第16回
しゃれで付けた名(中編)
室町幕府の臣である蜷川親元(にながわちかもと)の『親元日記』の寛正六年(1465)正月十日の条に、鱈の卵子を「こずこず」と言って正月用にするが、「不来不来(こずこず)」は縁起が悪いので、「来来(くるくる)」と書いているという記事があります。鱈子のことでしょうか。
天文十七年(1548)ころ成立した辞書『運歩色葉集』にも、魚の名として「来来 クルクル」を挙げ、能登国(石川県)で産し、昔は他国では不来不来(コズコズ)と言っていたが、今は祝って来来と言うとあります。ただし、石川県の友人に尋ねたところ、そんな語は知らないということでした。
なぜコズコズと言うのか。新井白石は先の「呉須手」のところに引いた書簡に、魚の腸はくるくる巻いているのに、これはそうではないから、クルクル(来る来る)の反対でコズコズ(来ず来ず)であると述べています。新井白石は謹厳な人として知られていますが、こんなことを考えることのできる洒脱な面もあったようです。
『醒睡笑』(一)の最初は、「謂(い)へば謂はるる物の由来」という章で、物事のこじつけの起源の話が並んでいます。食物は、以下の四つです。
餅の少し赤いのを「しんこう」というのは、赤い小豆を上に乗せるので、あかつき(暁-赤付き)の縁で言うとあります。深更だから暁です。ほんとうは糝粉(しんこ)で、これはこじつけでしょう。
蕉門の俳文集『本朝文選』(三)に載る毛紈〈もうがん〉の「揚揮豆賦」に、
深更(しんかう)とは理屈人の名付けたる名にして、あかつきと解く謎なるべし。
とあります。『醒睡笑』と同じ話が、広く知られていたのでしょう。
瓜の粕漬けを奈良漬と言うのは、「かすがのあれは良い」ということだそうです。粕香の-春日野というしゃれです。これもこじつけで、奈良で産する漬物ということで十分でしょう。
小糠を「待ち兼ね」と言う。「小糠-来ぬか」だから「待ち兼ね」です。
元禄五年に出た、女性の心得集『女重宝記』の、「大和詞」という女性が上品に言う語を列挙した中に、小糠を「待ち兼ね」と言うとあります。
鰯を「紫」と言う。その人の好みによって藍(鮎)より勝るから。
林羅山の随筆『梅村載筆』(天)にも、アイにまさるという意味であると述べています。室町時代の『大上臈御名之事』の「女房ことば」の中に、鰯を紫と言うことが出ています。もとは女性の使う言葉でした。『女重宝記』には、鰯は「おむら」と言うとあります。「むらさき」の下略に「お」を付けたのです。
『醒睡笑』の別の箇所(巻五)に、古いことを知っている人が、とろろ汁を「ことづて汁」と言ったので、謂われを尋ねたところ、「この汁にては、いかほども飯が進む故、いひやる(飯やる-言ひやる)との縁に、ことづて汁と言ふならん」と言ったという話があります。
俳諧師の安原貞室が言葉の訛りを論じた慶安三年(1650)刊の『かた言』には、こういう説は耳を驚かしておかしいものだが、よく知っていれば興ざめなものだと否定しています。こんな記述があるということは、「ことづて汁」という語が普通に通行していた証拠になりましょう。
正月・祭礼などの行事の時に用いる「いとこ煮」という料理は、小豆・牛蒡・芋・大根・豆腐・焼き栗・慈姑(くわい)などを入れて煮たものです。寛永二十年刊の『料理物語』には、具を追い追いに入れるのでこの名があるのかとあります。「追い追い-甥甥」は従兄弟の関係です。ほんとうのところは、野菜ばかり、言わば親戚関係の物を入れるので、従兄弟というのではないでしょうか。
『料理物語』には、豆腐を賽の目に切って入れた汁を「ばくち汁」と言うとあります。賽はばくちの道具です。慶安五年(1652)刊の『望一後千句』の、
集まるは同じばくちの類にして
瓜や茄子(なすび)や夕顔の汁
という付け合いから考えると、豆腐だけでなく、野菜をすべて四角に切った汁も言ったのかもしれません。
「麩の焼き」という菓子は、「小麦粉を水で溶き、熱した鍋の上で薄くのばして焼き、片側に味噌をぬり、巻いて食べるもの。」(日本国語大辞典)です。これを「朝顔」とも言いました。先に引いた『女重宝記』の「大和詞」に出ていますから、女性語だったのでしょう。
『かた言』に、この菓子は火であぶるとしぼむ、朝顔の花が日にあたるとしぼむことから名付けたという説があるが、つくろってない朝の顔のようなという意味であるとあります。しゃれとしては前の説がおもしろいと思いますが、どちらが正しいのでしょうか。
『かた言』には、味噌を「東坡」というのは「やさしくはべる」と述べています。大田南畝は、『一話一言』(一四)で、「三蘇(みそ)といふことか。」と解釈しています。中国宋代の文人である蘇軾(号、東坡)と父の蘇洵、弟の蘇轍の三人を三蘇(さんそ)と言います。これはミソとも読めます。三人の中でいちばん有名な東坡を代表としたのです。
貞享元年(1684)刊の大阪府堺市の地誌『堺鑑』(下)に、堺の豆腐は名物で、「紅葉豆腐」という名を付けてあるのは、堺で捕れる桜鯛にも劣らない味なので、桜に対する紅葉ということであろうが、人がよく「買(こ)うやう」にと祝って付けた名であるとも言い、当時は豆腐の上に紅葉を印してあるとあります。
「豆腐に紅葉これといふ言はれなし」(川傍柳・四)という古川柳は、「買うよう」だったら、豆腐でなくて何でも良いはずだと詠んだもの、言われてみればその通りです。この川柳から、江戸後期にも「紅葉豆腐」と言っていたことが分かります。
元禄五年刊の『女中詞』という女性の用いる語のことを記した本に、牡丹餅を「夜船」というとあります。牡丹餅は米粒が残るように作りますから、杓子でこねるくらいで、搗いたとしても少しだけです。夜船に乗っていると、眠っていたり、周囲は暗くてどこにいるのか分からなかったりで、着いたのが分からない。つく(搗く-着く)のを知らないから「夜船」です。
牡丹餅にはさまざまな名があります。
江戸時代の随筆類の多くは、春の彼岸のを牡丹餅、秋のを萩の花(お萩・萩の餅など)というとしています。これらは季節に合わせた見立てです。
谷川士清(ことすが。1709-1776)編の辞書『倭訓栞(わくんのしおり)』に、ある公家の戯談として、「牡丹餅は春の名、夜船は夏の名なり。萩の巻は秋の名なり、北窓は冬の名なり。夜船は着くを知らず、北窓は月入らずとぞ。」とし、その後に、「賎者は隣知らずといふ。」と記しています。「北窓」はつき(搗き-月)がいら(要ら-入ら)ない、「隣知らず」は、隣で搗いても分からないということです。「隣知らず」と「夜舟」は、元禄八年に出た人見必大の食品研究書『本朝食鑑』(二)にも見えています。
『倭訓栞』より古く、享保十三年(1728)に出た笑話本『軽口機嫌嚢』には、春は黄色のを「菜種」、赤いのを「つくし」(土筆でしょうか)、夏は「牡丹餅」、秋は「萩の花」、冬は「雪つぶて」と言う、これは丸めるという心、「妹背の中」というのは、隣知らずにちぎる(千切る-契る)、寺の方で「奉加帳」(寺社への寄付を記す帳面)と言うのは、つく(搗く-付く)所とつかない所があるということだとあります。牡丹は夏の季語ですが、牡丹餅を作るのは彼岸なので、以後は春になったのでしょう。
地方によって「半殺し」と言うのは、米粒を半分くらい潰すことによる名でしょう。米粒が無くなるまで搗いた牡丹餅を「皆殺し」という地方もあります。これは「半殺し」があっての上でできた語でしょう。
牡丹餅が出たので、酒の異名にも触れます。
a. 江戸中期以後の本と見られる林百助(俳号、立路)の随筆『立路随筆』(二)に、京都で、古酒を「祇園会」と言い、新酒を「御霊祭」と言う、古酒は、味も良く、体の上下を潤して酔うのが、上京・下京ともに賑わう祇園会のようであり、新酒は、味が薄く、頭の上ばかり酔うだけで、下のほうは寂しい、御霊祭は上京だけが賑わい、下京は静かであるのに似ている、とあります。
b. 西鶴の『武家義理物語』(二・三)に「御酒宴重なり、女中も常よりはささ過ごして、前後知らざりき。」という一節があります。『日葡辞書』に、「ササ、サケに同じ。酒。これは婦人語である。」とあるように、酒を女性語で「ささ」と言います。これは、酒を勧めるのに「さ、さ」と言うからとする説もありますが、中国で酒を「竹葉」ということによるという説が一般的です(『大漢和辞典』には、三年経た紹興酒を「竹葉(竹葉清とも)」と言うとあります。厳密にはそういうことなのでしょう)。
c. 「霞」と言う異名もあります。宗祇に、
酒をもてあそびし人の家にて
風を避けて霞を汲めば冬もなし自然斎発句
という発句があるなど、室町時代から例が見られます。喜多村信節の天保三年(1832)以後成立の随筆『筠庭雑録』には、昔の酒は濁っていたので言うとしていますが、これは、中国で仙人の飲む酒を「流霞」ということに基づくのでしょう。宗祇の弟子の宗碩〈そうせき〉の編んだ歌語辞典『藻塩草』(一九)に、「流るる霞」は酒の異名とあります。
そんな次第で、酒の異名には中国のものを用いたものが多く、しゃれとは言えないようです。『万葉集』(三)に載る大伴旅人の「酒を讃(ほ)むる歌」の中の一首、
酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古への大き聖の言(こと)の宜しさ三三九
酒の名を聖と名付けた昔の大聖人の言葉の結構なこと。
というのも、魏の太祖が禁酒令を出した時、清酒を聖人と言い、濁酒を賢人と呼んだという故事を踏まえたものです。
『たから船』(元禄十六年刊)という雑俳書に、
鉄炮と名にこそ立てれ河豚(ふくと)汁
という句があります。元禄ころから、河豚(ふぐ)を鉄砲とも言いました。今でも河豚の刺身をテッサ、河豚のちり鍋をテッチリと言うのは、「鉄砲の刺身・ちり鍋」の略です。河豚は当たると死ぬからです。河豚を「曲がり鉄砲」ということもあるそうですが、これは、河豚はあたるものというのが常識であって、料理屋さんなどの負け惜しみで言うのでしょう。
太田全斎の俗語辞典『俚言集覧』には、土佐では河豚汁を「雷汁」と言うとあります。これもやはりあたると死ぬということです。
寛政末年(1801)ころにできた諺の本『譬喩尽(たとえづくし)』によると、河豚汁を「北枕」とも言うそうです。死人を北枕にするからでしょう。行きつけの寿司屋のご主人が、今でも関東の沿岸で河豚を北枕と言うところがある、テッサなどと言うのはもとは関西の言葉だと教えてくれました。
当たる当たらないに関連して、明治四十四年に初版が出た金沢庄三郎編『辞林』(『広辞林』の前身)の「天気予報」の語釈に、「(二)多くあてにならぬ予言。」とあります。そのころの天気予報は、あまり当たらなかったのでしょう。
食品ではありませんが、江戸初期から、嘘を「鉄砲」と言うこともありました。語源は人を驚かすからという説があります。寛文十二年(1672)刊の狂歌集『後撰夷曲集』(雑下)の
偽り言ふを世話に鉄砲はなすと言へば
偽りと思ひながらも鉄砲の話に肝を潰しぬるかな政長
という狂歌は、このことを詠んでいます。
式亭三馬の『浮世風呂』(四上)(文化九年〈1813〉刊)にも、「イヤイヤ、飛八さんの話はいつも鉄炮だて。」とあり、江戸後期にも行われていました。『浮世風呂』にはこの後に「鉄炮とは飛八がこと、作公は大筒だ。」とあります。鉄砲より甚だしい嘘つきだから、「大砲(おおづつ)」です。これは三馬が作った語ではないでしょうか。
「松風」という菓子は、「干菓子の一つ。小麦粉を溶かして、厚く平たく焼き、表に砂糖の液をぬり、けし粒をつけたもの。」(日本国語大辞典)です。碁盤の足のところに引用した随筆『東牖子』(四)に、表には、火が強くて焼けた跡、泡立った跡、芥子を振りかけてあるなど、いろいろの模様があるが、裏はつるつるなので、ある高貴な方が「うら寂し」ということで名付けたものだとあります。南北朝時代の頓阿の、
千鳥鳴くとしまが磯の松風に
うら寂しくも澄める月かな続草庵集・五三三
という歌などを意識しての命名でしょうか。
俳諧師の旨原(1725-78)の随筆『屠龍工随筆』には、これより前に「みどり」という菓子があったが、松風が出来るとそのほうがもてはやされたので、みどりの上を行くということであるという一説があると記してあります。
今も京都に「松風」という銘菓があります。挟んである栞には、元亀元年(1570)、石山本願寺が織田信長に包囲された時に、変わった兵糧として創製し、講和が結ばれた後に菓子に作るようになり、顕如上人が、
忘れては波の音かと思ふなり枕に近き庭の松風
と詠んで銘として賜ったとあります。時代はそのほうが古いことになりますが、しゃれということにはなりません。
滝沢馬琴は考証随筆『燕石雑志』(一)に、浪華で唐辛子などの辛いものを入れた味噌を「天竺味噌」と言うのは、辛すぎるー唐(から)過ぎると天竺(インド)に至るという謎であると記しています。
『嬉遊笑覧』(一〇上)には、同様に種々の辛みを入れた醤(ひしお)を「天竺醤」と言うとあります。
焼き芋を「八里半」と言いました。
『浮世風呂』(三下)に、
(小児)「はちあん。お芋が能(い)いよ。」ト泣き声。
(おたこ)「オオオオ、お芋お芋、ムム八里半か。オホホホホ、この子はマア、だれが言って聞かせたか、おつなことを覚えてさ。」
とあり、少し後で「私も初めは何の事を申すかと存じたらば、八里半とは九里に近いと申すことだと。」と説明しています。
『宝暦現来集』(五)という随筆に、寛政五年(1793)の冬、江戸本郷四丁目(東京都文京区の東京大学のあたり)の番屋で、行灯に栗に近いという意味で「八里半」と書いて焼き芋を売ったところ、大いに繁盛したとあります。これが始まりなのでしょうか。
宝永元年(1704)に出た短編集『心中大鑑』(二・一)には、八里半という栗に似た芋が四国にあるそうだとあります。これは甘薯のことでしょう。甘藷は、アメリカ原産で、コロンブスがヨーロッパに伝え、日本には慶長二年(1597)に中国から宮古島にもたらされたのが最初で、その後、薩摩に伝わりました。甘藷が全国に普及したのは、青木昆陽が甘藷の救荒作物としての効用を説いた『蕃薯考』を、徳川吉宗が享保二十年(1735)に出版させてからです。『心中大鑑』のころには、甘藷は一般的でなく、四国だけで、クリに近いということで、八里半と言っていたのでしょう。
焼き芋は、「十三里」と言うほうが、広く知られているのではないでしょうか。「栗より(九里四里)うまい」というわけです。『宝暦現来集』には、江戸小石川白山前(東京都文京区)の町屋でこの行灯を出したとあり、嘉永六年(1853)ころに出来た喜多川守貞の『守貞謾稿』(四)には、京阪に十三里と書いたものがあるとあります。どちらが元祖なのでしょうか。
子供の時に読んだ水戸黄門漫遊記に、黄門が十三里という看板の出ている店で焼き芋を食べて、「これは十三里ではない、十里じゃ。ゴリゴリじゃ」と言う話があった記憶があります。『皇都午睡』(三上)に「生焼けを十里と言ふは、五里五里といふよき悪口なり」とあります。
『皇都午睡』には、芝海老の身を煮て細かくしたものを乗せた鮨を鉄火鮨と言う、身を崩したという謎であろうとあります。鉄火とは博徒のことです。
鮨の鉄火巻も、鮪(まぐろ)をぶつ切りにして入れるので、身を崩したということで言うとも、鉄火場(ばくち場)でつまんでも手が汚れないで重宝したことから言うとも言います。後の説はしゃれではありませんが、これならば、サンドイッチは、賭博を好んだイギリスのサンドイッチ伯爵(the Fourth Earl of Sandwich,1718-92)が、食事に中断されないで賭博を続けることができるように考案し、一日中こればかり食べたと言う話と似ています。賭博好きは、洋の東西を問わず、同じようなことを考えるようです。
鉄火巻は、大正十四年に出た『現代用語辞典』に「通語の一。」とあります。鮨は贅沢な食べ物ですから、今日ほど一般的に知られてはいなかったのでしょう。
2003-09-29 公開