[現]大島村沖之島
沖ノ島の南部に宗像大社三宮のうち
祭祀遺跡は二三地点あり、遺物の豊富さと国際性の豊かさから「海の正倉院」ともよばれる。遺跡の発掘調査は昭和二九年(一九五四)から同四六年まで三次、合計一〇回にわたって実施された。遺跡は祭祀形態から四段階に区分できる。第一段階は岩上祭祀で、巨岩上に土砂や石あるいは刀剣で祭壇を設け、銅鏡・碧玉製腕飾・滑石製祭具・武器・工具などを置く。九枚を埋納した土坑も発見された。この段階では土器を用いないのが特徴である。遺物相は古墳時代中期の古墳副葬品と共通するが、質・量ともに地方豪族の内容を凌駕していて国家主導の祭祀であろう。四世紀後半から五世紀中頃に比定できることから、大和政権が半島出兵に際して戦勝と航海安全を祈願したものと解される。第二段階は岩陰祭祀で、岩陰の平坦地に直接奉納品を並べたり、礫砂による祭壇を設ける。奉献する範囲は庇の雨落線より外側には出ない。遺物は銅鏡・装身具・武具・馬具・土器・金銅製雛形祭器・滑石製祭具、古新羅系の遺物(金製指輪・金銅製馬具・鋳造鉄斧)、ササン朝ペルシア系の切子グラス碗があり、五世紀後半から六世紀代に位置付けられ一部は七世紀代にまで及んでいる。韓半島の新羅古墳の遺物が含まれることから、この段階が対朝鮮半島交渉とかかわる祭祀であることを示す。この段階が最も沖ノ島祭祀の活発な時期である。
第三段階は半岩陰・半露天祭祀で、岩陰だけでなく雨落線より外側にまで奉納品を並べる。遺物は祭祀土器・装身具・武具・工具・金銅製雛形祭具(人形・矛・斧・鏡・琴・鐸・紡織具・櫛・容器)・滑石製祭具・金銅製竜頭(東魏時代)・唐三彩など、七世紀から八世紀初頭のものである。全体的に祭祀専用品に比重が傾き、葬と祭が分化する様子がうかがえる。紡織具や容器、人形などの金銅製雛型祭祀品は伊勢神宮の神宝と共通する先行形態であるところから、律令的な祭祀の原型といえる。舶載品は遣唐使などの対中国交渉を反映して古新羅系から中国系へと交替する。第四段階は露天祭祀で、巨岩を離れた完全な露天場所の緩斜面に外郭を石垣状に囲んだ壇を設けて祭壇を形成する。一号遺跡は約一〇メートル四方の最大の壇状遺構を設ける。遺物は八稜鏡・銅鈴・武器・工具・容器(奈良三彩小壺・銅碗・銅皿・須恵器・土師器)・金銅製雛形祭具(儀鏡・紡織具・鐸)・滑石製形代・皇朝銭(富寿神宝、八一八年初鋳)などで、八世紀から九世紀に比定できる。滑石製形代の出土量が多くなることや日本色が強くなることから律令制祭祀の確立期であることを示す。このように沖ノ島祭祀の変遷は当初の巨岩信仰から離れ、祭祀の場が巨岩とはまったく別に形成されていく過程を示している。また第一・第二段階の遺物は古墳副葬品と共通し、まだ祖先を神として崇拝する祭祀と同じ葬祭未分化の状態であるが、第三段階以降は古墳副葬遺物と同じものから祭祀専用の奉納品へと重点が移り、神自体への信仰である古代律令的祭祀への推移が顕著に見てとれる。沖ノ島祭祀は宗像氏の私的祭祀に加えて幾内政権の国家的祭祀がかぶさるという二重の構造である点が特徴で、その時々の国際的な交渉・緊張関係と国内の祭祀形態の変遷をもうかがうことのできる第一級の遺跡として位置付けられ、一二万点に及ぶ筑前国宗像神社沖津宮祭祀遺跡出土品は国宝、国の重要文化財に指定されている。
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