松井栄一(初版・第二版編集委員)
まつい・しげかず 1926年生まれ。国語学者。東京大学卒。前東京成徳大学教授。著書に『国語辞典にない言葉』など。
倉島 話を進めますけれども、『日本国語大辞典』第二版の最初の編集委員会は平成二年にスタートしました。やがて社長となる相賀昌宏氏も出席されて、そのときに、新鋭の現在の編集委員の方に集まっていただいたわけですけれども、当然のように松井先生には、その中心の編集委員としておさまっていただいたわけです。そのとき、初版にひき続いて、林大先生に加わっていただいたのはよかったですね。
松井 そうですよ。
倉島 お二人が前の編集委員会を継承して、今度の改訂編集委員とともに、第二版の編集を本格的に進めていただくことになったわけです。
私が『大日本』から『日本国語大辞典』に流れる中で、一つ、どうしても語っておきたいのは、漢籍例のことなんです。漢籍例というのは、簡治先生がいろいろ勉強なさって、国文だけじゃなくて、さっき英文ということもありましたけれども、ドイツ語もおやりになったかもしれませんが、漢籍にも非常に詳しかったですね。『大日本国語辞典』の中に漢籍例が入ったというのは、やっぱり簡治先生の幅広い教養があってはじめて実現したことだと思うんですね。その貴重な要素というのは、『日本国語大辞典』も受け継ぎまして、それで漢籍にあるかないかというチェックをしました。これも『大日本』があればのことでした。
そして、それは第二版でもやっぱり増補しましたですよね。この漢籍例を脈々と流れるもとを言えば、『大日本』の漢籍例であり、簡治先生の漢籍の素養だろうと思うんですね。この一点からしても、『大日本』の恩恵というのは大きかったと私はつくづく思うわけです。で、最初に『大日本国語』あっての『日本国語』であり、また、その第二版であるということを申し上げたわけです。
この道のりをちょっと振り返って、何かご感想がありましたらお願いします。
松井 ちょっと一つ、心残りなのは、私の祖父が生きている間、ちょうど戦争末期になるわけですが、私は高等学校の理科に行っていたわけです。理科の二年になって終戦になって、それで文科に変わったわけですね。
理科に行ったのは、父親が、理科は徴兵が延長されるから、さしあたり理科に行っておいたほうがいいぞと。そのほうが生きる可能性があるということだったと思うんですが、そうあからさまには言いませんでしたけれども。それで、僕はもともと文科に行きたかったんですけれども、やむを得ず、理科に行ったわけですね。
それで、祖父が足尾に疎開していて、父の姉に漏らしたところによると、「孫の中で、自分の跡を継いでやってくれそうなのはいないんだね」というふうに寂しそうに語っていたということを後で聞きまして、いや、それならもうちょっと早くね。だって、戦後、理科から文科に転科したのは、祖父が亡くなった次の年なんですよ。だから、文科に変わったということでもわかってもらったり、あるいはできれば、その後、大学の国文に入ったというのを知ってから死んでもらいたかったなと、ちょっと思いますね。それが一番心残りですね。まあ、結果的に跡を継いだんですけれども、生きている間に、よかったなと思われなかったのが残念だという気がどうもしますね。
倉島 欲張っていえば、『日国』が始まるところもね。
松井 ちょっと、そこまでは無理でしょうけれどもね。
倉島 それで、簡治先生が着手されたのが明治二十五年でしたけれども、それから長い道のりをたどってきて、『大日本』の増補、それから『日本国語大辞典』、その第二版と来るわけですけれども、これは今日までトータルすると百十年になんなんとするんですね。よく外国の辞書は長い時間をかけていて、おまえたちのは拙速だということを言われまして、私は非常に残念に思ったことがあるんですけれども、今日、こうして道のりを計算してみますと、OEDは着手して、第二版ということでいえば、百三十年なんですね。『日本国語大辞典』も、『大日本』の着手からいうと百十年ということで、まあ、おっつかつじゃないかと言ってみたい気がするんですけれどもね。
まあ、それぞれの事情があって、間があいたりして、それはOEDだって、うんと間があいているわけですからね。向こうだって戦争があったりしましたから、間があいているわけですけれども、『大日本』から『日国』へ移る間もあいていますから、あまり数字だけを言っても意味がないかと思うんですけれども、百十年と百三十年というのを、ちょっと私は改めて認識したわけです。
さて、第二版ですが、成立年が入ることになって非常によかったと思うんです。それではっきりしたことは、『日本国語大辞典』の場合は、『記紀』『万葉』から現代までですから、七世紀か八世紀からということですけれども、OEDは、ミドル・イングリッシュからですから、一一五〇年ということになっていますよね。だから、日本でいえばおおざっぱには八代集では『詞花集』、院政期以後ですか。その文献しか、向こうは入れられないという事情もあるわけですけれども、それにしても、年代を入れた紙面を見ると、『日国』のにぎやかさね。OEDに比べると非常ににぎやかですね。OEDは、とにかく一二〇〇年以降ぐらいしかないわけですから。それ以前は『日国』は、それ以降と同じぐらいの量がありますから、その点でもOEDと比較して、今回、私は非常に認識を新たにしたことがありまして、それぞれ日・英語の歴史的な背景を無視しているようですけれども、出典の豊富さというのは『日国』にとっては非常な財産じゃないかと思うんですね。
最後になりましたけれども、書名のことですが、『日本国語大辞典』が出たときの批判の中に、雅馴ならざる命名だというのがありまして、そのときに私は、『大日本』から『日本国語大辞典』というのは非常に素直につながったと思ってたんですけれども、なるほど、そういう批判もあるかなと……。松井先生は、どう思われていますか。
松井 雅馴ならざると山田忠雄さんが言われたのは、『言海』とか、『辞苑』とか、要するに何々国語辞典というんじゃない名前をつけるほうがいいということなんだと思うんですけれどもね。それは適当なのがあればいいんですが、そういうのがだんだんほうぼうで使われちゃって、残るのが非常に少ないんじゃないでしょうかね。だから、そういうのを雅馴ならざると言われても困るし、日本の国語大辞典という意味で言うならば、非常にそれはそれですっきりしているんじゃないかと思うんですよね。今や『日国』で通りますから、非常にいいんじゃないでしょうか。
倉島 私も非常にいいと思っておりまして、『大日本国語辞典』が『日本国語大辞典』になったのは自然だったし、それが継承されて、『日本国語大辞典』第二版も、雅馴ならざる書名で、ここに落ち着いたことを私は非常に喜んでおります。
その結果において、今日、『大日本』の着手以来百十年を語っていただくことができたと思うんですよね。ですから、書名の問題は非常に大きいんじゃないかと思います。
松井 そうですね。で、「日本語大辞典」という案もあったんでしょう。だけれども何となく「日本語辞典」というと、まだ、あの時期としては……。
倉島 そう。国語という言葉の力が強い時期でしたからね。
松井 そうですね。
倉島 今でも、そうかもしれません。
さて、『日本国語大辞典』の第二版が実現することになりまして大変うれしいことですが、これが第三版、第四版と続いていくことを願ってやまないわけです。ついては、松井先生にはずっとお元気でいらして、第三版ぐらいまでは面倒を見ていただきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
松井 それは神のみぞ知るということで。(笑)
倉島 どうもありがとうございました。
〈了〉