松井栄一(『日本国語大辞典』初版・第二版編集委員)
まつい・しげかず 1926年生まれ。国語学者。東京大学卒。前東京成徳大学教授。著書に『国語辞典にない言葉』など。
倉島 『日本国語大辞典』について、松井先生に伺うわけですけれども、その前に私の思い入れを最初に述べておきたいと思います。
『大日本国語辞典』あっての『日本国語大辞典』であり、またその第二版であると思います。松井先生のおじいさんに当たる簡治先生が『大日本』に注がれた情熱が、お父様の驥(き)さんに受け継がれ、さらに当代の栄一さんの情熱によって、『日国』及び、その第二版が支えられてきているわけです。
今日は順を追って、そのお話を伺いたいのですが、三代の辞書への情熱は共通するかと思いますけれども、お三方それぞれの別の個性もおありになったんじゃないかと思います。その辺のところを最初に、少しお話しいただけると。
松井 祖父は、私の知っている限りは、朝から晩まで、座り机に向かって何かしているという印象でした。今から思えば、やはり辞書の資料をつくっていたと思えるんですが、私の知っている範囲では、朝は七時か八時ぐらいになって起き出しているように思いました。それは既に『大日本国語辞典』ができ上がってしまってからの話ですけれども。で、夕食が七時ぐらいか、もしかしたら八時ぐらいだったのかもしれないんですが、私の父と一緒に酒を飲んで話をして、それが終わると九時過ぎには、もう床に入っていたと思います。わりあい夜は早く寝て、朝早く起きる習慣だったように思うんですが、実際に辞書をつくっているころは、祖父が書いているものによれば、非常に早いんですね。朝三時に起きて。
なぜ三時に起きて仕事をするかというと、大学に勤めておりましたので、もう八時とか九時には大学のほうの仕事が入ってくる。あるいは人が訪ねてくるとかということもあったようでして、仕事は大体、朝の三時に起き出して五時間というのを辞書の仕事に当てている。人が決して訪ねて来ない時間であるというので、それをずっと学校のある間じゅうは続けていたんだと思います。
それ以外、私の知っている範囲では、もう晩年ですから、体が弱ってくるのを防ぐために、体操をやっていたんですね。それは夕方の食事の前ぐらいに、足踏み体操みたいなのをやったり、手を動かしたりという軽いものでしたけれども、みんな孫たちは、また、おじいさんがやっているということで、それも何か非常に不器用というか、あまりスマートな体操ではなかったように覚えています。
祖父の性格は、どうなんでしょうかね、今から思えば、もう少しいろいろ話を聞いておけばよかったなという思いがありますけれども、父とは違っていたような気がするんですね。
私の父というのは、会社勤めが嫌になるとすぐやめるたちだったらしくて、最初、大学を出てすぐ勤めた所は一年ぐらいでやめたようで。上司とけんかしたと聞いているんですが。それで、その後、東京市役所に入って、これは何年かいたようなんですね。私が小さいころ、北海道の函館に一年ぐらいいたらしいんです。私は全く覚えていませんけれども、函館市役所に勤めていたと聞いています。父の履歴書というのがありまして、実は今日、それを一生懸命探したんですが、ちょっと見つからなくて持ってこられませんでしたけれども、内容は数枚にわたっているんですね。それはここは何年にやめて、こっちに勤めて、ここをやめて、また勤めてというので、戦争中も何カ所か変わっていました。勤めていない時代もあって、勤めていない時期というのは、祖父の辞書を手伝っているわけです。
で、私の母の話によると、父の月給がどのぐらいだったか全然知らない、渡されたことはないと。いい時代だったな(笑)と思いますけれども、みんな、祖父が出していたんだと思います。一緒に生活していましたから。
あのころの国立大学の先生というのは給料は非常によかったようですね。それからもちろん、辞書の仕事もありましたけれども、教科書の仕事がありまして、あれはやっぱり印税なんでしょうが、入っていたんだと思います。それで、親戚の者は大体、私の祖父を頼って来てまして、私の小さいころは大体、家で生活しているのは、お手伝いさんやなんかも含めて十一人とか十二人とか、そのぐらいだったんですね。私の父の姉というのが結婚して夫に死なれて、子供三人と一緒に家に戻っていたとか、そういうこともありますけれども、ほかに何かよくわからない親戚の人が居候していたこともありました。
まあ、そんなことで、父はわりあい、祖父と違って、いろいろと思ったように気ままにやっていたような気がするんです。
父は法科を出ていまして、だから、会社勤めに普通はなるわけですね。けれども、『大日本国語辞典』縮刷版のあとがきによりますと、十歳のころに祖父の辞書の原稿整理を手伝ったとか、大学時代に『大日本国語辞典』の三校を全部引き受けて、校正をしたとか、そういうことを書いていますから、わりに若いころから、もう祖父の辞書を手伝っていたということはあるわけです。
それで、国語・国文に関しても相当関心を持っていたようで、『国語と国文学』にも論文がありますし、『文学』という岩波の雑誌にも、『国語教育』という雑誌にも論文を出したりしていますので、一体、私のおやじは何をしていてたんだろう、という疑問がいまだにあるんですね。それで、法科を出て弁護士でもあったわけです。だから、弁護士の活動もしていた時期もあります。それから、東洋大学で中世法制史というのを教えていた時代もあるようで、さっぱりわからないんですね。(笑)
それで、大須賀乙字という俳人がいるんですが、この人に父の姉が嫁いでいるんです。それは最初の乙字さんの奥さんというのが早死なさったんで、その後妻という形で入っているんですけれども、そういう関係で、父は俳句もやっていまして、戦後は俳句、特に連句に興味があって、大分、連句の指導などもしているんですね。一体、いつ、そんなことを身につけたのか、これもよくわかりません。それは死ぬまでやっていたんですね。
私はどっちかといえば、祖父のほうに似ているのかなという気はします。というのは、父は非常に何でも書くのが早いんですね。死ぬ前一、二年、非常に大量に俳句雑誌に俳句の鑑賞とか、連句の修行欄とか、そういうものを連載しているんですね。それで仕事は衆議院の行政監察委員会という名前だったか、何かそういうのがありまして、そこに勤めるかたわら、そういうことをやったりしていて、非常にぱっぱと書けたらしいんですね。私はそういかないんで、祖父もほとんど、書いていませんから、私が祖父に似ているのかなという気がします。
まあ、そんなところですね。
倉島 簡治先生のことは皆さんよくご存じだと思いますが、お父さんの驥さんのことは今日初めて伺うようなことが多かったです。まさに今のお話ですと、国語・国文に関心が深くていらしたわけですので、栄一先生は当然、国語・国文のプロパーでいらっしゃるわけですけれども、「辞書の家」が三代続く様子がよくわかりました。
ではまず、『大日本国語辞典』の誕生から入っていきたいと思います。簡治先生がお生まれになって、東京へ出て来られて遊学中といいますか、いろいろなことを勉強されていた時代がちょっと長かったように思うんですけれども、どうでしょうか。
松井 ええ。祖父の古希のときに古希祝賀記念の記念誌というのがあって、ここに履歴のようなものが書かれているんですよね。何年にどうしたというのが出ていまして、それによると……。
宮内という銚子の銚港神社の神官をやっていたのが祖父の父親でして、もともと姓は宮内だったわけです。
で、銚子が当時、交通の非常に大事な港であったために、高崎藩がそこの警備を任されていたらしいんです。それで、その警備の主任のような形で、高崎藩の家来であった松井清というのが銚子にいたわけですね。高崎藩の飛地があったと聞きますけれども。そこに陣屋というところがあって、その陣屋詰めというのでいたんですね。
祖父の父親というのは神官で教養があったために、そこの高崎藩から来た人たちの師弟を塾のようなものを開いて教えていて、それでどうも目をつけられたらしいんですね。それで、松井清というのが子供が全然なかったので、養子に来てほしいと言われて、松井に入ったというわけです。
祖父の奥さんになった人は、松井清の子供がいないので、その弟の娘なんですね。弟の娘と私の祖父が結婚したんで、夫婦とも養子なんです。夫婦養子ということですね。結婚したのが明治十五年らしいんですが、明治十七年に長女が生まれた。どうも生まれたときには、もう上京しているようなんですよね。ちょっとここの前後関係ははっきりしませんけれども、家族は残したまま一人で東京へ出てきて、最初は英語を学んでいるようなんですね。私立英語学校というのがあったようでして、そこに入学して英語を学んだということになっているんです。
ところが、入学したのは私立英語学校と書いてあるんですが、二十二年に私立明治会学館というのを卒業しているんです。私立英語学校の名が改まって、私立明治会学館となり、そこを卒業したということなのか、何も書いてないんで、よくわかりません。あのころは、どうも名前がよく変わるんですよね。だから、多分、入学した学校の名前が変わったんだとは思うんですが。
で、卒業してすぐ、今の東大に当たるんですが、文科大学とそのころは言いましたが、文科大学の教育学科に入っているんです。これがまた特約生としてあります。これは必ずその後、学校の先生になって教えるという前提で入れるところらしいんですが、そこで今度は、国文とか漢文の教育学を学んでいるということになっています。けれども、これはどういうわけか、一年ぐらいで卒業なんですよね。
倉島 一回だけの……。
松井 そうなんですね。何か、もうそれっきりで、後の後輩たちがいないらしいんですね。
それで、卒業した年に嘱託として獨協の先生になっているんですが、同時に、国文学の選科生というのになっていて、これまた一年間やっているんですよね。文科大学国文学科選科生として在学というのが、明治二十三年なんですが、この辺の関係も実はよくわからないんです。
それで、明治二十五年になると、学習院の教授に既になっているんです。この学習院の教授になったときに、家族を銚子から呼び寄せています。これはどれにも記録がないんですが、市ケ谷の近辺に住まいがあったんだと思います。そういう話を聞いたことがあるんで、多分、市ケ谷だと思うんですね。それからしばらくして、関口駒井町という、ずっとその後、長いこと住まう場所に移っています。
倉島 今のお話で、上京されて、英語を学ばれたと。外国語をかなり勉強なさったんだと思うんですよね。それで、たまたま先ほどの明治二十年前後というのは、OED(オックスフォード大辞典)の第一巻がまとまるのが明治二十一年なんですね。正確には当時はまだNEDですが、上田萬年が、それを踏まえて『辞書論』を書いたのが二十二年ですよね。ですから、当時、文科大学に入られる前後に、簡治先生もOEDの第一巻をごらんになっているんでしょうね。
松井 多分、そうなんでしょうね。昭和女子大学で出している『近代文学研究叢書』に書かれているものによると、祖父は外国語学校をぜひつくるべきだと考えて、その運動を随分やっているんですね。それで一時できるわけです、外国語学校が。ところが、これがまた、経費の関係で一たん廃止されるんですね。それをまた復活しなきゃいけないんだということで、相当、運動をして、それで明治三十年に復興する。その後、非常に外国語学校が盛んになる。そういうことをやっているという記録があるんですね。だから、多分、外国語は必要だということで考えていたことは確かですね。
倉島 で、明治二十五年に学習院の教授になられて、ご家族を呼び寄せられて、居を構えられたと。そのころから、大辞典の編纂の志を立てられたと伺ったことがあるんですけれども、時期的にはそんなことでしょうか。
松井 多分、そうなんだと思いますね。『大日本国語辞典』の宣伝パンフレットによると、大体明治二十五年から約六年間、資料や参考書を収集したということですね。それから、その後五年間で索引を作成したということが書いてありますね。
ここに『書誌学』という雑誌の昭和十一年の七巻二号に祖父が出した『我が蒐書の歴史』というのがありまして、どうやって本を集めたかということが書いてあるんですね。これを読みますと、浅倉屋という書店が、東大に一番本を納めている。だから、これは浅倉屋という古本屋が非常にいいんじゃないかというので、浅倉屋から本を買うということにした。そのときに、大八車いっぱい、まず買う。それはどうも、あまりいい本はその中に含まれてなくて、それで約百円だったというんですが、その当時の百円は相当でしょうね。それを買って、もう一回、また一車持ってきたんで、これもあまりいい本はなかったんだけれども、七、八十円でそれも全部置いていけといって、そっくり買ったというんです。
それで、三度目に来たときに、もう二回、これだけつまらない本まで買ったんだから、多分、信用がついただろうからというので、それからは選んで、いいものだけを買うようにしたと。こういうことが書いてあるんですね。そういう買い方を昔はしているようです。
倉島 そうじゃなければ、あれだけの資料は集まらなかったでしょうね。
それで、ちょっと話は戻りますけれども、明治二十五年ごろから始められたとしますと、その前の年に『言海』が完成しているんですね。芝の紅葉館で祝賀会が盛大に行われましたから、簡治先生も当然、それをご存じだったわけですけれども、そのときに、『言海』の中身と比べて、もっと文献によった辞書をつくるべきだという発想がですね。まあ、『言海』を反面教師にしてというのも変ですけれども、そういう形で。先ほどのOEDなんかもごらんになっていて、文献を主体とした辞書というのを企画されることになったんじゃないかと想像されるんですけれども、OEDとか、『言海』の完成というのは、かなり簡治先生の事業に刺激になっていたんじゃないかと推測されますが。
松井 それはそうでしょうね。ただ、あまりその点ははっきり書いてあるものがないんですね。だから、ちょっとその辺がね。やっぱり、いくらか対抗意識があって、そういうことは書かなかったのか、ちょっとその辺はわかりませんけれどもね。
倉島 これは余計なことですが、『大言海』のときの比べ方でも、そういうところがありますね。
先ほど、収集された資料のとば口のご苦労というか、テクニックというかを伺ったんですけれども、収集された資料というのは、最終的には静嘉堂へ納められたわけですけれども、膨大なものですね。
松井 そうですね。静嘉堂の目録には国書関係と、漢籍関係と二冊あり、ほかに続というのがあって、その続が全部、松井文庫なんです。
倉島 それで、収集された資料をもとに、今で言えば索引をつくられるわけですね。これはお一人で多くの文献の便覧ともおっしゃっていますけれども……お一人でおつくりになったんですかね。
松井 いや、それはよくわからないんですよね。『国学院雑誌』に明治三十一年に『国書の索引』というのを書いているらしいんですが、それは実は手元にないんですが、例の伝記によれば、『国書の索引』というのは、和漢の書は洋書に比較して、よい索引書のないことを遺憾とし、学術進歩のために、校訂の完全な定本を刊行して、さらに索引を付す必要性を述べているとあります。
倉島 その『国書の索引』は何年でしたっけ。
松井 三十一年です。
倉島 三十一年ですか。じゃ、まさに辞書づくりのためのの索引をおつくりになっているときでしょうね。
松井 そうなんですね。だから、つくり始めたころに、これを書いているんですね。
倉島 でも、手伝った人があれば、かなりそういう記録があるんでしょうけれども、どうも今のお話なんかを伺っていると、先生お一人のご尽力だったように思いますね。
松井 そうですね。だれに手伝ってもらったとか、あるいは私がそれを手伝ったという話は聞かないですね。大学で教えていれば、弟子たちがいくらか手伝っていたのかもしれないですけれども。
倉島 でも、そういうことを語っている弟子もいませんね。
松井 いないですね。いや、私が知らないのかもしれませんが。
倉島 それで、この辞書の用例ということで言うと、簡治先生の企てられたのは索引ということですから、かなり本格的なんですよね。これがOEDと比べますと。OEDのほうはカード、スリップと言っていますけれども、ボランティアに読んでもらって、必要なカードをとるという作業なわけですけれども、それに対して簡治先生の作業は、『源氏』なり、『今昔』なりの索引をつくっちゃうと。そういうことですから、完全な索引じゃないにしても、大変な作業ですよね。ですから、事前に言葉の総体を網に引っかけようということですから、大変な構想だったし、それを完遂なさったというのは、多分、お一人だと思うんですけれども、今じゃ考えられないですね。
松井 そうですね。それが、そういう個々の文学作品のようなものまでやったのやら、あるいは古辞書がありますよね。古辞書というのはイロハ順であったり、部門別であったりしますよね。だから、それを利用しやすいように五十音の索引をつくるということも、索引づくりに含まれているんじゃないかという気もするんですね。だから、『源氏』やなんかの索引まで全部つくったとなったら、これは大変なことですけれども。
倉島 でも、いつぞやの出版記念のとき、展示目録がありましたね。あそこへ索引リストがありましたね。
松井 あれにありましたっけ?
倉島 ええ、ありますよ。
松井 『源氏』とか?
倉島 ありましたよ、たしか。ちょっと僕は前に、目録のリストをいただいて、なるほど、これがそうかと思ったんです。それは静嘉堂に入らなかったかもしれないけれども、確かに索引が展示されていましたね。
さて、資料をまとめられて、いよいよ出版ということで、冨山房と契約を交わされるわけですけれども、明治三十七年でしたね。それからまた、簡治先生お一人で執筆を続けられるわけですけれども、一日三十三語という数字が語り継がれているわけです。一日三十三語二十年でしたかね。その中身をちょっとお話しいただけませんか。
松井 やはり『国学院雑誌』の昭和二年、『辞書と歴史研究』というのにあります。どうも、これは談話筆記らしいんですね。「文責は記者にあり」と書いてあるんで、多分、しゃべったことを速記かなんかでやったんだと思うんですね。これに実は一日三十三語が書いてありまして。
そこには『群書類従』の歌の部の索引、あるいは『源氏』とか『枕草子』とか、また鎌倉時代だったら、軍記その他、その他おとぎ草紙とか、狂言とか、近松とか、西鶴とかというようなもののすべての言葉の索引をこしらえた、と書いてありますね。
倉島 そうでしょう。
松井 うっかりしてました。(笑)
それで、どのぐらい言葉があるかということがわからなければ予算が立たないので、こういう索引をつくって、言葉を拾ったらば、四十万ほどになったと。そこで自分で勘定してみると、百年で三万六千五百日であるから、四十万ではやりようがない。これはもう少し縮めよう、二十万ぐらいにしよう。こういう考えで、大体二十万ばかりを目標にして、一年を三百日、六十五日は休むものとしまして、二十年で六千日になる。六千日で二十万語をやると一日三十三ぐらいだ。こうやって三十三が出てきたんですね。
それで、それぐらいならば何とかできるかもしれない。病気がないものと自分は信じて、三十三と決めて、毎日三十三はやるけれども、一つの言葉でもって一日あるいは二日ぐらいかかることもある。そうすると、翌日は三十三が六十六になって、一語に三日かかっちゃったりすると、三日目には九十九やらなきゃならなくなる。こういうことで、だんだん遅れてくるので、夏休みを利用して、夏休みは十時間やったというんですね。平日はさっきも言ったように、三時から起き出して八時までの五時間とする。その間に三十三語をやって、できない分、だんだん伸びていったらば、夏休み、七月、八月は毎日十時間やる。けれども、十時間以上やると頭がぼうっとしてくるんで、それ以上はやらなかった、と書いてありますが。
やっぱり、これはなかなかできないことですね。
倉島 『大日本国語辞典』自体は、その前に大正八年に完成しているわけですけれども、それから索引を手がけられて、索引が昭和三年に完成しますから、今の論文はちょうど、その完成を前にしてお書きになったものですから、かなり生々しいご記憶だと思いますね。その三十三語の計算というのは非常に興味深いと思うんですけれども。
実はOEDを実質的に成功に運んだという編纂者にジェームズ・マレーがいますね。彼が、第一分冊を刊行する前、自分が参画したときに、一八八二年ですけれども、やっぱり一日三十三語という数字を出しているんですよ。
松井 随分、それは偶然ですね。
倉島 偶然です。それで、一日三十三語を仕上げるのは極めて困難だと当局者に訴えているんですね。とても一日三十三語はできないと発言しているんですけれども、これが今のお話を伺うと、偶然の一致というのは、やっぱり一年三百六十五日だけれども、実質三百日だと。それで三十三というのが偶然出てくるんですね。
で、それを実際におやりになった簡治先生は大変なものですけれども、ジェームズ・マレーは、そこでそんなにできないよということを言っちゃうんですけれども、しかし、同じ三十三語という偶然の一致が辞書編纂の中で出てきたというのはおもしろいと思いました。
この関連で言えば、大野晋先生は、一日三語が限界だと。これも大体、一年で千語になるという計算なんですよね。だから、わりあいに辞書をまとめられる方は、年単位で考えるために、三とか三十三という数字が出てくるというのは、ちょっとおもしろく思いますね。
さて、簡治先生の執筆が進んで、いよいよ刊行ということになるんですけれども、実は簡治先生は用意周到な方で、原稿が全部できたところで組に回すと。それで本にしていくというふうに計画されたようですね。その点、例えば私どもの『日本国語大辞典』も、必ずしも完成原稿になってなかったということを思ったり、OEDにいたっては、ABC順にまだカードを集めているんですよね。カードを集めて、それで原稿を書くという追っかけ作業をしているんですけれども、簡治先生の『大日本』はその点、まさに完成原稿を用意してということですから、用意周到もこの上ないもんだと思いますね。その点、非常に感銘を受けるんですけれども。
で、刊行のときに、共著ということで上田萬年先生の名前が一緒に並ぶわけですけれども、実際のご執筆はお一人と考えていいですね。
松井 と思いますけれどもね。それは上田さんの名前をいただかないと、あのころは、ちょっと出版社も引き受けてくれないという事情もあったんだと思います。
ただ、今おっしゃったように、原稿が完全にできてから組んだというのは、用意周到であったためだったのか、ちょっと疑問な点もあるんです。というのは、これに書いていますけれども、安い紙を買ってきて、それに書いて、それが何尺かになったらば、これが一巻分であるというので、四巻で出すというのを、分割して原稿を書くと、どのぐらいになるかということをやってみて、それで、これで一巻できたと。これで一巻できたというのをやってみないと、四巻におさまるかどうかというのがわからなかったんじゃないかと思いますね。だから、やむを得ず、全部できるまで待っていたんでしょう。
ただし、やっぱり第四巻が、こんなに厚くなっているんですよ。それは結局、手を入れていくと、最初の予定はこれで一巻と思っていたのが、最後になって、こんなになっちゃって、しょうがなくて全部詰め込んだと考えられます。だから、それを用意周到と言えるかどうかは、ちょっと疑問な点もあるんですよね。
倉島 でも、四巻の最後が厚いと言い条、パーセントでいったら五%ぐらいのところでしょうね。
松井 まあ、それはそうですけれどもね。
倉島 そういうことを思えば、OEDなんかは、最初は六千ページから始まっているんですよね。マレーがだんだんそれでは無理なので、八千ページまで許せと言ってね。それで、いろいろな経過があって、結局は一万六千ページになるわけですからね。そのことを思えば、やっぱり用意周到と言っていいんじゃないでしょうか。
で、執筆ということで言えば、ジェームズ・マレーがOEDをやったというんで、マレーの辞書なんて言うんですが、実際はマレーは半分しか書いてないんですよね。ですから、松井簡治先生が全部書かれたというのは、その比較でも、大変な偉業じゃないかと思うんですね。
松井 でも、全部といっても、動植物はどうも違うんじゃないかなと思われます。それから、「あ」「い」という五十音の項目は、橋本進吉先生が書かれたことは確かですね。先日、近代語研究会の懇親会に出て行ったら、橋本進吉先生の息子さんの研一先生が見えていて、「ちょっとちょっと」とおっしゃるから、何だろうと思ったら、橋本先生の奥様が百二歳で亡くなられて、「その後、いろいろ整理していたら、おやじのものも出てきまして」とおっしゃるんですよ。『大日本国語辞典』の「あ」「い」というあれは、祖父が芳賀矢一さんを通じてかなんかして、橋本先生にお願いをして、そこの項目だけ書いてくださいと頼んだようです。その原稿が全部出てきたって。筆で書かれたのが。
倉島 そうすると、これはおもしろい因縁で、『大日本』の五十音項目を橋本進吉先生が書かれたと。『日本国語大辞典』の五十音項目は林大先生。娘むこに当たられるわけですから、これも二代にわたっていますね。(笑)
あれは、「五十音をどうしましょう」と言ったら、林先生が「私がやります」って即答なさったですね。しかも順調にお書きになった。やっぱり、橋本先生のことが頭にあったんですかね。
松井 じゃないんでしょうかね。
倉島 なるほどね。今初めてわかりました。
さっきも言いましたけれども、OEDはマレーに継いでブラッドレーとか、クレーギー、アニアンズと四人の編纂者で完成するんですよね。マレーが簡治先生と似ていて、教職と兼ねながら書いているんですね。ところが、最後のほうでは教職を投げ打っているんですけれども、とにかくマレーが半分を書くのに費やした三十五年ぐらいあるんですけれども、簡治先生は三十六年ぐらいですかね、索引まで入れると。全部、お一人で全巻をお書きになったというのは、まあ、量的なことを比べても大変なことだったと思います。実にコンスタントに執筆なさったんですね。だから、完成したんじゃないかと思います。