第7回

百人一首のパロディ

本歌取り

お正月ですから、百人一首を用いたことば遊びを扱うことにします。

初めにおわび。元になる百人一首の歌を引用しないと分かりにくいのですが、叙述が繁雑になるのを嫌って、省いたところがあります。ご了承ください。

ことば遊びの傾向が強い初期の俳諧に、古歌の一部を取り入れて詠んだ句があります。万治三年(1660)に出た松江重頼編の句集『懐子』は、そういう句を集めているので、この本から百人一首を踏まえる句を引きます。

春過ぎて棗(なつめ)に入れし新茶かな貞徳

棗は抹茶の入れ物

春過ぎて夏来に芥子(けし)の花見かな慶友

春過ぎて懐(なつ)きにけらし雀の子(無記名)

春鋤(す)きて夏着にけらし田植笠貞伸

以上、「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」による。

ちぎりきな互(かたみ)に搗きし蓬餅之政

ちぎりきな筐(かたみ)に袖に小姫瓜(無記名)

筐は籠(かご)

踊り浴衣互に袖や絞り染玖也

以上、「契りきな互に袖を絞りつつ末の松山波越さじとは」による。
ちなみに、江戸後期の俳人大江丸に、

ちぎりきなかたみに渋き柿二つ(はいかい袋)

という有名な句がありますが、すでに上の二句で「契り」を「千切り」にしています。

立ち別れ稲葉に来るな虫送り重安

虫送りは田畑の害虫を村外れまで送り出す行事

立ち別れ稲葉のやんま返せ野馬弘永

因幡の住人に 立ち別れ往(い)なせぬ雪や峰に松貞徳

松海苔や今帰り来む浦の波茂下

松海苔は海藻の名

以上、「立ち別れ因幡の山の峰に生ふる松とし聞かば今帰り来む」による。

夜をこめて立つやは空音酉の年重長

息をこめて鳥の空音や雲雀笛定時

雲雀笛はヒバリを捕るのに吹く笛

夜をこめて鴟(とび)の空音や神楽笛忠由

神楽の笛がトビの鳴き声に似る

以上、「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関は許さじ」による。

三笠山に出でし月かも奈良団扇(うちは)重方

とっくりを振り酒見れば霰かな可休

麹が浮いている霰酒は奈良特産

以上、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」による。

今来んと言ひしは雁(かり)の料理かな一幽

「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」の「ばかりに」を「は雁の」と清音に変えた。作者は談林派の総帥の西山宗因。

このたびはぬたに取り和(あ)へよ紅葉鮒(無記名)

「このたびは幣(ぬさ)も取り敢へず手向山紅葉の錦神のまにまに」のぬさをぬた(酢味噌和え)に、紅葉を紅葉鮒に変えた。作者は編者の重頼〈しげより〉。

芭蕉のまだ独自の風を確立しない貞門風の時代の句にも、

うかれける人や初瀬の山桜(続山の井)

という、「憂かりける人を初瀬の山颪〈おろし〉激しかれとは祈らぬものを」を踏まえた句があります。

古歌の語句を取り入れて歌を詠むことを本歌取りと言います(これまでの俳諧の例も本歌取りです)。一部を取り入れることで古歌の全体を匂わせ、歌の内容を複雑にする技巧です。

契りきなかたみに袖を絞りつつ末の松山波越さじとは

約束したね、互いに袖を絞るほど涙を流しながら、末の松山を波が越さないだろうと。

この歌は、

君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ(続山の井)(古今集・東歌・一〇九三)

あなたを差し置いて浮気心をわたくしがもし持ったら、末の松山を波が越えるというあり得ないことが起こってしまうだろう。

を本歌に取ったものです。本歌では、末の松山を波が越さないとは、浮気心を持たないことになります。それを踏まえて詠んだ「契りきな」は、堅く約束したのに、あなたは、と心変わりした恋人を恨む歌です。

連歌での本歌取りも歌の場合と同じです。

波越さぬ契りや幾代天の川宗祇(下草)

「契りきな」の歌を踏まえて、牽牛と織女の永遠の愛を詠んでいます。

俳諧は滑稽を意図するものですから、本歌取りは、本歌を意識させながらできるだけ離れ、懸詞で王朝の雅びを卑俗な庶民生活に転じ、その落差から生ずる笑いをねらいます。

狂歌でも同じことが言えます。近世初期のものを引きます。

今はただ重湯も食べぬとばかりをお目にかかりて言ふよしもがな重頼(古今夷歌集・恋)

春過ぎて夏来にけらし綿抜きの衣干すてふ汗のかきそめ喜雲(後撰夷歌集・夏)

百首全部にわたってもじった狂歌も、

あきれたのかれこれ囲碁の友を集め我がだまし手はつひに知れつつを鈍智てんほう(コレガ作者名デス)

を初めとする、寛文九年(1669)刊の『犬百人一首』など、いろいろあります。

享保(1716-36)ころの上方狂歌を代表する油煙斎貞柳にも、『犬百人一首』があり(元文五年刊『狂歌活玉集』所収)があり、天明の江戸狂歌の第一人者である太田南畝にも『狂歌百人一首』(天保十四年刊)があります。

同じ歌を踏まえて双方とも面白そうな例を引きます。

たれをかも知る人にせん死出の山鬼も昔の友ならなくに(貞柳)

たれをかも仲人にして高砂の尉(じょう)と姥(うば)とは仲良かるらん(南畝)

小倉付け

雑俳に、百人一首の歌の初五を題として、それに七五を付ける小倉付けというのがあります。元禄十五年(1702)刊の『もみぢ笠』からいくつか例を引きます。

春過ぎて 呼び声涼しさらし売り

晒しの布の売り声で感じる初夏のさわやかさ

ながらへば また来年も鰒(ふぐ)食はん

もし生きながらえたらまた来年も懲りずにフグを食おう。

明けぬれば 床離れ憂し忍び逢ひ

明けぬれば 塗り箸休む雑煮餅

わたくしの家でも、昭和十年代まで、新年にはふだん使う塗り箸に換えて雑煮用の白木の太箸を使っていました。

秋の田の 案山子(かがし)にょっきり寝ずの番

大江山 鬼の手鞠か丹波栗

丹波国の大江山は鬼の住むところ、栗は丹波の名産。

長からむ 髪をいとしや若比丘尼

もろともに 胸がどきつく新枕

今はただ 人がらよりは稼ぎがら

世知辛い今は、人柄よりもどれだけ稼げるかが人の評価の第一条件。

後には、中七に歌の一句を入れるもの(区別するため小倉中付けとも言う)も行われました。

子に離れ わきて流るる 乳(ち)の涙(合鏡・寛延二年)

たたかずは 関は許さじ 金剛杖(和歌夷・宝暦三年)

安宅の関で弁慶が義経を金剛杖でたたいたので関守の富樫が許した故事。

軒下に つれなく見えし 雨宿り(春漲江・宝暦四年)

酔ひ醒めて つれなく見えし 花戻り
白山の 峰より落つる 雷の鳥(雲鼓三十回忌集・宝暦五年)

富山県白山のライチョウ

撞く鐘の 峰より落つる 比叡颪(ひえおろし)

人々の 恋ぞ積もりて 建つ廓(くるわ)

小倉付けが本歌取りと違うところは、五文字あるいは七文字を取り入れるだけで済んでいることです。本歌取りでは、「春過ぎて」とあるだけでは、本歌取りなのかどうか分かりません。ところが、初めから小倉付けと規定してあれば、作者も読者も「春過ぎて」だけで元の歌の全体を思い浮かべることができますから、それだけ元の歌から離れられます。しかし、離れ過ぎると元の歌をどこまでパロディにしたかというおもしろさは薄れます。小倉付けの場合はパロディではなく、単なる題と考えるのだと良いのかもしれません。

かつて友人のM君が屁を主題にして小倉付けで百句全部を作ったことがあります。傑作が埋もれてしまうのは惜しいので、一部を紹介します。

天の原尻上にして宇宙船
ちはや振るわけは竜田の屁の臭さ

落語を踏まえています

吹くからに草木萎るる邪悪の屁

恋すてふ我が名立ちしはひらぬせゐ

八重むぐら茂れる宿の孤独の屁

かぐとだに蚤虱死ぬ衛生屁

春の夜の屁の夢覚めて糞も漏れ

ほととぎす血を流しつつ痔の屁かな

村雨の露ともなふは下痢近し

きりぎりすこれは屁をひる虫でなし

珍解釈

天明七年(1787)正月に、江戸の書店から『百人一首和歌始衣抄(はついしょう)』という本が出版されました。著者は山東京伝。内容は、古典文学の注釈書の形式をとって、百人一首の歌十八首に珍解釈を施したものです。十八首は、珍解釈を付けやすいものを選んだようです。

一例を引きます。

ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは在原業平

この歌はあまねく人の知るところなれども、その過ちを正し、口伝を記す。

ちはやふるちはやといふ女郎ありけるが、ある角力取、その女郎をあげて遊びけるに、この女郎、よく客を振る癖ありて、かの角力取を、その夜さんざんに振りける。

神代もきかずかの角力取はちはやに振られて、寂しく独り寝してゐるゆゑ、妹女郎の神代といふを口説いてみたれど、神代も聞き入れぬなり。

竜田川かの角力取の名を竜田川といふ。その後、角力取をやめ、豆腐屋を始め、渡世をいたしける。

からくれなゐにちはやはあまりに客を振り振りして、年明け(契約期限の終わり)の時分も、世話にならうといふ客もなく、今はその日を暮らしかね、朝夕の食事にも糅飯(かてめし。雑穀まじりの飯)を食ふやうなことにて、竜田川が内とも知らず、かの豆腐屋へ豆腐の殻を貰ひに行きしが、竜田川は昔の意趣があるゆゑ、殻をくれぬなり。その心をからくれないとは詠めり。

水くくるちはやは、所詮餓(かつ)ゑて死なんよりは、いっそ身を投げんと、烏川へ身を投げける。その心を水くぐると詠めり。

とはとはとは、ちはやが幼名(をさなな)なり。

(関係ないことをいろいろこじつけた珍妙な作者系図と頭注が付いていますが、省略しました。)

お読みになれば分かるように、落語「千早ふる」の原話です。もっともこれは京伝の独創ではありません。京伝自らが初めに、「この歌はあまねく人の知るところなれども」と記しているとおり、先行文献によっています(以下はなるべく要約して記します)。

安永五年(1776)に出た笑話集『鳥の町』の「講釈」という笑話は、京伝のものとほとんど同じです。ただしこの「ちはやふる」の話だけです。

安永四年に出た翆幹子という著者の『百人一首虚(うそ)講釈』は、百人一首を最初から十八首目まで扱っています。巻末の広告には、五篇までに百首全部を扱うと記してありますが、二篇以下は出なかったようです。

この本では、「ちはやふる」は、次のような話になっています。業平が関東に下り、吉原の遊郭へ通って遊女のちはやに会うが、ちはやは初会から振って一度も会わない。太鼓持の紙屋与兵衛に頼んで間を取り持たせるが応じない。業平は、水に紅葉を散らして竜田川と染めた暖簾を掛けた豆腐屋になり繁盛する。ちはやは契約期限が終わったが、だれも引き取ってくれず、乞食になる。ある時、竜田川の豆腐屋へ来て、きらず(豆腐のから)を所望するが、亭主の業平は怒ってくれない。ちはやは赤面して近くの大川橋で身を投げる。

されば、いにしへ、ちはやが振りたることを「ちはやふる」と詠みたまひ、「かみよもきかず」とは、紙屋与兵衛を頼み口説かせても聞かざりしかば、紙与も聞かずとなり。「竜田川」は今業平の家名ゆゑ。「からくれなゐ」は、我おかべ(豆腐)のからを遣わさぬゆゑ、からくれないといふ心。「水くぐる」は、身を投げしといふ心。「とは」とは、つはやが幼名ゆゑかく詠みたまふとなり。

とまとめています。

比べると『虚講釈』のほうは、文も長いし話もくだくだしい。『鳥の町』では枝葉を刈り込み、『始衣抄』では注釈書のパロディというスマートな形にしたのです。

ちなみに、今日では注釈書でもカルタでも「ちはやぶる水くくるとは」となっていますが、江戸時代には「ちはやふる水くぐるとは」と読んでいました。だからこの珍解が成立するのです。

『虚講釈』『始衣抄』の両方に出ている歌を、もう一つ見ましょう。

筑波根の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて渕となりぬる陽成院

[虚講釈]

みなの川という力士が、大関になるところを筑波根岑右衛門(みねえもん)という力士に負けたので昇進できず、それを悔やんで病気になり、医師から鯉を食うように言われ、毎日用いたので、魚屋に借金ができ、快癒した後も借金の渕にはまって嘆いたことを詠んだもの。筑波根岑右衛門のために落とされたから「筑波根の岑(右衛門を略した)より落つるみなの川」、鯉のためにできた借金の渕を略して、「鯉ぞ積もりて渕となりぬる」。

[始衣抄]

武蔵国葛西郡の孫右衛門という百姓に二人の娘があった。

つくはねの正月に姉妹が羽子をついて遊んだ。

峰よりおつる姉の峰より妹のおつるが美しかった。

みなの川葛西とはみな野と川ばかり。峰がつく羽子は川へ落ち、おつるの羽子は野へ落ちた。峰は裾をからげて川へ落ちた羽子を取ったが、おつるは配慮して取らない。通りかかった地頭が、おつるの気性をほめ、妾にする。

こいぞつもりて孫右衛門は家中の肥(江戸訛りでコイ)を取ることになり、葛西中の百姓に売って大金持ちになる。

ふちとなりぬるおつるはお世継ぎを宿したので、御祝儀として孫右衛門は五十人扶持を与えられた。

平戸藩主の松浦静山の随筆『甲子夜話』(続三六)に載っている笑話は、また違っています。田舎の和歌を講ずる者の解釈では、つく羽根は日光山から出る木の実、それが木から落ちてみなの川に流れると、鯉も多く浮かび出て、つく羽根も鯉も多いので、川も斑(ぶち)になって見える、というのです。

『陽成院』という落語は今日あまり演じませんが、以前は「千早ふる」の前段として語ることがありました。力士の筑波根がみなの川を山のかなたに投げ飛ばし、見物があげた声(江戸訛りでコイ)が天皇の耳に入り、筑波根は扶持を賜った、最後の「ぬる」は、扶持をもらった筑波根が買ってきたおしろいを妻や娘が塗ったのだ、というのです。下の句を、美男の筑波根は多くの女性から恋され、有名になって大名から扶持を受けるようになった、とすることもあります。力士の話であることは『虚講釈』のものと、渕を扶持とすることは『始衣抄』のものと同じです。業平の歌とは違って、解釈が固定しなかったようです。

遊郭

先に引いた貞柳の『犬百人一首』の中に、遊郭を詠んだものがあります。

振られつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しき島原の門

夕されば門立ちをいさ三筋町内の妹(いも)には秋風ぞ吹く

貞柳は京都の人ですから、京都の遊郭である島原(三筋町は島原の異称)を詠んでいます。
江戸での最初の狂歌選集である天明三年(1783)刊の『万載狂歌集』にも、

そしてまたお前いつ来なさるの尻暁ばかり憂きものはなし平秩東作

(「来なさる-猿の尻赤-暁」と続けた)

という狂歌があります。
川柳にも百人一首を踏まえて遊郭のことを詠んだものがあります。

吉原は紅葉踏み分け行く所(柳多留・七)

途中の正灯寺は紅葉の名所

もてぬやつつれなく見えし別れなり(同・一八)

もてぬ夜はなほ恨めしき朝ぼらけ(同・三一)

いかに久しきものと知る上草履(同・四四)

上草履を鳴らして来る遊女を待つ客

揚げ干しは傾くまでの月を見る(柳多留拾遺・四)

揚げ干しは遊女と約束した客が来ないこと

こちらは、江戸吉原の遊郭です。
宝暦七年(1757)に『異素六帖』という本が出ました。著者は漢学者で書家の沢田東江。書名は中国の『義楚六帖』のもじり、「異素」は素(しろ)を異にするので色、色の道についての本ということです。
内容は、『百人一首』と『唐詩選』の文句を、江戸吉原の遊郭にちなむ題に引き合わせたもの、『唐詩選』のほうには、こじつけの説明が付いています。
分かりやすそうなものの百人一首のほうだけを引くことにします。

女郎の夜着の内 けふ九重に匂ひぬるかな
年明き(契約期限)の近い女郎 いかに久しきものとかはしる
はやる女郎 人こそ知らね乾く間もなし
心中したる女郎 名こそ流れてなほ聞こえけれ
心中をいやがる女郎 人の命の惜しくもあるかな
(金の)工面のできぬ女郎 ものや思ふと人の問ふまで
売られて来る女郎 憂しと見し世ぞ今は恋しき
親のために勤めする女郎 憂きに堪へぬは涙なりけり
お茶挽き(客を取れなかった)女郎 ながながし夜を一人かも寝ん
振られし客 傾くまでの月を見しかな
旅へ立つ客 今ひとたびの会ふこともがな
早く帰らねばならぬ客 暁ばかり憂きものはなし
夜道を恐がる客 有明の月を待ち出でつるかな
勤めの身は 知るも知らぬも逢坂の関
おもしろく会ふ夜 なほ恨めしき朝ぼらけかな

寛政三年(1791)刊の山東京伝の洒落本(遊郭を舞台とする小説)『錦之裏』に、客と遊女が会話をしているところへ、隣室で新造(若い遊女)たちが歌カルタを取る声が聞こえてくるところがあります。

(遊女)人目があるから人並みに笑ひ顔もしてゐんすが、お前さんのことを思ひ出しんすと、いっそ死にたくなりいす。

心にもあらで憂き世に永らへば恋しかるべき夜半の月かな

あらざらむこの世の外の思ひ出でに

(客)今ひとたびの勘当の詫びも済み、この二階へも晴れて来て、会はるるやうになりたいものぢゃ。
(遊女)ホンニ毎晩会はれんした時は、たくさんさうに(粗末に)思ひしたが、日ごろはこのやうなはかないことさへ、たいていの心遣ひぢゃおざんせん。
(客)さうさなう。

憂しと見し世ぞ今は恋しき

君がため惜しからざりし命さへ

(遊女)思ひ直して、たまさかにお目にかかりいすを楽しみに永らへてをりんす。
(客)ハテ、死んで花実が、
(遊女)咲きもしんすめえ。
(客)命あっての物種サ。

長くもがなと思ひけるかな

(遊女)とは思ひすが、まだまるで(遊女としての拘束期限が)八年といふ年(ねん)なれば。

いかに久しきものとかは知る

(遊女)もしそれまでに、ひょっとマア。

忘らるる身をば思はず誓ひてし

(遊女)それを思ふと、しんに悲しくなりんす。
(客)ハテ、たとへこの上どのやうに。

身をつくしても会はむとぞ思ふ

(遊女)そりゃほんでおざんすかえ。
(客)これさ、声が。

高師の浜のあだ波は掛けじや袖の濡れもこそすれ

会話と歌カルタとを融合させて心情を描いているので、ことば遊びではありませんが、この百人一首の使い方は、『異素六帖』を受け継ぐものと言えましょう。

2002-12-24 公開