第19回
川柳で見る百人一首
ことば遊びではありませんが、お正月ですから百人一首の話をします。
百人一首は藤原定家が京都の西の小倉山の山荘で選んだと言われています。定家の子孫である冷泉家が今日まで連綿と和歌の家として続いていることからも知られるように、定家は中近世を通じて歌道の権威でした。百人一首はその定家の権威によって普及しました。ポルトガル人がカルタを伝えると、歌カルタが作られ、家庭に入り込みました。百人一首ほど広く知られた詞華集(アンソロジー)はないでしょう。
ここでは、江戸川柳で見た百人一首を扱います。
学生の時に、吉田精一先生が、「江戸川乱歩氏が川柳は推理文芸だと言っている。」とおっしゃったのを記憶しています。川柳の作者は思いがけないことを思いつき、ひねって表現しています。読者は、機知をはたらかせることで、その謎を解くことになります。
今回はクイズでも楽しむつもりでお付き合いください。
九十九は選み一首は考へる柳多留・二一
謎を解くのには、一首とあるのだから歌、九十九と一で百首であることに目を着けると、百人一首であることが分かります。他の九十九首は選び、一首を考えて「来ぬ人をまつほの浦の…」(九七)と詠んだのは、選者の藤原定家です。(数字は百人一首での番号。以下同じ。)
来ぬ人を入れ百人に都合する柳多留・三〇
という句もあります。
山荘で三千百字御選み柳多留・一四六
三十一字の歌を百首選べば三千百字になります。
お選みの栞(しをり)にもなる紅葉なり柳多留・二六
百人一首を選んだ山荘のある小倉山は、紅葉の名所です。
定まった家もあるのに山で書き柳多留・一八
「定まった家」から、定家であることが分かります。
五十四は石山百は小倉山柳多留・一四
五十四帖の源氏物語は、紫式部が琵琶湖畔の石山寺に参籠して書き始めたという伝説があり、今も石山寺の本堂の傍らに源氏の間という部屋があります。
六十は借り宅百は下屋敷やない筥・初
源氏物語は五十四帖ですが、後人が加えた雲隠六帖を合わせて六十帖と言うことがあります。紫式部にとって、石山寺は自宅ではなく、言わば借家です。定家が選んだのも山荘ですから下屋敷です。
七十九男で二十一女柳多留・二四
精進が十二 八十八魚類柳多留・三六
全部で百。後者は僧侶が十二人ということです。百人一首ではありませんが、
三人で一人魚食ふ秋の暮れ柳多留・二二
という句もあります。謎解きの鍵は三人と秋の暮れ。『新古今集』に並んで載る三夕の歌は、「寂しさはその色としもなかりけり…」(寂蓮法師)、「心なき身にもあはれは知られけり…」(西行法師)、「見渡せば花も紅葉もなかりけり…」(藤原定家)。三人のうち、二人は魚を口にしない僧侶です。
九十九人は親の腹から生まれ柳多留・二四
俗説に、柿本人麿(三)は柿の木の股から生まれたとも、菅原道真(二四)は梅の木の股から生まれたとも言います。どちらでしょうか。
家持の次に並ぶが論語読み柳多留・初
町内の寄り合いなどの時に、自分の家を持っている旦那が上座を占め、次に学のある儒者が座るということですが、百人一首では大伴家持(六)の次に、中国へ渡った安倍仲麿(七)が並んでいることを匂わせたものです。
百人の内に大屋は一人なり柳籠裏・三
という句が参考になります。
日本で九十九人は死んだなりやない筥・初
唐土(もろこし)で詠んだも百の内へ入れ柳多留・三七
安倍仲麿は遣唐使として中国に行き、帰国する船に乗る時に「天の原ふりさけ見れば」の歌を詠みます。しかし船は難破し、仲麿は唐に戻り、帰国できぬまま客死しました。
百人においれの悪い花の色柳多留拾遺・五
「おいれ」は老後の境遇。「花の色は移りにけりな」(九)と詠んだ小野小町は、晩年に落魄したと言われています。
米の値を下げたも二人百へ入れ柳多留・三一
一人は小野小町。「雨乞い小町 小野小町が勅命を受けて雨乞いの歌を詠み、その徳で雨が降ったという伝説。これに基づいた長唄、浄瑠璃、歌舞伎などの作品がある。」(日本国語大辞典)。能因法師(六九)も、伊予国(愛媛県)の三島明神で雨乞いの歌を詠んだところ、雨が降ったという話があります(俊頼髄脳など)。雨が降れば豊作になり、米の値段が下がるわけです。
雷も天狗もまじる百人一首柳多留・一二
冤罪を憤って雷になったのは菅原道真(二四)、保元の乱に敗れて讃岐へ流された恨みで天狗になったのは崇徳天皇(七七)です。なお、江戸時代には百人一首をヒャクニンシュと読むのが普通です。
二十五日と十日をも百に入れやない筥・四
二十五日は天満宮の、十日は金毘羅宮の縁日。天満宮は菅原道真を祭り、崇徳天皇は金毘羅宮に合祀されています。
弟は江戸へ逃げたと須磨で言ひ柳多留・八
必ずしも百人一首で考えなくても良いのですが、須磨へ流された兄は在原行平(一六)、東下りで江戸にある隅田川まで来た弟は在原業平(一七)です。
うこん紫赤染も百ででき柳多留・四四
百人一首には、右近(鬱金と同音)(三八)、紫(式部)(五七)、赤染(衛門)(五九)と、染め色の名が付いている作者が入っています。
中ほどへ定家女郎屋ほど並べ柳多留・二八
五三(右大将道綱母)、五四(儀同三司母)、五六(和泉式部)、五七(紫式部)、五八(大弐三位)、五九(赤染衛門)、六〇(小式部)、六一(伊勢大輔)、六二(清少納言)、六五(相模)、六七(周防内侍)と女流の歌が並びます。
白波の噂式部が来ると止め柳多留・二一
叔父様と言ふなと小式部を叱り柳多留・一六
これも百人一首でなくても良いのですが、大盗の袴垂れ保輔は、和泉式部(五六)の夫である藤原保昌(やすまさ)の弟と言われています。公家たちも和泉式部に遠慮して白波(泥棒)の話は避けたろうというわけ。小式部(六〇)は和泉式部の娘、和泉式部も娘に叔父の話を禁じたのです。
武士(もののふ)をやめ百人の列に入り柳多留・三〇
北面の武士佐藤義清が出家したのが西行(八六)です。
人こそ知らね頼政が娘なり柳多留・二六
「人こそ知らね乾く間もなし」(九二)の作者の二条院讃岐は、鵺(ぬえ)退治で知られる源頼政の娘です。
百人の内一人食ふ初鰹柳多留・二三
源実朝(九三)は鎌倉の三代将軍、鰹は鎌倉の名物でした。
百人一首鍛冶をも一人入れておき柳多留・二二
後鳥羽天皇(九九)は刀剣を好み、自ら刀を打って、菊一文字と名付けたと言われています。
歌に関することを詠んだ句には、一首ごとについてのものもたくさんありますが(「百人一首のパロディ」にもいくつか記しました)、そういうことを扱ったものはかなりあるので、ここでは主として二首以上を対比したものに限ることにします。
百人の餓(かつ)ゑぬやうに詠みはじめ柳多留・一〇
食ふことがまづ第一と定家選り柳多留・三六
百人一首の第一は天智天皇の「秋の田の刈り穂の庵の苫を粗み我が衣手は露に濡れつつ」。最初に「刈り穂」と食糧の歌であるのは、飢えないように計らったものというのです。
衣食住第一番に定家入れ柳多留・五四
一は「刈り穂」で食、二は「衣干すてふ」で衣、三は「ひとりかも寝む」で住ということになります。
ありがたい御製菜の雪稲の露柳多留・五一
秋は露春は雪にて御衣が濡れ柳多留・七一
露は天智天皇の歌。雪は光孝天皇の「君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ」(一五)。両天皇の歌は「我が衣手」が濡れることを詠んだものです。
庵で始めて軒端にてとめるなりやない筥・四
古き軒端刈り穂の庵の百軒目柳多留・五三
最初が天智天皇の「刈り穂の庵」、最後が順徳天皇の「古き軒端」、どちらも家屋に関する歌です。
秋濡れた衣を夏の山で干し柳多留・二八
濡れた御衣隣の山で干したまふ柳多留・五九
一は「我が衣手は露に濡れつつ」、二は「衣干すてふ天の香具山」。
白たへの中へ山鳥おりるなり柳多留・二七
「白たへの衣干すてふ」(二)と「白たへの富士の高嶺に」(四)の間に「あしひきの山鳥の尾の」(三)があります。
高根の左右山鳥や鹿が鳴き柳多留・六二
うち出でて見れば左右に鳥と鹿柳多留・七三
「あしひきの山鳥の尾の」(三)と「奥山に紅葉踏み分け」(五)の間が、「田子の浦にうち出でて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ」です。
かささぎの橋を越えれば天の原柳多留・一五七
「かささぎの渡せる橋に」(六)の次が、「天の原ふりさけ見れば」(七)です。天上の世界のことを詠んだような句であるところがミソでしょう。
我が庵で見れば左右は月と花柳多留・二八
「我が庵は都の辰巳」(八)の左右は、「三笠の山に出でし月かも」(七)と「花の色は移りにけりな」(九)です。
百人の中へ関所を三つすゑ柳多留・三六
一〇と六二が逢坂の関、七七が須磨の関です。
孝の付く二人どちらも君がため柳多留・一四〇
光孝天皇の「君がため春の野に出でて若菜摘む」(一五)と藤原義孝の「君がため惜しからざりし命さへ」(五〇)。
二人とも文屋は秋の風を詠み柳多留・五六
文屋康秀の歌は「吹くからに秋の草木のしをるれば」(二二)、文屋朝康(康秀の子)の歌は「白露に風の吹きしく秋の野は」(三七)、どちらも風を詠んでいます。
名にし負ふ左右も山の御歌なり柳多留・六八
「名にし負はば逢坂山のさねがづら」(二五)の左右は、「この度はぬさも取り敢へず手向山」(二四)と「小倉山峰のもみぢ葉」(二六)。山が三首続きます。
松と紅葉のまん中を花が散り柳多留・二九
「しづ心なく花の散るらむ」(三三)の前後は、「流れもあへぬ紅葉なりけり」と「高砂の松も昔の友ならなくに」(三五)です。
砕けても割れても定家百へ入れ柳多留・五四
「砕けてものを思ふころかな」(四八)と「割れても末に会はむとぞ思ふ」(七七)です。
京染と江戸染百へ月を詠み柳多留・三三
京染は赤染で赤染衛門のこと、江戸染は紫で紫式部。紫式部の「雲隠れにし夜半の月影」(五七)と赤染衛門の「傾くまでの月を見しかな」(五九)、いずれも月を詠んでいます。この二首の間は「有馬山猪名の笹原」(五八)なので、
両脇に月の出てゐる有馬山柳多留・六六
という句もあります。
来ぬ人は花と風との間(あひ)に見え柳多留・二七
「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に」(九七)の前後は、「花誘ふ嵐の庭の雪ならで」(九六)と「風そよぐ奈良の小川の夕暮れは」(九八)です。
百の字があるでしまひの御歌なり柳多留・二四
百人一首の最後は「百敷(ももしき)や古き軒端のしのぶにも」と、百の字が入っています。
百人の中へ一声ほととぎす柳多留・九
『万葉集』でも『古今集』でもいちばん多く詠まれている動物はほととぎすですが、それを詠んだ歌は、「ほととぎす鳴きつる方を眺むれば」(八一)の一首だけです。
鶯のまま子を一羽集に入れ柳多留・二九
ほととぎすは卵を鶯の巣に産んで育てさせます。
定家の門に鶯泣いてゐる柳多留・一三
百人一首に鶯の歌がありません。入れてもらえなかった鶯が定家の門に来て愁訴しているのです。
鶯も蛙(かはづ)も鳴かぬ小倉山柳多留・五六
蛙の歌も入っていません。
鶯はゐぬはず梅のない小倉柳多留・一五七
梅の歌もないのだから、鶯がいないのは当然というわけ。
百人は言葉もかけぬ花の兄柳多留・四九
「花の兄」は梅。梅の歌も無いと言いますが、実は紀貫之の「古里は花ぞ昔の香ににほひける」の花が梅で、ほんとうはあるのです。
古里へ隠して梅を定家入れ柳多留・九一
は、そのことを詠んだものです。
2003-12-22 公開