第5回

物名(隠し題)

「物名(隠し題)」とは何か

『古今集』の巻十は「物名」(わたくしはモノノナと読んでいますが、ブツメイと読むかたもあります)という部立です。そこには、

【うぐひす(鶯)】
心から花のしづくにそほちつつ
 憂く干ずとなみ鳥の鳴くらむ(四二二。藤原敏行)

自分の心から花の雫に濡れながら、どうしてつらくも乾かないと鳥が鳴いているのだろう。

を巻頭に、四十七首が載っています。いくつかの例外がありますが、物の名を隠して詠みこんだ歌で、「隠し題」とも言います。右の歌では、「憂く干ず」に題のウグヒスが隠してあります。ここでは歌にある鳥は鶯でしょうから、隠すものを主題として詠んでありますが、必ずしもそうではない歌もあります。

こういう遊びは、隠す語が長ければ長いほど難しいことになります。『古今集』では、

【杏(からもも)の花】
逢ふからも物はなほこそ悲しけれ
 別れむことをかねて思へば(四二九。清原深養父)

逢っている内から物悲しい。別れようということを前から思うから。

の外に、「桔梗(きちかう)の花」(四四〇)、「竜胆(りうたむ)の花」(四四二)を題とする三首が七音節の語です。

延喜六年(906)に朝廷で行われた『日本書紀』の講義の後の宴会で、参加者たちが『書紀』に見える人物を題にして歌を作りました。神武天皇が、道案内をした日臣命(ひのおみのみこと)の功績をほめて道臣(みちのおみ)のことを、葛井清鑑という人が詠んだ歌は、

いさをしく正しき道のおむがしさとてぞ我が名も君は給ひし(日本紀竟宴和歌・五)

功績があって正しい道の喜ばしさとして我が名を天皇は下さった。

というもの、ミチノオム(臣はオムとも言う)と詠み込んでいます。惟宗具範(これむねのとものり)は儒教の五経博士である百済人の段楊爾を次のように詠みました。

五部(いつとも)の書(ふみ)読む人は段楊爾これをむねとぞ共に則(のりと)る(日本紀竟宴和歌・一九)

五経を読む人は段楊爾を主として共に手本とする

ここには作者の名が「コレをムネとぞトモにノリとる」と入れてあります。八音節は長いので切れぎれであっても認められたのでしょうか。

第三の勅撰和歌集である『拾遺集』にも「物名」の部立があります。その中の荒船の御社

茎も葉もみな緑なる深芹は
 洗ふ根のみや白く見ゆらむ(三八四。藤原輔相)

茎も葉もみな緑である根が深い芹は洗う根だけが白く見えているのだろうか。

を、鎌倉時代の順徳天皇の歌論『八雲御抄』(一)では、五文字以下はやさしいが、これは「あらふねのみやしろ」という九字がよく隠れていると賞賛しています。九音節を隠した歌は、平安後期の源俊頼(1055-1128?)にも

【このしまの御社】
主にはこの島のみや白たへの
 雪に紛へる波は立つらむ(散木奇歌集・一五六七)

主にはこの島だけが真っ白な雪に紛れる波が立っているのだろうか

という歌があります。

わたくしの知ったいちばん長いものを詠んみこんだ歌は、江戸時代のものですが、本居宣長の、

時雨する川辺の紅葉出でてまづ橋の上の木濡れつつぞ見る(鈴屋集・一三三〇)

時雨の降る川辺の紅葉を、外に出てまず橋のほとりの木を濡れながら見る)

です。「まつはしのうへのきぬ(縫腋の袍。古代の朝服の一種)」の十音節を詠みこんだものです。

複数の題を詠み込んだ「物名」

『拾遺集』には物名の歌が七十八首載っていますが、その内の三十七首は「茎も葉も」の作者の藤原輔相(すけみ)の作です。輔相の家集『藤六集』は三十九首の小さな歌集ですが、ほとんどの歌が物名という異色あるものです。物名の専門家だったのでしょう。

『藤六集』に、

【胡桃(くるみ)】
雁の来る峰の朝霧晴れずのみ
 思ひ尽きせぬ世の中の憂さ(二七)

雁の来る峰の朝霧が晴れない、そのように心が晴れないでばかり思いの尽きないこの世の中がつらいことだ。

という歌があります。この歌は『古今集』(雑下・九三五)に、題知らず、詠み人知らずとして載っています。『古今集』の選者たちは、これを物名とは思わなかったのでしょう。短いものを隠すと、目立たないので物名とは分からないことがあります。

物名の部に入っていないけれど物名である歌は他にもあります。

常陸へまかりける時に藤原公利(きみとし)に詠みてつかはしける
 朝なけに見べき君とし頼まねば
  思ひたちぬる草枕なり(古今集・離別・三七六。寵)

朝も昼も見ることのできる君とは頼まないから思い立った旅なのだ。

この歌には、「君とし」に相手の公利という名が、「思ひ立ちぬる」に行く先の常陸が隠してあります。この作者名「寵」については、「内蔵(くら)」の草書体からの誤写であるという説もあり、これに従えば、「草枕」に自分の名の内蔵も隠してあることになります。

このようにいくつもの語を隠すこともあります。『古今集』の物名の部には、

【笹・松・枇杷・芭蕉葉】
いささめに時待つ間にぞ日は経ぬる
 心ばせをば人に見えつつ(四五四。紀乳母)

一一時的に会う時期を待つ間に日は経ってしまった。自分の気持ちはあなたに見せながら

という、いササめに、時マツ、ヒハ、心バセヲバ、と植物を四つ詠み込んだものがあります。

『拾遺集』には、

【子・丑・寅・卯・辰・巳】
一夜寝て憂しとらこそは思ひけめ
 浮き名立つ身ぞわびしかりける(四二九。詠み人知らず)

(一夜共寝してわたしを不満に思ったようだ。浮名が立つ我が身はわびしいことだ。ネて、ウシトラ、ウき名タツミぞ、と詠み込んであります)

【午(むま)・未・申・酉・戌・亥】
生(む)まれより櫃し作れば山に去る
 一人往(い)ぬるに人率(ゐ)ていませ(四三〇。詠み人知らず)

生まれた時から櫃を作っているので山に去って行く。一人で行くのに人を連れていらっしゃい。(ムマれ、ヒツシ作れば、サル、ひトリ、イヌる、ヰて、と詠み込んであります)

という、十二支を詠み込んだ二首が並んでいます。よく詠み込んでいますが、あまり内容のあるものとは言えないようです。

なお、十二支全部を一首に詠み込んだ歌が、江戸時代の国学者荷田春満(かだのあずままろ)にあります(洦筆話=さざなみひつわ)。

尋ねとひ辻に往(い)ぬる道は悟り得(う)とも
 生まれ居る世を悟らざる憂し

問い尋ねて辻に行く道は悟ることができても、生まれているこの世を悟らないのはつらい。

「タツ・ネとヒツジにイヌるミちはさトリ・ウともウマれヰるよをさトラ・サル・ウシ」と読み込んでいますが、かなり苦しかったようで、妙な字余りが目立ちます。太田南畝の『狂歌百人一首』に、百人一首の喜撰法師の歌をもじった、

我が庵は都の辰巳午未申酉戌亥子丑寅宇治

という歌は、十二支を全部順に詠みこんでいますが、これは隠し題とは言えません。

物名の題には、これまで見たように、普通の歌に見られないような珍しいものが多く用いられます。『枕草子』(能因本・六九)に、

歌の題は 都、葛、三稜草(みくり)、駒、霰、笹、つぼすみれ、日陰、菰(こも)、高瀬、鴛鴦(をし)、浅茅、柴、青葛(あをつづら)、梨、棗(なつめ)、朝顔。(三巻本は「霰」まで)

と、変わったものを挙げてあるのは、北村季吟の注釈『枕草子春曙抄』に、普通の題だけでなく、隠し題に詠む物と見えるとしているのが妥当でしょう。

時代が下ると、さらに手の込んだ歌が見られるようになります。

貞治三年(1364)成立の十九番目の勅撰和歌集『後拾遺集』に、

二条院の御時、左巻きの藤・桐火桶・をこめて、川に寄せて歌奉るべきよし仰せありければ、自らの名を添へて詠みはべりける
 水浸り牧の渕々落ちたぎり氷魚(ひを)
  今朝いかに寄りまさるらむ(物名・一九〇〇。源頼政)

水に浸る牧のいくつもの渕では水が落ちて激しく流れ、鮎の稚魚である氷魚はどんなに多く寄っているだろうか。

という歌があります。「水ヒタリマキノフチ落ちたキリヒヲケさ……ヨリマサるらむ」と隠してあります。「左巻きの藤」という長い語を入れ、その外に二語、それも自分の名を隠しています。『源平盛衰記』(十六・三位入道歌事)には、この歌は、「宇治川・藤鞭(ふぢぶち)・桐火桶・頼政」を題で、上の句が、「宇治川の瀬々の渕々落ちたぎり」となっていますが、物名の歌としては、「水浸り」のほうが長い語を読み込んでいるだけ勝っているでしょう。

南北朝時代の代表的な歌人である頓阿の『続草庵集』(四)には、物名の歌が二十三首載っています。

【笙(しやう)・笛・篳篥(ひちりき)・琴・琵琶】
憂しや憂し花匂ふ枝(え)に風通ひ
 散り来て人の言訪(ことと)ひはせず(五二一)

つらいことだ。花が咲き匂う枝に風が通い、散って来ても人は訪ねてこない。

「うシヤウし」「にほフエに」「かよヒチリキて」「コトとヒハせず」と隠してあります。すべて楽器の名、しかもシヤウ・ヒチリキ・ビハなどの字音語を詠み込んで、歌の意味にさほどの無理もありません。

【草名十】
朝凪に鱸(すずき)釣りにや淡路潟
 波なき沖に船も出づらん(五二二)

朝凪に鱸を釣りに淡路潟の波のない沖に船は出ているのだろうか。

「アサ(麻)ナ(菜)ぎにススキ(薄)つりにやアハ(粟)チ(茅)がたなみナキ(水葱《なぎ》)オキ(荻〈おぎ〉)にふねモ(藻)イ(藺)づラン(蘭)」と、草の名が十隠してあります。

北朝第一代の天皇である光厳院(1313-64)の『花園院御集』の巻末に、

【紅葉の賀】
織り乱れ四方の山辺に雲もみち
 野風激しき雨になる暮れ(一六一)

織り乱れたように四方の山辺に雲も満ちてきて野風が激しい雨になりそうな夕暮れ。

をはじめ、「蛍・藤袴・竹河・宿木」を物名にした歌が載っています。いずれも『源氏物語』の巻名です。もし五十四首揃っていたら壮観だったと思います。

狂歌における「物名」

こういう遊びは近世の狂歌に引き継がれています。
上方の狂歌の最初の選集である寛文六年(1666)刊の生白庵行風編の狂歌集『古今夷曲集』の物名の部には、十七首載っています。その中からいくつか見ることにします。

編者の行風のもとへ、歌学者で俳人でもある北村季吟から、息子の十一歳の休太郎が歌を詠んだと知らせてきたので、

愛らしき歌らうたしな
 これや子の親の名までもあげまきよなう(五四四)

愛らしい歌はかわいらしいよ。これは子が親の名を上げる子供だなあ。(愛らしキウタラウたしな、と、その子の名を詠み込んであります)

季吟の返歌は次のとおりです。

情深う風体もよきことの葉は
 懐中させて秘蔵させてん(五四五)

情も深く風体もよいあなたのお言葉は懐に入れさせて秘蔵させよう。情ふカウフウ体も、と相手の名を詠み込み、行風の字(あざな)の懐中も、隠してというほどではないが入っています。

行風が庭田雅純という人から二首の歌の優劣の判定を求められて詠んだ歌。

こなたには騙(だま)さず見つつよしと言へど
 何はかはとの歌の疑ひ(五五五)

こちらでは騙さないで見て良いと言うが、あなたは何やかやと歌に疑いを持っている。

こなたニハダマサズミつつ、と七音節の相手の名を詠み込んでいます。その返歌では、

修行よくいつ敷島の言の葉の
 かう風体を得たる人ぞも(五五六)

よく修行していつ和歌にこのように風体を得た人なのか。

「カウフウていを」と、行風の名を隠しています。

釈教の部の、石山寺へ詣でる途中で荒板の薬師堂で休んでの歌。

石山へ行く徒人(かちびと)は
 この堂にあら痛やとて足を休むる(八九〇。貞室)

石山へ徒歩で行く人はこの堂でああ痛いと足を休める。

アライタや、と堂の名が隠してありますが、物名の部に入っていません。

元文五年(1740)刊の栗柯亭木端編『狂歌続ますかがみ』の物名の部は、五臓の名・国名十・天象名十・地儀名十・身体名十・草名十・木名十・鳥名十・獣名十・魚名十・虫名十・草名十五・イロハの文字を十ずつ入れた四十七首、らりるれろを十ずつ入れた恋の歌五首と、きわめて多彩です。いくつか引用してみます。

【国名十】
いつとても六つ起きするが日頃にて
 身の仕舞良き家の年かさ(二五七。秋国)

伊豆・陸奥・隠岐・駿河・肥後・美濃・志摩・伊予・紀伊・能登

【身体名十】
雪も深く越路はわきより冷たさが
 また勝りたるものとこそ聞け(二六八。木端)

肝・腑・腰・乳(ち)・歯・脇・爪・股・喉(のど)・毛

【草名十五】
伊達をこけはすはなふりもあしからじ
 側へ居寄りて見るに子もよし(二八二。木端)

蓼・苧(を)・苔・蓮・菁(な)・瓜(ふり)・藻・葦・芥(からし)・蕎(そば)・荏(え)・藺(ゐ)・水松(みる)・菰(こも)・葭(よし)

【いの字十】
勇ましくはいはいはいと大勢が言うていそいそ勇む国入り(二八三。木端)

【れの字十(恋)】
それぞれに馴れれば馴れて憂き流れの憂へ忘れて暮れる浮かれ女(三三三。木端)

尾張藩士の俳人横井也有(1702-83)の俳文集『鶉衣』(拾遺下)に、国名を詠み込んだ五首、鳥名・獣名・草名それぞれ一首が載っています。「旅のこころを」と題する国名を隠した一首をあげます。

漕ぎ出でばいつ会はむ身の跡を遠み浪や真白に沖つ島々(紀伊・出羽・伊豆・阿波・美濃・遠江・山城・隠岐・対馬・志摩)

遠江とか山城とかいう長いものを詠み込んでいるのが注目されます。この五首は也有の歌集『蘿窓集』にも出ていますから、普通の和歌というつもりであったかもしれません。

江戸狂歌の最初の選集である四方赤良(太田南畝)編の天明三年(1783)刊『万載狂歌集』の物名の部には四首載っています。その中で「木名十」という題のものは、

見よかしと契りし日暮れ松阪や
 踊り繰り出せ強ひて障らじ(六九四。浜辺黒人)

是非見よと約束した日が暮れ、松阪踊り(伊勢国松阪から流行した踊り)を繰り出せ。しいて邪魔になるまい。

「樫(かし)・橡(とち)・桐・檜(ひ)・榑(くれ)・松・栢(かや)・栗・椎・椹(さわら)」と詠み込んであります。

その続編とも言える『徳和歌後万載集』(天明五年刊)には、「草名十・菜菓名十・木名十・鳥名十」などの歌があります。「鳥名十」は次のとおりです。

狩の時山から集ひ出(い)づる身は
 研(と)ぎし矢先の危ふからずや(八二〇。笹麿)

雁(かり)・鴇(とき)・山雀(やまがら)・鳶(とび)・鶴・鳩・雉・鷺・鵜・烏を詠み込んでいます。しかし頓阿の歌や『狂歌続ますかがみ』のものに比べると、歌の数の上でも遜色があると言わねばならないでしょう。

連歌・俳諧・雑俳における「物名」

連歌や俳諧でも行われています。
連歌の賦物(ふしもの)という習わしも一種の物名と言えます。賦物については項を改めるつもりですので、ここには一つだけあげておきます。『菟玖波集』(雑一)に、

源氏物語の巻の名と古今集作者とを賦物にしはべる連歌に、
 紅葉の風に散り紛ふころ といふに
  しぐるなり比良の高嶺の神無月(藤原為家)

という付け合いがあります。前句には「モミヂノカぜに」と源氏物語の巻名「紅葉賀」が、付け句には「しぐるナリヒラの」と在原業平の名が隠してあります。

寛永十年(1633)に出た近世最初の俳諧の句集である『犬子集』に、

歳徳(恵方)亥子(ゐね)の方なりければ
 米俵を恵方は稲の間かな(一定)

壬申(みづのえさる)の年に
 汲み上ぐる若水の柄の柄杓かな(愚道)

などの句があります。前者は「稲」に「亥子」が、後者は「わかミヅノエの」と壬が、それぞれ隠してあります。

貞門俳諧の総帥である松永貞徳に、俳諧には珍しい時事問題を扱った句があります。

寛(永)十四冬、ダイウスの残党、島原といふ所に籠もりしを、御征伐のため軍兵を遣はされし明くる年の元日に
 在り次第薄雪消(き)やせ今日の春(崑山集)

天草の乱のことを詠んでいます。残党を薄雪に譬え、滅ぼせというのでしょう。「次第薄雪」にダイウス(デウス)を隠しています。

元禄三年(1690)刊に出た蕉門の嵐雪編の『其袋』に、「物名」として次の四句が出ています。

【槻(つき)・卯木(うつぎ)・松・橡(とち)・桐・椎(しひ)・桃・梨】
月うつぎ待つと契りし妹(いも)もなし 卜宅

【賀茂・鳥羽・糺(ただす)・八瀬・水野・淀】
鴨飛ばでただ巣に痩せし水のよど 立吟

【蜑(あま)・津・岸・瀬・溝・澪(みを)・帆・洲(す)・井・苫(とま)・波】
雨つきし蝉ぞ身を干す暇(いとま)無み 琴風

【鵜・鶴・鸞(らん)・鴇(とき)・鶸(ひは)・鴛(をし)・鳶(とび)・鴫(しぎ)・雁】
移るらん時日は惜しと鹿尾草(ひじき)刈り 菊峯

それぞれ、木の名・地名・水辺の語・鳥の名を詠みこみ、第二は「で・に・し」が余りますが、それ以外は題だけで十七音節になっていて無関係な部分は無いという徹底したもの、これ以上の隠し題はないでしょう。すこし無理な表現もありますが、大目に見ることにしましょう。

雑俳にも多くの作があり、江戸では「立ち入れ」と呼ぶこともあります。明和四年(1767)に出た『豆鉄鉋』という雑俳書に

北陸道 鍋炭で顔黒工藤乞食芸
 入れ黒子(ぼくろ)くどうは言はぬご推文字

という、ホクロクドウの六音節を詠み込んだ例があります。五七五の短い句に入れたものとしては長い語です。

雑俳では、国名を隠し題にしたものを、国尽くしとか国の名とか言います。享保十三年(1728)刊の『花の兄』から一例をあげます。

野と山と閉ざさぬ君の御鷹狩り

「ノト(能登)ヤマト(大和)トサ(土佐)サヌキ(讃岐)ミノ(美濃)おたカガ(加賀)り」と六国を隠しています。

最後にわたくしの作をお目にかけます。

栃木市に住んでいるわたくしは、JRで上京するときには、思川・小山・間々田・古河と通って行きます(かつては間々田と古河の間の野木駅はありませんでした)。

学生だったころ、

思いが分からぬ女形(おやま)の太夫こうなりゃ気ままだ焦がれ死に

というドドイツを作ったことがあります。こんな遊びをしたのは、昭和三十年前後に人気のあったNHKのトンチ教室という番組の影響です。隠す語が二語に分かれるとか、句を跨ぐとかしたかったのですが、そこまで行きませんでした。

2002-10-28 公開