第17回

しゃれで付けた名(後編)

屋号

しゃれによって付けた屋号が、江戸時代のものにいろいろ見えます。

1 孝行風呂

『醒睡笑』(五)に、京都の下京の「孝行風呂」という風呂屋は、「ふかう(吹かう-不孝)に及ばず」ということだとあります。当時の風呂屋は蒸し風呂で、湯女(ゆな)が息を吹きかけて垢を掻きました。その必要がないというわけです。

2 南方毛抜き

正保二年(1645)刊の俳書『毛吹草』の諸国の物産を記した中に、尾張国(愛知県)の「南方鑷(けぬき)」というのが出ています。名古屋で、南方という鍛冶が、毛抜きを作っていました。

この名は、諸葛孔明の「出師表(すいしのひょう)」の、「深く不毛に入る。今南方已に定まる(深く不毛の土地に攻め入り、今南方はすでに平定した)」によって近衛殿が名付けたと、菊岡沾涼〈せんりょう〉の享保十九年(1734)刊『本朝世事談綺』(二)にあります。草木の生えていない意味の不毛を、毛が無い意味にずらしたものです。

名付けた人については、室町幕府第六代将軍である足利義教(よしのり)が、富士遊覧の時(永享四年〈1432〉九月のこと)、熱田(名古屋市熱田区)の円福寺に宿泊し、鍛冶が毛抜きを奉ったところ、「なんぼう(なんと、ひどく)よき鑷なり」と言われたので、それを屋号にした(天野信景『塩尻』・六一)、関東へ下った勅使が付けた(榊原篁洲『榊巷談苑』に新井白石の談話とある)、源敬卿が付けた(小野高尚『夏山雑談』二)など、さまざまです。本当のところは分からないから諸説があるのでしょう。

「出師表」によるというのはこじつけに過ぎるように思いますが、江戸時代にはこの説が広く行われていたようです。

3 重衡(しげひら)(酒店)

貞享三年(1686)刊の黒川道祐著の京都の地誌『雍州府志』(六)に、重衡という酒店がある、平重衡は奈良の東大寺などを焼き滅ぼした平家の武将、酒は昔から奈良の名産、この酒は奈良に勝るということで名付けたという話が出ています。

4 二十三屋(唐櫛屋)・十七屋(飛脚屋)

大田南畝の『一話一言』(一四)には、江戸の唐櫛屋の店名に二十三屋というのがあるのは十九四(トオグシ)、飛脚屋の名を十七屋と付けたのは、たちまちつき(忽ち着き、立ち待ち月)ということだとあります。

5 毛抜鮨

『皇都午睡』(初下)には、江戸の竈河岸(へっついがし。東京都中央区日本橋浪花町)に、一つずつ笹の葉で巻いた鮨を売る店があり、毛抜鮓と呼ぶ。魚の骨をよく抜いたという名かと思ったが、考えてみたら、よう食うという謎であろうと悟ったとあります。

6 朧月夜

屋号とは言えませんが、『備前老人物語』という本に次の話があります。

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、武将たちが佐賀県の名護屋に陣を構えた時、馬廻役の野間藤六の小屋の額に「朧月夜」とあるのを秀吉が見て、機嫌良く、「藤六、敷物がないのか。」と言って、畳に白米を添えて与えた。

これについて、山崎美成の嘉永三年刊『提醒紀談』(二)に、大江千里の

照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
朧月夜にしくものぞなき新古今集・春上・五五

を踏まえたものという解説があります。元の歌の「しくものぞなき」は「及ぶものがない」の意ですが、それを「敷く物がない」とヒネったのです。

看板

屋号に関連して、しゃれによる商店の看板に触れます。

1 松葉(縫い箔屋)

寛永十年刊の江戸時代最初の句集『犬子集(えのこしゅう)』(一五)に、

門に小松を立て並べけり

暖簾(のうれん)にしるしを見する縫物屋重頼

という付け合いがあります。縫い箔屋の看板に松を描いてあったのだそうです。松の葉は針であるからと、『嬉遊笑覧』(三)では説明しています。

2 杉玉(造り酒屋)

万治二年(1659)刊の『百物語』(上)に、一休和尚の歌として、

極楽をいづくのほどと思ひしに
杉葉立てたる又六が門

というのが出ています(又六は一休のいた大徳寺の門前の酒屋の名)。

今でも、造り酒屋の軒先に、杉の葉を球状に束ねたものがつるしてあるのを見ることがあります。酒林(さかばやし)・酒旗(さかばた)・酒箒(さかぼうき)などと言います。『日本国語大辞典』の「さかばやし」の項には、「杉の葉を束ねて、球状にし、軒先にかけて酒屋の看板としたもの。また、その店。奈良県三輪山麓鎮座の大神(おおみわ)神社の祭神のはたらきの一つは酒神で、杉を神木とすることによるという。」とあります。挙げてある例文からすると、十六世紀には行われていたようです。

これについて、滝沢馬琴の随筆『曲亭雑記』(三)では、「うまさけの三輪ありといふ謎なり」と説明しています。補足しますと、「うまさけ(の)」は「三輪」にかかる枕詞、神に供える酒を「みわ」と言い、奈良県の三輪山は「しるしの杉」と言って杉をシンボルにしていたから、酒と杉とが結び付くと馬琴は解したのです。

3 木馬(餅屋)

餅屋の看板に木馬を置くということが、江戸後期の随筆類に記してあります。柳亭種彦の『用捨箱』(上)には、文献を博捜して、正保二年の『毛吹草』の「しんこ馬も今や引くらんもち月夜」という句などを例にあげています。種彦は河内(大阪府)の友人が送ってくれたという絵も掲げています。

木馬が餅(饅頭とするものもある)の看板になるのは、アラウマ(荒馬-あら旨)ということだそうです。

4 矢(銭湯)

江戸前期の文献に、湯屋の入り口に矢を看板として出してあることが見えます。天和三年(1683)刊の笑話本『武左衛門口伝はなし』(上)に、「湯屋の家名に矢の形出す因縁」という話があります。

式亭三馬の『浮世風呂』(前編・上)に、「むかしは銭湯の看板に矢のかたちを木にてつくり、門口の目印としたり。弓(ゆ)射るといふ心なるよし、古き絵草紙にまま見及びぬ。今も遠境には用ふる所有り。」と説明してあります。「弓射る」が「湯入る」と同音です。滝沢馬琴は随筆『曲亭雑記』(三)に、自分が少年のころに甚左衛門町(東京都中央区日本橋のあたり)にあったと記しています。

5 将棋の駒(質屋)

『守貞謾稿』(七)に、五角形の将棋の駒の形の質屋の看板の延宝古図・享保図が模写してあって、「金銀になるの意なり。」と説明があります。(銀にはならないと思いますが。)

6 凸の形(白粉屋)

元禄三年(1690)刊の『人倫訓蒙(きんもう)図彙』(六)の白粉屋のところに、凸の字の形の箱の中に鷺の絵がある看板が描いてあります。鷺は白いから、凸は美人の顔は中高であるのを表していると、『嬉遊笑覧』(三)では説明しています。『東牖子』(四)や『守貞謾稿』(四)にも凸の形の看板が出ていますから、江戸後期まで行われたのでしょう。

7 富士山(昆布屋)

昆布屋の看板は富士山の形でした。

昆布を「みずから」と言いました。昆布は水から出るものだからとも、本来は昆布の中に山椒の実を包んだ菓子のことで、山椒は見えないのに辛いから「見ず辛」だとも言います。

富士山は孝霊天皇の五年に琵琶湖から一夜のうちに出現したという俗説があります。「水から」に縁があるから富士山なのだというのが、『東牖子』(四)にある説明です。

8 三国一(甘酒屋)

富士山にかかわることをもう一つ。『皇都午睡』(三上)に、甘酒屋の看板に「三国一」と書いてあるのは、三国一の富士山は一夜で出現した、甘酒は一夜酒とも言うので、その縁によるのであろうとあります。

9 糊屋

糊屋の看板に、「の」を大きく、その中に「り」を小さく書いてあると、『皇都午睡』(初)や『守貞謾稿』(四)にあります。「り(利)」が細いというわけです。

書名

1 あまのかるも

平安末期成立の『海人(あま)の刈藻(かるも)』は、悲恋の末に貴公子が出家する物語です。題は、『古今集』の

海人の刈る藻に住む虫のわれからと

音をこそ泣かめ世をば恨みじ恋五・八〇七、藤原直子

によるものです。「われから」は、「割れ殻」(海藻に付着する甲殻類の動物)と「我から」との懸詞。歌は、漁師が刈る海藻に住む虫の割れ殻、それと同音で、我から起こったことと声に出して泣いていよう、二人の仲を恨みはすまい、というものです。書名の「あまのかるも」で「我から」を匂わせています。

2 藻塩草

『藻塩草』という題の本がいくつかあります。宗祇の弟子である連歌師の宗碩が永正十年(1513)ころに編んだという膨大な歌語辞書が特に有名です。

「藻塩草」とは、「塩を採取するために用いる海藻。掻き集めて潮水を注ぐところから、和歌では多く「書く」「書き集める」に掛けて用い、また、歌などの詠草をもさす。」(日本国語大辞典)。書名は歌語を書き集めたものということです。

3 寸南破良意(すなはらい)

東京湾の霊岸島は、明和三年に埋め立てで出来た島です。出来たころには、地盤が柔らかくて、踏むと蒟蒻(こんにゃく)のように振動したので、蒟蒻島と言われました。安永二年に、そこに遊里が出来ました。その遊里を描いた洒落本(遊里を舞台とする小説)に安永四年刊の『寸南破良意』があります。蒟蒻を食べると体内の砂を払うと言われていることによる書名です。

洒落本はその外形が蒟蒻に似ているので蒟蒻本とも言います。山中共古氏が大正二年から十年にかけて約二百種の洒落本から抜き書きした本の題名は『砂払』です。

4 本居宣長の二著

本居宣長の研究書『源氏物語玉の小櫛』には、初めに、

そのかみの心尋ねて乱れたる
筋解き分くる玉の小櫛ぞ

という自作の歌が記してあります。乱れた髪の筋をとき分ける櫛のように、昔の物語の心の理解しにくい筋をこの本で解き分ける。とき分けるということで、自説を櫛にたとえたのです。

同じ宣長の注釈書『万葉集玉の小琴』にも、初めに、

かき鳴らす玉の小琴を声知りて
良けく悪(あ)しけく聞かむ人もが

という歌が記してあります。かき鳴らす琴の音を聞いて良いとも悪いとも聞く人があってほしい。自説を琴の音にたとえ、良し悪しは読者の判断にゆだねるというのです。

5 難波江

江戸末期の国学者である岡本保孝に『難波江』という随筆があります。難波江(大阪湾)の名物は葦、葦はヨシともアシとも言います。この本で述べることは「よしやあしや」ということです。

6 はなひ草

俳諧の本には、洒脱な書名のものがいろいろあります。

寛永十三年成立の立圃(りゅうほ)編『はなひ草』は、最古の俳諧作法書です。「はなひ」はくしゃみのこと。くしゃみをするのは、人が噂をするから。こんな本は無いほうが良いと人が噂して、この本は編者の自分のくしゃみの種になるというのです。

7 誹諧御傘(はいかいごさん)

慶安四年(1651)刊の松永貞徳編の俳諧辞書『誹諧御傘』は、序に、貴人の御傘(おからかさ)は差し合いをする人がないということで名付けたとあります。連歌や俳諧では、一巻の中にどの語は何度用いて良いとか、語ごとに同じ語は何句隔てなければならないとかいう、細かい規定があり、それを「指し合い」と言います。この本を見れば、指し合いがないというわけです。

8 誹諧をだまき

元禄四年に竹亭編の『誹諧をだまき』という俳諧作法書が出ました。書名は、

いにしへのしづのをだまき繰り返し
昔を今になすよしもがな伊勢物語・三二段

古代の倭文(しず。麻糸の綾織物)の糸を巻き取る苧環(おだまき。糸によった麻を、中を空虚にし、丸く巻きつけたもの)を繰り返すように、繰り返して昔を今にもどす方法があれば良いのに。

によるもの(捕らえられた静御前が鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で舞いながら歌った、初五を「しづやしづ」とする歌〈吾妻鏡・文治二年四月八日〉のほうが広く知られていたかもしれません)。繰り返しこの作法書を開いてほしいというのでしょう。

9 わくかせわなど

『誹諧をだまき』は、改訂版がいくつか出るなど、広く行われました。宝暦二年(1752)に、この『をだまき』の説を批判した千梅の『わくかせわ』が出ました。「わくかせわ」は紡いだ糸を巻き取る糸巻きのこと、書名は『をだまき』の乱れを正して巻き取るということです。

これに対して、宝暦十二年に、石橋は『誹諧糸切歯』という本で『わくかせわ』を批判します。「わくかせわ」の糸を切り取る歯という書名です。

さらに天明三年(1783)には、『糸切歯』を支持する素外の『誹諧歯がため』が出ました。「歯固め」とは正月の鏡餅のことですが、書名には「糸切歯」を固めるという意図があります。

10 青葛葉

元禄十二年に出た芭蕉門の荷兮(かけい)の『青葛葉』は、編者の「桐の木はもとつ葉もなし涅槃像」という発句に、門下の二十二人が五句ずつ付けたもの十五が中心になっています。歌仙(三十六句の連句)の初めの六句を表六句と言います。

紅葉した葛の葉の裏返ることが、古くから詩歌に詠まれています。この本では表六句だけで裏へ返していない、だから『青葛葉』だと、自序にあります。

11 草刈笛

元禄十六年に出た『草刈笛』は芭蕉門の支考と牧童が編んだ句集。牧童の縁で草刈笛です。

12 誹諧七草など

天保十二年(1841)正月に出た『誹諧七草』は、天来という俳人が当時声望の高かった梅室を難じたもの。七草は正月七日に打って粥に入れるもの、正月七日を人日と言います。訓読すればヒトのヒ。人の日(非)を打つという書名です。

これに対して、梅室側と見られる岡目蜂杢(おかめはちもく)という匿名の著者が、五月に『俳諧春の田』を出します。春の田は打ち返すもの、書名は『七草』を打ち返すというしゃれです。

13 鷺

書名ではありませんが、狂言師の大蔵虎明〈おおくらとらあきら〉が万治三年(1659)に完成した狂言の伝書『わらんべ草』によると、明治になって廃絶した狂言の鷺流は、流祖の鷺仁左衛門(1560-1650)の親が摂津国磯島(大阪府枚方市)にいて、生まれつき首が長く、水辺に住んでいたので、鷺と称するようになったのだそうです。

2003-10-27 公開