第15回

しゃれで付けた名(前編)

旧悪を告白しますと、学生の時に、だいぶ列車でキセルをしました。

キセルは、雁首と吸い口は金属ですが、途中は竹のラオです。初めと終わりだけは金があるが、途中は金が無いのです。

昭和五年に出た『モダン語辞典』に、「烟管乗りと云って、電車、汽車等で前半一部と後半一部の切符のみ買って通して乗る方法」とあります。昭和初期にはあった言葉であることが分かります。この本には、「選挙買収等で、契約の時に前金投票後に後金を支払ふ方法」という意味も記してあります。昭和六年刊の『特殊語百科辞典』によると、「汽車の中間は三等切符を買ひ、始発駅着車駅の付近だけを一等切符を求めて送迎者に見栄をはること」という意味もあるそうです。このほうが少しは可愛げがあります。

無賃乗車(船)を、もっと古くは「薩摩守(さつまのかみ)」と言いました。狂言『薩摩守』(大蔵虎明本)に、

船賃は薩摩守ぢゃとおしゃれ。その心はと言はうならば、ただのりぢゃとおしゃれ。

昔、平家の公達に、薩摩守忠度(ただのり)といふ人があった。御身舟にただ乗るを、薩摩守と言ふは、ただのりと言はうためぢゃ。

とあるのが、説明になっています。平忠度は、平家の都落ちの時に京都へ引き返し、歌の師である藤原俊成の家へ勅撰集に入れてほしいと自分の歌集を届けたという『平家物語』にある逸話で知られていました。

尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』(中編一)に、「美人クリイム(箇(こ)は美人の高利貸を戯称せるなり)」とか、「高利貸(アイス)」とかいう語が出てきます。もう一つの明治のベスト・セラーである徳富蘆花の『不如帰』(上・六の一)にも、「高利貸(アイスクリーム)」とあります。アイスクリームは氷菓子、つまり高利貸しです。『日本国語大辞典』によると、学生の隠語であったそうです。

今回はしゃれによる命名を扱います。いろいろとあると思いますが、道具・飲食物・屋号・看板・書名に限ります。数が多いので3回に分けて掲載する予定です。

道具類

1 可盃(べくさかずき)

底に穴があいていたり、底がとがっていたりする盃を「可盃」と言います。どちらも飲み干さないと下に置けないもので、酒を強いるために用いる器です。これを「可盃」と言うのは、書簡や日用文では、「可(べく)」の字は、「可有候(あるべくそうろう)」のように必ず上にあるので、下には置けないというしゃれです。

寛永五年(1628)に著者の安楽庵策伝から京都所司代である板倉重宗に送られた笑話本の『醒睡笑』(五)に、堺(大阪府堺市)の薬師院という医師が、「このべく盃を夏菊と名付けた、しも(下・霜)に置かれないから。」と言ったのを聞いて、それをまねた者が他所で、「したに置かれないから」と言ったという笑話があります。

2 不精独楽(ぶしょうごま)

「不精独楽」というのはベエゴマのような玩具です。『枕草子』のパロディである寛永九年刊の『尤之双紙(もっとものそうし)』(下)の「めぐる物の品々」の中に、「たたけばめぐる不精独楽」とあります。たたけば回るが、たたかれないと回らないから不精という名が付いたのだそうです。

3 えびす紙

「紙を重ねて裁つ時、角が折れ込んで裁ち残しになったもの。」(日本国語大辞典)を「えびす紙」と言います。寛永十年(1633)刊の『誹諧発句帳』(春)に、

書き初めやまづ心よきえびす紙宗壽

という句があり、江戸初期にはあった語です。この語源について、『日本国語大辞典』にいろいろな語源説があげてありますが、喜多村信節の文政十三年(1830)序の考証随筆『嬉遊笑覧』(八)や天保十一年(1840)刊の山崎美成の随筆『三養雑記』(一)などには、陰暦十月にあらゆる神は出雲大社に集まるが、恵比須だけは十月二十日の恵比須講があるので行かない、つまり「神の立ち残り(または「立ち損ない」)」で、「紙の裁ち残り」と同音であると説明しています。大田南畝の随筆『一話一言』には、その紙を斜めにすると恵比寿の烏帽子をかぶった姿が見えるからという別の説もあげてありますが、それではしゃれになりません。

わたくしはこれを「福紙」と言っていました。明治三十九年に出た『高座の色取』(第一集)という本に、えびす紙と同じ説明があります。恵比寿は福神なので、そう言うようになったのでしょう。

4 大和窓

同じ『誹諧発句帳』(秋)に、

唐までの月をぞ思ふやまと窓親重

という唐と大和とを対比させた句があります。この「大和窓」について、貞享四年(1687)刊の小説『新竹斎』(五・四)に、家の中に明かりを取り入れ、竈(かまど)の煙を出すので、日本(やまと)窓と言うのだとあります。竈の近くにあって、明かり取りと煙突とを兼ねる天窓なのでしょう。竈の近くは火の元、同音で日本(ひのもと)、それで大和窓です。

5 武蔵野(大盃)

寛永十九年刊の句集『鷹筑波集』(五)の、

武蔵野を見て肝つぶすなり
下戸の前へ大盃やいだすらん貞義

という付け合いは、「武蔵野」と言う大盃があることによるものです。

僧恵空(えくう)が編集した延宝八年(1680)刊の辞書『節用集大全』に、「武蔵野」というのは「野見尽くされず」であると説明があり、西鶴も『西鶴織留』(二・五)に、「むかし上戸ののみつくされぬとて名を付けし武蔵野といふ大盃(たいさん)はないかと言ふ。」と書いています。

武蔵野は月の入るべき峰もなし
尾花が末にかかる白雲続古今集・秋上・四二七、藤原通方

の歌などによって、武蔵野は広い所として知られていました。それで「野見尽くされずー飲み尽くされず」です。

暁鐘成の文久二年(1862)刊の『雲錦随筆』(一)に、大阪の近郷で、酒宴に盃を納める時に、「もはや武蔵にして納めたまへ」と言うのを例とするとあります。飲み尽くせないから終わりにするのです。江戸後期まで「武蔵野」というしゃれは行われていました。

この本には、平野(大阪市平野区)に住む多治見氏の所持する大盃「武蔵野」の絵が出ています。直径九寸(27cm)、深さ八分(2.4cm)、内側には一面に薄の蒔絵が施してあり、著者は、盃の丸いのを月になぞらえ、武蔵野の月の景色をかたどったものと説明しています。上の歌の風情です。

6 法華釜

京都の釜師の浄味が創始したという浄張りという茶釜がありました。浄味が張った茶釜だから浄張りなのでしょう。貞門俳諧の総帥である松永貞徳の『新増犬筑波集』(淀川)(寛永二十年刊)に、これの異名を法華釜と言う、日蓮宗(法華宗)は頑固なのでこの名がある、とあります。強情・頑固なことを情張りと言うからです。固法華という語があるように、日蓮宗の信者は信仰心が堅固なのです。

7 誰(た)が袖(匂い袋)

西鶴の『好色二代男』(八・四)に「誰が袖の匂ひ浅く」とある「誰が袖」は、匂い袋の名です。これは『古今集』の

色よりも香こそあはれと思ほゆれ
誰が袖触れし宿の梅ぞも春上・三三、詠み人知らず

という、芳香のする梅は誰の香をたきしめた袖が触れたので香るのだろうという内容の歌を踏まえて、「誰が袖」という名を付けたものと、柳亭種彦の天保十二年(1841)刊の考証随筆『用捨箱』(中)にあります。江戸後期には意味がずれて、楊枝差しを言っていたようで、種彦は、それでは意味が分からないと述べています。

8 初音・白菊・柴舟(香木)

「一木三名」と呼ばれる伽羅の名木がありました。藤本箕山〈きざん〉が遊里の諸事情を説明した元禄初年成立の『色道大鏡』(一五)に、次の説明があります。

豊前国小倉(北九州市小倉区)の町人の土肥紹甫が外国で手に入れ、領主の細川忠利の一覧に供し、忠利とその父の忠興が一部を切り取った。紹甫は宮中に献上し、また伊達政宗も望んで切り取った。宮中に奉ったものは、

聞くたびに珍しければ時鳥
いつも初音の心地こそすれ金葉集・夏・一二〇、権僧正永縁

聞くたびに珍しいので、時鳥の声はいつも初音の心地がする。

の歌によって「初音」と名付け、細川家では内縁の公家である烏丸光広が、

類(たぐ)ひありと誰かは言はむ末匂ふ秋より後の白菊の花和歌一字抄・一〇二三、行宗

似たものがあると誰が言うだろうか、最後まで咲き匂う秋より後の白菊の花を。

を踏まえて「白菊」と名付け、伊達家では、

世のわざのうきを身に積む柴舟や
たかぬ先よりまづこがるらむ出典不明

この世のことの憂き(つらさ)という木を積む柴舟は、その木を焚かない前から舟は漕がれ(焦がれ)るのであろうか。

の歌を取って「柴舟」と称した。三つの名があるが、「初音」は勅号なので、この名を用いる。

「聞くたびに」の歌は時鳥のことを香に置き換え、この香を聞くたびに珍しいから「初音」、「類ひありと」によって類いの無い香りだから「白菊」、「世のわざを」によって「たかぬ先よりまづこが」れるのだから「柴舟」と名付けたのです。

この話は他の随筆などにも見え、第三の歌には少しずつ違いがあります。森鴎外は神沢貞幹の『翁草』(六)に見える、細川家で入手した経緯などを参照して、『興津弥五右衛門の遺書』を書き、以後、歴史小説を書き続けるようになります。

「初音」を用いるとあったとおり、寛永十年刊の句集『犬子〈えのこ〉集』(夏)の

いづれ聞かん伽羅の初音と時鳥堅結

など、この名を用いた例が多いようです。これは「初音」という命名の説明のような句です。

9 夏衣(香木)

香木の話をもう一つ。岡田新川の随筆『秉穂録(へいすいろく)』(一下)(寛政十年〈1798〉)にある話です。

名古屋の町人の家で、古い臼を割って薪としたところ、香気があたりに満ち、赤栴檀(しゃくせんだん)であることが分かった。後に冷泉家から「夏衣」という名を賜った。夏衣は薄着、臼木に通うからである。

土肥経平の随筆『風のしがらみ』(下)(安永二年〈1773〉)には、兵庫県の有馬温泉の杉の根を掘ったところ、芳香があるので朝廷に献上し、後西天皇から「夏衣」の名を賜ったとあり、一説に摂津国有馬郡(兵庫県三田市あたり)の岩井与兵衛という者の家の古い臼であるとも記しています。こちらには謎解きは出ていません(前者では夏衣というしゃれになりません)。「夏衣」という香木はいろいろあったのでしょう。

10 呉須手(ごすで)(磁器)

中国の明末・清初に江西・広東地方の民窯で焼いた粗製の「呉須手」という磁器が、江戸時代の茶人に好まれました。元禄七年(1694)にできた『万宝全書』(八)という美術品のことを書いた本に、染め付け手の良いものは「子昂(すごう)」と言うのに対して、これは良くないものだから逆にして「ごす」と言うのだとあり、新井白石も安積澹泊(あさかたんぱく)宛の書簡に同じことを述べています。「子昂」は、初唐の詩人で書にも優れた陳子昂か、あるいは元代の書画に巧みであった趙子昂か、いずれにせよ、手が良いということになるのでしょう。スゴウの反対は「ごす」です。

ほんとうのところは、呉は中国南部のこと、そこで産するということなのではないでしょうか。

11 いろいろなウグイス

a. 香道で包み紙にさしてとめる串を「うぐいす」と言うそうです。これについて、伊勢貞丈(さだたけ)(1717-84)の故実書『安斎随筆』(一八)には、徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮である東福門院(1607-78)が、

飽かなくに折れるばかりぞ梅の花
香を訪ねてや鶯の鳴く順徳院(続後拾遺集・春上・四九)

という歌で名付けたと言うと説明し、別に、ウグヒスを上下略してクヒ(杭)という説もあるとしています(これなら、別項に記した連歌の賦物の四字上下略の方法です)。『嬉遊笑覧』(一〇下)では、必ずしもこの歌では十分に説明できない、『古今集』の

青柳を片糸に縒(よ)りて
鶯の縫ふてふ笠は梅の花笠神遊びの歌・一〇八〇

などから、貫き刺すので「縫ふ」と言ったのではないかとしています。鶯が縫うので名付けたと言うのです。

b. ウグイスという名の道具類はほかにもいろいろあります。

鶯で歌書をや綴づる糸柳定時(鷹筑波集・一)

立つ春に詠む歌どもを書き写す
草紙を綴づる竹の鶯淡路守宗増(後撰夷曲集・雑上・九五七)

などとあるウグイスは、冊子を綴じる竹の串だそうです。

この鶯を用いる冊子の綴じ方を、鶯綴じというそうです。『嬉遊笑覧』(一〇下)では、これも貫き刺すものだからと解しています。太田全斎(1749-1829)の俗語辞典『俚言集覧』では、後奈良天皇の『なぞたて』にある、

宇佐の宮熊野も同じ神なれば
伊勢住吉も同じ神々(答)鶯

という謎で説明しています。この謎は、神(かみ)を同音の上(かみ)として、ウサのウ、クマノのク、イセのイ、スミヨシのス、それをつなげてウグイスとなると解きます。そのカミを紙にとりなし、紙々(神々)の上を寄せるのだからウグイスだというのです。

c.味噌などをすくい取る杓子である切匙(せっかい)も、女性語でウグイスと言います。1603年にイエズス会が刊行した『日葡辞書』に見えています。名付けたのはその形が小鳥に似ているからと言われていますが、『嬉遊笑覧』(二上)では、味噌を香(か)と言うので、順徳院の「香を尋ねてぞ鶯の鳴く」によるのであろうとしています。

d.香道の「鶯香」という組み香は、『日本国語大辞典』によると、一声聞けば十分ということだそうです。

e.室町時代の公家である三条西実隆の日記『実隆公記』の文明八年(1476)四月五日の条に、昨夜宮中で鶯飲み・十度飲みがあり、明け方まで大いに飲んだとあります。「鶯飲み」というのは参加者がそれぞれ盃を五個ずつ二組、梅花の五弁にかたどって並べ、そこに注いだ酒を早く飲み終わった者が勝ちになるというもので、梅に鶯の縁で名付けたものです。

12 行平鍋

粥などを煮る、取っ手と注ぎ口のある平らな陶器の行平鍋というのが今もあります。中川飛州という人が、天明の末から作るようになったと記したものが、大田南畝の『一話一言』(四一)に引用してあります。寛政三年(1791)に出た山東京伝の洒落本『錦之裏』に、「行平鍋をどうしたのう」「だれかとうに割ってしまひんした」という会話があります。

これは塩を焼く道具から起こった名だそうです(小山田与清〈ともきよ〉『松屋筆記』一〇〇)。塩を焼く鍋に形が似ているのでしょう。在原業平の兄の行平が須磨(兵庫県神戸市須磨区)に流されていた時に、海女に潮を汲ませて塩を焼いたという話があり、それで名付けたものと言われています。

なお、『日本国語大辞典』の「行平」のところに挙げてある『誹諧之千句』の例は、豊後の刀匠の名ですから、鍋の例としては不適当です。

13 碁盤の足

田宮仲宣の享和三年(1803)刊の随筆『東牖子(とうゆうし)』(五)に、碁盤の足が梔子(くちなし)の形であるのは、助言を戒めて「口無し」ということだと聞いたとあります。日本棋院にお尋ねしたところ、以前からそのように解しているとの回答をいただきました。

2003-08-25 公開