松井栄一(初版・第二版編集委員)
まつい・しげかず 1926年生まれ。国語学者。東京大学卒。前東京成徳大学教授。著書に『国語辞典にない言葉』など。
倉島 いよいよ『大日本国語辞典』から『日本国語大辞典』へなんですけれども、先ほどの話では、三十五年六月に最初の話し合いがあったようですけれども、その後、四、五人の方に準備委員会をつくっていただいて。
松井 それが三十六年八月十七日です。最初に中村通夫先生、林大先生、三谷栄一先生、山田巖先生ですね。
倉島 そうですね。で、松井先生がお入りになって五人ですね。その五人――私は準備委員会と言っていたんですけれども、その方々がいろいろ設計をしてくださって、正式に発足したのが昭和三十九年で、このときに編集顧問、編集委員を委嘱して、第一回の編集会議を開いたということでしたね。
松井 そうです。
倉島 そこまでの間に、小学館の先代の相賀徹夫社長は、よく決断なさいましたね。
松井 そうですよね。ただ、最初は『大日本国語辞典』がもとにあるから、それに増補カードを加えて、まあ、ちょっと手直しすれば、という程度のお考えだったようなんですが。
倉島 こをうち割って言っちゃえば、冨山房が承知さえすれば、『大日本』の改訂版でもいいやぐらいのことはありましたね。だけれども、それはちょっと話は別になりましてね。
松井 それは、いつだったかな、「冨山房に行って話をしてくれ」と言われたんですよ。で、僕は行ったんです。そうしたら、冨山房側は「『大日本国語辞典』というのがあるのに、「『大日本国語辞典』の改訂みたいなのは困るんじゃない?」と言うんですよ。「けれども、それとは別に大きいのをやるんなら、それはどうぞ、ご自由に」と。こういう話でしたね。ということは、大きいのは、あっちはやる気はないということでしたね。
倉島 当時の資料はみんな、『大日本国語辞典』の改訂版ということで、「大日本改」ということで私は扱ったことを覚えております。
第一回の顧問編集委員会が昭和三十九年一月八日でしたね。
で、その顧問委員のメンバーの中では金田一京助先生が最長老で、たしか八十一歳だったと思うんですけれども、次に同じような年配の諸橋轍次先生が八十歳で、お二人とも矍鑠として出てくださいましたよね。
松井 そうですね。
倉島 たしか、金田一先生が最初に発声してくださったような気がしますけれどもね。
松井 あのときは、時枝誠記先生も見えましたよね。後から聞いた話だと、時枝先生は私の指導教官ですから、「松井は、ああいう大きな仕事に耐えられるだろうか」とほかの僕の同級生に漏らしたそうですから、大分心配してくださったようです。
倉島 それは、その席でも心配を、直接、先生のことではないんですけれども、辞書に対する心配を発言なさっていたのは、時枝先生でしたね。
当時、こう言うのも変ですけれども、小学館はまだこんなに大きくなってませんから、松井が大丈夫かという以上に、お店は大丈夫かと、僕はよく言われました。
で、松井先生は間もなく辞書に専念していただくために、教職をなげうっていただいたわけですけれども、大学のほうまでなげうって、この企画に身を投じてくださったわけですが、あれは何年ごろでしたか。
松井 あまりよく覚えてないんですよね。昭和四十二年ころですかね。ただ、その前後、数年間は向こうにもわがままを言い、こちらにもわがままを言いみたいな生活で、一日学校に出てあとは辞書というような時期もありましたし、逆に辞書のほうが二日で、あとは先生というふうな時期もありましたね。ああいう高等学校ですと、研究日というのは週一日なんですよ。それを週二日認めてもらうとか、わりに好意的に学校のほうも、「そういう仕事ならば、まあ、いいですよ」と言ったりしてくれて、こっちもそれに甘えました。
倉島 両方をかけ持ちというか、兼ねてらして、『日国』の資料集めでは松井先生が終始中心になられていたわけですけれども、大体、夜の会合で大変でしたね。
松井 夜はね。
倉島 集まってくださる方も大変なんだけれども、それぞれ十数人のいくつかの部会を毎月やったわけですから、あれはお疲れでしたでしょうね。
松井 そうですね。あれはどれにも大体出ていましたね。
倉島 そうなんですよ。全部、出ていただいた。全く、僕はあのとき、胃潰瘍になりましたけれども。
ちょっと話を進めますけれども、『日本国語大辞典』の執筆資料というのは、最終的には十数種類になりましたですね。それで、ABCDとか記号をつけてやりまして、貼り込みカードをつくったわけですけれども、先ほど来の増補カードは、その中の一点にくり込まれていったわけですよね。ですから、材料の量からいうと、増補カードというのは、まあ、何%かということになったことですし、新しい資料収集の結果、何十倍という膨らんだ材料ができたわけですが、それにしても、その材料をつくるもとになったのは増補カードだったと思うんですよね。だから、原動力としての『大日本』の増補カードは非常に大きかったと思います。
その関連で言いますと、増補カード以上と言うと失礼になっちゃうんだけれども、『大日本』の存在は、これまた大きいんで、用例を採取するときに基準とさせてもらいましたですね。あの『大日本』が基準で、用例文を採集してくださるみなさんに『大日本』の一巻本をお渡しして、これを基準にしてとってくれとやったわけですけれども、あれがなかったら、相当むだがあったですね。
松井 そうかもしれませんね。
倉島 例えば『大日本』より古い例が見つかったら、「例新」とかやれとかというマークをつけてカード化していただいたわけですけれども、私は今でも、その恩恵というのは大きかったと思うんですね。
OEDの歴史を見てみますと、最初、言語学会でカードを集めるときに、ボランティアに、これを読んでくれと。そのときに、どういう基準でとるかという基準をつくったらしいんですね。ベーシス・オブ・コンパリジョンと書いてありますけれども、比較の根拠といいますか、これがないと、さて何をとっていいものやらですね。べたにとるわけにはいきませんから、語彙を採取するというのは基準が非常に大事なわけですよね。
だから、OEDでは、わざわざそれをつくったんですけれども、私どもは『大日本』を、そのかわりにしたというのは非常に大きかったと今でも感謝しております。
で、執筆資料が大方まとまったところで、立項作業になったんですけれども、これは先ほど松井先生が教職をなげうって加わってくださったところで、本格的な立項作業に入ったんです。昭和四十二年にですね。それまで、いろいろな人が試行錯誤したんだけれども、結局だめで、松井先生お一人で一年何カ月かで資料を区分していただいたわけですけれども、これはほんとうに膨大な、先ほどの十数種類の資料を全部、目を通されて、それで五、六十万ある項目から四十五万を選んでいただいた。これが一年数カ月というのは大変なことでしたね。
松井 そうですね。それは結局、どのぐらい全部で選ぶもとになる枚数があったのかというのは、あまりはっきりしませんけれども、多分、六十万ぐらいだったと思うんですね。その六十万の中から四十万選べと言われたんですね。というのは、でき上がりは四十五万だけれども、そのうちの五万は、百科項目とか、方言とか、そういうのがいろいろあるので、一般に選ぶというのは四十万だと。だから、六十万から四十万選ぶということでしたよね。
それで最初、一人でやるときに、一日にどれぐらいできるかというのでやってみると、大体千という数が出てきたんですよ。その千というのは、大体一日七時間やって、千項目を立項するということで、それで計算すると一項目二十五秒なんですよ。それでやると、一年間で二十二万できるから、二年かかれば四十四万を立項できると。単純計算でいくとね。
二十五秒というのは非常に大変なように思えますけれども、問題なく入れるというのがたくさんあるわけです。「ある」、これは入れる。「歩く」、これは入れると決まっているわけじゃないですか。そんなのは一秒もかからないわけですね。入れると決めるのはね。ところが、語によって、複合したりしている語だと、例えば「歩き続ける」になったらば、「歩く」は入れるけれども、「歩き続ける」まで入れるかというと、「歩き続ける」を入れたらば「~続ける」は全部入れなきゃならなくなるとかですね。そういうので引っかかると時間がかかるわけですね。けれども、平均二十五秒というのは、それほど不可能な時間じゃなかったように思うんです。
倉島 そうですか。いや、この辺は、おじい様の設計の仕方、一日三十三語を思い出しますけれども、やっぱり緻密な計算をなさったんですね。
松井 だけれども、それをやらないとね。何か目標がないとやれないでしょう。
倉島 ここも簡治先生に気質が似ていらっしゃるじゃないかという気が、今、ちょっとしますね。
で、栄一先生には、動詞大項目を全部書いていただきました。あと、いろいろな品詞にわたって出てきている原稿を全部、目を通していただいたわけですけれども、最終的にはゲラと格闘していただいたのは大変でしたね。
松井 そうですね。あれが一番大変でしたよね。あのころ、大体、睡眠時間は五時間から六時間ぐらいでないと間に合わなかったですね。だから、あのころは土曜日も休まないでやれましたというか、そういう時代だったから。外からの協力者もいて、そう簡単に早く帰れませんし、大体、毎日九時ぐらいまでいて、それで家に帰ってからまたやって、時々は飲みに行かなきゃならないし、つき合いがありますからね。でも、飲みに行って、それで夜十二時ぐらいに帰って来ても、二時ぐらいまでやりましたよね。それをやらないと、ページ数が消化できませんでしたからね。
倉島 そうでしたね。考えて見てみますと、簡治先生は、先ほど、用意周到と申し上げたんですけれども、完成原稿ができてから入稿したわけですから、組に入ってからは、そんなに苦労はなさらなかったと思うんですよね。ところが、栄一先生と『日国』のかかわりで言うと、ゲラになってからの苦労が一番濃かったですね。
松井 そうなのかな……かもしれないですね。でも、祖父は、ゲラになって、井上ひさしさんなんかも書いているけれども、あれは何に書いてあるのかな、指が真っ赤だったと。赤で直すので。それで、トイレに入るときも持って入ったとか、何か井上さんは見たようなことを書いているんです(笑)。だから、祖父もゲラを見るのに時間は取っているように思いますけれどもね。
僕の場合は、期間的には、祖父は二十年、僕は二年ぐらいですから、そんな大したことはないんですが、ただ、日本大辞典刊行会というのをつくってやっていたじゃないですか。そこの社員と話していると、「松井さんが、こんな早い時間でやるのを引き受けたので、私たちは、もういっぱいいっぱいで辛いです」とかなんか訴えられる。こっちはわりあいに好きでやっているから、そんなに思わないんだけれども、そう言われると、じゃ、何か社長にでも一言、大変だということを言っておかなきゃいけないかというんで、社長に手紙を出したことがありましたしね。(笑)
倉島 いろいろありましたね。(笑)まあ、そのときのご苦労を語っていただければ、きりがないわけですけれども、ほとんど簡治先生と同じ苦労をなさっていただいたと私は思います。