第8回

折句(前編)

折句

「折句」とは

蛙飛ぶ池はふかみの折句なり(柳多留・六)

という古川柳があります。芭蕉の

古池や蛙飛び込む水の音

は、句の頭を拾って読むとフカミとなるというのです。芭蕉がそんなことを考えて詠んだのではありませんが、結果としてはそうなっています。「古池や」の句に深みというのはおもしろい発見です。

三めぐりの雨はゆたかの折句なり(柳多留・五)

芭蕉の弟子の其角が江戸向島の三囲(みめぐり)神社で詠んだ雨乞いの句、

夕立や田をみめぐりの神ならば

も「豊か」の折句になっています。其角は衒気のある人で、自選句集の『五元集』では、この句の後に「翌日雨降る」と書き添えている自慢の句ですから、折句も意図していたかもしれません。滝沢馬琴は、其角は折句にするために沈吟したはずで、もし無意識に作ったのなら、「其角は実に俳諧の聖なるものなり。」と賞賛しています(燕石雑志・二)。

カキツバタ・オミナエシを歌に詠み込むと

広く知られた折句の歌は、在原業平が三河の国の八橋(愛知県知立市)の「カキツバタ(杜若)の咲く沢で、かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて旅の心を詠め」と言われて、

から衣きつつなれにし妻しあれば
 はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ(伊勢物語・九段)

唐衣を着ていると身になれるように、慣れ親しんだ妻があるので、はるばると来たこの旅を思うことだ。

と詠んだものでしょう。

この歌は『古今集』(羇旅・四一〇)にも載っています。『古今集』には「をみなへし(女郎花)」を折句にした、

小倉山峰立ちならし鳴く鹿の
 経にけむ秋を知る人ぞなき紀貫之(物名・四三九)

小倉山の峰を歩き回って鳴く鹿が過ごしたであろう秋の数を知る人もない。

という歌もあります。

この歌は昌泰元年(898)の宇多上皇主催の『亭子院女郎花合』で詠まれたと見られますが、現存の同書には出ていません。この『女郎花合』の終わった後の宴でも数首の歌が詠まれました。その中に

斧の柄はみな朽ちにけりなにもせで
 経し程をだに知らずざりける

少しと思った間に長い時間が経ってしまった。何もしないで過ごした間だって知らなかった。

小関山道踏み紛ひ中空に経むや
 その秋の知らぬ山辺に

小関山の道を間違えて途中で過ごすのか、その秋の知らない山のほとりで。

などの「をみなへし」を折句にした歌もあります。

これらが最古の折句のようです。和歌に折句が行われるようになったのは、平安初期からのようです。もっとも、『万葉集』の天武天皇の

よき人のよしとよく見てよしと言ひし
 吉野よく見よよき人よく見(一・二七)

昔のよい人が良い所だとよく見て良いと言ったこの吉野をよく見よ、今の良い人よ、よく見よ。

という歌を、句の頭にヨを揃えた折句と見れば、奈良時代以前からあったことになります。

以後さまざまな折句の歌が詠まれています。いくつか特色のある歌を見ることにしましょう。

折句

いろいろな場で作られた折句和歌

平安時代の歌論『新撰和歌髄脳』以下に見える、小野小町が人に送ったという歌。

言の葉も常盤なるをば頼まなむ
 松を見よかし経ては散るやは

言葉も常緑であるのを頼りにしてほしい。松をご覧なさい、時を経て散りはしない。

これに応えた人の歌。

言の葉は常(とこ)懐かしき花折ると
 なべての人に知らすなよゆめ

あなたの言葉はいつも懐かしい花を折るように出端を折ると一般の人に決して知らせるな。

小町は「琴たまへ(琴を貸してください)」と頼んだのに、相手は「琴は無し」と断ったのです。

第七の勅撰和歌集『千載集』には「折句歌」として二首載っていますが、その二首目、

何となくものぞ悲しき
 秋風の身にしむ夜半の旅の寝覚めは仁上法師(一一六五)

なんとなく物悲しい。秋風が身にしみる旅の夜の寝覚めは。

は、「南無阿弥陀(なもあみだ)」を折句にした旅の歌です。

建仁二年(1202)に行われた史上最大の歌合せである『千五百番歌合』の秋二と秋三、六百一番から七百五十番までは後鳥羽上皇が判者(行司役)で、その判詞は「判の詞の所に形のやうに三十一字を連ねて、その句の上(かみ)ごとに勝ち負けの字ばかりを定め申すべきなり。」と自ら仰せられているとおり、すべて折句の歌で勝敗を記してあります。

最初の六百一番の判は、

見せばやな君を待つ夜の野辺の露に
 枯れまく惜しく散る小萩かな

見せたいものだ、あなたを待つ夜の野辺の露で枯れることが惜しく散る小萩であるよ。

という歌です。ミキノカチ(右の勝ち)です。

次の六百二番の判の歌は、

とにかくに心ぞとまる
 葉にはあらでかつ置く露の散り紛ふ秋

あれこれと心がとまる。葉ではなくて置いたりする露が多く散る秋には。

トコハカチ(床は勝ち)というのは、以下の歌、

きりぎりす草葉にあらぬ我が床の
 露を訪ねていかで鳴くらむ藤原良経

コオロギは草葉でないのに涙で濡れているわたくしの床の露を訪ねてどうして鳴いているのだろうか。

に「床」という語がある、そちらが勝ちということです。しかも合わせた歌と同じに露を詠んでいます。このことは他のすべての歌にも共通しています。

最後の七百五十番は、

治まれる名をも絶えせじ敷島や大和島根も動きなき世ぞ

治まっている名も絶えないだろう、日本列島も動揺のない世である。

オナシヤウ(同じ様)で持(引き分け)になっています。最後なので、判の歌は祝賀の心をこめて治まる国を詠んでいます。

折句

漢字や「南無阿弥陀仏」までも折句に詠み込む

室町時代の公家である中御門宣胤(のぶたね)の日記『宣胤卿記』の永正三年(1506)二月二十二日の箇所に、奈良の春日祭に奉仕して、神前で詠んだ

春日山日ごとに祈る大麻を明らかに見よ
 神し守らば

春日山に毎日祈る大麻をはっきりとご覧ください、神が守ってくださるなら。

という歌があります。珍しく「春日大明神」という五字の漢字を折句にしています。同じように五字の漢字を折句にした例が、手柄岡持(秋田藩士の平沢常富)の狂歌集『我おもしろ』(文政二年〈1819〉刊か)にもあります。

若がへり山皆笑ふ静けさを
 虎溪の友と老を忘れん

若返って山には花が咲いて笑っている静かさの中で、虎溪三笑の故事のように気の合う友と共に老いを忘れよう。

若山静虎老という人の還暦を祝っての狂歌です。

江戸中期の小沢蘆庵(1723-1801)の歌集『六帖詠草』(文化8年〈1811〉刊には、仏に奉った「あみだぶつ(阿弥陀仏)」を折句とする

朝な朝なみ前の花に
 立ちなれて経(ふ)りし三年も露の間の夢(一八二七)

毎朝仏の御前の花にいつも立って経た三年も露のように短い間の夢だ。

をはじめとする三十二首を、梵字のアを中心にして放射状に書いたものや、

眺め晴れ向かへば軒の山桜花
 くくめりし下枝(しづえ)ゆ咲きぬ二つ三つ四つ(一八六〇)

眺望も晴れて向かうと、軒先の山桜の花。つぼんでいた下の枝から咲いた、二つ三つ四つと。

などの「なむやくしぶつ(南無薬師仏)」を折句にした旋頭歌十六首が載っています。後者は全ての歌の末に「つ」が入っているので、「沓冠〈くつかむり〉折句」と称しています。「沓冠」については後に記します。

江戸中期の似雲という僧の『年並草』という歌集に、

欄に寄れば流水のみか
 瑠璃の池の蓮花の光楼に輝く

手摺りに寄ると流れる水だけでなく瑠璃の池の蓮花の光が高殿に輝く。

という、ラリルレロを折句にして浄土のさまを詠んだ歌があります。江戸時代までの和歌は、原則として和語以外は用いないことになっています。ところが和語では、付属語以外にはラリルレロで始まる語はありません。どうしてもこのように漢語を用いるしかなくなります。

江戸初期の俳諧や狂歌はことば遊びの傾向の強いものですから、折句が多いのではないかと、いくつかの本を調べましたが、存外少なくて、延宝七年(1679)に出た狂歌集『銀葉夷歌集』に折句の歌が三首載っているのを見つけたくらいでした。

江戸狂歌では大田南畝の、「た・な・ば・た・ま・つ・り(七夕祭)」の七字をそれぞれの句の上に詠みこんだ、

たそがれにたなびく雲の立ちゐつつ
  たなばたつめやたれも待つらん

以下の七首があります(『をみなへし』)。

折句

雑俳で盛んになった折句

折句が多く見られるのは雑俳です。江戸時代の雑俳の本には、折句だけで一書になっているものがいくつもあります。たとえば、寛延四年(1751)刊の大阪の折句専門句集の先駆的な役割を果たす『和国車』は、「かつを」を題にした

隠されぬ筑摩(つくま)まつりの乙(おと)娘

垣ごしにつめられて居る女郎花

などの八句を最初に、すべて折句の集です。

ちとせ 契りをも年もあやかれ尉(ぜう)と姥(うば)

は、題と句が祝賀の心で合致しています。

この本には、次のような箇所があります。

きみか 清滝を見流す月の桂川

みよの 水に絵をよっぽど書きし野良息子

あめは 呆れたる眼には涙の春の軒

つちを 積もる夜の塵に琥珀の及び腰

うかつ 転寝(うたたね)に角行(かく)が見てゐて詰みにくい

ことも 凝る恨み解けて戻りてもとの春

なくて 投げ入れの草もひとしほ天赦日〈てんしゃにち〉

かぜは 傘の柄を競り合ふ六の花足駄

そでに そよ風は転合と思ふ女護の島

ふきて 振られたる客仰山に手水呼ぶ

すずし 素肌ではすかつく秋の精進日

題をつなげると「君が御世の雨は土を穿つこともなくて風は袖に吹きて涼し」となります。 しかし一つ一つの題は意味のない文字列ということになります。

わひか 和歌の浦拾ふ袂の歌仙貝

さゝゝ 淋しさの境を知らず桜の実

などのように、意味のない三字(七七の句では二字)が題になっていることもあります。

宝暦三年(1753)刊の『折句式大成』は、

イスク 戴いた鈴の障りし櫛直す

から始まって、

スシ 滑り落ちたる陣笠の雪

に終わる、題をイロハ順に配列したかなり大部の句集ですが、そのほとんどの題は意味をなさない文字列です。このほうが制約が少ないから詠みやすくはなるでしょうが、折句に限らず、ことば遊びは、制約を見事に処理するからおもしろいのではないでしょうか。

近代にもいろいろな作品があると思いますが、わたくしのをお目にかけます。タクヤさんとメグミさんの結婚式に、次の二句を作りました。

田鶴(たづ)が音を雲に秘めてや山眠る

目もはるに国原潔(きよ)き深雪かな

わたくしの名句が天地を動かしたのかもしれません、当日は雪が降って、式場への往復に難儀しました。

沓冠(くつかむり)

「沓冠」とは

『栄花物語』(月の宴)に、村上天皇(在位946-967)が、

逢坂も果ては行き来の関もゐず
 尋ねて訪(と)ひ来(こ)来なば帰さじ

恋人に逢うという名の逢坂の関も最後には往来を取り締まる関守もいない。尋ねて来てほしい、来たら帰すまい。

という歌を夫人たちに送ったところ、更衣の源計子が薫物(たきもの)を差し上げたという話があります(『新撰和歌髄脳』などには光孝天皇(在位884-887)の歌となっています)。各句の上は「あはせたき」、下は「ものすこし」、続けると「合はせ薫物少し」となります。計子は見事に謎を解いたのです。

このように各句の上と下に決められた字を入れるのを、『新撰和歌髄脳』に「沓冠歌 十文字あることを出だして、句毎の初め終はりの字に置くなり。」とあるように、沓冠と言います。これは折句よりもさらに手の込んだ技巧です。

沓冠の最古のものは、折句のところに引いた、昌泰元年の宇多上皇主催の『亭子院女郎花合』の後宴での、「をみなへしといふことを句の上下にて詠める」とある、

折る花を空しくなさむ名を惜しな
 蝶にもなして強ひや求(と)めまし

折る花をむだにするという名は惜しいことだ。蝶にもしてしいて求めよう。

折る人をみな恨めしみ嘆くかな
 照る日にあてて霜に置かせじ

花を折る人をみな恨めしいと嘆くことだ。照る日にあてて霜におかせまいとしているのに。

[初五欠]睦れなつれむなぞもあやな手に取り摘みてしばし隠さじ

の三首です。第一・第三はヲムナテシ、第二はヲミナテシで、これらの語形は『日本国語大辞典』には見えません。この語形もあったのか、それともこの形でも沓冠ということなので許容されたのか。最古の例なので、きちんとヲミナヘシになっていてほしかったと残念に思います。

沓冠(くつかむり)

沓冠を用いて借金を申し込む

平安後期の源俊頼(1055-1182?)の『散木奇歌集』に、

はかなしな小野の小山田作りかね
 手をだにも君果ては触れずや(一五三二)

はかないことだ。小野の山田を作れず手をさえもあなたは最後には触れないのか。

という歌があります。この場合は、第一句の頭、末、第二句の頭、末、という順で拾ってゆくと、「はなをたつねてみはや(花を尋ねて見ばや)」となります。

弘安元年(1278)に定円という僧が法隆寺の宝物を拝観して三十首の歌を詠んだ中に、揵陀羅国の衲袈裟を沓冠に詠んだ歌があります。

げに恨むただかくながらこの世少なく後の世の
 憂かるべき身の消(け)なむ悲しさ(法隆寺宝物和歌・二〇)

まことに恨む、ただこのままでこの世に生きていることは少なく、死後に人にはなれないでつらかろう身が消えてしまうことが悲しい

上の俊頼の「はかなしな」と同じ順で、ケムダラコクノノウノケサの十二字を入れてあります。十二字なので、五七七五七七の旋頭歌という珍しい歌体を採用し、しかも仏教的な内容を詠みこなしています。

南北朝時代の代表的な歌人である頓阿と『徒然草』の著者である兼好との間での贈答が、頓阿の『続草庵集』に出ています。

世の中静かならざりしころ、兼好がもとより、「米(よね)たまへ、銭も欲し」といふことを沓冠に置きて

夜も涼し寝覚めの仮庵(かりほ)手枕(たまくら)も
 真袖(まそで)も秋に隔てなき風(五三八)

夜も涼しい。寝覚めしたこの仮の庵では手枕も袖も隔てなく風が吹いてゆく。返し、「米はなし、銭少し」

夜も憂しねたく我が背子果ては来ず
 なほざりにだにしばし訪(と)ひませ(五三九)

夜もつらい。くやしくもあなたはついに来ない。なおざりでも良いからしばらく訪ねてください。

歌は恋の応酬になっています。この場合は句末の五字は後ろから読むように作ってあります。

沓冠(くつかむり)

俳諧の沓冠

江戸初期の歌学者で貞門俳諧の総帥である松永貞徳と、豊臣秀吉夫人の甥で歌人の木下長嘯子との間の同じような贈答が、長嘯子の歌集『挙白集』に出ています。

近き山紛はぬ住まひ聞きながら
 こととひはせず春ぞ過ごせる

近い山の紛れない住まいを聞きながら訪問しないで春を過ごしている。

千代経ともまたなほ飽かで聞くべきは
 この訪れや初ほととぎす(一七三九)

千年経てもまたやはり飽きずに聞くことができるのは、この訪れが今年最初のホトトギスか。

貞徳のほうは「粽〈ちまき〉五把参らする」、長嘯子のほうは「粽五把持て囃す」の沓冠です。歌は五月五日の粽にふさわしく初夏のことを詠んでいます。

花の盛りなるころ、清水寺の開帳、大悲の尊容を拝みはべりて、きよみづのかいちやうといふことを、沓冠に置きて唱へたてまつる

際(きは)もなう世は春なれや身を分かち
 尽きぬは救世(ぐせい)法(のり)の花の香

際限もなく世は春だからであろうか、観音が姿を変えて尽きないのは世を救う仏の教えの花の香りである。

という、内容も仏教的な歌があります。

ことば遊びの傾向の強い貞門俳諧では、『毛吹草』に「折句の沓冠」として、

するがのふじ 透き間見する霞や窓の古障子 長好
すもものはな 鈴菜かも持つ振り売りの初若菜 同

の二句が載っています。

貞門には次のような句もあります。

しをらしき見ものは春の花見かな盛庸(崑山集)

卯月来つ季はまづ夏の初めかな一明

虫の鳴く景は見事の花野かな勝能

継ぎおけば木に早咲きの花見かな嘉雅(玉海集)

盛り長く楽に花見の春もがな祖秀

何の花であるかは、それぞれ「しきみ(樒)のはな」「うつぎ(卯木)のはな」「むくげ(木槿)のはな」「つばき(椿)のはな」「さくら(桜)のはな」を沓冠にしていることから分かるようになっています。

沓冠の例も近代にあるかもしれませんが、またわたくしの作をお目にかけます。平成七年七月にあった馬渕和夫先生の叙勲のお祝いに、

真木むらを深みどりなす地のしづか

という句を差し上げました。作者としては、鬱然という心が感じられればと思うのですが、いかがでしょうか。

(来月に続く)

2003-01-27 公開