第11回
いろは歌のいろいろ
これまで、「折句」でいろはを頭などに置いた歌について、「いろは歌のアナグラム」でいろは歌を並べ換えた歌について、記しました。それ以外のいろは歌を用いたことば遊びを扱います。
上方落語「兵庫船」で、船中の乗客たちが謎かけをする場面があります。(『米朝落語全集』による)
「ほな、わたしも一ついきまひょ。いろはのいの字とかけて」
「はあはあ、いろはのいの字、あげまひょ」
「これをもらうと、船頭さんの手と解く」
「こころは」
「櫓の上にあると、どないでやす」
「ああ。いろはで、ろの上か」
から始まって、
2 ろの字とかけて、野辺の朝露と解く、心は、葉の上にある。
3 はの字とかけて、金魚屋の弁当箱と解く、心は、荷の上にある。
4 にの字とかけて、沖のカモメと解く、心は、帆の上にある。
5 ほの字とかけて、ふんどしの結び目と解く、心は、屁の上にある。
6 いろはにほへとかけて、吉野山の花盛りと解く、心は、散りぬる前。
7 いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすとかけて、東海道五十三次は大津の宿と解く、心は、京の前。
8 おくやけこえてとかけて、こんなしょうもないことをワアワア言うてるこの連中と解く、心は、まぬけにふぬけ。
と続きます。
この謎かけを、六代目三遊亭円生が演じた「三十石」でご存じのかたが多いと思います。「三十石」も上方の噺なのですが、明治十七年に橘家円喬が東京へ移し、謎かけの部分は、「兵庫船」のものを「つかみこみ」したのです(『円生全集』による)。
秋田藩士の人見蕉雨が寛政六年(1794)に著した『黒甜瑣語(こくてんさご)』(二編三)という随筆に、奥州という吉原の遊女が作ったという
いろはにほへととかけて、花盛りと解く、心は、ちりもせぬ先
ゑひもせすとかけて、寝覚めの床と解く、心は、ゆめみし後
の二つの謎が出ています。前者は『兵庫船』のものと同じです。後者は上の7と同じ解き方です。
西沢一鳳軒が嘉永三年(1850)に著した考証随筆『皇都午睡』(初上)に、「宛字読み」として、
とと書いて、ヘチマと読ます。(ほへとちりぬ)へとちとの間なり。
と始め、その後に、力士の名前に、いと書いて、カナガシラ、京と書いて、カナドメというのがあったと記しています。その後に、「九十六と書きて一字九十六と読ます由」とあるのですが、後の九十六に振り仮名がないので何と読むのか分かりません。フタツカナなど考えてみたのですが、「一字」ということになりません。これらは謎ではありませんが、考え方としては同じことでしょう。
このカナガシラは、最古の謎の本である、後奈良天皇が即位前の永正十三年(1516)に編集したという『なぞだて』に、同じようなものが載っています。
いもじ(答)かながしら
こちらは、発問は「鋳物師」、答えはホウボウ科の魚の名でしょう。寛永ころにできた『謎乃本』には、「い」だけで答えが「かながしら」になっています。この本には、次に「す」という謎も出ています。答えは「かなつき(金突。魚を捕る銛の類)」、「仮名尽き」と解くわけです。
『なぞだて』には、いろはを用いた謎として、他に次のものが出ています。
ろはにほへと(答)いはなし(岩梨)
「いろはにほへと」のイがないから、イは無しです。
ろはにほへと(答)さきをれかんな(先折れ鉋)
先折れ仮名ということです。同じ問いで、別の答えになっています。享保十三年に出た『背紐(うしろひも)』という謎の本には、「藺(い)がら」という解もあります。無いからカラです。
いろはならへ(答)かんなかけ(鉋掛け)
仮名書けと解くわけです。
にがみにがみゆがみゆがみ(答)ははきぎ(帚木)
ニの上(かみ)はハ、ユの上はキです。
以後に作られた謎の本にもいろいろありますが、省略します。
寛永五年に安楽庵策伝が編んだ『醒睡笑』(一・謂へば謂はるる物の由来)に、次の話があります。
連歌師の宗祇が弟子の宗長と海岸で網に藻がかかっているのを、漁師に「これは何と名をいふぞ。」と尋ねたら、「めとも申し、もとも申す。」と答えた。宗祇は「やれ、これはよい前句や。」と言って、
めとも言ふなりもとも言ふなり
という句で宗長に付け句を作るように指示し、また自分でも、
よむいろは教ゆる指の下を見よ
と付けた。いろは歌では、ユの下はメ、ヒの下はモです。これは謎ではありませんが、考え方としては「にがみにがみ…」と同じことです。
『醒睡笑』(四)には、京都で丹波から荏(え。エゴマ。油の原料)を売りにきた商人と油屋の亭主の言い争いがあり、亭主は荏を簸(ひ)て(殻や屑をふるって除いて)買おうというのに、商人は、京都の中では簸ては売るまい、「ゑひもせず京(荏簸もせず、のしゃれ)」というではないか、と言ったという笑話もあります。
「ゑひもせす京」を用いたものでは、江戸初期に書かれた『寒川入道筆記』に、次の謎があります。
都はいつも湿りこそすれ、何ぞ、(答)ゑひもせず京
都はいつも湿っぽくて、酔って浮かれている気分ではない、だから「酔ひもせず京」というわけです。
天和三年刊の笑話本『(鹿野)武左衛門口伝はなし』(上)には、
女房を「よね」と言うのは、いろはの「よたれ」の行でヨとネの間にタレソツの四字があり、四字(しじ、似指(男根)とかける)を挟むからヨネと言うのだ。
という笑話があります。
『日本国語大辞典』には「やきょうごえ[やけふ声]」という語が出ています。「やマけふこえ」で、間の抜けた声ということですが、用例が出ていません。いつごろのものなのでしょうか。
赤穂浪士を扱った作品には題名にイロハと言うものがあります。有名なものでは為永春水に人情本『いろは文庫』(初編天保七年(1836)刊、以後続刊)があります。赤穂の浪士は四十七人、イロハも四十七字であることによるものです。浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年(1748)初演)の仮名手本というのもイロハのことです。天明五年(1785)に出た忠臣蔵の劇の評論である『古今いろは評林』には、他に、歌舞伎では、宝暦十一年(1761)に『泰平いろは行烈』、明和八年(1771)に『小袖蔵いろは配(てくばり)』が、浄瑠璃では、明和元年に『いろは歌義臣兜』、安永二年(1773)に『いろは蔵三ツ組盃』、安永四年に『忠臣いろは実記』が演ぜられたとあります。
赤穂浪士に関連して、先に引用した『黒甜瑣語』(初編四)に次の話が出ています。
赤穂の吉田忠左衛門、原惣右衛門、小野寺十内の三人が、高野山で了覚という僧から四句の文を与えられた。その第三句は、「字母に神有り脚する所を看る」というもので、三人は理解できず、大石良雄に見せると、「字母は空海大師のいろはなり。六行五字の例に書きて其の脚する所を見れば、とがなくてしすの訓をなす」、我等四十七人は、復讐した後に、科(とが)が無くて死する刑にあうだろうと解いた。「六行五字」というのは、いろは歌を七字ずつ書くと六行と余りが五字になることで、その各行の下は、トガナクテシスとなります。
このことは、安永六年(1777)から刊行された谷川士清の国語辞書『和訓栞(わくんのしおり)』の「大綱」に、「韻字(末尾の字)に「とかなくてしす」と置けるも(涅槃経の)偈の意なるべし。」とありますから、大石良雄の話はないものの、末尾の字にも注目していたことが分かります。
『黒甜瑣語』の「六行五字」というのは、いろは歌を七字ずつに切ったものでした。このように七字ずつ切って唱えることが一般的だったようです。
室町時代に編まれた俳諧集の『犬筑波集』に、
春ごとにいろはの文字の一くだり
やまけふこえて帰るかりがね
という付け合いがあります。これは七字ずつ切った五行目が「やまけふこえて」だから成り立つものです。
天保十二年(1841)ころに上総の一叟という俳人が著した『芭蕉桃青翁御正伝記』という芭蕉の伝記を書いた本に、寛文五年(1665)十一月に伊賀上野の俳人たちが興行した、松永貞徳の十三回忌追善の百韻連句が載っています。その中に、
奥山とある歌の身にしむ蝉吟
いろはをばらむうゐのより習ひ初め一以
という付け合いがあります。七字ずつに切った四行目は「らむうゐの」、そこから習い始めると次が「おくやま」になるわけです。ちなみに、この連句には当時二十二歳の芭蕉が宗房という名で加わっていて、芭蕉の一座した現存最古の連句です。
江戸初期に書かれた『寒川入道筆記』に、いろは歌を用いた謎があります。
いろは四行(くだり)、何ぞ(答)熊手
七字ずつ区切って四行までですと、クまでです。
寛文(1661-72)ころに出版された『なぞのほん』には、
ぬるをわか(答)ちりとり
よれそつねな(答)たぬき
という謎が載っています。「チリぬるをわか」「よタれそつねな」ということです。これも七字ずつ切ることで成り立っています。
仮名草子『似我蜂物語』(下)の
いろはほへと にはとり(鶏)
も同様です。
『醒睡笑』(二)に、革草履を履いて歩いていた者が、誤って怪我して血が流れたのを、見る者が気の毒がったところ、当人が、「いや、苦しからず。昔より、「革緒に塗る血」とあるほどに。」と言ったので、人々が褒めたという笑話があります。チリヌルヲワカを逆さに読めばカワヲルヌリチ、それを踏まえたしゃれを言ったのです。この話から考えると、いろは歌を七字ずつに区切ったものを逆に唱えることもあったのでしょう。時代は下がりますが、寛政九年以後に作られた辞書『俚言集覧』に「さかいろは イロハを逆に訓むをいふ。」とあります。もっとも、文久二年(1862)に出た歌沢能六斎編『大津ゑぶし落葉籠』という歌曲集に、
申し申しお師匠様、いろはをさかさに読みませう。京すせもひゑしみめゆきさあてえこふけまやくおのゐうむらなねつそれたよかわをるぬりちとへほにはろい。おのれ呆れた馬鹿野郎、父母はいづくの生まれと問うたれば、越後の国の角兵衛獅子の伜(せがれ)と、減らず口たたいて帰る。
という歌詞が載っています。いろは歌をさかさに読むのは、馬鹿野郎なのです。
イロハ歌を記した最古のものは、承暦三年(1079)に写した『金光明最勝王経音義』に付載してあるものですが、七字ごとに行を分けて書いてあります。平安時代にはすでにこのように書いたのです。紙面の都合でこのようになったのではなく、七字ずつに区切って唱えていたのだろうと思われます。時代が下りますが、元禄十年(一六九七)に契沖が著した『和字正濫通妨抄』という仮名遣いの研究書には、「常のいろはをよむ声」として、七字ずつに区切ったいろは歌を掲げ、その後に「根本以呂波」として七五に区切ったものを掲げてあります。七字ずつ区切って唱えるのが普通だったのでしょう。七字ずつに区切るのは、日本の伝統的な韻律は五音か七音かですが、五字で区切ると切れ目が多すぎ、七字のほうがまとまりが良いからであろうと考えられます。
谷崎潤一郎『盲目物語』(昭和六年)は、初め浅井長政に嫁し、後に柴田勝家の妻となったお市に仕える盲目の三味線弾き、彌市の独白体の物語です。柴田が秀吉の軍に囲まれ、最後の酒宴の時に、
朝露軒どの(柴田に仕える法師武者)はそこのところをいとのねいろもうるはしくおひきなされましたが、ふと気がつきましたのは、その三味線のうちに二度もくりかへしてふしぎな手がまじつてゐるのでござりました。さやうでござります、これはわたくしども、座頭の三味線ひきのものはみなよくぞんじてをりますことでござりますが、すべてしやみせんには一つの絲に十六のつぼがござりまして、三つの絲にいたしますなら都合四十八ござります。されば初心のかたかたがけいこをなされますときはその四十八のつぼに「いろは」の四十八文字をあてゝしるしをつけ、こゝろおぼえに書きとめておかれますので、このみちへおはひりなされた方はどなたも御存知でござりますけれども、とりわけめくら法師どもは、文字が見えませぬかはりには、このしるしをそらでおぼえてをりまして、「い」と申せば「い」のおと、「ろ」と申せば「ろ」のおとをすぐにおもひ浮かべますので、座頭同士がめあきの前で内證ばなしをいたしますときには、しやみせんをひきながらその音をもつて互のおもひをかよはせるものでござります。ところでいまの不思議な合ひの手をきいてをりますと、
ほおびがあるぞ
おくがたをおすくいもおすてだてはないか
と、さういふふうにきこえるのでござります。……あゝ、さては朝露軒どのは敵方のまはしものか、でなくばちかごろ急に内通なされたのか、いづれにしてもひでよし公のおほせをふくんでおくがたをてきにわたさうとしてをられるのだな、……「さあ、彌市、いま一曲その方に所望だ」と申されて、ふたゝびしやみせんをわたくしの前へ置かれました。……わななくゆびさきに絲をおさへて、
けぶりをあいずに
てんしゆのしたえおこしなされませ
と、こちらも合ひの手にことよせまして、「いろは」の音をもつておこたへ申したのでござります。
とあります。さらに作者は、「奥書」に、
かんどころのしるしに「いろは」を用ひることはいつの頃より始まりしか不知今も浄瑠璃の三味線ひきは用之由予が友人にして斯道に明かなる九里道柳氏の語る所也、
と説明しています。
西洋音楽にも似たような例があります。バッハ(J.S.Bach)の「フーガの技法」第11曲「4声三重フーガ」では、B-A-C-H(変ロ-イ-ハ-ロ)の音型をフーガ主題として用いています。この旋律は、それ以前から見られるのですが、バッハはそれを意識して用いたようです。
2003-04-28 公開