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はんだぎんざん【半田銀山】

読者カード 項目 2025年01月15日 公開

2021年05月12日 古書人さん投稿

用例:〇此月岩代國伊達郡半田銀山、陸中國閉伊郡甲子村大橋鐵鑛山、橋野村鐵鑛山、佐比内村鎌ヶ峯鐵鑛山、栗村鑛山ノ四所ヲ官堀場ト為ス。〔鉱山・鉱山課・明治六年七月〕
『工部省沿革報告』 1889年 大蔵省(農商務省・会計検査院)編纂
語釈:福島県伊達郡桑折(こおり)町と国見町にまたがる半田山(標高八六三メートル)に開坑された銀山。発見は大同年間(八〇六―一〇)という。本格的な稼行は慶長期以降のことで、上杉・松平氏の領有のもとで断続的に経営されたが、資本・技術、特に鉱脈の存在状況に起因する坑道内溜水とその排水に行き詰まり、一定量の継続的産銀の確保は至難であった。寛延元年(一七四八)、当時さらに財政窮乏におちいっていた幕府は、この打開策として幕領の年貢増徴と諸鉱山の直接開発を企図し、その一環として半田銀山は幕領に編入された。当銀山は佐渡金山奉行の管理下におかれ、これは慶応二年(一八六六)まで続いた。この間、佐渡・石見・生野の各金・銀山の経営仕法や技術を結集して再開発を進めたが、意図した産銀量が期待できなかった。結局、地元の地主早田伝之助の経営に任せたが、坑道内溜水の排水、必要資材の高騰、坑道内火災とガス発生による十四人の死者発生など、経営が軌道にのらず、明治三年(一八七〇)閉山した。〈以下略〉〔吉川弘文館『国史大辞典』@JapanKnowledge〕

コメント:取り敢えず

編集部:第2版では、立項されませんでした。

著書・作品名:工部省沿革報告

媒体形式:単行本

刊行年(月日):1889年

著者・作者:大蔵省(農商務省・会計検査院)編纂

掲載ページなど:59ページ下段本文3行目(「明治前期 財政経済史料集成 第17巻ノ1」、1964)

発行元:明治文献資料刊行会