古今図書集成』1万巻が成り、その後改修して1729年銅活字で80部の印刷が完成した。6彙編 (いへん)、32典、6109部の3段階に分類され、中国の文献はこのなかに収まるといわれる。聖祖はまた、張廷玉(1672―1755)らに『子史精華』160巻を編せしめ、1727年に完成した。儒書史書の集成も行っている。
九通
中国では政治、経済および文教の文化史的類書の一群を「九通 (きゅうつう)」と称する。初め唐の杜佑 (とゆう)(753―812)は『通典 (つてん)』200巻を編し、古代から天宝まで(755)の食貨(経済)、選挙、職官、礼楽、兵制、州郡、辺防などに類別し、その史料の精粋をつかむこと正史に勝ると評価されている。南宋の馬端臨(1205―1274?)はこの後を継いで、1224年までの政治、経済、文教などの文化史の文献を分類編集して『文献通考』385巻に収めた。同じく南宋の鄭樵 (ていしょう)(1104―1162)も杜佑に倣い、『史記』から『隋書』までの文化史を検討して『通志』200巻とした。断代の正史を古今通じた諸文化史でとらえた特色がある。清の乾隆帝(高宗)はこの「三通」を継いで『欽定続文献通考』252巻(1747)、『欽定続通典』144巻(1767)、『欽定続通志』640巻(1767)を編せしめた。また、清朝の文化史を『欽定皇朝文献通考』261巻(1747)、『欽定皇朝通典』100巻(1767)、『欽定皇朝通志』126巻(1767)に編せしめた。さらに南宋の宋白 (そうはく)の『続通典』(逸書)と明の王圻 (おうき)の『続文献通考』244巻があるが、乾隆帝はその不備を改めた。清末に劉錦藻 (りゅうきんそう)は1905年『皇朝文献通考』320巻を編し、清朝末までに400巻(1911)に増補した。正続各三通に皇朝三通を加えて「九通」と称し、劉錦藻編を加えて「十通 (じっつう)」ともいわれる。
現代
西洋の方式を取り入れた最初の百科事典は陸爾奎 (りくじけい)ら編の『辞源』上中続3冊で、1913年に上中編、1929年に続編が出た。また1943年に新版が発行されている。ほかにも春明出版社版『新名詞辞典』(1949)と同社編新華書店発行の『世界知識辞典』(1959)の小形百科事典がある。なお、中国では1978年、80冊10万項目の企画が定まり、1980年胡喬木 (こきょうぼく)(1911/12―1992)が主任となって『中国大百科全書』が発行され始め、カラー写真、分類式で、外国文学2冊、戯曲、曲芸、天文学、法学、環境科学、紡織など各分野にわたる分冊事典の形態によって刊行されている。
台北の中国文化大学、中華学術院編『中華百科全書』20巻が張其昀監修で1981年完成。
その他
韓国には『東亜原色世界大百科事典』30巻(1982~1984)がある。
日本
日本では、唐から輸入の類書がもっぱら用いられた。『日本国見在書目録』にも『物始 (ぶつし)』『修文殿御覧』『華林遍路 (かりんへんろ)』『芸文類聚 (げいもんるいじゅう)』などをあげている。
古代~中世
最初の類書は、滋野貞主 (しげののさだぬし)らによる831年勅撰 (ちょくせん)の『秘府略 (ひふりゃく)』1000巻で最大最高であった。いまわずかに「百穀」と「布帛 (ふはく)」の一部が現存する。大江音人 (おおえのおとんど)の『群籍要覧 (ぐんせきようらん)』40巻、菅原是善 (すがわらのこれよし)編『会分類聚 (かいぶんるいじゅう)』70巻などは滅び去った。日本的類書の萌芽 (ほうが)は、源順 (したごう)の『倭名類聚抄 (わみょうるいじゅしょう)』10巻である。名詞を分類別に並べて、和訓を万葉仮名で付し、出典をあげたものであり、これにはさらに、分類24門を32門に増補した二十巻本もある。その門人源為憲 (ためのり)は『口遊 (くちずさみ)』1巻(970)をつくっている。藤原誠信 (しげのぶ)の教育のため、天地人19門の最小の類書であり、歌謡の形式で親しみやすく、記憶に便利な特色がある。児童百科事典の起源である。鎌倉末期(13世紀末)の『塵袋 (ちりぶくろ)』(著者不詳)11巻は事物起源についての問答体の形式をとっているが、この影響で僧行誉 (ぎょうよ)は『壒嚢鈔 (あいのうしょう)』15巻(1445)をつくった。その前年には『下学集 (かがくしゅう)』2巻ができている。これは、通俗用語に有職故実 (ゆうそくこじつ)まで加えて和訓をあげたもので、著者は東麓破衲 (とうろくはのう)というから禅僧であろう。洞院公賢 (とういんきんかた)は有職故実を中心に『拾芥抄 (しゅうがいしょう)』3巻を編した。この両書は江戸時代に増補して使われた。文明 (ぶんめい)年間(15世紀末)に『節用集 (せつようしゅう)』が成立し、江戸時代には辞典から家庭の実用書としても利用された。
江戸時代
江戸時代には中国的類書が先行した。中村惕斎 (てきさい)は『訓蒙図彙 (きんもうずい)』20巻で中国の事物を図説した。1666年(寛文6)初版序、増訂版1695年(元禄8)である。1694年には宮川道達 (みちさと)編『訓蒙故事要言』10巻、平住周道 (ひらずみかねみち)作『唐土訓蒙図彙』14巻(1719序)、服部南郭 (はっとりなんかく)『大東世語』5巻(1704序)と続いている。伊藤東涯 (とうがい)『名物六帖 (めいぶつりくちょう)』31巻は白楽天の『白氏六帖』の書名によったが、中国の制度・事物を解説した類書で、高弟奥田士亨 (しこう)の校訂で1726年(享保11)に刊行された。貝原益軒 (かいばらえきけん)の『和漢名数』2巻(1678)、同続2巻(1695)は要領のよい類書である。中国型類書の傑作に医師寺島良安 (りょうあん)の『和漢三才図会 (わかんさんさいずえ)』105巻(1715)がある。明の王圻の『三才図会』の形式により全体を96類に分類した図説で現代百科事典の先駆である。医師の科学的研究法によって、伝説を信ぜず、合理的、実証的で、異説も注記しており、現代にも通用する。本草 (ほんぞう)学者稲生若水 (いのうじゃくすい)は『庶物類纂 (しょぶつるいさん)』を編し、362巻まで清書して没した。将軍吉宗 (よしむね)はこれを惜しんで丹波正伯 (にわしょうはく)に続集を命じ、1747年(延享4)に正編1000巻、補編514巻で完成した。和漢の物産を本草書から地誌、紀行まで広く探って比類のない類書とした。そのほか日本歴史有職の類書の大作がある。書物奉行 (ぶぎょう)浅井奉政 (ともまさ)(1697―1734)編『事纂』121巻(1724成)、公卿 (くぎょう)高橋宗直(1701―1785)『宝石類書』130巻(1752序)、大典顕常 (だいてんけんじょう)編『皇朝事苑 (こうちょうじえん)』4巻(1782刊)、畔田伴存 (くろだともあり)『古名録』83巻(1843成、1890刊)がある。尾崎雅嘉 (まさよし)(1755―1827)の『事物博採』は漢土54巻、皇朝30巻、各別に広くとって各19門に分類している。
江戸中期になると、日本の事物を和文で解説し、古書珍籍から抽出分類した日本式類書が出現した。山岡浚明 (まつあけ)の『類聚名物考 (るいじゅうめいぶつこう)』342巻である。日本の事物に関する古典珍籍の抜き書きをつくり、32部に配列し、各事項ごとに総説、引用文、異説、考証、結論を行った(1905年7冊発行)。その孫弟子にあたる当時の大学者屋代弘賢 (やしろひろかた)は、国学の隆盛に伴い、国書の類書の必要を感じて進言し、幕命で一大類書を編集することになった。『古今要覧稿 (ここんようらんこう)』である。中途で弘賢が死亡し、後任者を得ないので、浄書本518巻を献呈して中止されたが、これは『類聚名物考』によりながら、各藩の学者にその藩の事物の実査をしてもらうなど、実証主義的であった(国書刊行会1908年版は、稿本を加えて約700巻を『古今要覧稿』6冊として刊行)。類書の形式を庶民生活全体に広げ、その起源、発展、現代までを考証した類書で、その独創的実証に柳田国男 (やなぎたくにお)が賞賛しているのは、喜多村筠庭 (いんてい)(1783?―1856)の『嬉遊笑覧 (きゆうしょうらん)』12巻である。江戸の食住習慣から遊芸、門付 (かどづけ)まで27門に収めている(日本芸林叢書 (そうしょ)刊)。
幕末にはオランダ系百科事典の翻訳が行われた。幕府が購入した蘭訳 (らんやく)ショメル『日用百科事典』Huischou delijk woordenboekを、天文方高橋景保 (かげやす)を通じて、馬場佐十郎、大槻玄沢 (おおつきげんたく)らが翻訳を命ぜられたものである。しかし、馬場は2年後箱館 (はこだて)に去り、高橋は1829年(文政12)シーボルト事件に連座して死んだため、翻訳は医学本草に限って進行を許され、終期は明らかでないが宇田川榕菴 (ようあん)の死で中絶した。正式名は『厚生新編』70巻で、静岡県立中央図書館葵 (あおい)文庫で存在が確認され1937年(昭和12)に複製された。
近代
明治の百科事典編集は、文部省で開始された。編輯寮頭 (へんしゅうりょうのかみ)箕作麟祥 (みつくりりんしょう)はチェンバーズの『国民知識事典』Information for the People第5版2巻(無刊記)の全訳を1873年(明治6)に開始し、『百科全書』と命名。1874~1884年93編でほとんど全訳、1883~1885年に丸善 (まるぜん)はこれに索引をつけて3巻として発行した。次に西村茂樹 (しげき)は、神宮司庁の援助で『古事類苑 (こじるいえん)』を編集、1896年帝王部を出版、1914年(大正3)索引を刊行し洋装50巻を完成した。日本類書の集大成であった。また、物集高見 (もずめたかみ)は独力で日本的類書『広文庫』20巻と『群書索引』3巻を1915~1916年に出版した。
ヨーロッパ式百科事典は田口卯吉 (うきち)によって開始された。彼はまずボーンHenry Born編『Political Cyclopaedia』を『泰西政事類典』4巻に訳し、1882~1884年に発行、また『大日本人名辞典』4巻を1884~1886年に出版した。次に、『日本社会事彙』3巻を1888~1901年に刊行、再版、3版で好評を得た。彼はさらに『エンサイコロペチャ・ジャポニカ』を目標としていたが、実現をみずに没した。「現代の大家が専門の学術を分担執筆する」という彼の目標は、1908年(明治41)に第1巻が発行された三省堂 (さんせいどう)亀井忠一 (ちゅういち)の『日本百科大辞典』10巻に受け継がれた。しかし、大家の原稿の取りまとめと、挿画・写真の完全化は投資力を超え、1912年(大正1)、第6巻発行後破産し、斎藤精輔 (せいすけ)が同辞典完成会をつくり1919年に索引を入れた10巻目が完成した。また、同文舘 (どうぶんかん)主森山章之丞 (しょうのすけ)は、ドイツ式に全学問の専門事典発行の計画をたてたが、大事業で負担に耐えず破産し、同刊行会によって完成された。すなわち、次のとおりである。『商業大辞書』6巻(1905~1908)、『医学大辞書』8巻(1906~1910)、『法律大辞書』5巻(1909~1911)、『教育大辞書』6巻(1907~1908)、『哲学大辞書』6巻(1909~1911)、『工業大辞書』8巻(1909~1913)、『経済大辞書』9巻(1910~1916)。
冨山房 (ふざんぼう)の坂本嘉治馬 (かじま)は芳賀矢一 (はがやいち)と下田次郎編『日本家庭百科事彙』2巻(1906)をはじめ大出版を次々に行っていたが、1934年(昭和9)から『国民百科大辞典』15巻を発行、1937年に完成した。これは、ブロックハウス方式で成功した。平凡社の下中弥三郎 (しもなかやさぶろう)は、世界国家と教養を主義として出版を続けていた。『大百科事典』28巻はその事業の一環で、毎月1巻発行の宣言をほとんどそのまま実現して1933~1934年の短期に完成した。
現代
第二次世界大戦後には、国際的大変革に応じて平凡社が『世界大百科事典』32冊を1955(昭和30)~1959年に完成。1960年代に入ると高度成長の持続と情報化社会の到来を背景に、平凡社の『国民百科事典』7巻(1961)や講談社の『新家庭百科事典』7巻(1968)をはじめとする家庭向けの企画が生まれ、百科事典読者の需要を新たに喚起した。この需要のうえにたって、まず小学館が『大日本百科事典』(『エンサイクロペディア・ジャポニカ』)19巻を1967~1972年に発行した。参考図書の付記と全カラー印刷は日本最初のものであった。ほかにも、ブリタニカ社が東京放送・凸版印刷3社合同で『ブリタニカ国際百科事典』30巻を1974~1975年に発行。大項目、小項目、書誌の三部構成であった。1995年(平成7)には第3版が全19巻(ほかに索引1)で発行されている。また、学習研究社は『グランド現代百科事典』21巻を1970~1974年に発行している。1984年になると、平凡社が『大百科事典』16巻を刊行、小学館も同時に『日本大百科全書』(『エンサイクロペディア・ニッポニカ2001』)25巻(~1989年)を発行した。児童向けには、玉川学園編(誠文堂新光社発行)『玉川児童百科事典』(新版1967版)、小学館『こども百科事典』12巻(1973版)、同『21世紀こども百科』シリーズ(1991~、既刊シリーズで8冊)、学習研究社『学習カラー百科』10巻(1972版)、同『新図詳エリア教科事典』(分野別、1994)などがある。
百科事典の構造と種類
社会の複雑化、科学の分肢、開発の発展に伴い、百科事典の項目は多様で巨大になる。そのため現代的百科事典では、項目構造にもくふうがみられるが、大別すれば大項目主義、小項目主義、さらには大項目と小項目とを調和配列させる折衷主義となろう。
大項目主義とは、全知識・情報を数千、もしくは数万項目にまとめるもので、1項目は1分野を組織的に展開し、他の項目と巧みに連関を行う。『ブリタニカ』(3万余項目)はその例であり、教養的読書に便利な事典といえる。
小項目主義とは、十数万項目を選び、あらゆる事項をあらゆる角度から簡潔に圧縮して説明するもので、情報を瞬間的にとらえることができる。『ブロックハウス』(32万項目)はその例である。
折衷主義は以上の両者を兼ねたもので、『アメリカーナ』(6万7000項目)をはじめ、日本の大多数の百科事典がこの例である。
そのほか、大小項目分割の例として『ブリタニカ百科事典』の15版がある。大事典macropaedia(1万項目)19巻、小事典micropaedia(10万項目)10巻で、教養と情報の2部に分かれている。ラルース社もまた『ラルース大百科事典』(10万余項目)10巻と『大百科事典』(1万余項目)20巻をそれぞれ独立に発行したが、前者は情報的、後者は教養的事典となっている。また、辞典を兼ねるものに前述の『ブロックハウス』があり、日常生活の便宜を図っている。さらに情報専門の百科事典として、アメリカの『コロンビア百科事典』The Columbia Encyclopedia(10万項目)1巻がある。
内容別には、小・中・高等学校各別に、学習用の百科事典、また家庭生活を中心とする家庭百科事典、専門領域の事項だけを扱う分野別事典がある。
百科事典の利用法
情報化社会の成熟により、多様なメディアから各種の情報が氾濫 (はんらん)している今日、情報の標準性、的確性、権威性、鮮度などを備えた百科事典が求められている。百科事典の形態上の特色は、多くの異なった分野の専門事典の集積という性格を備えているため、一つの事項について相互参照が可能な点を活用したい。たとえば動植物の名前については、植物学、園芸技術などの知識のほかに、民俗学上の知識や文学上の意味などが理解できる場合もある。このために、百科事典の項目には必要に応じて参照の指示があり、索引も充実させるようにつとめている。
このような百科事典独特の機能は、電子化の時代を迎えていよいよ強化されることになった。とくに全文検索を利用することにより、従来の常識を超える関連項目数を検索することができる。たとえば特定の古典の書名を検索すると、その古典にふれているすべての項目を知ることができ、多角的な理解と情報の取得に役立てることが可能である。
百科事典のもう一つの役割は、あらゆる知識についての体系性や重みづけを理解し得ることである。たとえば人名、地名をはじめとする固有名詞は、一定の基準とバランスのうえで選択され、記述されているので、客観的な重要度や全体のなかの位置、相互関係などを把握することができる。これは利用者が不案内な事項について、周辺情報も含め体系的な理解を得たい場合にはとくに便利な機能といえる。
電子化によって、百科事典の記述は従来よりも詳細に多面的になる傾向があるが、もっとも有効な活用法としては以上のような性格を理解しながら、折りにふれていろいろな項目を読んでみることが必要であろう。それによって百科事典が扱っている範囲、記述の内容、奥行きなどが理解され、いざという場合に的確な利用が可能となるであろう。
百科事典の電子化
社会の多様化によって百科事典への要求が複雑になるにつれ、情報の更新、参照機能の強化、索引項目の増補などを能率的に処理するため、電子化の動きが生まれてきた。世界に先駆けて百科事典の電子化を実現したのはアメリカで、1986年に『グロリア電子百科事典』The Grolier Electronic EncyclopediaがCD-ROM (ロム)として先鞭 (せんべん)をつけた。これは印刷本の『アカデミック・アメリカ百科事典』The Academic American Encyclopedia約3万4000項目の本文に図版と地図を加え、それらを項目索引、語彙索引、条件索引、図版および地図索引など4通りの手段により検索可能としたもので、テキストの複写など簡単な情報処理機能も備えていた点で、初期の電子百科事典の標準となった。このCD-ROM百科事典は、いち早くインターネット機能を採用した新版『グロリア・マルチメディア百科事典』Grolier Multimedia Encyclopediaへと発展、印刷本の百科事典の課題であった敏速な増補改訂を可能とした。現在『グロリア電子百科事典』は本体の3万9000項目に加え、初級学習者向けの『知識の本』The Book of Knowledgeおよび専門家向けの『アメリカ百科事典』Encyclopedia Americanaを加えた会員制の総合百科事典サイト『グロリア・オンライン』Grolier Onlineとして機能している。
このほか1990年代前後のアメリカでは、パーソナルコンピュータ(パソコン)の急速な普及を背景に、ビデオ映像、アニメーション画像などマルチメディア機能を加えた『コンプトン百科事典』Comton's Interactive Encyclopedia、言語辞書と百科事典を兼ねた『ウェブスター・インタラクティブ百科事典』Webster's Interactive Encyclopedia、各種の記録的な数字をベースとした『ギネス百科事典』The Guiness Encyclopediaほか多数の企画が出現、8万2000項目を収録する学術的な百科事典『ブリタニカCD-ROM』Britanica CD-ROMや『ブリタニカ電子索引』Britanica Electoronic Indexなども、いち早くインターネットとリンクが図られた。この時点までは活字版の電子化が常識であったが、1993年に出版資本以外の勢力としてパソコン業界の大手マイクロソフトが参入、企画段階から電子出版を前提に本文を作成した『エンカルタ』Encartaを発刊した。当初は中百科事典なみの1万5000項目だったが、豊富な図版や地図をはじめ、音声、ビデオ映像、アニメーションなどを収録、10万か所以上のリンクを行った点が特色である。
ヨーロッパ各国においては、まずイギリスで1991年に2万7000項目を収録した『ハッチンソン電子百科事典』Hutchinson Electoronic Encyclopediaが刊行され、以後の改訂を経て現在5万3000の項目と4000の図版を収めた『ハッチンソン・マルティメディア電子百科事典2000』Hutchinson Multimedia Encyclopedia 2000となっている。フランスでは辞典を含む11万5000項目の『アシェット・マルチメディア百科事典』Hachette Multimedia encyclopédie、ドイツでは『マイヤース・マルチメディア百科事典』Meyer - Das multimediale Lexikon、イタリアでは『マルチメディア百科事典』Dizionario Enciclopedico Multimedialeなど、各国から電子百科事典が相次いで刊行された。
カナダでは『カナダ百科事典』Canadian Encyclopediaがマルチメディア的要素を十分とりいれたCD-ROMとして登場、現在はオンライン版も登場している。1996年に刊行されたロシア初の電子百科事典『キリル・メフォディア大百科事典』Болъшая энциклопедия Кирилла и Мефодияは8万項目の上に1万の図版を加え、ビデオ映像や音声資料などを収録している。そのほか、スペイン語の『サンティラーナ百科事典』『マルチメディア・ユニヴァーサル百科事典』やアラビア語(英語併記)の『Al Mawred Al Hadith Encyclopedia』などがある。
日本では1995年(平成7)、平凡社『世界大百科事典CD-ROM版』が、原本31巻に収録された9万項目、索引40万語、図版4200点などをそのまま電子化、次いで1996年小学館『日本大百科全書』(ニッポニカ)全26巻の電子ブック版が発売された。その後、前者は日立デジタル平凡社版『世界大百科事典プロフェッショナル版』として、後者は『日本大百科全書+国語大辞典』(スーパー・ニッポニカ)としてCD-ROM化(のちにDVD-ROM)、それぞれ大幅な増補が行われた。『ブリタニカ国際大百科事典』(TBSブリタニカ)も活字本に小項目事典の電子ブック版を付した(その後さらにCD-ROM版もセット化)。
1997年に刊行されたマイクロソフトの『エンカルタ97』日本語版は、本文1万7500項目のほかに6000点以上の図版、地図をはじめ、音声、ビデオ映像などを収録、検索機能も10万5000か所へのリンクをうたって、百科事典のマルチメディア化を促進した。これに対する日立デジタル平凡社版『マイペディア97』も、日本およびアジア関連の項目を重視した約6万2000項目に写真、絵をはじめビデオ映像、アニメーション画像、年表、地図、図鑑などの機能を加え、一時は電子ブック版やPDF版も刊行した。
インターネットの普及とその検索機能の進歩は、電子出版としての百科事典のあり方に大きな変化を促すこととなった。各国とも新しい利用者の需要を、よりいっそう迅速なデータ更新と、内容の総合化によって満たそうとしているが、そのためには大容量のDVD-ROMの利用はもとより、ネット上でのコンテンツ展開が常識化しつつある。日本でも『世界大百科事典』および『マイペディア』が会員制のサイト『ネットで百科@Home』(日立システムアンドサービス)に移行したのをはじめ、小学館版『日本大百科全書』の場合も、これを含む多数の辞書やデータベースによる同じく会員制の総合的知識探索サイト『JapanKnowledge』(ジャパンナレッジ)へと発展、現代の百科事典に要求される信頼性、網羅性、体系性に合わせ、迅速なデータ更新を実現している。