第1回
回文
などのように、上から読んでも下から読んでも同じになる文句を回文と言います。もっと短い単語では、シンブンシ(新聞紙)、ヤオヤ(八百屋)などがそうです。
三十年以上も前のことですが、修学旅行の引率で関西へ行った時に、観光バスのガイドさんが、途中の慰みに、「人のからだの中で、上から読んでも下から読んでも同じになるものは何。」と質問しました。たぶんミミと答えるのを期待したのでしょう。それをずらしてやろうと、わたくしがメと言ったものだから、生徒たちはそれに乗って、テだのイだの、最後にはヘまで出てきて、ガイドさんは、笑いが止まらず、収拾がつかなくなってしまったことがあります。
昭和二年に出た「小学生文庫」というシリーズの一冊『面白文庫』に、
などの回文が載っています。
は歴史的仮名遣いでないと回文にはなりません。昭和初期の少年少女の読み物や雑誌には、こんなお楽しみコラムがよく載っていました。
天明五年(一七八五)に出た唐来三和作の『莫切自根金生木』という黄表紙があります。漢字の字面はむずかしそうですが、「きるなのねからかねのなるき」という回文の題名です。
これは題名だけですが、泡坂妻夫氏の『喜劇悲奇劇』(昭和五十七年)は、ウコン号というショウボートの中で連続殺人が起こるミステリーです。題も舞台設定も回文なら、登場人物の芸名も、たんこぶ権太、森まりもなど回文、各章は「1 豪雨後」から「18 大敵が来ていた」まですべて回文、序章と終章は「今しも喜劇」「奇劇も仕舞い」で合わせて回文、書き出しの一文は「台風とうとう吹いた」、最後の一文は「わたしまた、とっさにさっと欺(だま)したわ」、文中にもしばしば回文が見られるという凝ったものです。マジシァンでもある泡坂氏には、ストーリーとは関係のない仕掛けがある作品がいくつもあります。これもその一つです。泡坂氏には、『意外な遺骸』(昭和五十四年)という短編もあります。
佐野洋氏の『盗まれた嘘』(昭和五十三-四年)というミステリーでは、丹下玄太と小並木美奈子というカップルが主人公です。岡嶋二人氏の短編集『三度目ならばABC』(昭和五十九年)では、「この人の名前、愉快でしょ? 織田貞夫っていうんです。上から読んでも、おださだお、下から読んでも、おださだお、あたしは土佐美郷、やっぱり、上から読んでも、とさみさと、下から読んでも、とさみさと、ね」という二人が探偵役で、「山本山コンビ」と呼ばれます。この二人は長編『とってもカルディア』(昭和六十年)にも登場します。山本山コンビというのは、海苔店のコマーシャルから取ったもの、こちらは漢字で回文です。三笑亭笑三、三遊亭遊三という落語家の名もそうです。
奥山真由子さんという知人がいます。仮名で書いても回文にはなりませんが、OKUYAMAMAYUKOとローマ字で書くと回文になります。これは親御さんが意図して付けた名だそうです。ローマ字は単音文字ですから、声に出して言ったのを録音して逆回しすると、オクヤママユコと聞こえます。地名の赤坂もこれと同じになります。先の泡坂氏の『喜劇悲奇劇』にも、岡津唄子(OKATUUTAKO)、ノーム・レモン(NOME LEMON)という人物が出てきます。
外国にも同じような遊びがあり、英語ではpalindromeと言います。
Able was I ere I saw Elba.
エルバ島を見る前は私は有能であった。ナポレオンが晩年に過去を回想したことばというものです。エルバ島はイタリアの海岸にあり、ナポレオンが戦いに敗れて最初に流された所です。よくできていますが、フランスのナポレオンが英語で回想するはずはないでしょう。
Madam, I'm Adam.
奥様、私はアダムです。アダムというのは単なる男の名前と思っていましたが、エデンの園でイブに言った言葉としたほうがおもしろいように思います。
ヨーロッパの教会の聖水盤の側面に、ギリシァ語で「わが顔のみならずわが罪を洗え」という意の NIψONANOMHMATAMHMONANOψIN と記してあるものが多いということです。
中国文学にもこのような詩があります。梁の簡文帝(503-551)の作という「詠雪(雪を詠む)」という詩は、
塩飛乱蝶舞、花落飄粉匳、匳粉飄落花、舞蝶乱飛塩
(雪をたとえると、塩が飛んで乱れる蝶が舞い、花が落ちておしろい箱にただよい、箱のおしろいは落花にただよい、舞う蝶が乱れて塩を飛ばす。)
というもの。中国には古くからこんな遊びがあったのです。日本の回文の歌も、そういう中国文学の影響を受けているのかもしれません。
なお中国で回文詩というのは、逆に読むと全く別の詩になるものを言うのが普通です。
江戸時代には、よい初夢を見るように、印刷した宝船の絵を売りに来たのを買って、枕の下に入れました。その絵には、
なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな
という回文の歌が書いてありました。漢字をあてると
長き夜の十(遠トモイウ)の眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな
となります。この歌は中国で万暦二十年(1592)に出た『日本風土記』という本に廻文詞として出ていますから、桃山時代には広く行われたものであったことが分かります。
回文の歌のいちばん古いのは、平安後期の歌論書『奥義抄』に「草花を詠む古歌」として載っている次の歌です。
むら草に草の名はもし備はらばなぞしも花の咲くに咲くらむ
多くの草に草の名はもし備わるならば、どうして花が咲くのに咲いているのだろう。現代語に訳すればこんな意味です。何を言いたいのかよく分かりません。こういう言葉遊びでは、意味に無理ができるのはやむを得ないところで、それをどれだけうまく作るかが、作者の手腕というものでしょう。鎌倉時代の順徳上皇の歌論『八雲御抄』に、右の「むら草に」の歌を例にあげて、回文の歌はきちんと意味の続くのも少ないから、こういう歌を好んで詠むと、普通の歌のために良くないとあります。
鎌倉初期の歌人の藤原隆信(1142-1205)の歌集『隆信集』に、「廻文歌」として、
白波の高き音すら長浜は必ず遠き潟のみならし
白波の高い音でも長浜は必ず遠い潟だけであるようだ
茂る葉もかざして岩間闇砕く御山は出でじ坂も遥けし
茂る葉も髪に挿して岩間の闇を砕く御山は出るまい、坂も遥かだ
など五首が載っています。
鎌倉時代の藤原隆祐(『新古今集』の選者の一人である藤原家隆の子)の『隆祐集』には、「海上の眺望」という題で、
長遠き潟は南のすごきとき小簾(こす)の南は高き音かな
長く遠い潟の南風がもの寂しい時、小簾の南は高い音であることだ
「神に寄する祝」という題で、
御垣よりかざす枝には木の花は軒端に絶えず盛りよき神
垣根からかざす枝には木の花は軒端に絶えなくて盛りのよい神である
など三首があります。題を決めて回文にするのはかなり難しいことでしょう。
南北朝時代の代表的な歌人である頓阿の『続草庵集』の次の歌は、表現に不自然なところがなく、かなりよくできています。
疾(と)く立たじ里の篁(たかむら)雪白し消ゆらむ方の閉ざしたたくと
早く出発するまい。里の竹やぶに雪が白い。その雪が消えているであろう方の戸をたたこうとして。
こういう歌は、言葉遊びが主眼ですから、いわば狂歌です。だから江戸時代の狂歌集にはしばしば回文の歌が見えます。
江戸初期の上方の狂歌では、慶安二年(1649)序の石田未得の『吾吟我集(ごぎんわがしゅう)』に、
身の留守に来ては折り取るこの花は残る鳥をば敵にするのみ
を初めとして、春・夏・秋・冬・恋・雑に分けた十五首を載せているのをはじめとして、いくつもの狂歌集に回文の狂歌が載っています。
江戸の狂歌では、天明三年(1783)に出た四方赤良(太田南畝)編『万載狂歌集』に、廻文歌として、「長き夜の」と、
むら芝で見つつ摘み草名は知らじ花咲く見つつ摘みて走らむ(元木網)
とが載っています。
四方赤良編の天明五年刊の『徳和歌後万載集』に、
ある人の放屁しけるを、かたへの人笑ふあまりに、回文の歌詠めと言ひければ、へゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝ(加保茶元成)
という一首があります。ここまで来ると悪ふざけとしか言いようがありませんが、工夫を凝らす回文のパロディと見ることもできるかもしれません。
江戸後期には、三友亭という人の回文の狂歌一六二首を収める『百よぐるま』(文化五年)など、回文の狂歌集がいくつか編まれています。
康正二年(1456)にできた源意という人の独吟(ひとりで作った連歌)『異体千句』は、かなり難しい条件で百韻(百句の連歌)を十詠んだ作品です。その後に「追加」として、
なかば咲く萩のその木は草葉かな
で始まる回文の連歌を添えています。ただしこれは二十二句で終わっていて、完成していません。
豊臣秀吉夫人の北政所の甥で歌人の木下長嘯子の『魚の歌合』にも、
長き名や玉のをのまた柳かな
で始まる連歌の表八句(初めの八句)が出ています。
俳諧という語は、本来は滑稽という意味です。江戸初期の俳諧は、言葉遊びの傾向が強いものでした。
正保二年(1645)に出た松江重頼編の俳書『毛吹草』には、「廻文之発句」という章があり、
目をとめよ梅(むめ)かながめむ夜目遠目重貞
を最初に七十八句載っています。
正保四年刊の『毛吹草追加』には、回文の百韻が二巻載っています。正保二年に重頼・重方・重貞・重供の四人で作ったものの最初の一巡を挙げます。
交野(かたの)見つ鳥と小鳥とつみの鷹重頼
冷えの気(け)寒く酌む酒の酔ひ重方
照りて来つ西に真西に月照りて重貞
友はよき人問ひき夜はもと重供
連歌にはいろいろと厄介な決まりがあって、俳諧ではそれを少し簡略にしています。発句(第一句)には季語と切れ字を入れる(この場合、季語は「鷹」(冬)、切れ字は「つ」)、脇(第二句)は発句と同じ季節の季語を入れ(この場合は「冷え」)名詞で止める、第三は助詞で止める(この場合は「て」)などの条件がありますが、この作品ではそれを見事にクリアーしています。
慶安四年(1651)刊の『崑山集』では、最後に付録として回文の句を多数載せています。その中に、
なつなみな野なはなはなのなみなつな
つつつ つ つ つ つ つ つつつ
なつなみな野なはなはなのなみなつな
み みみみ み み み みみみ み
なつなみな野なはなはなのなみなつな
の の 野のの 野 ののの 野 野
なつなみな野なはなはなのなみなつな
は は は ははははは は は は
なつなみな野なはなはなのなみなつな
は は は ははははは は は は
なつなみな野なはなはなのなみなつな
野 野 野の野 の 野の野 の の
なつなみな野なはなはなのなみなつな
み みみみ み み み みみみ み
なつなみな野なはなはなのなみなつな
つつつ つ つ つ つ つ つつつ
なつなみな野なはなはなのなみなつな
とものきつとかめむめかと月のもと
もも も も もも
の の の の の の
月 来つ 月 月 月
とものきつとかめむめかと月のもと
か かか かか か
め め め め め め
む む む む む
め め め め め め
か かか かか か
とものきつとかめむめかと月のもと
つ つつ つ 月 つ
き 来 き き き
の の の の の の
もも も も もも
とものきつとかめむめかと月のもと
のように、視覚的にも楽しめる回文が五句載っています。こういう形式を八重襷(やえだすき)と言います(原本では字が横向きになったり斜めになったりしています)。
明暦二年(1656)刊の皆虚編『せわ焼草』には「回文詞」として、
父・母・耳・桃・衣類・小猫・功徳・神の身か・花の名は・消ゆる雪・柿の木か・檜の火・床の琴
などをあげ、さらに、上五文字と下五文字とで回文になる、
中清き…清きかな
照りて来つ…月照りて
よき槌も…望月夜
や、七文字が回文になる
草花は咲く
竹の根の桁
実のなき菜のみ
など、多くの例を載せています。その中には、最初にあげた「竹屋が焼けた」もあります。こういう手引きが必要なほど、初期俳諧では言葉遊びの回文は重視されたのです。『悦目抄』という鎌倉時代の歌論書にも、
白鳥(しらとり)取らじ
行縢(むかばき)履かむ
隅の間の御簾(みす)
子猫の子猫
獅子の子の獅子
という例があげてありますが、そこでは、「これ秘するが中の秘事なり。秘すべし、秘すべし」と勿体つけています。文学が、貴族たちのものであった時代に比べて、庶民のものとして公開されたことを感じさせます。
芭蕉などが出てきて以後、俳諧はシリアスなものになり、言葉遊びから次第に離れてゆきますが、芭蕉の弟子の其角は、
今朝たんと飲めや菖蒲(あやめ)の富田(とんだ)酒(五元集)
という句を作っています。享保十六年(1731)に全編自作の回文の句集『俳諧青海波』を出した重田梧山という俳人は、十八年三月に亡くなる時に、残る梅の中にフクロウが鳴くのを聞いて、
香やひらき法(のり)とく鳥のきらびやか
という辞世の句を詠みました(誹諧家譜)。辞世の句も回文にするほど、命をかけていたのでしょう。
文化六年(1809)に出た『俳諧廻文帖』には、素更という俳人の独吟の歌仙(三十六句の連句)十二巻、百韻の連句一巻と「旅のすさみ」という短文が載っていますが、連句はすべて回文、文中の一句も回文、したがって五三三句がすべて回文という徹底したものです。第一の歌仙の発句は、
折るな枝鶯低う妙(たえ)なるを
というもの、「妙」は歴史的仮名遣いでは「たへ」ですが、当時としては仕方のないところでしょう。
回文は短いほうが作りやすいのは言うまでもありません。かなり長く作った例もありますが、そういう作品は、なるほど回文だと感心させられるだけです。記憶されるのは、せいぜい短歌の長さくらいまででしょう。その短歌は五七五七七ですから、第三句の四字目を真ん中にして回転し、七七五七五が五七五七七にもならないと成り立たないのですから、かなり難しい。連歌や俳諧では、五七五あるいは七七の句で回転すれば良いので、ずっと作りやすくなります。連歌俳諧に回文が多いのは、そんな事情もあるのでしょう。
最後にちょっとエッチな句。
床のべよ何だえ旦那昨夜(よべ)のこと
という句を何かで読んだ記憶があり、鈴木棠三(とうぞう)氏の『ことば遊び辞典』にも出ているのですが、出典が分かりません。ご存じのかたがあったら、お教えください。
2002-06-24 公開