『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

鏡としての大事典

ぐちともゆきでぐちともゆき

このたび、『日本近代文学大事典』デジタル版の編集に関わらせていただき、はからずも「私」を自省することとなった。

すでに公開されているとおり、今回のデジタル化にあたっては、もとの書籍版を単純にテキストデータにするだけでなく、旧版の記述が不十分だった項目は増補し、また必要と判断した項目は新たに立項している。
わたくしはそのうち、人名に関する新規立項目の検討チームに加えていただいた。作業のなかで検討した立項目としての人名は、いくつかの性格に区分される。
すなわち、「金子みすゞ」のように旧版以後に評価が高まった作者、「村上春樹」のように旧版以後に活動をはじめた作者、そして今年度の第二次公開予定に含まれる「談洲楼燕枝」のように、旧版編纂の段階では「日本近代文学」の枠内とは見られていなかった作者である。

最初の例はよい。そうした存在はわずかだし、評価もすでに定まっているからだ。問題は、第二・第三の例にあった。わたくし自身を厳しく省みることになったのは、その作業の渦中であった。

新規立項目を検討するには、各分野で旧版に立項されていない作者を、最終的な立項数よりも多くあげねばならない。また、立てられる数が多くない以上、不本意ながらどこかで線を引かざるをえず、そのためには何らかの基準も必要になる。
ところが、わたくしがそこで直面したのは、ある分野については選びきれないほどの名前をあげられても、別の分野ではまったく名前が思い浮ばず、そこからどう選ぶべきかもわからないという事態だった。
のみならず、検討対象からまるごと洩れていた分野さえあることに、作業のなかで気づかされたのである。

たとえば、明治中期にはいまだ隆盛を誇っていた漢文壇では、旧版から洩れた作者が少なくないものの、それをどう探してどのように選ぶべきか、見当もつかない有様だった。講談落語のような舌耕文芸や地方文壇もおなじで、明治文学者としては不学を恥じ入るよりほかはない。
短詩形文学に目をやれば、短歌と俳句は現代にいたるまで多くの名前があがっても、川柳については沈黙するばかりだった。近代にも井上剣花坊からの伝統があり、購読している『神奈川新聞』でも三壇はひとしく扱われているのに、である。

これは取りもなおさず、自身が根深いカルチュラルヒエラルキーのなかにあることを、自覚さえできていなかったという事実だった。そのことに愕然としつつ、旧版をあらためて眺めてみると、実に多岐にわたる項目が立てられていることに驚かされた。
このところ興味を持って調べている、口絵や挿絵を描いた明治の画人たち、すなわち日本画家の渡辺省亭や久保田米僊、浮世絵師の富岡永洗や尾形月耕、洋画家の小林鍾吉や中沢弘光らでさえ、しっかりと立項されていたのである。
旧版がカバーする地盤に立って仕事させてもらっているのだということを、いまさらにして実感したのだった。

先述した第二の例にあたる、昭和後期から平成期ともなると、「文学」の幅は明治大正期よりもはるかに広い。立項目として採用するにせよ、何らかの理由で今回は見送るにせよ、そこにはわたくし自身が文学をどう見てきたのかという問題が、あらわに示されていた。
また、「日本近代文学」を冠するこの事典にお名前を出してよいのか、現時点でのお仕事のまとめを永く事典の記述として残してよいのかなども、明治期の文学を研究している平素はほとんど意識されないことだった。

旧版の上で踊る自分を省みる。『日本近代文学大事典』は、「私」の姿を逆照射する鏡でもあるのだった。

(東京大学准教授)

『日本近代文学館』館報 No.311 2023.1.1掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

歴史的な〈全体〉というもの

くりはらあつしくりはらあつし

『日本近代文学大事典』(全六巻)は手もとにあって、いうまでもなく、なくてかなわぬ事典ですが、この刊行に個人的にお手伝いできるようなご縁があったわけではありません。今に至るまで、知らないことに出会えば先ずあたってみる、浅学の身としてのお付き合いです。

いつ購入したのか、特別な記憶もなく、刊行開始時にこれまでにない集成の成果、当然のこととして注文したようです。
昭和五十二年といえば、当時は私にとって二つ目の職場、金沢大学勤務時代でしたが、それ以前の近・現代文学事典は研究室・図書館にあるもの、これは自分の手もとにあるもの(もちろん、図書館等に所蔵されたことは当然ですが)となったのでした。

現在でも、開いたこともない膨大な項目が蔵されているばかりか、思えば、刊行の趣旨や凡例などすら、果たして丁寧に読んだかどうかすら、定かな記憶もなく過ごしてしまった具合なのですから、決して厳格な意味ではないことをきちんと自覚しているつもりですが、とにもかくにも、この大事典の存在を通して、(仮設的な)「日本近代文学」の〈全体〉というもののイメージ(概念)を心に抱くことが出来たようでした。

数学の名著に『零の発見』(吉田洋一)があったと思いますが、零(無)に対応する全体(無限や永遠、無量の全て)といったものも、同様に「発見」されたものでしょう。
もちろん、どんな〈全体〉だって、現実には、何等かの限定や、条件付きの範囲に制約されたそれに他ならないのですが、個々の個人も事項も作品も、全体の一部であり、全体自体が個々なしではあり得ない相関にあることを目に見えて実感されること、そして、それの全部が、その時の歴史的な存在に違いありません。
少しでも、自身の問題意識に沿って何か探究を始めれば、その全体の外側や、別種の〈全体〉が顔を覗かせてしまいます。

こんな青臭いことを書き連ねてみたのは、初版から四十年余り、この度の『日本近代文学大事典』の全面改訂にあたられた編集委員の方々の労苦には、おそらくは、既存の個々の項目の修訂・増補、そして新項目の増補という目に見える作業を通じながら、新たな〈全体〉の更新という見えにくい、しかし更なる困難な課題が課せられていたに違いないだろうと想像されたからでした。

声をかけられた既存項目の増補や、追加項目の一、二をお手伝いしながら、もうひとつ、この度の電子版での刊行について改めて考えたことは、こんなことです。

電子版による修正や増補は、機会を得て逐次新記述に改めていくことが出来るとのこと。日進月歩の研究成果で、次々に更新できるようです。
停滞することのない生きた進展が反映されるようで、個々の部分だけを新情報で確かめるには好都合ですが、歴史的な〈全体〉を切り出して見る、その中での見渡しや、相関を感じ取るには、(仮の)〈全体〉を静止して見ることも欠かせないことと思います。
今回の大改訂での増補部分、新追加部分だけでも、一旦どこかでまとめて見られるものに作っておけないか、などとも思うのでした。

(実践女子大学名誉教授・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.310 2022.11.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

「日本」「近代」「文学」を定める責任

しのざきしのざきみおこ

『日本近代文学大事典』を古本で入手したのは、修士課程の頃だったと思う。全六巻を本棚に並べると、まるでいっぱしの研究者になったかのような気がした。図書館の本にはない紙カバーの、織物のような模様や手触りも楽しかった。

まもなく訪れた修士論文口述試験の日、控室の都合か何かで、席上には本来の主査・副査の先生以外に五名もの先生方がおられた。
そのうちのおひとり、故紅野敏郎先生が私の修論をのぞき込まれ、「生命主義?……君、「生命」という雑誌を知っていますか」とおっしゃった。青くなって帰宅し『大事典』五巻をめくったが、なかった。
研究は恐ろしい、ここに載っていないこともあるのだ、と思ったことを、三〇年すぎた今でも記憶している。

その『大事典』の「増補改訂デジタル版」が、JapanKnowledge を介して公開された。大部の本が腰にこたえる年ごろゆえ、PC上で情報にアクセスできるデジタル版は、非常にありがたい。
紙の本に比べて、偶然開いたページからの収穫が減少するのはしかたないが、それでも、「前後項目」「関連項目」にワンクリックで飛べるのはとても便利だ。

さて、『大事典』は、デジタル版であるがゆえに、アクセス方法以上に大きな変化を抱えることになったと言えよう。それは可変性である。

基本的にアナログ人間である私は、学生指導の際にいまも、「文献はできるだけ紙の本に拠ること。ネット上の情報は明日は変わっているかもしれない不確かなものだから」と譲らない。
しかし、『大事典』のデジタル版は、ある項目の説明を、たとえば一九八四年(机上版刊行年)にはA氏がこのように書き、二〇二一年にはB氏がこのように書いたと記すことで、オンラインでありながら「確か」な増補改訂の情報を経緯ごと伝え得ている。
また宣伝にもあるように、このたび約一〇〇項目が新規立項された上、今後も毎年更新されていくとのことである。

他人事のように申し上げてきたが、このたびのデジタル版編集委員会の末席に私も名を連ねている。
委員会では、どのような新規項目が必要かについて繰り返し話しあわれたが、その席上、ほかの委員の方々の博識と、旧版刊行の段階でいかに多くのものが「日本近代文学」としての市民権を得ていなかったかに驚かされた。
『大事典』に載っていないものは、やはりあったし、あるのである。

このたび新規立項されたものを概観すると、単に新しい時代のものが増えたというだけでなく、女性作家の活躍、植民地との関わりについて多く補われたように感じられる。何を「日本近代文学」と見なすかは、時代と社会によって変わるのだ。

議論の中で、「カムイユカラ」を日本語表記の『アイヌ神謡集』に著した知里幸恵、若き日には朝鮮の独立運動に深く関わりながら、中年以降は日本語で「親日」的とも言われる小説を多数執筆した李光洙などを将来的に立項する案が示された。
「日本近代文学」として通常イメージされるもののすぐそばに、彼らの存在があることを授業で話してきた者として、この案は非常に嬉しかった。しかし一方で、彼らを「日本」の中に安易に組みこんでよいものか、という不安も感じた。
あるときは問答無用で「日本」の一員とし、あるときは排除し、そしてまた組み込むことの暴力性には、自覚的であらねばなるまい。事典をつくるには、「日本」「近代」「文学」の枠組みをひとまず定める必要があるが、デジタル版の持つ可変性をうまく用いて、その枠組みを常に問い直し続けられるようにと願う。

(明治学院大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.308 2022.7.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

「作品」から「コンテンツ」へ

ぶちのりつぐごみぶちのりつぐ

自分の不勉強を打ち明けるようで恥ずかしいのだが、『日本近代文学大事典』でいちばんお世話になったのは附録の地図だったように思う。
最初に勤めた高校の授業で漱石の『坊っちやん』や『門』を教材としたときは、同僚が退勤したあとの教科室で、窮屈に折り畳まれた二枚の地図を何度も広げては見入ったり、折り目のクセがついた部分を押さえながらコピーを取ったりした。
『東京府管内地図(明治十三年)』と『東京市全図(明治三十年代前半)』がなぜ選ばれたかはわからない。しかし、語り手が一八八二(明治一五)年生まれ、物語現在が一九〇五(明治三八)年頃と推測できる『坊っちやん』の世界を考える上では、格好の手がかりとなってくれた。
そんな思い出があったので、日本近代文学館での企画展「文学事典のこれまでとこれから」で「編集会議の様子」として紹介されたのが、テーブルいっぱいに地図を広げた場面だったことに妙な感慨を覚えてしまった。

講談社版『大事典』の編集の裏側を伝える展示も、じつに興味深いものだった。事典/辞典である以上形式上の統一は不可避だが、わたしの乏しい経験からしても、編集担当者の重要な仕事は型にはまらない(?)執筆者とやりとりすることだった。
今回展示された『大事典』の原稿でも、多くの作家・批評家が律儀に記事を整えている中で、欄外に〇・五枚オーバー、一枚オーバーと書き込まれたものがあった。書き直しが届いたので没原稿にするという注記も見られた。
小川国夫が書いた「島尾敏雄」の原稿には、大正六年四月横浜市に生まれた、という文のあとに「蒲柳の質だったらしく、六歳で大病をした際には、医者に助からないと言われたこともあった」と記され、一文で人物像を立ち上げていく作家の凄みを感じさせてくれる。
現在の『大事典』で、この記述の前に「小説家」という肩書きと「長崎高商を経て、九州帝大の東洋史科卒業」という学歴が書き込まれたのは、編集作業の中で補われたのだろう。
だが、いま読みなおすと、こうした「自由さ」が、『大事典』の個性と見えてくるから面白い。名だたる文学者たちが多く署名入り原稿を寄稿した『大事典』は、それぞれの項目が一つの魅力的な「作品」ともなっていた。

しかし、そのような楽しみ方は、書物という形態ならではのものだろう。デジタル化によって、ランダムにページをめくり、隣り合った項目を読むことから新たな気づきを得る、という楽しみは失われる。
JapanKnowledge の他のコンテンツと横並びに表示される中で、情報としての価値の方が問われることになる。だがそれは、オンライン化を選んだ必然として受け入れるべき変化なのだと思う。
その代わり『大事典』は、同じ土台を共有する情報の海と接続する可能性を持つことになった。例えば、冒頭で触れた地図はどうだろう。現在は『歴史地名大系』コンテンツにgoogle map へのリンクがある程度だが、ここに各時代の歴史地図が加わると、作家の生きた時代の土地をより視覚的に思い描けるようになるはずだ。
かつて筑摩書房が刊行した『明治大正図誌』のように、当時の人々の身のまわりにあったモノたちが画像で確認できるようになると、なおすばらしい。

コンテンツが増えるほど、接続可能性が広がっていくのがオンラインの利点である。信頼できるプラットフォームから複数の良質な情報にアクセスできることは、高校や大学の学習者たちにとって何より価値があることだ。夢はどんどん広がる。

(早稲田大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.307 2022.5.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

二〇〇字項目は研究者育成の道場

やまざきかずひでやまざきかずひで

「長井金風」(二〇〇字)の手掛りが無く困っていた折、勤務先の跡見学園女子大学の国文学科教授で学長でもあった伊藤嘉夫先生(歌人・西行の研究家)から『萬葉集』の評釈をした人で、佐佐木信綱先生が『明治文学の片影』(昭和九年十月、中央公論社)で、その風貌を記しているとの助言を得た。

そして先生は『明治文学の片影』に次の文章を書いて下さった。

顧みればすでに四十余年の昔である。私が佐佐木信綱先生の許に在つた頃、この書のために、書状、短冊を持つて銀座の写場に行き製版のための写真を、数日にわたつて撮つた。立ち会つたのが山本健吉氏であつたと思う。原稿の清書や校正をした思い出の書である。私の最も敬愛する明治文学研究の学兄山崎君に贈る。 昭和五十年正月 伊藤嘉夫

先生は本を渡された時、ご息女が「婦人公論」の記者であったと話された。先生の話を手掛りとして訪ね歩き、長井金風の息女村上早苗氏(筆名大江飛鳥(あすか)、歌人前川佐美雄に師事)を荻窪のお宅へお訪ねした。

亡くなるまでほぼ十年余交流が続いた。事典の二〇〇字原稿は、のちに早苗さんから頂戴した資料を基に同人誌「評言と構想」に『鷗外ゆかりの人々 その二 長井金風』と題して八十枚の伝記に変貌した。

早苗さんは「婦人公論」の記者(昭和九—十四年)として、ライカのカメラを持って取材をしていたという。林達夫氏、岩崎旭氏らが贔屓にしていた。大柄で長身で美人であった。雑誌「銀座」(昭和九年五月号)の《銀座美人譜Ⅰ 長井早苗さん》に写真が載り、推薦者大仏次郎氏が文章を書いている。

夫君村上済州氏は戦前新築地劇団員として活動(芸名新田(にった)地作)し、戦後は声優村上冬樹として活躍された方で、私などNHKの「鐘の鳴る丘」でその声に接していた。

お二人ともお亡くなりになられたが、忘れ得ぬ人である。

事典の原稿の締切りが過ぎても沈黙している私たち早大関係者五、六名が紅野敏郎先生から高田馬場の「大都会」へ呼び出され、原稿を書かない存念を問われ、油を絞られた。

二〇〇字の項目で苦慮している仲間たちは奇妙な連帯感があって、書かないのではなく書けない弁解と屁理屈を並べ立てた。先生は一呼吸置いて、遅れた原稿をそのまま送付するとは何事か。持参して詫びる心が無いのかと問われ、一瞬沈黙があった。先生の言葉は私の心に痛く刺った。

以後私は遅れた原稿を講談社の中島和夫氏に届け、面識を得た。中島氏はいつも三十分程作家との交流を話された。楽しいひとときであった。松本清張の鷗外論については、のちのちまで話題にのぼった。

雑誌「講談倶楽部」が〈浪花節特集号〉を発行した。立腹した講談師が「講談倶楽部」へ口演の速記講談の提供を拒絶した。ここから「書き講談」が生まれる。その経緯を大学の研究誌に書く時、「講談倶楽部」閲覧に講談社内図書室へ紹介して下さったのは中島さんである。感謝している。紅野先生が中島さんとの出会いを作って下さったことになる。

大事典の執筆は、私の三十代後半から四十代初めであった。二〇〇字の項目執筆は、人と出会い、資料と出会い、人との交流が広がり、世界が拓かれ、研究者として育てられた。二〇〇字執筆は、研究者を育てる道場である。

(跡見学園女子大学名誉教授・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.306 2022.3.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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