第10回

いろは歌のアナグラム

アナグラムとは

アナグラム(anagram)というのは、文字を並べ換えて別の語句を作ることです。David Cristalという人の"Language Play"(1998)という本からいくつか引用します。

the eyes → they see

desperation → A rope ends it.

Rome was not built in a day. → Any labour I do wants time.

Clint Eastwood → old west action

Dwight David Eisenhouwer → He did view the war doings.

わたくしがアナグラムというものを知ったのは、モーリス・ルブランの『813』を読んだ時でした。ロシアの公爵ポール・セルニン(Paul Sernine)は、アルセーヌ・ルパン(Arsène Lupin)のアナグラムで、同一人であるというのです。なお、ルパンは、『金三角』(Le Triangle D'ore)以下の三作には、スペインの貴族ドン・ルイス・ペレンナ(Luis Perenna)という名で出て来ます。これもアナグラムです。

福永武彦氏は、加田伶太郎という匿名で『完全犯罪』(昭和三十一年)以下のミステリーを書きました。初めのうちは著者の写真もボケたものを用いていました。このペン・ネームについて、作者自ら、

まず自分の名前を製造にかかった。それをアナグラムで行くつもりで、やたらに原稿用紙にローマ字を書き散らした。アナグラムというのは、文字の書き換えである。この式を真似するつもりで僕の考え出したのが、

加田伶太郎(Kada Reitarō)つまり「誰ダロウカ」(Taredarōka?)である。次に名探偵の名前は、やはりアナグラムで行くことにして

伊丹英典(Itami Eitenと名づけた。つまり

「名探偵」(Meitanteiである。(素人探偵誕生記)

と語っています。福永氏が「地球を遠く離れて」(昭和三十三年)というSFで用いた船田学というペン・ネームは、Fukunaga daだそうです。

ミステリー作家の泡坂妻夫氏の本名は厚川昌男氏です。これもアナグラムです。

しかし日本語は単音の数が少ないから、アナグラムでも元の語が推定できるものが多く、外国語のもののような意外性に欠けるようです。

アナグラムとしての「いろは歌」

日本語のアナグラムとしては、いろは歌の文字の並べ換えがいろいろと試みられています。全部の仮名を一度ずつ用いる歌は、創作意欲をそそるものだったのでしょう。

まず元になるいろは歌を掲げておきます。

色(いろ)は匂(にほ)へど散(ち)りぬるを、我(わ)が世(よ)誰(たれ)ぞ常(つね)ならむ。有為(うゐ)の奥山(おくやま)今日(けふ)越(こ)えて、浅(あさ)き夢(ゆめ)見(み)じ酔(ゑ)ひもせず。

いろは歌は、古くから空海作と言われていますが、音韻史の立場からは、空海の時代には、ア行のエ(e)とヤ行のエ(ye)とは別の音であり、コも二種あったのに、いろは歌にはそれが反映していないことで、また歌謡史の立場からは、七五が四句の今様体の歌はまだ行われていないということで、空海作は否定されていて、平安中期に韻学の世界で作られたのであろうというのが通説です。空海作とされたのは、いろは歌が『涅槃経』の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(諸行無常は、是れ生滅の法なり。生滅滅し已(をは)りて、寂滅を楽と為す。)」の意を表したものとされているからでしょう。

同じ文字なき歌

『古今集』に「同じ文字なき歌」として、次の歌があります。

世の憂きめ見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそ絆(ほだし)なりけれ(雑下・九五五。物部良名)

世の中のつらいことが見えない山へ入ろうとするのには、愛する人が束縛であったよ。

中国の梁時代の周興嗣が作った『千字文』は、千の異なる漢字を用いて、四字の句を二百五十並べたものです。そういうものの影響を受けて、日本でもこのような歌を考えたのでしょう。この同じ仮名を用いないということを進めると、いろは歌のようにすべての仮名を一度だけ使ったものを作るということになります。

いろは歌より前に、「たゐにの歌」というものがありました。天禄元年(九七〇)に成立した『口遊(くちずさみ)』という本に出ています。もとは万葉仮名で書いてあるのですが、仮名交じりで濁点を付けて記します。

田居(たゐ)に出(い)で、菜(な)摘(つ)む我(われ)をぞ君(きみ)召(め)すと、漁(あさ)り追(お)ひ行(ゆ)く山城(やましろ)のうち酔(ゑ)へる子等(こら)、藻葉(もは)干(ほ)せよ、得(え)船(ふね)繋(か)けぬ。

『口遊』には、世俗に唱える「あめつちほしそ」よりも勝っていると書いてあります。この「あめつちほしそ」というのは、これ以前にあった「天地(あめつち)の詞」というもので、次のとおりです。

あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(生ふせよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)

(「おふせよ」から後が四字づつになるのは落ち着かないとして、別の読み方も提案されています。)

ここではア行のエ(e)とヤ行のエ(ye)とが別になっています。いろは歌などより古い時代の音韻を反映しているからです。『口遊』で「たゐに」のほうが勝っているというのは、その時にはエの区別がなくなっていたからでしょう。

これが「あめつち」で始まるのは、『千字文』が「天地玄黄」で始まるのに倣って作ったものだからと考えられています。

いろは歌は、仮名文字がすべてあるのですから、手習いの歌として用いられ、またものを分類する記号としても用いられました。辞書で言葉を配列するのにも、平安末期の『色葉字類抄』をはじめとして、広く用いられました。大槻文彦博士が、明治二十四年に自著の国語辞書『言海』を福沢諭吉に届けた時のことを、「言葉の順が五十音順であるのを見て顔を顰め、寄席の下足札が五十音でいけますか、と云はれた」と、回想しています(『東京日々新聞』明治四十二年十月十三日「学界之偉人・大槻文彦氏(六))。新時代の旗手と見られた福沢諭吉でさえ、辞書はいろは順であるべきだと思っていたのです。

江戸の「いろは歌」のアナグラム

いろは歌のアナグラムが作られるようになったのは、江戸時代からのようです。

享保五年(1720)に、江戸の書家の細井広沢が『君臣歌』を著しました。そこに、

きみ(君)まくら(臣)、おやこ(親子)いもせ(妹背)に、えと(兄弟)む(群)れぬ、ゐ(井)ほ(掘)りた(田)う(植)へて、すゑ(末)しげ(繁)る、あめつち(天地)さか(栄)ゆ、よ(世)をわ(佗)びそ、ふね(船)のろなは(艫縄)

というものが載っています。これについて、広沢は次のように述べています。

いろは歌は空海が作ってから広く用いるが、仏教臭が強く神道・儒教の趣意ではないから、子供たちがこれを習うのは吉祥ではない。自分は若いときから菅原道真を信仰していたが、今年八月、夢に神人とおぼしき公卿が現れ、「きみまくらおやこいもせにえとむれぬ」と高らかに仰せられたのが耳に残り、三日三夜で後を続けて完成した。

歌の後には自らの注解が添えてあります。

宝暦十三年(1763)に尾張の僧の諦忍が著した『以呂波問弁』という本に、天照大神が大已貴尊(おおなむちのみこと)に授けた四十七言の詔というのが載っています。

ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをはたくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ

初めは一二三四五六七八九十ですが、その後は何を言おうとしているのかよくわかりません。

日本の古代に文字があったと力説する平田篤胤は、文政二年(1819)に著した『神字日文伝(かんなひふみのつたえ)』に、古代の日本の文字という数種の神代文字を掲げ、それをこの「ひふみよ」の順に並べています。国粋主義者の篤胤ですから、仏教臭いいろは歌は退け、天照大神のものに飛びついたのでしょう。余談ですが、この神代文字は、四十七字しかないのは古代の日本語の音韻を反映していないこと、1446年に制定された朝鮮語のハングルの影響を受けて作ったと思われることなどから、現在は否定されています。

尾張藩士の未足斎六林という人が作った『つの文字』(寛政三年〈1791〉跋)という本があります。凡例に、いろは四十七字、ん・京と畳字(ゝ)の分の白牌と合わせて五十枚の木で作った札を持っていて、それをいろいろに並べ換えたと述べ、仮名遣いの誤りがあるのは、「わづか四十七字をもて森羅万象を模写せんとす」るのだから、「い・ゐ・ひ、え・ゑ・へのたぐひ、通じ用ひざれば、余不足をつぐのひがたし」と言い訳しています。

序として、

いろはのもしほぐさ(藻塩草)に、げぶむ(戯文)をまねあゐ(愛)せるお、よひと(世人)すべてうちゑ(笑)みぬめり。これわつたな(拙)きゆえ(故)からぞや。

を掲げ、その後にさまざまな形式の作を並べています。

(仮名詩)題鉢扣

そし(祖師)くうや(空也) たわ(戯)れねぶつ(念佛)ひろ(弘)めなら(習)へ のり(法)おぼ(覚)ゑるかぜ(風)もさむ(寒)ゐ ゆき(雪)にあ(明)けぬこえ(声)ていとを(丁東) みち(道)まよ(迷)はず

試筆三ツ物(連句の第三まで)

ふではじ(筆始)めいろ(色)やわら(和)げるかな(仮名)よりぞゆきおれ(雪折)まど(窓)のゐほ(菴)へうぐひす(鶯)たず(尋)ねえ(得)むみ(見)えもせぬ京をあさごち(朝東風)に

(俳諧歌)寄節分菴

みそくさゐ(未足斎)ほろゑ(酔)いのゆえ(故)か(書)きなすこよひ(今宵)ね(寝)ぬをに(鬼)もわらへ(笑)へりせつぶあむ(節分菴)おれ(己)(己)うちまめ(打豆)とはや(囃)した(立)てける
(和歌は三十一字だから残りの十六字は詞書に用いるが、言葉にならないものがあっても許してほしいと、著者は弁明しています。)

(漢詩)送田子菴之東都(訓読が四十七字です。)

酒満兼攀柳(サケミチヌカネテヤナギヲヨヅ)
征衣天遇春(セイヱソラモハルニアヘリ)
飛花路傍笛(ヒクワロボウノフエ)
未是駐遊人(ヰマダコレユジムオトメズ)

他に、琴歌、小謡、紀行文などの作があり、跋も、

いろはをわ(分)けてつら(連)ねえ(得)
ちゑがほ(知恵顔)おごめきするも
とり(鳥)のあし(足)た(絶)へぬよせなれ
むま(午)ふゆ(冬) ひやう(尾陽)みそくさゐ(未足斎)

というものです。さらに補遺として、自作の他に、江戸の太田南畝から送られた

けふ(今日)つのもじ(文字)をえ(得)てまね(学)び、ち(智)いう(優)にな(名)よ(良)ゐたは(戯)れことわざ(事業)ゆゑ(故)、あからめせずおぼ(覚)へぬるぞやろくりむきみ(六林君)

六林と同じ尾張藩士で俳文集『鶉衣』の著者である俳人の横井也有からの

はせをおきな(芭蕉翁)ま(待)ちえ(得)ぬる。むべ(宜)もよ(世)にいろね(色音)のこ(遺)らず。わか(和歌)やし(詩)つく(作)りゆゑ(故)あれど。さそ(誘)ひう(受)けてたみ(民)ほ(褒)めたまふ

などの三首と後書き(これも同様のものです)などを載せています。

国学者たちもいろいろと試みたようです。本居宣長の『鈴屋集』(五)に、「同じ文字なき四十七文字の歌」の詞書で、

あめ(雨)ふ(降)れば ゐせき(堰関)をこ(越)ゆる みづ(水)わ(分)けて やす(安)くもろひと(諸人) お(下)りた(立)ち う(植)ゑしむらなへ(苗) そのいね(稲)よ まほにさか(栄)えぬ(二一八八)

という作が載っています。

伴直方が文政四年(1821)に著した『伊呂波考』に、広沢、宣長の作の他に、谷川士清(たにがわ・ことすが)、田中道麿、鶴峯戊申などの国学者たちの作七首が載っています。谷川士清の

あめつち(天地)わ(分)き、かみ(神)さふる、ひのもと(日本)な(成)りて、ゐやしろ(礼代)を、おほんべ(大嘗)ゆ(斎)には、うら(卜)ま(設)けぬ、これぞた(絶)えせぬすゑ(末)いくよ(幾世)

など、六首までが「あめつち」で始まるものであるのは、やはり『千字文』あるいは「あめつちの詞」を意識しているのでしょうか。これらは国学者たちの作だけに、仮名遣いの誤りはありません。

文化三年(1806)に出た式亭三馬の『小野字尽(おのがばかむらうそじづくし)』に、「いろは新字」として次の歌が載っています。

諸方無性 いろとさけにわ、みなまよひやす(色酒皆迷妄)
身性滅法 ちりうごくゆめ、かねのほしきは(散動夢金欲)
惣別不粋 たれもふえるぞ、つらゐ(誰充満辛気)
不食貧楽 おへぬをあゑてせむ(寂滅敢而為)

上に漢字で記してあるのは涅槃経の偈のもじりでしょう。いろは歌のパロディーと言うべきものですが、みずから「四十七字をやうやうのことでこじつけた」と記しているとおり、アナグラムになっています。まじめな国学者たちの作と違って、滑稽さをねらって成功しています。

『百草露』(一〇)という随筆には、江戸の狂歌師の鹿都部真顔(しかつべのまがお)の、

ふたおや(両親)のおし(教)ゑをうけて よ(能)くまね(学)び はろ(悪)きむり(無理)せぬすなほ(淳)ゆへ(故) あめ(天道)にし(知)られいえゐ(家居)も(持)ち、み(身)ぞさか(栄)えつる

という教訓臭の強い作が載っています。

「とりな」順

明治三十六年に、黒岩涙香の主宰する新聞『万朝報(よろずちょうほう)』で「国音の歌」としてンを入れた四十八字の歌を懸賞募集し、七月十五日にベスト二十を発表しました。

その第一位は、埼玉の坂本百次郎というかたの次の作でした。

とり(鳥)な(啼)くこゑ(声)す、ゆめ(夢)さ(覚)ませ、み(見)よあ(明)けわた(渡)る、ひんがし(東)を、そら(空)いろ(色)は(栄)えておき(沖)つべ(辺)に、ほふね(帆船)む(群)れゐぬ、もや(靄)のうち(中)

爽快な朝の景を詠んで、一字を一度ずつという制限を感じさせない名作です。仮名遣いの誤りもありません。ちなみに、第二位は、東京の堀幸というかたの、

ゐ(堰)せ(塞)きいね(稲)う(植)ゑ、か(刈)りをさ(収)む、お(負)ふほ(穂)もそろ(揃)ひ、つち(土)こ(肥)えぬ、まれ(稀)にみ(見)るゆめ(夢)、やす(安)らけく、あな(嗚呼)たの(楽)しよ(世)と、わ(我)はへ(経)てん

というもの。第一位に比べると遜色があるものの、豊かな農村生活を描いて、優れた作と言えるでしょう。

これ以後、万朝報社では、いろは順に代わってとりな順を励行したと言われています。

昭和二十七、八年の『週刊朝日』に、昭和四十三年から断続的に『週刊読売』に、それぞれ「新いろは歌」という投書欄があったと記憶しています。

2003-03-24 公開