第12回

名歌のパロディ

一字変えた歌

太閤秀吉の前に、炒り豆に青海苔をつけた菓子が出た時に、その場に居合わせた細川幽斎が求められて、

君が代は千代に八千代に
さざれ石の巖となりて苔のむす豆

と詠んだという話が、寛永五年(1628)成立の笑話集『醒睡笑』(八)にあります。

元の歌は『古今集』賀の部の巻頭(三四三)に初五「我が君は」で出ていますが、平安後期にはすでに「君が代は」の形で知られていました。いずれにせよ、主君の長寿を祈る歌です。幽斎のほうは、さざれ石(小石)のような豆に苔むしたように青海苔が付いているで、一字を変えることで豆を主題とした歌になり、しかも元の歌によって秀吉の長寿を祈る祝賀の心もあることになります。

細川幽斎は、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と権力者の移り変わった時代に、室町時代から続く家系の権威を為政者に認めさせながら生き抜いた大名で、しかも当時の歌道の最高権威です。いくつもある秀吉の前での歌にまつわる逸話は、事実かどうかは分かりませんが、学識と機知とによって、気まずい場をうまくとりつくろう話が多い。江戸初期には、幽斎はそういうことのできる人物と見られていました。

文政二年(1819)ころに出た手柄岡持の狂歌集『我おもしろ』に、

桜花散りかひ曇れ
おいらんの来むと言ふなる道紛ふがに

という狂歌があります。元の歌は在原業平が藤原基経の四十の賀に詠んだ、

桜花散りかひ曇れ
老いらくの来むと言ふなる道紛ふがに(古今集・賀・三四九)

桜花よ、散り乱れて曇れ。老いが来るという道が紛れるように。

を一字だけ換えたものです。詞書には、上の十五字と下の十五字はそのままで中の一字だけを換えたとあります。本歌は、老いが来ないようにということですが、狂歌のほうは、おいらんが来なくては困りますから、春に桜を移植した吉原遊廓の華やかさを詠んだものでしょう。

『十訓抄』(一)に、流罪を許されて京都に戻った藤原成範(しげのり。1135-87)が、内裏である女房から、

雲の上はありし昔に変はらねど
見し玉垂れの内やゆかしき

宮中は昔と変わっていないが、以前に見た御所の中が知りたいか。

という歌を詠みかけられて、「や」を消して「ぞ」と書き直したという話があります。疑問の「や」を強調の「ぞ」に変えて、「知りたいか」の問いに「知りたい」と答えたのです。

この逸話は、世阿弥作かという謡曲『鸚鵡(おうむ)小町』では、老いて落ちぶれた小野小町のところに帝の使者が来てこの歌を伝え、小町が「ぞ」に変えただけの鸚鵡返しで返歌するとなっていて、以後は小町の話として知られています。

明智光秀の臣である熊谷宅右衛門広政が、七月三日に、明智の知人の味方をするために、阿木彌市とともに七八騎で駆けつけたところ、敵は加勢が雲霞のごとくに来ると聞き付けてさんざんに逃げたので、途中まで迎えに来た使者に、

阿木来ぬと目にはさやかに見えねども
加勢の音に驚かれぬる

と詠んだという話が、新井白石の『白石先生紳書』(二)にあります。

もとの歌は、

秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞ驚かれぬる(古今集・秋上・一六九、藤原敏行)

秋が来たと目にははっきりとは見えないが、風の音で気づいたことだ。

七月三日という秋の初めのことなので、元の歌がいっそう生きることになります。

寛文十二年(1672)刊の『狂歌咄』(一)に、酒の席で古歌であっても当座の作であっても、一首を連ねようということになり、

年たけてまた飲むべしと思ひきや
命なりけり佐夜の中椀

紅葉せぬ常盤の山に住む鹿は
おのれ鳴きてや秋をしる椀

年の内に春は来にけり一年を
去年とや飯椀(いひわん)今年とや飯椀

と詠む話があります。それぞれ有名な次の歌によったものです。

年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけり佐夜の中山西行(新古今集・羇旅・九八七)

年老いてまた越えることがあるだろうと以前に思ったろうか。命があってのことである、今ふたたびこの佐夜の中山を越えるのは。

紅葉せぬ常盤の山に住む鹿は
おのれ鳴きてや秋を知るらむ大中臣能宣(拾遺集・秋・一九〇)

紅葉しない常緑という意味の名の常盤山に住む鹿は、秋を知らせるものがないから、自分から鳴いて秋を知るのであろう。

年の内に春は来にけり一年を
去年とや言はむ今年とや言はむ在原元方(古今集・春上・一)

旧年の内に立春になってしまった。この一年を去年と言おうか今年と言おうか。

狂歌のほうは、一音節変えたのではないし、一つの語を酒を飲む「椀」にしただけで、さほど面白くもありませんが、三首もあるのであげてみました。

近代には、内田百閒「お前ではなし」(『無伴奏』〈昭和二八年〉所収)に、

玄關外の呼びりんのお臍のついてゐる柱に貼り紙をした。

蜀山人

世の中に人の来るこそうるさけれとはいふもののお前ではなし

亭 主

世の中に人の来るこそうれしけれとはいふもののお前ではなし

大分前にその小さな紙片を盗まれた。だから又新らしく書いて出したが、手癖の悪いのがお立ち寄りになっては、どうにもならない。

とあります。これも変えたのは一字ではなく二字ですが、内田百閒にふさわしい皮肉な話なので、紹介しました。ただし、蜀山人(大田南畝)のすべての狂歌を調べたわけではありませんが、元の歌は蜀山人の詠みぶりではないようです。幕末ころから、蜀山人を主人公とする狂歌を伴う頓知話、滑稽話が作られ始め、明治以後ブームになります。これもその一つなのでしょう。

清濁だけを変えた歌

寛永六年(1629)以後に刊行された『新撰狂歌集』に、「ある人、本歌の言葉をもって心を変へよとありければ」という詞書で、

庭の雪に我が跡付けで出でけるを
飛ばれにけりと人や言ふらむ

庭の雪に足跡を付けないで出たのを、お飛びになったと人は言っているであろうか。

という狂歌があります。これは、『新古今集』(冬・六七九)の慈円の歌、

庭の雪に我が跡付けて出でけるを
訪はれにけりと人や見るらむ

庭の雪に自分の足跡 を付けて出たのを、だれかに訪問されたと人は見ているであろうか。

をそのまま用い、二箇所だけ濁音にして、言葉はそのままで意味を変えよという難題をクリアーしたのです。「言ふらむ」は記憶違いでしょう。

我が心慰めかねつ更級や
姨捨山に照る月を見で

という歌は、文化十三年(1816)刊の小山田与清〈ともきよ〉の随筆『擁書漫筆』(一)によると、宝永(1701-11)のころ、板鼻検校(検校は盲人に与えられた最高の官位)が、高貴な人と信濃国の姨捨山の麓を過ぎたとき、ここの月を何と思うかと言われて答えたものだそうです。大田南畝の『一話一言』(五。天明二年までに成立)には、板津検校の歌とあります。

本歌は『大和物語』(一五六段)に、姨捨山の説話とともに載っています。男が妻に言われて、老いた伯母を姨捨山に捨てて来たが、家に帰り、山の上から明るい月が出るのを眺めて、一晩中眠れず、

我が心慰めかねつ更級や
姨捨山に照る月を見て

我が心は慰めきれない、更級の姨捨山に照る月を見ていると。

と詠んで、老婆を連れ戻した。姨捨伝説の最古のものです。

この歌の最後の「見て」を「見で(見ないで)」と、清音を濁音にしただけで、盲人が月を見られない悲しさを詠んだ歌になりました。

これを盲人の妻の歌とする話を何かで読んだ記憶があります。月を見られない本人の嘆きを詠んだのよりも、夫の心を思いやる妻の歌とするほうが、いたわりの気持ちが感じられて、あわれ深いものになるように思います。

この二首は、一字も変えず、清濁の違いだけです。 歌ではありませんが、仮名で書いてあるものの清濁を読み違える、あるいは曲解する話がいろいろあります。

天文二十一年(1552)成立の『塵塚物語』(一)に、連歌師の宗祇が、京都の嵯峨にある卯の花の咲く草庵で、鼻が高くて醜い主人の僧に、

さかはうのはなにきてなけほととぎす

という句を短冊に書いてやったところ、僧が呼び返して、「この句を読み聞かせたまへ」と求めるので、

咲かば卯の花に来て鳴け時鳥

と読んだら、それなら子細ない、

嵯峨坊の鼻に来て鳴け時鳥

と心得て、憎いことと思い呼び返したのだと言った、という話があります。物語の作者は、宗祇も下心には鼻を匂わせて戯れたと見えると記しています。この句は宗祇の句集には見えません。

徳川家康が浜松城で武田の軍に囲まれ、元亀四年(1573)の元旦に武田側から、

松枯れて竹類(たぐひ)なき朝(あした)かな

という句をよこした。松は徳川の前の姓である松平を匂わせています。家康の不興の様子を見て、家来の酒井忠次が、

松枯れで武田首なき朝かな

と読み直すのがよろしいと言ったので、家康の機嫌が直ったという話があります。かつて何かで読んだ話なので、いろいろと調べ、文化三年(1806)の序のある『要篋辨志』という本に出ているのを見つけました。

江戸初期に成立した甲州流の軍学書『甲陽軍鑑』(品一四)には、織田信長が長篠の合戦の前に、武田を調伏する意図で、発句に、

松風にたけたぐひなき朝かな

と詠み、以下の百句に武田の家老の名をことごとく入れた連歌を興業したという話が出ています。この発句しか出ていないから詳しいことは分かりませんが、物名(隠し題)としているのでしょう。調伏する意図があるのですから、「武田首無き」の意を持たせていると思われます。

貞享三年(1686)刊の笑話集『鹿の巻筆』(三)に、松田助之進という浪人が、

まづ類ひなき朝かな

という句を夢想して、喜んで短冊に書いて祝っていると、近所の者が短冊を眺めて眉をひそめたので、理由を聞くと、

松田首なき朝かな

という夢がどうしてめでたいかと言ったという笑話があります。

『甲陽軍鑑』の句がこの『鹿の巻筆』のような話といっしょになり、「松枯れて」の話になったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

延宝八年(1680)刊の笑話集『けらわらひ』(上)には、松右衛門という者が、新年の夢想に、

長閑(のどか)なる囃子にかかる松右衛門

という句を得て、友達のところへ平仮名で書いてやったところ、それを見て、「これはさて、人は知れぬものかな。」と言ったので、女房が尋ねたら、「さればこそ、昨日までは息災であったが、これ見やれ、

咽(のど)が鳴る早死にかかる松右衛門

と言うてきた。」と言ったという笑話があります。

十返舎一九の『続膝栗毛』(六上)に、木曾街道の中津川(岐阜県)で、弥次郎兵衛が俳諧師ということになって、短冊を書くことを求められ、「人のしたる発句を出放題に書かんとしたりしが、文字を忘れたるゆゑに平仮名にて書いてやると、」

咽(のど)が鳴る粕味噌の屁の匂ひなり

と読まれ、

のどかなる霞ぞ野辺の匂ひなり

であると言い直します。「人のしたる発句」というのですから、広く知られていた句なのでしょう。

『続膝栗毛』のその後には、お陣屋様から、久野儀(久野屋儀十)の頬(つら)の皮を剥いで来いという書付が来たと騒いでいると、寺の和尚が、お役人が分かりやすいように仮名で書いたから誤解したので、椚(くのぎ。くぬぎのこと)桂の皮を剥いて来いということだと説明して騒ぎが収まる話が続いています。

詩歌ではありませんが、橘成季(なりすえ)が建長六年(1254)に著した説話集『古今著聞集』(興言利口)に、次の話があります。

高倉天皇の皇女の坊門院(範子。1177-1210)のところで、出入りの蒔絵師に 参るように言いやったところ、仮名で、

ただいまこもちをまきかけて候へば
まきはて候ひてまゐり候ふべし

と返事をよこした。これを悪く読んで、「これは何事を申すのか。」と、台所に仕える女房が読みかけて投げ出したので、蒔絵師に、「どうしてこのような狼藉なことを言うのか。今すぐ参れ。」と言ってやったところ、あわてて来て、

ただ今、御物(ごもち。御道具)を蒔きかけて(蒔絵をしかけて)候へば、蒔き果てて参り候ふべし。

と書いたのだと説明した。悪く読んでというのは、女房は、

ただ今、子持ち(の女)を枕(ま)きかけて(共寝しかけて)候へば、枕き果てて参り候ふべし。

と読んだのです。『古今著聞集』の著者は、この説話の末尾を「仮名は読みなしといふこと、まことにをかしきことなり。」と結んでいます。

もう少し短いものでは、江戸初期の笑話本『きのふはけふの物語』(上)に、京都の下京に「かねこめくすりや」という看板があり、金・米・薬の三色を売ると人々が買いに来るが一色もない、後に「かねこ(金子) めぐすり(目薬)屋」と直したという話があります。

前田利家の家来で後に上杉景勝に仕えた前田慶次は、指物に「大ふへん者」と書いていて、人々が呆れると、「汝たちは武辺者(武勇に優れた者)と読んだのか。我は落ちぶれて貧しいから、大不弁者ということだ。」と言ったそうです。(常山紀談・一六)

近松門左衛門が自作の浄瑠璃に句読点を付けているところへ数珠屋が来て、そんなことは暇つぶしだと言って帰った。その二三日後に、近松からその数珠屋に、

ふたへにまげてくびにかけるやうなじゅず

という注文書が届いた。数珠屋は、「二重に曲げて首に懸けるやうな」とは、ずいぶん長い数珠を欲しがるものだと思ったが、作って届けると、近松は注文とは違うと返して来た。数珠屋が怒って近松のところへ行くと、近松は、「二重に曲げ手首に懸けるやうな」とあるではないか、だから句読点が必要なのだと言った。

これは清濁ではなく句読の問題です。「弁慶がな、ぎなたを」よりもよく出来ていると思います。

薄田泣菫の『茶話』(大正六年一一月二七日)でこの話を知ったのですが、江戸時代の本にあるのではないでしょうか。ご存じのかたはお教えください。

名歌による謎

有名な歌をそのまま謎に用いた話があります。

『伊勢物語』(一二四段)に、主人公がどんなことを思った時だろうか、として次の歌があります。

思ふこと言はでぞただに止みぬべき
我と等しき人しなければ

思っていることを言わないでただ止めてしまうのが良いのだ。わたくしと同じ心の人などはないから。

自分の気持ちは結局だれにも分かってもらえないという孤独感を詠んだ歌です。山本周五郎『樅の木は残った』の主人公の原田甲斐は、この歌に自分の心境を託しています。

これまで何度か出てきた後奈良天皇の『なぞだて』には、この歌をそのまま謎にしてあります。答えは「折敷(をしき。薄板で作った食器を乗せる盆)」となっています。

ほのぼのと明石の浦の朝霧に
島隠れ行く船をしぞ思ふ

ほのぼのと明ける明石の海岸の朝霧に島影に隠れて行く船を思う。

『古今集』(羇旅・四〇九)に、「この歌は、ある人のいはく、柿本人麻呂がなり」という左注のある、詠み人知らずの歌です。

江戸初期に作られた『寒川入道筆記』では、この歌に続けて、「この歌は字余りにて候。何ぞ」と付け加えることで、謎にしています。答えは「筆」、第五句が八音節で、最後のフで字余りですからフデとなります。

同じ歌を『なぞのほん』という江戸初期の版本では「富士のけぶり」と解いています。「フ字退け振り」ということです。

享保十三年(1728)刊の謎の本『背紐(うしろひも)』には、

うら若みねよげに見ゆる若草を
人のむすばむことをしぞ思ふ

うら若いので寝心地の良いように見える若草のようなあなたを、他人が契りを結ぶようになることを残念に思う。

という『伊勢物語』(四九段)の歌を「富士の煙」と解いています。歌は違いますが、字余りであることは同じなので、同じ答えになります。

余談ですが、本居宣長の研究(『字音仮字用格(じおんかなづかい)』)によれば、平安後期までの歌の字余りには、句中にア・イ・ウ・オの音節があることになっています。これらの歌の場合は「思ふ」のオがそれに当たります。

『新古今集』(恋三・一一九一)に、

待つ宵に更け行く鐘の声聞けば
飽かぬ別れの鳥はものかは

恋人を待つ宵に夜の更けて行くのを知らせる鐘の音を聞くと、物足りずに別れる朝を知らせる鳥の声の辛さなど問題にならない。

という女流歌人の小侍従の歌があります。『平家物語』(四・月見)には、作者はこの歌によって「待つ宵の小侍従」と呼ばれるようになったという逸話と、この歌にまつわる後日談が見えます。

上の版本『なぞのほん』では、この歌を謎として、「車牛、離れ牛」と解いています。歌の上の句が「来る間憂し」、下の句が「離れ憂し」です。

『甲陽軍鑑』(品三五)では、武田信玄が小田原の北条氏を攻撃した時に、信玄の家来の内藤修理から、同じ信玄の家来の馬場美濃守のところへこの歌が届けられ、馬場が「車牛、離れ牛」と解いたことになっています。事実かどうかは知りませんが、合戦の最中にこんな遊びをしているとは、かなり悠長な話です。

謎ではないが、謎とも読める話が、天明八年(1788)に出た『千年草』という笑話の本に載っています。

ある男が酒を棚に上げて置いて出掛け、帰って徳利を傾けたら、短冊がひらひらと出た。読んで見ると、

ささなみや志賀の都は荒れにしを
昔ながらの山桜かな

志賀の都は荒れてしまったが、昔ながらの長柄山の山桜である。

「ハハア、飲み人知らずぢゃな。」

この歌には『平家物語』に載る有名な挿話があります。平家が都落ちするに際して、平忠度(ただのり)は歌の師匠である藤原俊成の邸を訪れ、「勅撰の和歌集を編集する話を聞いたので、もし採れるものがあったら載せていただきたい。」と頼んで、自分の歌集を残し去って行く。やがて世が治まり、『千載集』を編むことになり、俊成は忠度の歌をいくつも入れたかったが、平家は朝敵であるから作者の名を出せず、この「さざなみや」の歌を「詠み人知らず」として載せた。いくつもある「詠み人知らず」ですが、この挿話によって、「ささなみや」の歌は「詠み人知らず」の代表になっていました。この笑話はそれを用いたものです。

2003-05-26 公開