第6回

賦物(ふしもの)

連歌におけることば遊び、「賦物(ふしもの)」

連歌という文芸は、一首の歌を二人で作ることから始まりました。『俊頼髄脳』に次の唱和があります。

奥山に船漕ぐ音の聞こゆるは躬恒

なれる木の実やうみわたるらむ貫之

山中で船を漕ぐ音が聞こえるという難題に、木の実が熟みわたっているからだろう、海を渡っているなら船を漕ぐ音がしても不思議でないと懸詞で解決したのです。このように、初期の連歌には、一方の人は相手が付けにくい句を出し、付ける人はそれをうまく解決してみせることでおもしろさをねらう、言わば頓知問答のようなところがありました。

しかし、その付けた句にさらに別の句を付ける、さらにまた別の句をと、連歌がどんどん長くなって行くと、頓知問答では続けにくくなり、連歌は次第に和歌と同じようなエレガントなものを目指すようになります。

長くなって行くと、全体にわたって何らかのルールを決めて続けるようになりました。『古今著聞集』(和歌)に永万(1165ー66)のころ、「いろは連歌」があって、

うれしかるらむ千秋万歳

という句に「ゐ」で始まる句を付けるのが難しくて人々が煩っていたところ、小侍従という女性が、

亥は今宵明日は子(ね)の日と数へつつ

と付けたという説話があります。各句の頭にイロハを順に詠み込むことで連歌を続けたのです。イロハは四十七字しかありませんから、この連歌は全体で何句あったのでしょうか。全体が残っていないので分かりません。

連歌が百句続けるのが正式なものになったのは、鎌倉時代のことです。このころには、賦物(ふしもの)という方法で続けるようになりました。賦物というのは、各句に一定の語を詠み込むことです。いろは連歌も順にイロハを詠み込むのですから、賦物の一種と言えます。

後鳥羽天皇(在位1183-98)の時代の例を見ることにします。(この時代の連歌は、百句全体が残っていず、延文二年(1357)に准勅撰となった連歌集『菟玖波集』に、すぐれた二句の続きだけが収められているだけです。)

後鳥羽院の御時、白黒の賦物の連歌召されけるに
乙女子が葛城山を春かけて
霞めどいまだ嶺の白雪(菟玖波集・春上。藤原家隆)

「カヅラきやま」のカヅラと同音の「鬘」が黒いもの、「白雪」が白いもの、それをこんなふうに交互に詠み込んでゆくのが賦物です。

同じ家隆の句、建保五年(1217)四月、院の庚申の百韻の連歌に

年の内より春を迎へて
鶯の忍ぶる声もいかならむ(菟玖波集・春上)

は、藤原定家の日記『明月記』によると、草木が賦物でした。「むカヘテ」に木の楓が、「シノブる」に草の荵が隠してあります。

後鳥羽院の御時
源氏国名の百韻連歌奉りはべりける中に
いつも緑の露ぞ乱るる
蓬生の軒端争ふ故郷に(菟玖波集・雑二。源家長)

「いつも」に出雲(あるいは伊豆)が隠れています。「蓬生」が『源氏物語』の巻名です。

後鳥羽院の御時、三字中略・四字上下略の連歌に

ぶ契りの先の世も憂し
夕顔の花なき宿の露の間に(菟玖波集・夏。藤原定家)

三字の語「ちぎり」を中略すると「ちり(塵)」、四字の「ゆふがほ」を上下略すると「ふか(鱶)」となります。

言ってみれば、これは物名の歌と同じことです。草木の名や源氏の巻名・国名などをうまく隠して詠みこんで行くことのおもしろさで、連歌を長く続けることができたのでしょう。

藤原定家の日記『明月記』には、他に「五色」「浮沈物」「魚鳥」「木人名」「魚河名」などの賦物で連歌を興行したことが見えます。享徳元年(1452)の一条兼良著『連歌初学抄』の「賦物篇」には、三字中略・四字上下略の他に、一字露見・二字反音というのも出ています。前者は「日-火・蚊-香・名-菜」のように一音節で同音異義語のあるものを、後者は「花-縄・夏-綱・水-罪」のように二音節で逆さにすると別の語になるものを、詠み込むものです。

これらは、言ってみればなぞなぞのようなことば遊びです。永承十三年(1516)に即位前の後奈良天皇の編まれた『なぞだて』という謎の本から、似たようなものをあげてみます。

[二字返音]
呼び返せ呼び返せ(答)ひよひよ

ヨビを返すとヒヨになります。答えはひよこのことでしょうか。

酒の肴(答)けさ

サケの逆名(さかな)はケサ。答えは、袈裟とも今朝とも考えられますが、酒を禁ぜられている僧の袈裟のほうがおもしろいかもしれません。

年立ち返る年の初め(答)鵐(しとど)

トシが返ればシト、それにトシの初めのトが付きます。

[三字中略]
羊の角無きは仙人の乗り物(答)菱蔓(ひしづる)

ヒツジのツの無いのはヒシ、仙人の乗り物は鶴です。

雪の内に参りたり(答)湯巻

ユキの中にマが入ればユマキ(女の腰巻)です。これは二字の中に一字入れるのですから、三字中略を逆にしたものと言えるでしょう。

[四字上下略]
たまづさの中の言葉(答)松

タマヅサの中の言葉はマツです。答えは原本に「松」とありますが、「たまづさ(手紙)」の中の言葉は「待つ」でしょう。

垣の内の笹(答)鵲(かささぎ)

カキの内にササがありますから、カササギとなります。四字上下略を逆にしたものと言えます。(英語の謎にも同じようなものがあります。いちばん長い単語は何か。答えはsmiles。sとsとの間がmileなのです。)

発句に残った「賦物」

『明月記』の記載を見ると、初めのころの賦物は前節のようなものですが、嘉禄元年(1225)に「白何何屋」という賦物で連歌を行っています。これは、五七五の句には、たとえば糸・石・玉など、何のところに入れると白糸・白石・白玉という複合語になるような語を、七七のほうには、板屋・岩屋・瓦屋となるような板・岩・瓦などを、詠み込むのです。

仁治三年(1242)ころに作られた「賦何屋何水連歌」の最初から九句目までが残っています。発句は、

鹿の音も松の戸にこそ訪るれ

で「松屋」となり、以下、賦物は「山水・岩屋・湯水・柴屋・夜水・板屋・根水・雨屋」となっています。全部に賦物が行われていたことが分かります。

『明月記』でもそうですが、以後の連歌ではこの形式が主流になります。五十四の『源氏物語』の巻名や六十八の国名には、隠し題として詠み込みにくいものもありましょうから、それに比べると、この形式はかなり自由であり、好まれたのでしょう。

『明月記』を見ると、そういう賦物でも、風情を得ないとか、連歌が停滞するとか書いてあります。芸術的な連歌を作ろうとすると、こういうことば遊びは邪魔になるのでしょう。連歌を芸術的にするために、どういう語や句をどのように詠むかをいろいろと規定した式目が次第に整備されてくると、賦物で全体を統一する必要がなくなります。賦物を取るのは、表八句(最初の八句)まで、さらに第三までとなり、ついには、一条兼良の『連歌初学抄』に、昔はすべての句に賦物を用いたが、「近代は発句ばかりに賦物の沙汰あり」とあるように、賦物は発句だけに痕跡的に残るものとなりました。

連歌の代表的な名作として教科書などにもよく引用されている長享二年(1488)正月に作られた「水無瀬三吟百韻」は、「賦何人連歌」です。発句は「雪ながら山本霞む夕べかな 宗祇」。「何人」の「何」のところに、「山」を入れると「山人」という語ができます。

この時代の賦物はそれで十分なのですが、脇句の「行く水遠く梅匂ふ里 肖柏」からも意図していない「里人」ができます。

賦物が発句だけになった時代でも、全句にわたって賦物を取った作品もつくられています。宝徳三年(1451)三月に一条兼良邸で行われた「三代集作者百韻」は

春は今日夏を隣の千里かな(大江千里)経清

帰るを送る鳥の道風(小野道風)御(兼良)

霞み行く月にしたがふ山暮れて(源順)方(一条教房?)

とカッコ内の人名を隠し題にして百句続けています。

同じ年の八月十五日の「以呂波百韻」は

寝(い)を寝ぬや水のもなかの月の秋御(兼良)

櫓を押す船の初雁の声

はるかなる霧間の山は鳥に似て宗砌〈そうぜい〉

と、平安時代のいろは連歌を復活しています。前に記したとおり、イロハは四十七字ですから、二倍しても百句になりません。スの後に「キヤウ(京)」の三字を入れて五十字となり、それを二度繰り返して百韻にしてあります。

俳諧では、俳諧であることがすでに賦物であるから改めて賦物を取る必要はないという考え方もあったのですが、興味本位でわざわざ取り入れた作品もあります。

斎藤徳元(1559-1647)に魚鳥誹諧という「おのが名の紅葉や閉づるこごり鮒」で始まる独吟の百韻があります(誹諧独吟集)。右の発句で「鮒」がそうであるように、必ずしも隠し題になっていないところもありますが、一部を引いてみます。

大黒と恵比寿を拾ふ秋はよし(海老)

蔵に俵を積み重ね置く(雀鷂=ツミ)

代官を受け継ぐ身こそ目出たけれ(鶇=ツグミ)

百姓はただ殿の田作り(田作=ごまめ)

井原西鶴が延宝八年(1680)五月七日の一昼夜に四千句(百韻を四十)を詠んだ『西鶴大矢数』では、第一の発句は、

何泰平 天下矢数二度の大願四千句なり西鶴

で「天下泰平」、第二の発句は

手何 姿の花また吹き出だせ大句数重直

で「手花(鼻)」となるなど、すべての発句に賦物が行われています。「何泰平」などいう賦物は連歌にはなく、西鶴は好事的に新しい賦物を作ったのです。

2002-11-25 公開