第9回

折句(後編)

もう一つの沓冠など

いろは・あめつち詞を使った沓冠

鎌倉時代の順徳上皇の歌論『八雲御抄』には、これまでのようなものを折句沓冠とし、沓冠というのは「初め終はりにその字と定めて置くなり。」として、

花の中目に飽くやとて分け行けば心ぞ共に散りぬべらなる

(以下、和歌の訳文を省略します)

をあげています。この歌は『古今集』巻十の物名の部の末(四六八)に、「はを初め、るを果てにて、ながめをかけて時の歌詠め」と言われて詠んだという詞書のある歌です。この形式も沓冠と称したようです。

このように最初と最後の二音節に決まった字を置いて詠む歌もいろいろと見られます。

明治三十九年十一月に京都市下京区で地中から発掘された『極楽願往生歌』は、康治元年(1142)に西念という僧が詠んだものです。

いろいろの花を摘みては
西方の弥陀に供へて露の身を悔い
ろくろくに巡り会ふとも
法(のり)の道絶えで行へ釈迦(さか)のこのころ

から始まって、

すべて皆仏のことを思ふ人つひには法の道に惑はず

で終わる、イロハ四十七字を歌の最初と最後に置いて極楽往生を願う内容の歌を詠んだ四十七首です。

いろは歌より前に、「あめつちの詞」という、やはりすべての仮名を二度用いない文句がありました。「あめ(天)・つち(地)・ほし(星)・そら(空)・やま(山)・かは(川)・みね(峰)・たに(谷)」と、二音節の単語が続いています。これが作られた時代には、ア行のエ(e)とヤ行のエ(ye)とは違う音であったので、エが二つあり、全部で四十八字あります。(これについては、別にいろは歌を扱う時に述べます。)

平安中期の源順の『順集』に、藤原有忠がこのあめつちの詞を歌の上に置いた四十八首をよこしたので、その返歌として送ったという、

荒らさじとうち返すらし小山田の苗代水に濡れて作る畦(あ)(四)

目もはるに雪間も青くなりにけり今こそ野辺に若菜摘みてめ(五)

筑波山咲ける桜の匂ひをば入りて折らねどよそながら見つ(六)

千種(ちぐさ)にも綻(ほころ)ぶ花の錦かないづら青柳縫ひし糸筋(七)

に始まる、春夏秋冬思恋八首ずつの四十八首が載っています。ここでは歌の最初と最後に同じ仮名を置いてあります。

十一世紀初頭の女流歌人相模の『相模集』では、詞書に「天地を上下(かみしも)にて詠むとて」とあるとおり、

浅緑春めづらしくひとしほに花の色増す紅(くれなゐ)の雨(一〇)

尽きもせぬ子の日の千代を君がためまづ引き連れむ春の山道 (一一)

と、「あめつちの詞」を、順に歌の最初と最後に置いています。(全部で二十四首あるはずですが、春夏冬の四首ずつの十二首しか載っていません。)

これらは最初と最後の一字ずつですから、作るのはさほど難しくないでしょう。おもしろい話のある一例をあげます。三条西実隆(1455-1537)の歌集『雪玉集』に、次の話が載っています。身分の低い男が京極殿の姫君に恋して、「ろ」の字を沓冠にして恋の歌を詠めと言われ、長谷の観音に参って祈ったところ、

轆轤引く違ひの糸のとにかくに蜘蛛手にものを思ふこのごろ(四四〇)

という歌の記してある短冊を賜った。まことに人間に詠める歌ではない。男はやがて婿になった。前にも記したように、原則として和語以外は用いない和歌なのに、ロで始まる歌は漢語を用いないと作れないから、姫君はそういう難題を出したのでしょう。なお、ラリルレロをそれぞれの歌の最初と最後とに置いた歌が、文保(1317-19)以後の成立という歌論書『悦目抄』にあります。

埒(らち)の内に競(くら)ぶる駒の勝ち負けは乗れる男(をのこ)の鞭(ぶち)の内から

霊山に花を手向くるきほうしの経読む声は尊かりけり

瑠璃の色に咲ける朝顔露置きてはかなきほどぞ思ひ知らるる

例のまたそら頼めする人ゆゑに心尽くして待たれこそすれ

櫓櫂立て港を知らぬ夕闇に船待ち出だす夜半の月しろ

もう一つの沓冠など

これと似たようなものが外国にもあります。
アメリカのGelett Burgess という作家が匿名で出版したミステリーの短編集“THE MASTER OF MYSTERY”(1912)は、二十四篇の題名の頭の字を順に拾うと、THE AUTHOR IS GELETT BURGESS、最後の字を順に拾うと、FALSE TO LIFE AND FALSE TO ARTとなっているそうです(江戸川乱歩『随筆探偵小説』)。エラリー・クイーンの長編“THE GREEK COFFIN MYSTERY”(1932)の各章の最初の文字を順に拾うと、

THE GREEK COFFIN MYSTERY BY ELLERY QUEEN

となります。

こういう遊びを英語ではacrosticと言います。バーゲスのようなのはdouble acrostic、クイーンのようなのはsingle acrosticです。『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルの詩には、少女たちの名を入れたacrosticがいくつもあります。

E.A.ポオの詩、“Elizabeth”の各行の第一字をつなぐと、

Elizabeth Rebecca

というポオの従姉妹の名になります。ポオには、第一行の第一字・第二行の第二字と拾って行くと、

Frances Sargent Osgood

という女性の名になる“A Valentine”という詩もあります。こういうのもsingle acrosticと言うのでしょうか。

これまで記してきたのは、日本語のdouble acrosticということになります。日本語のsingle acrosticを見てゆくことにします。

もう一つの沓冠など

様々な言葉を冒頭に置いた歌

賦物のところにも書きましたが、『古今著聞集』(和歌)に、永万(1165~66)のころ、各句の頭にいろは歌を順に置いて続ける「いろは連歌」があり、

嬉しかるらむ千秋万歳

という句の次を付けわずらっていたら、小侍従という女性が、

亥は今宵明日は子の日と数へつつ

と付けたという話があり、それに続けて、鎌倉時代に藤原家隆の家でいろは連歌があったとき、

濡れにけり潮汲む海士の藤衣

という句に、貞度という若侍が、

るきゆく風に干してけるかな

という句を付けたので、人々が「るきゆく」を笑ったところ、「ぬの後はるだから、このようにした。どこが悪いか。」と居直ったので、さらに笑ったという話が載っています。

藤原定家の『拾遺愚草員外』には、いろいろなものを頭に置いた歌が並んでいます。

最初の「一字百首」は、春は「あさかすみ(朝霞)・むめのはな(梅の花)・たまやなき(玉柳)・かきつはた(杜若)」を頭に置いた二十首、夏は「ほとときす(時鳥)・とこなつ(床夏)・はなたちはな(花橘)」の十五首、秋は「おみなへし(女郎花)・しのすすき(篠薄)・ふちはかま(藤袴)・はしもみち(端紅葉)」の二十首、冬は「はつゆき(初雪)・をののすみかま(小野の炭竈)・うつみひ(埋み火)」の十五首、恋は「おもかけにこひわひてうちもねす(面影に恋ひ侘びてうちも寝ず)」の十五首、雑は「あかつきはつゆふかしおもふこと(暁は露深し思ふこと)」の十五首からなっています。

いろは四十七字を頭に置いた、春十首、夏十首、秋十首、冬十首、恋七首、計四十七首が二組、「秋はなを夕まぐれこそただならね荻の上風萩の下露」(『和漢朗詠集』にある藤原義孝の歌)、「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月お待ち出でつるかな」(『古今集』にある素性法師の歌)、「南無妙法蓮花経(なもみやうほうれんくゑきやう)」をそれぞれ頭に置いたものが載っています。

康永三年(1344)十月に、高野山の金剛三昧院に奉納された『宝積経要品』の裏面に、光明天皇・足利尊氏・足利直義・高師直・兼好・頓阿などの公家・武家・僧侶ら二十七人が、

な 難波津のみぎはの波ものどかにて今は春べと霞立つなり 尊氏

を最初に、頭に「なむさかふつせむしむさり(南無釈迦仏全身舎利)」の一字ずつを置いて詠んだ歌を記した短冊百二十枚が付いています。

万治元年(1658)に出た中川喜雲が著した京都の地誌『京童』(三)の「真如堂」の条に、「なむあみだぶつ」を頭に置いた、

な なぞらふや脆き命と春の花

以下、世の無常を詠んだ七句の俳句があります。

このような試みでは、いろは連歌がそうでしたし、定家にもありましたが、いろは四十七字を頭に置いた例が多くあります。それらの、最初のイのものと、ラ行の語は難しいのでロのものとを引用することにします。

定家のものの第一は、

いつしかも霞める空のけしきかなただ夜のほどの春の曙(二〇一)

楼の上の秋の望みは月のほど春は千里の日暮らしの空(二〇二)

第二は、

いくかへり山も霞みて年経らむ春立つ今朝のみ吉野の原(二四八)

鹿野苑照らす朝日に雪消えて春の光もまづや導く(二四九)

南北朝時代の代表的な歌人である頓阿の『高野日記』に、高野山でいろは歌の創始者とされる弘法大師に捧げたものが載っています。

今とても仏の道を求めねばたまたま人になるかひもなし

櫓も櫂も我らは取らで法の主ただ船主を頼みてぞ行く

いずれも仏教的な内容の歌です。これには最後に「京」があって四十八首です。

明応二年(1493)に成立した『金言和歌集』という本は、当時の政治状況を風刺した落首を集めた狂歌集です。収録する狂歌のうち、初めの九十九首は、春夏秋冬恋雑賀に分かれ、いろは順に並んでいます。次の別離歌は一から十までを頭に置いた歌で、すこし後には、いろはを各句の頭に置いた長歌が二首あります。第一の長歌は、

今の世のありさま、論じてようは無けれども 初めに事の差配して 俄に御所を変ゆるも 細川がしわざなりすみやかの御成敗 京の中もしかるべし

というものです。この本は、別々の狂歌を集めて配列したのではなく、初めからこの形式になるように編集したものでしょう。

右の長歌と同じような作に、太田南畝の「京風いろは短歌」というものがあります(半日閑話・一)。短歌とありますが、『古今集』の雑体でどういうわけか長歌を短歌と誤っているのが元になって、長歌が短歌と呼ばれています。

今ぞ知る花の都の人心、ろくなものはさらに無し、腹は茶粥に豆のかて、似ても似つかぬ裏表、ほしがるものは銭と金、へつらひ言うて世を渡り、隣近所も疎ましく、住めば都と申せども、京には飽き果て申し候。

と、京都の悪口を言っています。

もう一つの沓冠など

「いろは短歌」で痴話喧嘩

歌ではありませんが、元文四年(1739)三月から江戸の市村座で上演した歌舞伎『通曾我』で、市川海老蔵の扮する景清と富沢門太郎の扮する傾城高尾とが、いろは短歌で掛け合いを演じました。

景清のほうは、

いつの間にその根性もなりふりの ろくな身にでもなることか 八文字にて揚げ屋入り 二度の勤めをしくさって 本の夫へ立つものか 返事があれば言うてみい

高尾のほうは、

一期(いちご)添ふ夫に別れ今日ののま 路次(ろし)で会うたで肝つぶれ はっと言うたらもし人が 偽物なりと言ひやせん ほんにわたしはこなさんを 隔てる気ではなけれども

というものでした(歌舞妓年代記・二)。

十返舎一九の享和元年(1801)刊の黄表紙『伊呂波短歌』は、夫婦喧嘩をして、夫も妻も相手の悪口をいろは短歌で書いてもらうという話です。

夫のほうは、

いつの代にいかなる神の結びてや、ろうずものをば引っ込んで、箔の付いたる男をば、人参飲んで首くくる、ほうほうの目に合はせたりもうもう二目と見るもいや、せんかた尽きて去りこくる、素っ裸にて失せたゆゑ、今日も着たなりで出て行け出て行け、めでたくかしく。

妻のほうは、

いかめしくいろは短歌もすさまじい、ろくそっぽうに書きもせず、歯くそだらけな口をあき、煮抜きの玉子見るやうな、頬へたなどへねぶりつく、変な匂いの瘡(かさ)っかき、すけべい野郎を突き出して、今日から楽を致すべく候、めでたくかしく。

というもの。こういういろは短歌はいろいろありますが、俗語を使った庶民生活を扱っているところが特色です。

太田南畝の随筆『一話一言』(八)に載る一条兼良(1402-81)作という「節会(せちえ)文字鎖」は、宮中の行事のことを記したものです。これはもっと手が込んでいます。

異位重行(しゅぎゃう)の立ち所 六位の外記の進む庭 白馬の奏を取る時に 二人の大将参る顔節会今より末絶えず 皇(すべらぎ)の御代千代も変はらじ最初の行はイで始まりロで終わり、二行目はロで始まりハで終わるというように、イロハ順で尻取りにもなっています。

もう一つの沓冠など

いろは短歌の実例

先に引いた『金言和歌集』には略本があり、こちらはいろはを頭に置いた四十七首だけです。この略本のイ・ロの二首をあげます。

今ははや烏帽子裃(かみしも)脱ぎ捨てて

鎧直垂(ひたたれ)きさらぎの空

六道や修羅の巷の河内陣永き春日は餓鬼の苦しみ

戦国時代から江戸時代にかけて、イロハ四十七字を頭に置いた教訓的な内容の歌が数多く作られました。「いろは歌」とか「いろは短歌」とか呼んでいます。薩摩国の領主である島津忠良(1492-1568)のものは、

古への道を聞きても唱へても我が行ひにせずは甲斐なし

楼の上も埴生(はにふ)の小屋も住む人の心にこそは高き卑しき

に始まり、寛永(1624-44)ころに出た『女訓集』に、ある人が娘の教訓に詠んだとして掲げるものは、

いたづらに月日をだにも送らずは身を持つことの疑ひはなし

禄はただその身の程を計らひて詰めず広げず出でず入らざれ

に始まり、道元禅師の作という天和三年(1683)刊の『仏徳開山道元和尚伊呂波歌抄』は、

古へも今も変はらぬ法(のり)の道知る人をこそ仏とは言ふ

鷺鶿〈ろじ〉雪に立つかや雲の深くして見ても別れぬ曙の空

に始まります。それぞれの立場からの教訓を詠んでいます。

西鶴の『日本永代蔵』(二・一)に、藤市という京都の富豪が、娘のために「いろは歌を作りて誦(よ)ませ、女寺(女子のための寺子屋)へもやらずして、筆の道を教へ、ゑひもせす京のかしこ娘となしぬ。」という話があります。このエピソードから考えると、あちこちの家でこのいろは歌を作るということがあったのかもしれません。それくらいいろいろな人が作っています。

安永四年(1775)に出た『絵本以呂波歌』は、

いつはりを言はぬ人こそいさぎよし偽り多きいやな世の中

論語読みの論語知らずは論もあれ論語読まずの論語知らずは

以下の歌に鈴木春信が絵を添えたものです。右の歌の各句の頭がすべてイ・ロであるように、以下のすべての歌がそうなっています。これは本来の折句というべきでしょう。

短歌でないものを二つ。

俳句では、芭蕉の門人の各務支考の『南無俳諧』(宝永四年〈1707〉刊)に、「伊呂波武者」という、歴史上の武士を詠んだ四十七句があります。

異見には清盛しぼむ牡丹かな

六弥太が目にしむ梅の匂ひかな

手島堵庵の心学書『児女ねむりさまし』(安永二年〈1773〉刊)には、

意地が悪うは生まれもつかぬ直ぐが元より生まれつき

陸(ろく)な心を思案で曲げる曲げねば曲がらぬ我が心

という、七七七五のいわゆるドドイツの形式の四十八首があります。

こういうものがもとになって、江戸後期にもっと短い諺を用いたいろは歌留多になりました。

江島其磧が赤穂浪士の事件をモデルにして書いた宝永七年(1710)刊の浮世草子『けいせい伝受紙子』は、一之巻の五つの章の題は、「第一 大切な千話文書いてやる硯石」など、すべて「大」で始まり「石」で終わり、二之巻は「男色」、三之巻は「色道」となっていて、五之巻は、すべて最初が「武」、四之巻は、別の事件の野村増右衛門という人物もモデルにしているので、「増」がすべての章名の中に入れてあります。詩歌ではないから、沓冠とか折句とは言いませんが、発想は同じことです。

2003-02-24 公開