松井栄一(初版・第二版編集委員)
まつい・しげかず 1926年生まれ。国語学者。東京大学卒。前東京成徳大学教授。著書に『国語辞典にない言葉』など。
倉島 続いて、今度は『大日本国語辞典』が成長していく過程を伺います。大正八年に四巻完成したところで、簡治先生は文学博士になられるんですけれども、そのとき、休む間もなく索引づくりにかかられて、索引と一緒に修正版というのが刊行されますね。この辺をちょっとお話しいただけますか。
松井 索引をつくるということは最初からの予定だったんだと思うんですが、なぜ索引が必要かというと、一つには、『大日本国語辞典』が当然、当時を反映して、見出しは歴史的仮名遣いになっているわけですね。そうすると、歴史的仮名遣いというのは、やはり普通の発音どおりではありませんから、引くという場合に非常に引きにくい。歴史的仮名遣いを知らなければ引けないという障害があったわけです。
そのころ、明治の終わりごろに、そろそろ漢字の音などは、今で言う現代仮名遣いに近い発音的なものを見出しにしたほうがいいんじゃないかと。そういう傾向が見え始めるわけですね。
まあ、それもあるんで、漢字索引の前に仮名索引というのをつけているわけです。これは表音式の仮名索引であるということを言っているわけです。ただ、表音式の仮名と歴史的仮名遣いが一致するものは入れない。だから、一致しないものだけ挙げるというやり方で仮名索引はできているわけです。
それから、その後に漢字索引がついているわけですが、これはほんとうは今やっている『日本国語大辞典』にも欲しいですね。というのは、日本語は漢字が出てきますね。その漢字が読めないと国語辞典は引けないわけです。ですから、こういう辞書では、漢字から引く索引というのも必要だということも当然考えたんだと思います。
一つの例を言えば、画数によって「明」という漢字を引くと、その「明」がつく熟語が並んでいるわけですが、そこにある「明日」という表記は、辞書の見出しでは四か所に出ているということが示されています。それはなぜかというと、「あす」「あした」「みょうにち」「めいじつ」に出ているからです。というので、四カ所に使われているということが、その漢字索引からわかるわけですね。
これは今の国語辞典もほんとうは欲しいんですよ。日本人は、掲示でもって、「明日十時、集まれ」と書いてあっても、これはあしたのことだとわかりさえすれば、「明日」をどう読んだって構わないわけですよね。けれども、外国人はそれを初めて見る場合に、一体、あれは何て読むんだろうと思ったときに、国語辞典を引こうと思っても引けないわけですから。読めなければ引けないから、漢字のほうで引いて出てくれば、あれは「あす」とも読む、「あした」とも読む、「みょうにち」とも読むとか、こういうことがわかるということにもなりますね。
ただし、ほんとうはそれだけじゃまだ不十分で、じゃ、「あす」と「あした」と「みょうにち」はどう違うんだ。「めいじつ」と言うのか言わないのかとか、そこまでほんとうは国語辞典でわからなければいけないということがあるんですが、それは別にして、そういう索引が国語辞典には必要だと、こう考えたんだと思いますね。
それと同時に、こういうのをつくるならば、いろいろ批判されているようなところ、やっぱり、ここは違っているんじゃないかとかということが言われていたと思いますから、そういうところで手直しをして修正版というのをつくろうと思ったんだろうと思いますね。
ただ、修正版と初版本とを、一生懸命比べたんですけれども、違いはあまりないんです。初めのところでちょっと気がついたのは、「阿吽」という項がわりに大きく直っていまして、全然違った意味が書いてあります。違ったというのは、言い方が変わってまして、用例が入ってなかったところに、謡曲『安宅』の例が修正版では入れてあります。ただし、行数は変わらないんです。
そういうようにしてやってありますから、これはよっぽど細かく見ていかないと、どこが修正してあるかというのは……。だから、多分、大きな修正はほとんどないと思います。各ページ終わりは、一巻をずっと見ましたけれども、おさまっている言葉は全然変わりがありませんからね。そのページの中でもし動かすことができたら、あるいは動かしたところがあるのかもしれませんが。
倉島 わかりました。索引が当初の計画から簡治先生の頭の中に入ってらしたというのは今初めて伺ったんで、これはまた、新たな感動的なエピソードです。
漢字のことは当然なんですけれども、字音だけを違うところへ出さなければというのは、考えてみますと、明治三十三年から四十一年にわたっては、小学校の教科書が字音だけ、例の表音式仮名遣いなんですよね。ですから、そういうことも頭にあって、配慮をされようと当初から考えられていたんでしょうね。それにしても、トータルな当初からの計画だったと思うんです。
昭和三年に索引が完成しているんですけれども、この年は、またちょっと奇しき一面がありまして、諸橋轍次先生が、大修館の鈴木一平と『大漢和』の契約を交わしているんですよね。『大漢和』の発想というのは簡治先生に促されて、ということをしばしば諸橋先生が語っておられましたので、昭和三年に索引の完成とともに、諸橋先生が『大漢和』の事を起こされるというのが大変意義深いというか、一つの偶然かもしれませんけれども、何か意義をちょっと読み取りたくなっちゃうところですけれども。
松井 ちょっと言い忘れましたけれども、明治に出た『言葉の泉』という国語辞典に索引がついているんですよね。だから、多分、ああいうのを見て、やっぱり、あるほうがいいんじゃないかと思ったんじゃないでしょうか。ただし、あれは漢字索引だけだったんじゃないかと思うんですがね。
倉島 わかりました。
で、先に時は流れますけれども、昭和七年二月に、松井簡治先生の古希祝賀会が催されているわけです。これも一つのエポックだったと思うんですけれども、そのときの記念冊子があって、その中に松井家のお写真があるわけですけれども、簡治先生を中心にして、お近くに驥先生が座られて、そのひざの上に栄一先生は乗っておられて、ずっと天井を見られているんですね。
松井 天井を見ているのかな? それはぼんやりしていたんじゃないんですかね。(笑)
倉島 そのころは五、六歳かと思うんですけれども、そのときの印象は? ご家庭の印象は残っておられるんでしょうか。
松井 その写真は控室かなんかで撮った写真だと思うんですが、講堂の壇上にみんな乗せられて、それでずらっと前に人がいたという感じがありましたけれども、この写真は全然わかりません。覚えてないですね。
倉島 編纂室が、関口駒井町のお宅の崖の下だか、上だか、いろいろあって、そういういわば「辞書の家」の別室といいますか、離れというか、そういうものとのかかわりというか、先生のご記憶をちょっと。ご家庭の模様をお話しいただけますか。
松井 それはもう私が成長してからも、ずっとそこにいましたから。母屋があって、崖の下に、新書斎という名前で普段呼んでいるところと、編集と呼んでいるのと、二つ建物があったんですよ。それで、編集と呼んでいるほうは、多分、『大日本国語辞典』を編集しているときに、外部からの、それこそ阪倉篤義先生のお父さんとか、そういう当時の大学院の学生さんが仕事を手伝ってくれていた建物だと思うんですが、もう私が知っているころは、ただ周りに書棚があって、がらんとしていて、あまり人が使っているような気配はない建物でした。
倉島 阪倉篤義先生のお父さんというのは篤太郎さんですね。上田萬年の要請を受けて語源の資料を集めるために通われたころのことを直接伺ったことがあります。そのとき自分とは交渉はなかったけれど四五人の方が居られたと……。それが書斎と呼ばれる方だったんですね。やがて人の出入りはなくなって……。
松井 ところが、新書斎という新しく建てたほう、ここはその後も何人かの人が辞書編集のために来ていたんです。というのは、その後の話になりますけれども、『中辞典』とか、増補カード作成とか、そういうのの仕事に来ていた人が、そこを使っていましたね。なぜ、あの編集というほうを使わないで、新書斎にしたのかはよくわからないんですが、住み心地は、やっぱり新しいほうがよかったですよね。編集のほうは相当荒れ果ててましたからね。
で、私が小さいころ、幼稚園などに通うころに送り迎えしてくれていたじいやさんというのがいたんですよ。六十ぐらいだったのかなと思うんですが、そのじいやさんが寝起きしていたのも、その編集という荒れ果てたほうなんですよ。それだけぐらいしか使ってなかったんじゃないでしょうか。
倉島 その新書斎というのは相当大きかったんでしょうね。
松井 いや、あまり大きくないです。周りに雨戸があって、建物としては玄関じみたものは何もなくて、濡れ縁があって、上がるとがらっと障子をあけて、すぐ書斎なんですね。それが四畳ぐらい、四畳半はなかったと思うんですね。そこに座り机が真ん中にあって、両側に座れるようになっていて、書棚があって、あと、人が一人ぐらい通れる程度の空間のほかはみんな書棚だったですね。で、トイレがあって。というぐらいで、全くの仕事部屋という感じですね。
倉島 それは前のときから、先生がお一人で執筆ですから、似たような編纂室で作業をなさっていたんだろうと思うんですけれども、それを今思えば、やっぱり索引をつくられていたから、そういう狭いところでもできたんじゃないかと。
また、OEDを引いて悪いんですけれども、ジェームズ・マレーの部屋なんかを見ると、カードでびっしりなんですね。書籍というよりは、カードの間ですよね。ですから、簡治先生の場合は、索引がきちっとできていたために、書籍だけで場所をそんなに取らなかったのかもしれませんね。
松井 そうですね。そこがよくわからないんですよね。私の知っている範囲では、祖父は新書斎にはほとんど行ってないんです。母屋にある自分の書斎でばっかり仕事をしていまして、新書斎というのは、父が『中辞典』をやったり何かするのに使っていて、そのころ、昭和十年過ぎだと思いますけれども、外から二人ぐらい手伝いの人が来てまして、三人ぐらいでやっていました。
倉島 お父様がお手伝いで中心になって編纂を始められたころ、しばらくして修訂版というのが出ますね。昭和十六年でしたか。
松井 十四年から十六年ですね。
倉島 これは増補版に先立って修訂版が出たというのは、何か印象がありましょうかね。
松井 結局、修訂版を出して、それに増補をくっつけようということだったと思うんですけれどもね。ところが、増補が戦争の影響でつけられなくなっちゃったんで、修訂版だけになっちゃったということじゃないかという気がするんですが、その修訂版もどのぐらい違うかというのは、比べると、あまり違わないんですね、これもまた。
倉島 まあ、新書斎で、本格的にお父様が辞書にかかわられるわけですけれども、まだそのときはお勤めをなさっていたわけですか。
松井 これがまた、ちょっと微妙なところでしてね。世界教育会議というのが昭和十二年ごろに日本で開かれまして、その幹事かなんかをやっていたんです。ところが、それは数年限定の仕事だったと思うんです。だから、定職はそのころはそれだったんじゃないかと思うんですね。それが終わって、仕事がなくなったからというのも変ですけれども、その忙しさがなくなったんで、『中辞典』にかかりっきりになったんじゃないかと思います。
倉島 わかりました。関口駒井町で、三代が一緒にお住まいだったわけですけれども、強制疎開ということになっちゃうんですよね。
松井 昭和十九年ですね。
倉島 昭和十九年ですか。それで、簡治先生とお父様は別々のお住まいになりますね。
松井 そうです。結局、私の父は、私の母の実家が持っていた貸家、そこしか場所がなくて、そこに移っていったわけです。そこは狭いものですから、祖父祖母ともに住むというわけにはいかなくて、それで祖父母は三女の嫁ぎ先の岡という家が、軍人だったんです、父親が。それで、戦地に行ってましたので、その三女と子供たちしかいなかったんですね。そこに一時移ったわけです。それが淀橋区、今の新宿区の高田馬場のそばです。
そこに移っていたんですが、空襲で焼夷弾が枕もとに落ちたんですね。不発の焼夷弾だったらしいんですけれども。それで、これはちょっと生命の危険もあるというんで、やっと東京を離れる決心をして、祖父母は孫娘の嫁ぎ先だった栃木県の足尾の社宅に移ったわけです。そこで終戦を迎えて、亡くなるまでいたわけですね。
倉島 亡くなられたのは終戦の年のお彼岸過ぎですね。それで、ご病気は何だったんですか。
松井 老衰ですよね。あのころ、まず栄養が不十分。足尾の町というのは、それはあまり大した食糧もないけれども、東京よりはよかったんだと思うんですけれども、それでもどうしても栄養は足りなくて、だんだん年も取っていましたから、自然に栄養失調的な状況になるわけですね。
それで、終戦のとき、大分興奮していたようですから、父の話によると。日本が負けたというんで、あのころは、ああいう年寄りはそれだけですごいショックだったんですよね。
倉島 栄養が足りないといえば、橋本進吉先生も同じように栄養失調で亡くなられていますね。この時期にね。
劇的なのは、奥様とほとんど時間を前後して亡くなられた、というお話ですが。
松井 そうなんです。孫娘とその娘の母親がそっちに行っていたんです。それで、祖父母の世話をしていたんですけれども、夕方になって、「今日はちょっと先に寝る」と言って、祖母のほうが先に寝たんだそうですね。祖父は仕事をしていたんです。そうしたら、どうも何か変だというんで、「おばあさん」と呼び起こそうとしたら、もう生き返らなかったというか、死んでいた。それで、これはおばあさんが死んだということを祖父に伝えたらば、またショックじゃないかというんで、祖父に知らせないようにしていた。祖父は仕事をやって、その後、「寝るよ」と言って、寝て、翌日、様子を見に行ったら祖父も死んでいたと。
倉島 翌日の朝ですか。
松井 朝です。だから、夕方、祖母が死んで、翌朝、祖父が死んだというんです。
で、何かいろいろうわさが流れて、心中したんじゃないかとかね。そういうことも言われたようです。
倉島 非常に仲むつまじいご夫婦だったわけで。
松井 いや、そんなふうにも思わなかったな。(笑)
倉島 そうですか。夫婦養子という最初のお話を伺えば、この大往生まで八十年近く、ご一緒、かなり幼いときからご一緒だったと思うんですけれども、大往生をなさったわけですよね。
このときは、松井先生はお父さんと駆けつけられましたか。
松井 はい。私は高等学校は名古屋の第八高等学校ですから、東京にはいなくて、名古屋にいたんですが……あっ、そうじゃないんだ。昭和二十年で、だから、名古屋にいたんですけれども、あそこは空襲で学校も焼け、寮も焼け、私の入っていた寮は焼け残ったんですけれども、学校が焼けたんで、授業がなくなっちゃったんですよ。しばらく休校。それで、東京に帰って来ていたと思うんですね。
それで、知らせを聞いてすぐ、おやじと一緒に行ったんです。そのころですから、ちゃんとした客車に乗って行った記憶はありません。貨車です。
倉島 時代を画したお仕事をなさった大先生が、ご夫婦仲むつまじくといえば、それはそれでいいんですけれども、疎開先の足尾でひっそり亡くなられたというのは、何か時代を思わせますね。
松井 あっちでは、あまり亡くなった後の記憶というのがないんですが、どうもちゃんとした焼き場で焼いたんじゃないような気がしますね。薪かなんかを積んだりして、外で焼いたんじゃないかな。焼き場に行ったという記憶は全然ないですから。まあ、ああいうところだから、そんな設備はあまりないわけですからね。
倉島 私も子供のころは、そういう形の火葬でしたね。
松井 じゃ、当然、そうだったんですね。
倉島 簡治先生の死を伺ったところで、また重ねて、お父様の死を語っていただくことになりますけれども、驥さんは戦後、増補版を手がけながら、『中辞典』も企画なさっていたと。しかし、その間、縮刷版全一巻本を出すことも進められていたわけですね。
松井 いや、これはおやじがやっていたわけじゃないんですよ。そうじゃなくて、冨山房が、こういうのを出すといって、最初は『大言海』かな?
倉島 そうですね。
松井 ねえ。それで、『大言海』の縮刷が出て、それがわりに評判がよかったんで、『大日本国語辞典』も、ということだったんじゃないかと思います。
倉島 そうですか。その縮刷版の全一巻でお父様はあとがきをお書きになって、これが私どもが公に知ることのできる唯一の記録で、それで『大日本』の歴史、あるいは増補作業なんかも知ることができるんですけれども、非常に不運なことに、その翌年、お父様も亡くなられちゃうんですね。
松井 そうなんですよね。それは全然、死ぬとは思ってませんでした。元気でしたから。それはやっぱり、ストレスなのかな。衆議院特別行政監察委員会というところに勤めていました。
それで、私はあまりわからなかったんですけれども、議会に出て行って、いろいろな質問をされて答えたりするという必要もあったらしいんですね。そのストレスが大分あったようでして、実は昭和二十七年に胆嚢炎というのを患って、手術したんですよ。胆嚢を切ったんだと思うんですが、それが昔の国立第一病院と言ったかな。そこで手術したら非常にうまくいって、手術後、すぐ酒を飲めるようになったと言って、すごく喜んでいたんですよ。
酒が好きでしてね。戦後のカストリしょうちゅうなんかも随分飲んでいた父ですから、毎晩、晩酌は欠かさずやっていましたし、母親と始終けんかしながら、飲んでいたんです。
倉島 簡治先生もお酒はお好きでしたよね。
松井 好きでした。ただ、祖父は一本といって、それだけなんです。おやじは、そういう点はわりあい制限なく飲みましたからね。外でも飲んできて、また家でも飲むとか、そういうことはよくやっていました。
ところが今度は勤め先で吐血したんですよ。十月ぐらいだったかと思うんですが、それで胃潰瘍だと言われた。このまま食べ物に注意して、安静にしていれば、それでも徐々に治るだろうけれども、手術すれば、またすぐ酒が飲めるんじゃないかと思ったらしいんですね。それで胆嚢炎で手術がうまくいったんで、またその先生にやってもらえるというんで、非常に安心して手術と自分で決めちゃって、それで手術したらばうまくいかなくて、食べ物が通らなくなっちゃったんです。これは再手術したらば危ないからというんで、再手術は見送られ、結局十二月に亡くなりました。
手術する前は、病院から銭湯にも行っていたんですよ。だから、手術なんかしないで、酒をやめ、食べ物に注意していれば、多分、もう少し生きたと思うんですね。それまでほとんど病気をしなかった父親ですからね。それなのに酒が飲みたい一心で、ああいうことをやっちゃったから、いけなかったんですね。
倉島 三代で、おじい様と栄一先生は、酒の飲み方も非常に控え目でいらしてお上手なんですけれども。
松井 いや、控え目というか、あまり飲めないんですよね。途中で嫌になるから飲まないんですけれども。
倉島 亡くなられたのは五十九ぐらいですか。
松井 そうです。五十九です。
倉島 そのとき、松井先生は、どんなことを。
松井 卒業して三年目ぐらいで、ちょうど高等学校の教師をやっていたときですね。
倉島 で、「辞書の家」には増補カードが残されるわけです。その内容は、冨山房が出している予告によれば、七万語で、二巻分あったとあるんですけれども、この増補カードの性格は、どんなふうに。
松井 全然わからなかった。おやじがそんなに早く死ぬとは思わなかったからね。だから、聞いておく機会が何もなかったわけですよ。
倉島 じゃ、先生は、そのときはノータッチだったんですね。
松井 ノータッチです。だから、父親は毎晩――毎晩じゃないんだ。これもまた祖父と同じように、朝六時ぐらいに起きて、何かカードをとっているんですよ。夕方はとにかく七時ぐらいに飲んで、九時には寝ていましたね。朝早起きで、その間に二時間ぐらい仕事をする。それを毎日やっていました。
だから、増補カードをつくっていることは知っていたんです。だけれども、それが一体何だかね。残った増補カードやなんかの筆跡から見ると、父親はどうも記録類、『大日本史料』とか、『大日本古文書』とか、ああいうのから少し語を拾っていたような感じですね。それからあとは、川柳とか、近世の何か俳諧関係とか、そういうものだったと思うんですよね。
それから、祖父の弟というのがいたんです。吉見というんですが。それがまた、何にも仕事を持ってない不思議な人で、全部、祖父の世話になっていたんです。夫婦で。それが週に一遍は、うちに必ず来ていました。夕方来ては、祖父と将棋をやって、それで勝ったとか負けたとか、二人とも下手の横好きだったようです。
で、その吉見というのが、これが近世の文献に興味が非常にあって、それでどうも近世関係のカードは、この人が、わりにつくっていたような感じですね。
倉島 見本を見ても、近世の資料がほとんどですね。
松井 そうですね。わりに多いですね。
倉島 増補カードの主流といいますか、もとになったのは、吉見さんが集められた近世文献と。それが冨山房の予告にあらわれたような気がするんですけれども、それにプラスして、お父様が集められた古文書とか『大日本史料』などが加わった増補カードが残されたと。こう見ていいわけですね。
松井 そうですね。その後、増補カードは少し内容を調べていただいたでしょう。アルバイトを世話してもらって。それによると、どうも八万枚ぐらいだったんじゃないかと思うんですが。だから、七万語と言いますけれども、言葉数は七万でも、カードの枚数は八万近かったのかもしれないと思いますね。
倉島 わかりました。この貴重な増補カードですけれども、松井先生はおいおい、これにタッチせざるを得なくなるわけですよね。それで当然、冨山房との交渉が出てくるんだろうと思うんだけれども、その辺のところを少し語っていただけますか。
松井 冨山房との関係は、まず芳賀定さんが、一巻本の縮刷をつくるときは、あれは芳賀さんが全部、切り貼りやなんかをして、もとのやつを。それで一冊におさまるように。あれは一ページが六段になっていましたかね。とにかく、だから、四段だったのを六段に編成がえして、切り貼りして、あれは全部、芳賀さんがやったんですよね。
そういう関係で、そのときは冨山房と交渉がありましたが、その後は、どうも父親の話によると、冨山房は新しく何かをやるという気は当分ないようだと。実は戦争中も、増補カードや『中辞典』のカードというのは、講談社の地下に預かってもらっていたんです。
倉島 そうですか。
松井 やっぱり戦災で焼けたら困るというので、どこに持って行こうかというんで、講談社の地下と、樋口慶千代先生という方の東洋文庫の一角かなんかに保管してもらったのかな。父親と一緒に引き取りに行った覚えがあるんですよ。そのとき、講談社じゃなくて、東洋文庫……樋口先生とお目にかかって、何かしたような覚えがあります。
それからもう一人、講談社の方にお目にかかったときに、僕も引っ張って行かれたような記憶があるんで、どうもその辺、あまりはっきりしないんですよね。いずれにしても、冨山房は関係ないんです。
倉島 そうすると、間に立った芳賀定さん、芳賀矢一先生のご令息ですけれども、芳賀定さんがいろいろ間で、栄一先生とのお話なんかも進められたわけですか。
松井 いや、私は芳賀さんとは、小学館のほうから話が来てからです。それまでは全然。
倉島 そうですか。僕は、簡治先生が芳賀矢一先生と学生時代からのお友達ですから、当然、芳賀定さんと栄一先生は交流があったのかと思っていたんですよ。
松井 いや、ないんですよ。
倉島 じゃ、小学館に話が移ったところで、栄一先生が呼ばれたというか。
松井 そうです。
倉島 そうすると、主体的に動いたのは芳賀さんですね。
松井 そうです。実は冨山房と話がちょっとあったのは、父が死んでから、どのぐらいたってからかな、一年か二年か、ちょっとそこがはっきりしないんですが、『中辞典』みたいなのを出したいという話があって、それで、うちに夏休みに日本女子大の学生に二人来てもらって、何か準備作業のアルバイトとしてやってもらったんですよ。それが、どうも『中辞典』の原稿について何かやってもらったのかなという気がするんですがね。
ところが、そうやってアルバイトをやってもらって、うちで費用を出した。そうしたら、冨山房の人の話がどうもこっちの考えとくいちがって。僕が怒っちゃったんですよ。
とにかく、非常に安易なやり方をして出したいような話だったと思うんですよ。それで、「それだったら出さないほうがいいんじゃないか」と言って、そうしたら、向こうも急に怒り出して、やめになりました。ということがちょっとあったんですが。
だから、それ以後、冨山房とはほとんど交渉なしです。
倉島 じゃ、芳賀さんの力というのは、『日本国語大辞典』の原点にありますね。
松井 そうなんです。昭和三十五年六月十五日に、小学館に呼ばれたんですよ。それで、小学館の方と集英社にいた鈴木省三さんと芳賀さんの三人と私が会って話をしまして、そのときに、「おたくに増補カードがあるそうで」という話が出たんですね。何で、そんなことがわかるのかなと思ったら、東京新聞かなんかで、だれかが、そういうのがあるんで、これは利用しなきゃ、日本のためによくないんじゃないかということを書いていたので知ったというんです。
倉島 芳賀さんは、そうすると、そのときは小学館の嘱託になっていたんですね、もうね。
松井 そのころは、まだ白桃書房にいたのかもしれないんですけれども、この話で、私が、それならやっていただきたいと言ったんで、それから小学館に移られたのかもしれません。ちょっとそこの経緯は知りません。
倉島 芳賀さんは漢字をやるという使命を持っていらしたからね。漢字辞典を。芳賀さんがご存命ならいいんですけれども、残念ながら亡くなられちゃったから。
でも、伺えば、簡治先生の因縁がね。芳賀矢一さんとは心を割って、親しいおつき合いをなさっていたらしいんですけれども、栄一先生とは交流はなかったにしろ、芳賀定さんが、ここで『日国』の源に火をつけてくれたというのは因縁ですね。
松井 芳賀矢一先生は、祖父が国文・漢文両方を学んで、それでどっちにしようかといったときに、「漢文はもう古いから、国文にしろ」と言われた。祖父は、それでもなお迷っていて、最初に勤めるところで国文を教えてくれと言うか、漢文を教えてくれと言うかによって決めようと思って、学習院に行ったら、国文をやってくれと言われ、それで国文になったと言ってましたけれどもね。
倉島 なるほどね。じゃ、簡治先生の進路を決めた方がご令息を動かして、はるか後の『日国』の進路をも決めたようなものですね。