劇と語り物の接点に立つ舞台芸術。その最も円熟した形態が,現在文楽と呼ばれる,義太夫節浄瑠璃に合わせて,三人遣いの人形が操られるものである。なお,音楽史の側面は〈義太夫節〉の項目を,また歌舞伎への影響については〈歌舞伎〉の項目のうち[人形浄瑠璃との交流]を参照されたい。
人形浄瑠璃の歴史
成立
浄瑠璃は,三河国矢矧(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃姫と牛若丸の恋物語で,《十二段草子》とも呼ばれ,中世後期から近世初期に多くの絵巻や草子に書き留められたが,本来は三河の巫女たちによって語られた女主人公をめぐる鳳来寺峰の薬師の霊験譚であったといわれる。その成立については,少なくとも1474年(文明6)ころには,薬師如来の申し子である姫の誕生,牛若との悲恋,死と成仏を語る現在の《しゃうるり御前物語》(山崎美成旧蔵)のごとき長編が都で行われていたと考えられ,1世紀余りのちの〈文禄から慶長への交〉には,外来の三味線を伴奏楽器として,傀儡子(くぐつ)の人形戯と結んで,人形浄瑠璃が成立する(《絵巻“上瑠璃”》および《しゃうるり十六段本》所収の信多純一説)。そのころには,すでに浄瑠璃姫物語以外の新作や幸若(こうわか)の曲目が浄瑠璃の節で語られ,〈浄瑠璃〉は一作品名から一語り物ジャンルの名称に転じていた。
→傀儡 →語り物
古浄瑠璃--1590年代~1680年代
《東海道名所記》は,人形浄瑠璃成立当初,京で幸若物の《鎌田》や浄瑠璃の新作《牛王(ごおう)の姫》《あみだのむねわり》が演じられたと伝え,《三壺聞書》は,1614年(慶長19)金沢でも《浄瑠璃姫の十二段》とともに《あみだのむねわり》《牛王の姫》が演じられたという。以後,三都で多くの古浄瑠璃太夫が一流を編み出したが,17世紀前期までの曲には中世的作風が色濃く残存していた。
古浄瑠璃に,近世演劇的方法を最初に打ち出したのは,江戸の和泉太夫(丹波少掾)らによる金平(きんぴら)浄瑠璃である。中世以来の鬼退治で名高い源頼光主従の武勇譚,いわゆる四天王物を母体としながら,坂田金時の子金平という超人的勇力の持主を新たに主人公に設定し,彼を中心に源家一統とその対立者との抗争を描く金平浄瑠璃は,稚気と行動力に満ちた金平のめざましい活躍,和泉太夫の豪快な語り口が江戸の庶民を引きつけ,爆発的人気を呼んだ。和泉太夫の正本(しようほん)に岡清兵衛という作者署名の存することも画期的である。浄瑠璃史では金平物と同傾向の四天王物も含め,58年(万治1)和泉太夫・岡清兵衛の《宇治の姫切》以後,江戸,上方を通じ約170種の正本を金平浄瑠璃に数えている(室木弥太郎《語り物--舞・説経・古浄瑠璃--の研究》参照)。
金平浄瑠璃の主人公が明確な意志をもって源氏を脅かす謀叛人や妖怪と闘い世を泰平に復せしめる構想は,運命にもてあそばれる主人公の悲哀を詠嘆する中世的語り物とは異質で,単純ながらドラマの基本線が認められる。大坂で《頼光跡目論(あとめろん)》など金平物を得意とした井上播磨掾の門下から,竹本義太夫が生まれたのも故なしとしない。しかし中世色の濃い説経風の古浄瑠璃,角(かく)太夫節なども民衆の根強い支持を保ち,他方,古典的な優雅な題材を扱いつつ現代風俗をも摂取して浄瑠璃の地位を高めた宇治加賀掾は,近松初期の作品《世継曾我》(1683・天和3)などを演じ,古浄瑠璃と義太夫節の橋渡し的存在となった。
近松・義太夫時代--1680年代~1720年代
宇治加賀掾のワキをつとめていた竹本義太夫(筑後掾)は1684年(貞享1)大坂道頓堀,現在の浪花座の位置に竹本座を創立,歌舞伎と肩を並べる現代劇としての義太夫節を創始した。義太夫節は,古浄瑠璃に比べ,詞が写実的に語られ,地の文も一字一句詞章に即し綿密に節付けされ,単に優美・哀調・豪快等の情趣を漂わせる以上に,劇的緊張感の醸成に最も注意が払われる。それは語り物とはいえ,ドラマの本質を備えた戯曲を得てはじめて真の達成をみるべきものである。
85年近松門左衛門が義太夫の門出を祝って執筆した《出世景清》は,孤独の勇者景清と彼を愛するゆえに裏切りを犯す阿古屋との深刻な葛藤を扱い,義太夫節の出発点にふさわしい,近世悲劇(広末保《近松序説》参照)の本質を備えた作品であった。1703年(元禄16)近松・義太夫コンビによる最初の世話浄瑠璃《曾根崎心中》が上演され,人形浄瑠璃の現代劇化はいっそう推し進められた。貧しい手代と下級遊女の真摯な恋が封建社会の種々の規範と対立し,主人公たちが死をもって恋を貫こうとする構想には,近世悲劇の典型が認められ,以後近松は《堀川波鼓》《冥途の飛脚》《心中天の網島》《女殺油地獄》《心中宵庚申》など24の世話浄瑠璃を著した。18世紀初期に,無名の庶民を主人公としながら悲劇の風格を備え,イプセンの近代劇と相通ずる,時・所・筋の三一致的扱いが認められるなど,近松世話浄瑠璃は世界演劇史的観点からも高く評価されている。同時に近松は,雄大,華麗に時代物にも健筆をふるい,《酒呑童子枕言葉》《傾城反魂香》《平家女護島》など100作近くを著したが,特に15年(正徳5)《国性爺合戦》は,17ヵ月続演の画期的大当りをとり,初代義太夫没後の竹本座の基礎を固め,この成功を契機として,18世紀前半の上方演劇界で,浄瑠璃は歌舞伎を圧し,現代劇の首座を占めるに至る。
浄瑠璃全盛期--1720年代~1751年
1703年初代義太夫の門弟豊竹若太夫(越前少掾)は,竹本座から独立し豊竹座を創立,持ち前の美声と経営的手腕で地歩を固め,初代義太夫,近松没後の浄瑠璃界は竹豊両座対抗の時代を迎えた。両座の競争により浄瑠璃界はいっそう活気を帯び,享保後半~寛延期(1726-51)25年間に,現在の文楽や歌舞伎の主要演目となる名作が次々と初演されるが,近松・紀海音(1723年(享保8)以前の豊竹座作者)時代と異なり,これらの作品の多くは合作制により生み出された。34年人形に三人遣いが考案され,人形浄瑠璃の写実的傾向はいっそう強まり,特に竹本座の人形遣い吉田文三郎は人形が〈生きて働く〉と絶賛され,彼の考案した演出,衣装などは,現在まで文楽,歌舞伎の舞台に生き続けている。文三郎が立役(男性)を得意としたのに対し,豊竹座の藤井小三郎,小八郎は名女形遣いと謳われた。この人形の芸風の違いは,太夫の曲風とも関係する。竹本座の座頭2世義太夫(竹本政太夫,播磨少掾)は質実剛健な語り口(西風と呼ぶ。音階的には陰旋法)で男性を語るに適し,初世豊竹若太夫は花やかな語り口(東風,陽旋法)で女性の表現に適していた(近石泰秋《操浄瑠璃の研究》参照)。
この期を代表する作者は並木宗輔(千柳)である。享保後期から豊竹座にあって,《苅萱桑門筑紫(かるかやどうしんつくしのいえづと)》《和田合戦女舞鶴》《奥州秀衡有壻(うはつのはなむこ)》など,女性が活躍する作品を書いたが,社会の矛盾や人間の罪業を鋭く見据え,特に封建社会で人格を認められない女性の苦悩をえぐり出し,悲痛な作品が多かった。若太夫はこの暗い戯曲に派手な東風の節付けを巧みに施し,興行的にも成功を収めた。一方,竹本座では近松門下の文耕堂,初世竹田出雲(竹本座経営者兼作者)らが,2世義太夫の質実剛健な語り口にふさわしい,英雄的な男性主人公の活躍を力強く描いた(《ひらかな盛衰記》など)。45年(延享2)両座の太夫の世代交替を機に,並木宗輔は竹本座に移り,2世竹田出雲,三好松洛らと合作《菅原伝授手習鑑》《義経千本桜》《仮名手本忠臣蔵》など,時代物の最高傑作を次々に著し,文三郎の人気と相まって人形浄瑠璃は隆盛の極に達し,〈歌舞伎はなきが如し〉とまでいわれた。これらの合作では出雲,松洛らが親子の情愛の描出に力を注ぐ一方,並木宗輔の作風もかつての暗さが薄れ,歴史と宿命の前に微弱な存在にすぎぬ人間の営みを,無常観をもって淡々と描くようになった。
古典化時代--18世紀後期以後
人形浄瑠璃は劇と語り物の接点に立つ舞台芸術で,中世的語り物の域を脱し,近世興行界で歌舞伎と鎬(しのぎ)を削っていくには,演劇性,写実性の大幅な摂取が必要であったが,その面に徹すれば語り物の本質が失われる。人形操法,太夫の語り口が,演劇的,写実的に発達し切った1740年代に,並木宗輔の戯曲は,叙事詩的時間処理に留意し,無常観を根底に置くことで,劇と語り物の最後の均衡を保ち得たが,近代への胎動が兆す18世紀後期の作者近松半二は,語り物の思想である無常観を排し,主人公の主体的行為を追求する劇の方向を推し進め,《奥州安達原》《本朝廿四孝》《妹背山婦女庭訓(おんなていきん)》《伊賀越道中双六》など,ダイナミックで絢爛たる舞台を繰りひろげた。しかし1765年(明和2)に豊竹座,67年には竹本座が退転し,半二没後,特に19世紀以後は新作にみるべきものはなく,人形浄瑠璃の現代劇の時代は終わった。
このころより,人形浄瑠璃は三味線音楽の発達(朱と呼ばれる譜を発明)と相まって,芸の練磨・伝承に重点が置かれ,古典化の途をたどる。ただし人形浄瑠璃の観客数は必ずしも減少したわけではなく,大坂市中には群小座が分立し,その中から19世紀初頭に,高津橋南詰(現在の国立文楽劇場付近)に植村文楽軒が建てた小劇場が,後に難波神社境内に移り,文楽の芝居と呼ばれ,幕末・明治期人形浄瑠璃界の中心勢力となり,1909年(当時,御霊(ごりよう)文楽座)に経営が植村家から松竹合名会社に移って以後も,文楽座の名称は残り,大正・昭和ころから〈文楽〉は人形浄瑠璃の代名詞となった(祐田善雄《浄瑠璃史論考》参照)。
→文楽
明治期の人形浄瑠璃
1872年(明治5),文楽軒の小屋は文楽座と名乗るが,当時,すでに文楽座は他座に抜きん出た大一座であった。しかし,84年,群小の人形芝居小屋が合同して,前年の内紛によって文楽座から脱退した三世竹本大隅太夫,二世豊沢団平らを擁し,大阪の中心地船場博労町に彦六座を開場した。一方,文楽座も,同年,小屋を彦六座の近くの船場平野町御霊神社境内に移し,御霊文楽座と名乗って,二世竹本越路大夫(のちの竹本摂津大掾)を中心に七世竹本津太夫,五世豊沢広助,初世吉田玉造,初世桐竹紋十郎らの陣容を整え,これに対抗した。こうして,両座が競合する明治期の大阪人形浄瑠璃の黄金時代が現出する。中江兆民は,この時期に輩出した名人たちの芸を評して神技・三絶といっている(《一年有半》)。しかし,93年,彦六座は消滅,あとを継いだ稲荷座も,98年,名人団平の急死によって閉場し,活動写真などの他の大衆娯楽に押されながら,大正期以降,人形浄瑠璃の芸の伝承は文楽座で行われることになる。
→文楽
人形の操法と仕掛の変遷
大江匡房(1041-1111)の《傀儡子記(くぐつき)》によると,日本の人形芝居は中国から輸入された傀儡子(くぐつ)まわしが起源とされる。福岡県の古表神社,大分県の古要神社に残る相撲人形に古形を見ることができる。世界の人形劇の操法には(1)手遣い,(2)指遣い(ギニョル),(3)糸操り(マリオネット),(4)棒遣い,(5)幻灯人形,(6)からくり人形,(7)写し絵の七つがあるが,人形浄瑠璃に用いられるものは手遣いで,日本独特の操法といわれる。人形の下から手を突っ込んで遣ういわゆる一人遣いから二人遣い,三人遣いの3方法がある。1703年(元禄16)に《曾根崎心中》のお初を遣った辰松八郎兵衛は突込み人形の名人といわれるが,彼はこのほか,片手人形や手妻(てづま)人形を遣ったという。片手人形は,人形の胴の背後から手を入れて片手で遣ったところから名付けられたが,ときには両手で2体,3体,5体,7体の人形を遣った。また体内に細工した糸を引いて男人形,鬼神,観世音と手品のように変化させる手妻人形もあり,元禄期(1688-1704)にはその名手に山本飛驒掾がいた。一人遣いの形式は,文楽のつめ人形や東京八王子の車人形,乙女文楽に残っているが,手妻人形の背後から手を差し込み引き糸で首を動かす方法は,やがて三人遣いに発展した。
今日の文楽のような三人遣いは元禄期の江戸孫四郎座にもあったが,本格的に活用されたのは1734年(享保19)の《蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)》の与勘平・野干平の人形からである。近松門左衛門の浄瑠璃はすべて一人遣いの突込み操法であった。人形操法の工夫・改良は,竹本座の名手吉田文三郎,近本九八郎,豊竹座の若竹東工郎,豊松藤五郎の力に負うところが大きい。立役の人形に足を付け始めたのは《源氏烏帽子折》の金王丸のときとも,《世継曾我》の朝日奈のときともいわれるが,享保(1716-36)から延享年間(1744-48)にかけて,人形の写実性を高めるさまざまな発明工夫がなされ,人形浄瑠璃は全盛期を迎えることになる。
以下その発明工夫の過程を年代順にあげる。(1)人形の口開き,目ふさぎ,五指動く工夫が,1727年(享保12)豊竹座の《摂津国長柄人柱》の入鹿から。(2)人形の目の動く仕掛が,30年豊竹座の《楠正成軍法実録》の和田七の人形から。(3)人形の指先の動く仕掛が,33年竹本座の《車還合戦桜》の大森彦七の人形から。(4)三人遣いが,34年竹本座の《蘆屋道満大内鑑》の与勘平・野干平の人形から。(5)眉の動く仕掛が,36年(元文1)竹本座の《赤松円心緑陣幕》の本間入道の人形から。(6)2倍の大きさの人形が,36年豊竹座の《和田合戦女舞鶴》の板額の人形から。(7)立役人形の屛風手(〈数の子手〉ともいい,5本の指を革でつなぎ蝶番(ちようつがい)のように動かす)が,47年(延享4)豊竹座の《悪源太平治合戦》から。(8)耳の動く仕掛が,47年《義経千本桜》の狐忠信から。
人形の首
人物の性別,老幼,性格,境遇などに応じて,男の首(かしら)には,老年に〈鬼一(きいち)〉をはじめ9種,中年には〈文七(ぶんしち)〉をはじめ20種,若者には〈源太(げんだ)〉をはじめ5種,あわせて34種がある。女の首は,老年に〈婆(ばば)〉をはじめ3種,中年に〈老女形(ふけおやま)〉をはじめ4種,若い女性には〈娘〉をはじめ7種,あわせて14種がある。このほか,〈景清〉〈丞相(しようじよう)〉などの,一役一首で他に流用されることがほとんどない特殊な首が6種,これに新作ものの首を加えると24種になる。
立役首には,悲劇の主役に使われる〈文七〉,悪公家の〈口開文七(くちあきぶんしち)〉をはじめ時代物の荒物に使われる〈大団七(おおだんしち)〉,ならず者の〈小団七〉,武将から町人まで広く使われる〈検非違使(けんびし)〉,二枚目の〈源太〉などがある。立役首の名称は,初演の役名からとられたものが多いが,これに対して女形の首は,役名が付けられたものは少なく,種類も少ない。〈娘〉は丸顔と細面と表情にやや違いがあるが,時代物と世話物の区別なく使われる。《曾根崎心中》のお初などには,目を閉じる仕掛の〈ねむり娘〉が使われる。また,天保(1830-44)のころの名人笹屋芳兵衛作と推定される〈笹屋〉は普通の〈娘〉にくらべると細面で目が細く,三姫に使われる。
特殊な首としては,盲目の〈景清〉,〈丞相〉,美しい娘の形相が変わる〈がぶ〉,〈玉藻前(たまものまえ)〉などがある。〈文七〉にもいろいろのものが用意されていて,現在,文楽協会に約300個の首がある(図参照)。 首の塗りは,年齢,性格によって区別され,白,薄卵,卵,濃卵,猩臙脂(しようえんじ)が塗られる。たとえば,〈文七〉は白塗りが定法(《菅原》の松王丸,《太功記》の光秀)だが,役によって薄卵塗り(《一谷》の熊谷など),卵塗り(《八陣》の朝清など)の場合もある。
首の仕掛には,眉の上下する仕掛,目の開閉する仕掛,寄り目,引き目,寄せ目の仕掛などがあり,ごくまれに,鼻や耳の動くもの,口の開閉する仕掛のものもある。眉には描き眉と付け眉があるが,描き眉には,美しい弧を描いた〈源太〉や〈若男(わかおとこ)〉の眉,太く猛々しい〈小団七〉の眉,どっしりした知謀をあらわした〈べらぼう眉〉,きりっとした武士眉,細く優美な娘の眉,老女形の青眉がある。付け眉は黒毛のほかに,白と胡麻があり,眉尻の毛を揃えたものと伸び放題のじぞろにしたものがある。いずれも役柄に応じたものである。
人形の鬘と衣装
髪型も,性別,年齢,職業,地位によってそれぞれきまった型がある。初期の人形芝居は鬘(かつら)/(あたま)に毛を直接うえていたが,安永(1772-81)のころから随時つけ替える便法が考案された。立役鬘は髷油付き(まげあぶらつき)のものと髷結い上げものに大別され,時代物と世話物の双方にさまざまな種類がある。また,前髪にも数種あり,鬢(びん)の種類も直鬢(じきびん),中鬢,低鬢をはじめ多種あり役柄によって異なる。前髪の左右に短い毛のさがっているものを〈しけ〉というが,女形の首にもこれがつくものもある。女形鬘には,下げ髪,切髪,馬の尻尾があり,ほかに,〈型もの〉〈島田もの〉〈丸髷もの〉〈(こうがい)もの〉などがある。子役の鬘は男の子の〈がっそう〉,女の子の〈三方下り蝶々髷(ちようちようまげ)〉など数種ある。
人形の衣装は専門の衣装担当者が付帳を各段について書き入れる。たとえば,《一谷嫩軍記(ふたばぐんき)》の熊谷直実なら文七首,黒鵞絨半腰,向い鳩紋付,赤地金襴雲丸竜裃,向い鳩紋付,白衿,浅葱(あさぎ)中衿となる。原則として公家は衣冠・束帯,大名は大紋,勇者には黒天の着付に赤地金の裃,若武者には華美な熨斗目(のしめ)の織紋,町人の老人は茶無地の着付,町人の若者は浅黄立縞の着付,百姓は木綿縞,女は片はずしの政岡なら緋緞子(ひどんす)の着付に紺金の帯,黒綸子(くろりんず)竹刺繡の裲襠(うちかけ),立兵庫(たてひようご)の傾城なら赤縮緬平金散し胴ぬき着付,黒綸子鯉滝などの刺繡裲襠,鮟鱇(あんこう)帯,赤帯揚鴇(とき)しごき,白綸子衿,赤返し衿,赤湯具,お七髷の娘なら段鹿子振袖の着付,島田髷の女房は鳶石持(とびこくもち)と大体きまっている。舞台における人形の衣装の色の配合はまことによく考えられていて,《仮名手本忠臣蔵》の山科閑居の段は,お石は黒,戸無瀬は赤,小浪は白の着付と,同じ女性でも区別されている。また《義経千本桜》の佐藤忠信の源氏車の紋や,《仮名手本忠臣蔵》の大星由良助の二つの巴の文,《夏祭浪花鑑》の団七九郎兵衛の白木綿茶弁慶染の浴衣,《菅原伝授手習鑑》の梅王・松王・桜丸の三つ子の白繻子(しろじゆす)柴童子格子着付(梅王は赤縮緬梅の台付ぬいかけ,松王は白繻子松繡(しようじゆ)ぬいかけ,桜丸は赤縮緬桜台付ぬいかけ)と初演のときからきまっているものが多い。
胴,手,足
魂をもつ人間以上に美しい姿や勇ましい動作をする人形も,衣装を脱がすと単純な構造である。人形の胴は肩板と腰輪とそれをつなぐ布切れからなり,肩板の両端に,衣装をつけたとき肩のふくらみを作るへちまがつけられている。また立役の肩板は真ん中が切り抜かれていて別に吊肩があり,手足は両肩から紐でぶら下がっている。人形遣いは腰輪の下から左手を差し込み,人形の胴串を握る。腰輪の右側に突上げの棒と呼んでいる約30cmの短い竹の棒があり,突き上げて巧みに強さを表したり,人形の重みを支えたりする。女の人形は肩板も腰輪も小さく,原則として足はつけない。また初世吉田栄三は腰輪に帛魂(きぬたま)という綿入れの袋をつけて女のふくよかな色気をつけていたが,今日では衣装の裾に綿入れの腰蒲団を縫いつける。
人形の手は首と同じように檜でつくり,塗色は首に合わせて塗る。大別して手首の動くものと動かぬもの,指の動くものと動かぬものがある。手の種類は〈かきつばた〉〈チャリ手〉〈摑(つか)み手〉〈たこ摑み〉〈かせ手〉〈蠅叩き手〉〈さぶた手〉〈女手〉〈婆手〉〈子役手〉の10種類のほか,〈三曲手〉(琴手,撥(ばち)手,三味線手),〈狐手〉など24種の特殊手がある。人形の手は物を持つことができないので,右手首にU字型の指革に人差指を差し込んで人形遣いが自分の五指で持つ。また左手には差金(さしがね)という棒がついていて,この差金にある小猿の左右を引くと手首や指が動き,左手が物を持つときには左遣いが左手で持って左手指のそばに持っていく。
人形の足は原則として男だけにつけ,女は裾さばきで歩く姿を見せる。ただし〈草履打〉の岩藤や〈奥庭〉のお初,《曾根崎心中》のお初には足がつく。足には〈文七〉〈丸め〉〈源太〉〈きれもも〉〈もも長〉〈中足〉〈女足〉〈子役足〉〈藁足〉の9種と,特殊足として〈狐足〉〈景清足〉〈熊足〉があり,人形を軽くするためこれらは桐でつくられている。
人形の操法
文楽は主(おも)遣い,左遣い,足遣いの3人が一つの人形を遣う,いわゆる三人遣いを原則とする,世界でも類例のない人形劇である。文楽の番付には主遣いの名しか書かれていないが,人形頭取(とうどり)の持つ〈小割帳〉には3人の名が記載されている。主遣いが人形の胴の後ろの帯の下から左手を突っ込んで人形の首の胴串を掌で支え,小指と薬指で握る。中指は引栓を引いて首をうなずかせ,親指と人差指で小猿を引いて人形の眉,目,口を動かす。また親指で肩板を上下させて人形の息づかいを見せる。左手で人形を支えるときは,淡路人形が肘(ひじ)を曲げずに人形を持ついわゆる鉄砲差しとは違って,二の腕を水平にして肘を垂直に曲げて人形を直立させる。重い立役の人形を長時間支えるために胴に付いた突上げを使い,胸か二の腕に当てる。主遣いは足遣いが遣いやすいように大(1尺2寸,36cm),中(8寸,24cm),小(5寸,16cm)の高下駄(たかげた)をはいて人形を高く支える。
左遣いは人形の左手の差金を右手で持ち,空いた左手で人形の胴を支えて主遣いを助けたり,刀などを持ち添えたりする。足遣いは足の後ろに付いた鍵型の足金を握って足を動かし,女の人形は衣装の裾の裏を持って裾さばきをして歩かせる。また女の人形の立膝するときには,足遣いが衣装の下で右腕を立て握りこぶしをして膝があるように見せる。足遣いは主遣いの腰に右腕を軽くつけてその腰のひねりを感じとり,人形の首を見上げて人形の動きを知り,足拍子を踏むなどで,人形の舞台の独特の雰囲気をつくりだす。
一人前の人形遣いとなるために足遣い10年,左遣い10年の修業を経たのち主遣いとなり,さらに10年の努力が必要であるとされている。なかには,一生足遣いや左遣いや〈つめ〉遣いで終わる人もある。
人形の型
人形の操法には泣いたり,笑ったり,怒ったりする動作のほかに,さまざまな型がある。たとえば,女の人形の〈くりず〉は,頭(ず)を刳(く)ることで,主として娘や老女形の首に遣われ,右へ〈くりず〉をしようと思えばいったん左に首をやり,顎(あご)をおとして右へ首を回して女の切ない,やるせない思いを表す型である。また,〈うしろぶり〉は,女の恨みごとや悲しみが頂点に達したときにする女形独特の美しい後ろ姿である。
立役の代表的な型としては,〈団七走り〉〈ギバ〉〈六方〉〈打込(うちこみ)〉〈石投げ〉などがある。〈団七走り〉は,武将が押し寄せる敵軍を偵察するため,松の大木に登ろうとして駆け行く型で,左右の手を大きく交互にふって走りだす。いったん前の手を胸に引き付けてから後ろにふるのが人形独特の豪快さを発揮する。〈ギバ〉は,尻をついて両足を開き出す型で,両足を前に投げ出し肩で大きく息をつく。〈打込〉は,刀で渡り合う型で,戦闘の場に用いられ,足拍子が入るのが特色である。
こうした典型的な動作のほかに,歌舞伎と同様に,〈大玉造〉と呼ばれた初世吉田玉造の〈いがみの権太〉の型,〈沢市〉の型,初世桐竹紋十郎の〈重の井〉の型,初世吉田栄三の〈弁慶〉〈治兵衛〉の型,また名人といわれた吉田文五郎の〈お園〉の型など,特定のすぐれた人形遣いの演出が伝えられている。
舞台の様式
古浄瑠璃の舞台には次の5種の様式が存在した。(1)人形を高くあげ,人形遣いは見物に姿を見せない。杉山丹後掾,山本土佐掾,井上播磨掾の芝居に見られる。今日も佐渡の野呂間人形に残っている。(2)人形遣いが上半身を上幕と勾欄(こうらん)(手摺)の間に出している一種の出遣い形式で,土佐少掾,和泉太夫,江戸半太夫,伊勢大掾の舞台に見られる。(3)舞台が3段になり,本手が幕で,二の手,三の手は手摺(てすり)になっている。井上播磨掾の舞台に見られる。(4)二の手,三の手の手摺が平面になっていて糸操りを併用し,付舞台もある。井上播磨掾の芝居に見られる。さらに花道もあり,付舞台や花道で出遣いをする様式もある。宇治加賀掾の芝居に見られる。(5)初期の特殊な三人遣いの舞台で手摺に平面の台がついている。江戸孫四郎の舞台に見られる。
こうした古浄瑠璃時代の様式から,近松時代,完成期にかけて,舞台の様式は洗練され機構も確立をみる。すなわち1694年(元禄7)の《本海道虎石》で捩子手摺(もじてすり)が工夫され,人形の遣いようを見せ,つくり舞台をつけることになるが,1705年(宝永2)の《用明天王職人鑑》で後世の人形芝居の舞台形式の基本が確立する。やがて17年(享保2)の《国性爺合戦》で大幕の上に小幕を引きはじめ,20年の《信州川中島合戦》で張抜きの本山をつくり,28年の《加賀国篠原合戦》では正面の太夫の床を横にした形式が確立する。さらに宝暦期(1751-64)には,水からくり,セリ,大道具などにさまざまな工夫が凝らされ,人形浄瑠璃は黄金時代を迎えるのである。その完成された舞台は《戯場楽屋図絵拾遺》(1802)に集成されている。明治期に入ると,吉田玉造らによる何段返しや宙づりなどの工夫が加わり,今日の舞台に引き継がれるのである。
現代の舞台
文楽の舞台は歌舞伎や他の演劇の舞台とはまったく異なり,庭もなければ座敷や廊下もない。ただ背景のほかには舞台横から見ると3枚の長い手摺が真っ直ぐに走っているだけで,背景に近い板の間の本舞台(二重という)とその前の手摺(本手。二重の手摺という)を境に一段低い板の間(舟底)があるだけである。
主遣いは高い舞台下駄をはき,足遣いは始終中腰になって足を遣うため,普通の役者の舞台と同じであれば人形は宙に浮き,人形遣いたちの姿は3人とも観客に丸見えになってしまう。そこで,人形が庭や畳の上や廊下を歩くように見せるために,主遣いと左遣いは上半身だけを見せ,足遣いは姿を見せないよう低い姿勢で手摺の下で動き,人形の足が二の手摺(舟底の手摺の上端)にくるように遣う。このため舟底の手摺に道路や廊下や畳を描くと,観客席からは人形が街道や座敷を歩いているように見えることになる。また一段高い本手(二重の手摺)に敷居が描いてあると二重が座敷や御殿となる。そこから段を下りて庭(舟底)へ出る場合には引割りといって黒衣の手伝いが引くと,一時空間ができたりまた階段が左右に別れて,人形遣いは段を下りるように遣いながら左遣い,足遣いもろとも舟底へ出る。これは手摺を人形もろとも3人の人形遣いが乗り越えることができないところから工夫されたものである。
なお,1984年3月に開場した国立文楽劇場は,中劇場が全席753席で,花道をつくると677席,出語り席を設けると731席となり,小ホールは159席という規模である。中ホールの舞台設備は,間口17.5m,高さ6m,奥行き18.5m,緞帳(どんちよう)3本,回り舞台,花道,出語り床,舟底,迫り,大セリ1台。
地方の人形浄瑠璃
文楽の源流ともいうべき淡路の人形浄瑠璃をはじめ,日本の各地にはさまざまな人形芝居が伝承されてきた。特に,義太夫節を用いる淡路と阿波の人形浄瑠璃はその代表的なもので,歴史も古く,広範囲に影響を及ぼした。淡路人形浄瑠璃における職能的な操り座の成立は寛文年間(1661-73)といわれるが,遅くとも古浄瑠璃時代には活躍していたことが明らかである。その行動圏は早くから島内にとどまらず,享保ころには,全盛期を迎えた竹豊両座に参加するものも出ていたと考えられる。さらに19世紀には,江戸,上州,北陸,紀州,九州などの諸国に回国行脚(あんぎや)が行われ,各地の人形芝居に多大な影響を与えた。三人遣いの操法や義太夫節がいつからとり入れられたかは確定しがたいが,現存する淡路人形浄瑠璃の演目には,文楽に残っていない作品も存在する。阿波人形浄瑠璃は,淡路の流れを汲み江戸末期に形成されたが,一時は淡路の人形浄瑠璃を圧倒するほどの勢いをみせた。淡路,阿波ともに,現在の人形は文楽の人形よりも大きいが,いずれも明治以降の変化で,古くは文楽人形よりもやや小さなものであった。
一方,古浄瑠璃を地とした文弥節の曲節による一人遣いの人形芝居が富山県(加賀文弥人形),鹿児島県(薩摩文弥人形),宮崎県(日向文弥人形),佐渡などに遺存した。加賀と薩摩は元禄期に上方から伝えられたといわれ,また日向は江戸後期に薩摩から伝来したとされている。佐渡の文弥人形は,明治初期に説経人形を改良してつくられたものだが,佐渡には金平浄瑠璃や説経節の流れも古くから伝わり,幕末の記録には,〈近松なにがしのつくれる浄瑠璃を説経とか云ふふしにて語る,いと鄙びたり〉とあるように,重層的で多様な人形浄瑠璃史が存在する。また,説経人形の間(あい)狂言として演じられた野呂間人形も残っている。
ほかに,一人遣いで,車のついた木箱に腰をかけて人形を遣う東京都八王子の車人形(説経節),二人遣いの埼玉県白久の串人形(義太夫節),指遣いの岩手県南部の軽石人形(義太夫節),一人遣いの千葉県袖ヶ浦の袱紗(ふくさ)人形(説経節)など,特色ある人形芝居が存在し,民衆芸能のありさまを連綿と伝えてきたが,その多くが保存と伝承を危ぶまれている。