第2回

文字あそび(漢字の分解)前編

恋という字を分析すれば

子供の時に遊んだなぞなぞに、「ドスンと音がしたのはどこでしょう。」というのがありました。答えは寺。土寸で寺になります。

もう一つ。「ぼくは朝に生まれました。誕生日はいつでしょう」。答えは十月十日。朝を分解すると十月十日になります。

近ごろはあまり聞かなくなりましたが、無料をロハと言いました。只の字を二つに割ったのです。

酒の席などでの歌謡に、

恋(戀)という字を分析すれば、いと(糸)しいと(糸)しと言う心
桜(櫻)という字を分析すれば、二階(貝貝)の女が気(木)に掛かる

というのがあります。分析という固い語を用いていることから考えると、大正ころにでも学生などが作って歌い始めたものでしょうか。昭和三十五年に、小林旭が日活映画「東京の暴れん坊」の中で、これに手を加えた「ノーチョサン節」という曲を歌っていました。

漢字には元来こういう性質があるのだと言えます。漢字の構成を説明する六書のうちの会意は、二つ以上の字の意味を合わせて一つの字を作るのを言います。たとえば、木がたくさんあるのが林、羊の大きいのが美、人の言が信、女が子を愛する姿が好です。日本製の漢字(国字)は、人が動くのが働、山の上り下りする場所が峠など、ほとんどはこの会意でできています。

これをヒネれば、文字の分解の遊びができます。
長寿の祝いの名称は、その代表的なものでしょう。
八十八が米寿、八十一が半寿というのは分かりやすい。
八十を傘寿というのは、傘の人の字を四つ書かない略字です。
七十七は喜寿、喜の字を崩すと㐂となり、七十七に見えます。
九十は卒寿、卒の字を崩して書くと卆となります。

これらは『大漢和辞典』には載っていません。中国で作った『漢語大詞典』にも見えません。天保七年(1836)刊の津阪東陽の詩論『夜航詩話』(三)に「邦俗、八十八を称して米年と為す」(原漢文)と言うように、日本だけの風習なのでしょう。

百から一を取ると白になるので、九十九を白寿と言います。これは『大漢和辞典』にありますが、例はありません。中国で作った『漢語大詞典』にも見えません。これも日本製でしょうか。

これらの中では、米寿が古く、天文十七年(1548)成立のイロハ引きの辞書『運歩色葉集』に「米年 曰八十八歳」とあります。次いで喜寿が古く、『日本国語大辞典』には明治四年の『安愚楽鍋』の例があがっています。それ以外は、白寿に昭和三十六年の山川方夫氏の『海岸公園』の例があるだけで、半寿・傘寿・卒寿に例はありません。かなり新しい風習なのでしょうか。

中国にもあるのは、六十一を華甲と言うものです。華の字は十十十十十十一になります。甲は甲子の略で、十干十二支の最初をあげて年の意味にしたものです。ここまで来ると、落語「平林」で、平林という姓を、タイラバヤシ、ヒラリン、さらにイチハチジュウノモクモク(一八十の木木)、ヒトツトヤッツデトッキッキ(一つと八つで十木木)と読むのに近くなります。この原話は寛永五年(一六二八)に安楽庵策伝が板倉重宗に贈った笑話集『醒睡笑』(六)に「ヒャウリンか、ヘイリンか、タヒラバヤシか、ヒラリンか、イチハチジフにボクボクか、それにてなくはヒャウバヤシか」とあります。

この平林ほどではありませんが、姓の字を分解したペンネームを用いた作家がいます。時代小説作家の直木三十五の本名は植村宗一、推理作家の木々高太郎の本名は林髞です。木々氏は名の一部も用いています。

こういう例は元禄ごろにもあり、『女重宝記』『男重宝記』などの実用書を著した苗村丈伯(なむら・じょうはく)という人は、艸田寸木子とか艸田子とかいう号を用いています。

森鴎外といっしょにドイツから帰国した軍医の石黒忠悳(ただのり)は、明治二十一年七月二十七日の日記に「今夕、多木子報じて曰く、其の情人ブレメンより独逸(ドイツ)船にて本邦に趣きたりとの報ありたりと」と記しています。多木子とは森鴎外のこと、多くの木は森です。前後には森氏と記してあるのに、ここだけ多木子であるのは、スキャンダルにわたることなので、名を隠して記録したのでしょう。鴎外の帰国後に、ドイツからエリスという少女が日本に来て、森氏の一族は、彼女をドイツへ帰らせるために大騒ぎしました。

こういう漢字を分解する遊びは、漢字の本家である中国で始まったもので、日本でもそれに倣ったものでしょうが、初めにあげた「恋」や「桜」のような日本独自のものも行われました。

嵯峨天皇が小野篁に出した謎

漢字の分解の日本でいちばん古い例は『万葉集』に見られます。巻九(一七八七)の長歌の一節に「毎見 恋者雖益 色二山上復有山者 一可知美」とあります。「見るごとに 恋はまされど 色に出(い)でば 人知りぬべみ」と読みます。「山上復有山」は、山の上にまた山が有るのですから「出」の字となり、古語では「いづ」と読むことになります。『広辞苑』の編者の新村出博士の重山という号は、これによったものです。

これは日本人の発明ではありません。中国の六朝時代の恋愛詩を集めた詩集『玉台新詠』(一〇)に、

藁砧(かうちん)今何(いづく)にか在る(山上復有山)

藁砧は藁を打つ丸い石、丸い石を砆ともいい、夫と同音。夫は今どこにいるのか。外に出ているのだ。

とあるのを、そのまま用いたのです。

『万葉集』に、仙人の形(絵)を詠んだ、

とこしへに夏冬行けや裘(かはごろも)扇放たぬ山に住む人(九・一六八二)

永遠に夏と冬が同時に進行するからか、毛皮の衣を着て扇を手放さない山に住む人。

という歌があります。「山に住む人」というのは「仙」を分解したものでしょうか。

小野篁(たかむら)(802-852)の漢詩の一節に、

物の色は自づから客の意(こころ)を傷ましむるに堪へたり 宜(むべ)なり愁の字を将(もち)て秋の心に作れること(和漢朗詠集・秋興・二二四)

見える物の色は旅人の心を傷ませる。愁の字が秋の心であるのはもっともだ。)

とあり、これを訳したような、

事ごとに悲しかりけりむべしこそ秋の心を愁へと言ひけれ(千載集・秋下・三五〇。藤原季通)

という平安後期の和歌もあります。

嵯峨天皇が小野篁に出した謎というものが、大江匡房(1041-1111)の話を藤原実兼が書き留めた『江談抄』(三)に出ています。

二冂口月八三 中とほせ(答)市中用小斗(市中に小斗を用ゐる)

木頭切月中破(木の頭切れて、月の中破る)(答)不用

などが分かりやすいものです。

『百人一首』にある

吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ(文屋康秀)

吹くとすぐに秋の草木がしおれるから、なるほどそれで山風を嵐といっているのだろう。

は『古今集』(秋下・二四九)に出ています。山風だから嵐です。延文二年(1357)に准勅撰となった連歌集『菟玖波集』の誹諧の部に、

風と嵐は名ぞ変はりける
 上にただ山の見えたるばかりにて(敬心法師)

という、「むべ山風を」を踏まえたような付け合いがあります。

『古今集』には同じような例がもう一首あります。

雪降れば木ごとに花ぞ咲きにける
 いづれを梅と分きて折らまし(冬・三三七。紀友則)

雪が降ったらどの木にも花が咲いた。どれを梅と区別して折ろう。

これも木毎だから梅となるわけです。

字訓詩という文字遊びの漢詩が、『本朝文粋』(一)に二首載っています。菅原真友の嘉祥元年(848)の作を引きます。

禾失曾知秩(禾は失せて曾(すなは)ち秩を知る)

中心豈忘忠(中心豈(あ)に忠を忘れむや)

里魚穿浪鯉(里魚は浪を穿つ鯉)

江鳥度秋鴻(江鳥は秋を度(わた)る鴻)

火盡仍為燼(火は尽きて仍(すなは)ち燼(もえくひ)と為(な)り)

山高自作嵩(山は高くして自(おのづか)らに嵩と作(な)る)

色糸辞不絶(色糸の辞は絶えず)

凡虫泣寒風(凡虫は寒風に泣く)

第一行の初めの二字「禾失」を合わせると最後の「秩」になるというように、各行とも初めの二字で最後の一字になります。「禾(いね)がなくなった時に俸給を受けていたことを知る。心中でどうして主君への忠義を忘れようか」という意味ですが、こういう詩の意味をきちんと理解するのは無駄なことでしょう。

離合詩

もっと込み入った離合詩というものもあります。短くて離合詩を説明しやすい菅原道真の「秋夜」を引きます。

班来年事晩(班(あ)かち来たりて年事晩(おそ)し)

刀気夜風威(刀気夜風威(はげ)し)

念得秋多怨(念ずること得たり秋の怨(おも)ひ多きことを)

心王為我非(心王我が為に非なり)(菅家文草・一・二一)

老人たちをあちこちに分けて行く。刀の殺気のように夜の風ははげしい。秋は怨みが多いことを悟った。心という王よ、時勢は私にとって良くない

第一句の班から第二句の刀を除き、第三句の念から第四句の心を除いて、それを合わせると琴となります。詩の裏には、だから琴でも弾いていよう、という気持ちがあるのでしょう。

離合詩は中国には何種類かあります。字訓詩は中国にはないようで、日本で離合詩を簡略にしたものと思います。「むべ山風を」や「木毎に花ぞ」などは、こういう漢詩の影響を受けているのです。

源順(911-983)の「歳寒に松貞を知る」という漢詩に、

十八公の栄は霜の後に露(あらは)れ
 一千年の色は雪の中に深し(類聚句題抄)

という一節があります。十八公は松です。謡曲「高砂」に、

松は万木にすぐれて、十八公のよそほひ、千秋の緑をなして、古今の色を見ず。

など、以後のものにもいろいろと見えます。
寛永十八年元日に

寛永や十八公の門の春(崑山集)

という初期俳諧の句は、門松を詠んだ句です。

古代の日本の貴族たちの中国知識のタネ本であったという『芸文類聚』という百科全書のような本には、『呉録』という本の、松が腹の上に生えた夢を、「松の字は十八公なり」、十八年後に公になる前兆だろうと判断したという話が出ています。『西遊記』(六十四回)には、十八公という松の妖精が出てきます。

米を八木と言う例が平安時代の記録類からあり、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』の元暦二年(1185)三月七日の条に、平氏によって焼かれた東大寺の修造のために、源頼朝が「八木一万石、沙金一千両、上絹一千疋」を寄進したなどと見えます。時代が下りますが、西鶴は、

難波の入湊に八木の商売をして次第に家栄えけるは(日本永代蔵・一・三)

手づから作れる八木はその国主に捧げ(新可笑記・四・一)

などと用いています。この「八木」は『大漢和辞典』に中国の例は出ていません。日本で作ったものでしょうか。

寛元二年(1244)以前に源光行・親行父子が『水原抄』という『源氏物語』の注釈書を著しました。「水原」は「源」を分解したものです。

見る石とは

四辻善成が貞治(1362-68)の初めころに著した『源氏物語』の注釈『河海抄』の、「硯には書き付けざなりとて」(橋姫)という箇所の注に、

見る石の面に物は書かざりき
 ふしのやうしはつかはざらめや

という歌が載っています。「見る石」は硯です(下の句はよく分かりません)。この歌はよく知られていたようで、三条西実隆(1455-1537)に、

墨筆をさぞあだものと見る石の
 おのれ静かに世を尽くしつつ(雪玉集・二五八七)

墨や筆をきっとはかないものと見て硯は自分だけ静かに一生を過ごしていて。

松永貞徳(1571-1653)に、

書き尽くす思ひならねば見る石の
 面に向きて音をのみぞ泣く(逍遊集・二三一八)

書き尽くせる思いではないから硯の面に向かって声をあげて泣く。

など、これを踏まえた歌があります。

江戸末期の喜多村信節(のぶよ)の百科事典のような随筆『嬉遊笑覧』によると、康応元年(1389)に信州の円一という僧が著した『瑣玉集』という本には、「天一大、日月明、卉木枿、日者暑、月良朗、弗人佛(仏)、茲心慈」というようなことが書いてあるそうです。残念ながらこの本は『国書総目録』に登録されていません。

文安三年(1446)成立の『壒嚢鈔(あいのうしょう)』(一四)という本に、伝教大師が日吉の地主の神に名を尋ねたところ、「竪の三点に横の一点を加へ、横の三点に竪の一点を添ふ」と答えたので、山王と称することになったという話が載っています。前半が山、後半が王です。

正倉院の蘭奢待という有名な香木について、天文十七年(1548)成立の辞書『運歩色葉集』に、この三字は東大寺の字を隠しているとあります。

永正十三年(1516)、即位前の後奈良天皇の編集という『なぞだて』は当時のなぞなぞを集めた本です。その中に、漢字を分解した謎がいくつもあります。

廿人木にのぼる(答)茶

戀には心もことばも無し(答)糸

旧字体の絲が正しいはずですが、原本は糸になっています。

紅の糸腐りて虫となる (答)虹

紫の上の隠れしみぎりに源氏のあとをとどめしはいかに(答)紙

「みぎり」は砌でその時の意ですが、それを右の意にして解くようになっています。

山を払ふ嵐に虫は去って鳥来たる(答)鳳

この第一のものと同じような題の本があります。寛永三年(1626)に出た『艸人木』という茶道の本です。

本の題名をもう一つ。寛文七年(1667)に、酒の飲みくらべのことを書いた『水鳥記』という仮名草子が出ました。鳥を酉にして二字を合わせると酒になります。寛永十年(1633)に出た近世最初の俳諧集『犬子(えのこ)集』の、

癸酉(みづのととり)の年に
 みづのとの酉をまづ酌む今年かな(重頼)

という句も、酒を酌むということです(「みづノト」のノトが邪魔ですが)。

正保二年(1645)刊の俳書『毛吹草』に、「文字」という句作りの例として、

いざ飲まん木に巵(さかづき)の花の陰
夏は木に鳴く虫までや単(ひとへもの)
冬ながら木へんに春の花見かな

などが挙げてあります。第一は梔(くちなし)、第二は榎と蝉、第三は椿です。

池田正式(まさのり)(?-1672?)の『堀川百首題狂歌合』に、「蘭」の題で、

草葺きに門を構へて西側の向かひに秋の花ぞかをれる(八三)

という一首があります。西側の向かいは東、草(艸)・門・東を合わせると蘭になりますから、この香っている花は蘭ということになります。蘭のことは、後に記しますが、中国にもあります。

芭蕉の『奥の細道』の須賀川の条に、

栗といふ字は西の木と書きて、西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生杖にも柱にもこの木を用ゐたまふとかや。

という一節があります。行基のことを書いたものには見えないので、浄土宗系の人などが言い出したものかと言われています。

吾唯知足(著者撮影)

京都の龍安寺にあるつくばいは、いつからあるものか知りませんが、丸の真ん中に四角の穴が空けてあり、上の写真(近所のお寺のレプリカで代用しました)のようなデザインです。銭のようですが、中央の口の部分を上下左右に付けて、「吾唯知足(吾(われ)唯(ただ)足るを知る)」と読みます。この箇所については、北陸のある食堂で、この「隹」を「未」にしたマークを見ました。「吾味を知れば足る」とでも読むのでしょうか。ご主人の話では、どこかにあったものを真似たのだそうです。オリジナルを知りたいものです。

2002-07-22 公開