第14回
万葉集の戯書
奈良時代以前には、カタカナも平仮名もまだ出来ていませんでした。古代の日本人は、漢字の音や訓をいろいろに用いて、日本語を書き記す方法を発明しました。
その用例は『万葉集』にもっとも多彩に見られます。文学を書き記すという意識があるからでしょうか。『古事記』ではヤマは「山・夜麻」だけですが、『万葉集』ではそのほかに、「八万・也末・野麻」と書いたものもあります。
『万葉集』には、「恋」は「古非」「古比」と書いたものもありますが、恋は孤りで悲しむものだからでしょう、わざわざ「孤悲」の字を用いた例がかなりあります。漢字の意味を考慮したものと言うことになります。中国にもこういう使いかたがあります。倭の女王の名を「卑弥呼」としたのには軽蔑の気持ちがありますし、イギリスを「英吉利」と書くのには敬意があります。日本製のものでは、clubを「倶楽部」と書くのも、意味を考慮した当て字と言えます。
そういう複雑な『万葉集』の用字を初めて分類したのは、僧春登が文化十五年(1818)に出した『万葉用字格』という本です。春登は、正音・略音・正訓・義訓・略訓・約訓・借訓・戯書の八種類に分類しました。
この分類には、基準が必ずしも厳密ではないところがあり、最後の戯書を、借訓の中の意図して戯れて書いたものと説明していますが、その境界ははっきりしていないように思います。でも、この分類は便利なので、今でもこの用語を用いる人が多いようです。
ここには、この戯書を、いくつかに分類してみます。なお戯書という用語は春登の発明ではなく、すでに賀茂真淵も注釈書『万葉考』で用いています。
『万葉集』の戯書の例としてよく引かれるのは、
馬声蜂音石花蜘蟵荒鹿(一二・二九九一)
です。これで「いぶせくもあるか(心が晴れないことだ)」と読みます。
古くは馬の声をイと聞きなしていました(今では馬はヒンといななくことになっていますが、万葉時代のハ行音はファ・フィ・フ・フェ・フォと推定されているので、ヒヒンならフィフィンとなります)。蜂の音は今と同じでブです。「石花」はカメノテという甲殻類の動物の古名のセ、「蜘蟵」は蜘蛛でクモ(蟵は『大漢和辞典』に見えません)、「荒」はアル、「鹿」はカです。この一句はすべて動物につながる漢字で表記しています。厳密にはイブまでが戯書で、それ以下は借訓ということになります。
戯書には、このような擬声語を用いたものがあります。
なほやなりな牛鳴(一一・二八三九)
「牛鳴」は推量の助動詞のムです。牛はムと鳴くのです。後漢の許慎の辞書『説文解字』に「牟(む) 牛鳴也」とありますから、中国からの知識によったのかも知れません。
括(くく)り喚鶏(一三・三三三〇)
「喚鶏」は助詞のツツです。鶏を呼ぶのに、今はトトと言いますが、昔はツツと言ったというのです。これはこの表記から推定したのでしょう。
a追馬喚犬(一一・二六四五)
b喚犬追馬鏡(一三・三三二四)
c犬馬鏡(一一・二八一〇)
aはソマ(杣、材木を切り出す山)、bはマソカガミ(真澄鏡、澄み切った鏡)、cも前者の省略形で、やはりマソカガミです。
この三例は、馬を追う時にはソソと言い、犬を呼ぶときにはママと言ったのによるものとされています。
牛留鳥(三・四四三)
この「牛留鳥」は、いろいろな読みがありましたが、最近ではニホトリ(ニホ(鳰)は水鳥のカイツブリ)とする説が行われるようになりました。牛をおさえるのに、ニホと言ったのであろうというのです。
留牛鳥浦(一一・二七四三)
これも同じようにニホノウラ(琵琶湖のこと)と読む説があります。
楽浪(一・二九)
神楽浪(二・一五四)
神楽声浪(七・一三九八)
いずれも琵琶湖の西南部一帯の古名のササナミです。『古事記』などに、神楽のはやしことばで「ささ」というのがあります。「神楽声」がササで、それを略した「神楽・楽」もササに用いたものです。
ツツ以下は掛け声とでも言うべきかもしれません。
幾代(いくよ)左右にか(一・三四)
千代(ちよ)二手に(一・七八)
舟泊(は)つる左右手(七・一一八九)
すべなき諸手に(一〇・一九九七)
いずれも助詞のマデです。
これについて、『石山寺縁起絵巻』(二)に次の話があります。『万葉集』に訓を付けることを命ぜられた源順(912-983)が、石山寺へ参詣する道すがらこの「左右」の訓を思案していたところ、近江国の大津の浜で、馬方が負わせた荷を付けなおすのに、「まてより付けよ」と言ったのを聞いて、左右の両手をマテ(あるいはマデ)と言うのだと悟ったというのです。もしこの話が事実であったとしたら、平安時代にマテという語は、貴族たちの知らない俗語だったのでしょうか。両手の意味の例として、『日本国語大辞典』には、西行の歌が挙げてありますが、『万葉集』の時代からあった言葉だったことになります。
恋ひわたり味試(七・一三二三)
味を試みるのには嘗めるので、「…てしまうだろう」の意のナムに用いています。
人言(ひとごと)を繁(しげ)み毛人髪三(一二・二九三八)
「毛人髪三」はコチタミと読みます。コチタシというのは、本来は人の言葉や噂が多くてうるさいことで、歌ではその意味に用いています。それから派生して、おおげさである、量や程度がはなはだしい、などの意味にもなりました。「毛人」は蝦夷(えみし、えぞ)のこと、その毛深さをコチタシと言って、ここに用いたのです。
目不酔草(一二・三〇六一)
酔っていなければ覚めていることになりますから、メサマシグサ(目を覚ますための材料)と読みます。
所聞多嶺(ね)(一六・三八八〇)
「所聞多」はカシマと読みます。聞く所が多ければカシマしいので、「香島(石川県七尾市の地名)」にあてたのです。
これに関連して、
鳥が音(ね)の 所聞海に(一三・三三三六)
の「所聞海」を、従来は「聞こゆる海に」と読んでいたのですが、「かしまの海に」と読む説も提唱されています。(こちらのカシマがどこかについては諸説があります。)
水葱少熱(一一・二五七九)
心が落ち着く意味でナギヌルと読みます。水葱(なぎ)は植物の名で、少熱はヌルいということです。これも戯書と言えないことはありませんが、むしろ借訓でしょう。
桜の花の不所ころかも(八・一四五九)
春登は「不所」をウツルと読む説に従っていますが、普通にはチレルとしています。その所でないのだから移る、花だから散るということになります。
東細布(一一・二六四七)
鎌倉時代からヨコグモと読んできました。夜明けの東の空にたなびく雲を細い布にたとえたことによるというのです。しかし現在では、そうする理由もないとして、テヅクリ・シキタヘ・アヅマタヘなどの説もあり、定まっていません。
八十一と書いてククと読む例があります。
情(こころ)八十一[グク](四・七八九)
心が晴れないで
二八十一[ニクク]あらなくに(一一・二五四二)
憎くないのに
八十一里[ククリ]つつ(一三・三三三〇)
括っておいて
いずれも九九八十一でククです。
掛け算九九は古代中国で作られ、日本にも伝えられました。室町時代ころまで、現在のものとは順序が逆で、九九八十一から始まり、一一一で終わるものでした。(今でも九九と言うのは、昔は九九から始まったからです。)
他にも九九を用いたものがあります。
十六(三・二三九)
三例がありますが、集で初出のものだけを挙げました。以下同じ
四四十六によってシシ(狩りの対象となる猪や鹿)と読みます。かつてテレビのアニメ「ゼンダマン」に、ゼンダライオンという機関車が出てきて、そのプレートに「4416」と記してあり、それが出動する時には「胸に輝くプレートは、シシのジュウロク」という歌が流れました。万葉の伝統はこんなところまで続いていると言えるかもしれません。
いさ二五聞こせ(一一・二七一〇)
「二五」はトヲ。この一句は、さあどうだろうとおっしゃい、の意。
かく二二知らさむ(六・九〇七)
君は聞こし二々(一三・三三一八)
生けりともな重二(六・九四六)
第一のものは副助詞、第二は過去の助動詞、第三は形容詞の活用語尾ですが、いずれもシと読みます。二二が四によるものです。
三五月(二・一九六)
これはモチヅキ(望月)と読みます。三五十五で、十五夜は望月(満月)ということです。「望月」を「十五月」(一三・三三二四)と書いた例もあります。
十五夜を三五夜と書いた例は、中国にも、梁の元帝(508-554)の詩に「高楼三五夜」とあるなど、かなり古くからありますから、それを取り入れたと見られます。
次の歌の場合は戯書とは扱われていませんが、
言云者三々二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二(一一・二五八一)
言(こと)に言へば耳にたやすし少なくも心の内に我が思はなくに
では、いくつも数字を並べて書いています。表記する時に、戯れの気持ちがあったのでしょう。
(1)折木四哭の 来継ぐこのころ(六・九四八)
この「折木四哭」はカリガネと読むことになっています。江戸末期になって、新説が提示され、それが今日の定説になっています。
中国から伝わった「樗蒲」という遊びがあり、和語では「かりうち」と言います。「かり」というを木でつくった一面を白、もう一面を黒く塗った楕円形の平たい四つの木片を投げ、出た面の組合せで勝負を争うのだそうです。それで折った木が四つの「折木四」がカリになるのです(「哭」は泣くことですから、ネとなります)。
これに関連するものが他にもあります。
(2)暮三伏一向夜(一〇・一八七四)
(3)末中一伏三起(一二・二九八八)
(4)根毛一伏三向凝呂爾(一三・三二八四)
(2)はユフヅクヨ、(3)はスヱノナカゴロ、(4)はネモコロゴロニ(心をこめて)と読んでいます。
この三例も樗蒲の用語で、三枚が裏で一枚が表のものをツク、一枚が裏で三枚が表のものをコロと言ったのであろうとのことです。
(2)神の諸伏(四・七四三)
これは古くから字のとおりにモロフシと読んでいましたが、昭和三十年代に、樗蒲では四枚すべてが伏したのが最上の目で、これを出した者は思いのままに継続できるので、全部が伏した「諸伏」が思いのままの意味のマニマニになるのだとする説が出て、これが一般化しています。
掛け算九九も樗蒲も中国からもたらされたものでした。「三五夜(もちづき)」、「牛鳴(む)」も、中国文学の影響でしょう。また、
色に山上復有山ば(九・一七八七)
山の上にまた山があるという字は「出(イデ)」です。これは「漢字の分解」のところに記したように、中国の『玉台新詠』に同じ例がありました。
他にも中国文化を踏まえる戯書があります。
我が定め義之(三・三九四)
結び大王(七・一三二一)
「義之」「大王」をテシ(…てしまった)と読みます。その根拠を明快に説明したのは、本居宣長です。義之は羲之の誤りで、四世紀の中国の書家の王羲之のこと。書家だから手師(てし)。羲之の子の王献之も有名な書家だったので、父を大王、子を小王と区別したから、「大王」も羲之のことで、同じくテシと読むというのです(万葉集玉の小琴)。
恋ひわたる青頭鶏(一二・三〇一七)
「青頭鶏」は詠嘆の終助詞のカモです。中国の文献に「青頭鶏者鴨也(青頭鶏は鴨なり)」と記したものがあります。
ちなみに、中国からのものではありませんが、
相見鶴鴨[アヒミツルカモ](一・八一)
では「…てしまったなぁ」の意の「つる-かも」を鳥を表す字で書いています。同じような書きかたですが、春登は借訓に分類しています。
向南山(二・一六一)
南に向かうのは北なので、キタヤマと読みます。
毛無の岡(八・一四六六)
古くからナラシと読んでいて、徳川光圀から『万葉集』の注釈を依頼された契沖は、漢籍を引用して、「不毛」の「毛」には草などの意があり、『日本書紀』(崇神天皇十年)に、「草木をふみならしたので、その山をナラ山という」とあるから、これもふみナラシて草などがないということでナラシと読むと説明しました(万葉代匠記)。そうだとすれば、これも中国文学の知識による表記となります。しかし、昭和三十年ころから、字のままにケナシと読む説が採用されるようになっています。
研究が進んだ結果、消えてしまった例もあります。
「恋水」(四・六二七、六二八)を、かつてはナミダ(春登は義訓とする)と読んでいたのですが、昭和初期から、「変水」が正しいとしてヲチミヅ(若返りの水)と読むようになりました。それが正しいのでしょうが、「恋水」が涙というシャレたものが無くなったのは惜しいような気がします。
2003-07-28 公開