『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

あのときのワクワクをもう一度

たにえいすけこたにえいすけ

『日本近代文学大事典』増補改訂デジタル版の編集委員会に、立ち上げ時から参加させて頂いている。大御所と言うべき先生方の中に混じって私のような若輩の委員も加えられているのは、将来世代に残していくべき事典の形を考えるために、若い人間の意見も聞いておこうという意図があってのことだと理解している。

十年ほど前まで学生だった私の世代でも、もちろん『日本近代文学大事典』はずっと必須のツールである。修士課程に合格が決まったときに奮発して買ったのが、やはり全六巻の元版『日本近代文学大事典』であった。
神保町と早稲田の古本街を何日かうろうろして、安く求められる店を探したことを覚えている。送料を節約しようと、大きいリュックに詰め込んで、さらに二重にした紙袋にどっさり入れて抱えて運ぶ不格好さは、今思い返せば、傍目にはさぞ異様だっただろう。
しかしその重さも、この事典が自分の本棚に並ぶことのワクワク感そのもののように感じたものだった。研究の世界に足を踏み入れたばかりの私にとって、いつも図書館で使っていたこの事典を所有することは、言いようもなく誇らしく感じられることだった。

今日に至るまで、新たな対象について勉強し始める際には『日本近代文学大事典』がいつも最初の案内役になってくれている。指導学生から、この作家はどういう人なのか、この雑誌はどういう雑誌だったのか、という質問を受ける際も、何も言わずにまず『日本近代文学大事典』を取り出して、該当のページを開いて見せるようにしている。
その場で直接見せるのは、この事典を引く習慣を学生自身にもぜひ身に付けて欲しいからだ。しかし実際のところ、そうやって学生の前でページをめくっていると、私自身改めて勉強し直すことが出てくるのが常である。
これは他の事典ではなかなかないことで、この事典の充実した情報量があってこそのことだろう。大学院進学を希望する学生から相談を受ける際にも、購入を検討するべきものの第一として、必ず『日本近代文学大事典』を勧めてきた。

ところで、私の世代にとって、研究のICT化は、研究を始めた頃には既に導入が始まっていて、しかもどんどん進んでいくものだった。
図書館ではカード目録からOPACへの置き換えが既にかなり進んでいたし、論文は年鑑ではなくデータベースで検索するのが当たり前になっていて、手に入れた論文の管理も、すぐに紙のコピーからPDFに切り替えることになった。
VPN接続によって自宅でも新聞データベースなどを調査できるようになり、国会図書館デジタルコレクションでは全文検索まで可能になった。次々と登場する新たなツールをフォローしていき続けることが、最初から当たり前だった世代である。

そうした変化の中で、『日本近代文学大事典』ももっと使い勝手が良くなれば、という想像を膨らませることが増えていった。項目タイトルだけではなく、本文についても検索できるようにならないものか。
ある作家の名が言及されている記事が一望できるようになったりしたら、どんなによいか。自分で全ページに機械文字認識をかけて、それを実現しようかと考えたことさえある。

増補改訂デジタル版の計画を聞かされたのは、まさにそんなときだった。その計画は、多くの人々の尽力によってあっという間に実現し、夢に見ていたことは叶った。あとはどう使っていくか。初めてこの事典を買ったときのようなワクワクを、我々は今また体験し直している。

(明治大学准教授)

『日本近代文学館』館報 No.316 2023.11.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

もの言わぬ教師

こうたつこうのたつや

『日本近代文学大事典』のデジタル版編集に加えていただいてから、使い慣れた大事典を編集の側から眺めるという思いがけない立場になった。旧版の紙の六巻本の偉業に改めて目を瞠る思いがしている。

大学院に入りたての頃、先輩たちが何気なく口にする文献のタイトルを、こちらも何気なく聞くふりをしながら、内心はその本の名を覚え込むのに必死で、記憶を頼りに何軒も本屋を渡り歩いた。
あの分厚い六冊の『日本近代文学大事典』も神保町で見つけ、それにしても持ち帰るのが難儀だなあと思っていた矢先に、当時まだ真新しかった古本横断検索サイトの存在を知った。自分にとっては初めてのネット・ショッピングだった。

注文ボタンを押して本当に本が送られてきたときの感動は今に忘れられない。ページをすぐ開けられるよう函を外して部屋の本棚に据え付けると、「こんな大きな買い物をしてしまって、もう後戻りはできない」という悲壮な感じが急に胸に来た。と同時に、やっと入門を「許された」という安堵もまた大きかったのを覚えている。

六巻中の三巻が人名辞典という構成は当たり前のようでありながら、「人が歴史を作る」という強い信念から導き出された形式であることに後から気がついた。その意味では、同じ講談社から出た伊藤整の『日本文壇史』に共通する思想がそこに流れている。この事典の一半はいわば「文学の志士たち」の名簿だ、と思った。
明治以来の「近代文学」の立役者たちが、「人」としての記憶を確かに残していた時代ならではの豊かな記述に触れて、ひとしおそのように感じたのだろう。
もちろん「人が歴史を作る」という歴史観はそれ自体が歴史的で一面的かも知れない。だが、記憶伝承の方法という見方をするなら、そこには簡単に色褪せない底力がある。

大事典の仕掛けはそれだけではなかった。第4巻の事項篇を読めば、日本文学の近代化が、いかに社会の近代化と相まって、外国文学の旺盛な摂取のもとに推進されたかを極めて具体的なレベルで知ることができたし、第5巻の雑誌篇は、「メディアが歴史を作る」という人名篇とは全く別角度からの文学史の眺め方を教えてくれた。
つまりこの事典は、単に知識を得る道具ではなく、ものの見方を手ほどきしてくれる「もの言わぬ教師」だったのである。

つい最近、本棚の整理をしていて『近代文学雑誌事典』(長谷川泉編、一九六六・一、至文堂)を見つけた。冊子体ながら大事典の雑誌篇の先蹤と言える内容だが、仰天したのは附録に「収録雑誌の市価一覧と有利な売り方買い方」という古書店主の座談会記事が載っていたことである。
この冊子の編集には、作家・研究者・古書店が一丸となって、読み捨てられる雑誌の散逸を何とか食い止めようと、読者と手をつなぐ熱意が満ちている。
大事典の雑誌情報の裏に、いかに多くの人の努力が傾注されてきたか。膨大な労力の成果として世に出た大事典は、もう二度と作れない本だと言われていたこともうなずけるのである。

しかし、今回デジタル化が実現した。従来漏れていた項目や特に「現代文学」分野の大規模な増補が行われて利便性が向上したが、さらに将来にわたって編集できる可能性を手に入れたことの意義が大きい。
あのサグラダ・ファミリアすら間もなく完成するらしいのに、一度仕上がった大事典は、これから終わりのない工事現場になっていく。そのなかで、知識の集積だけでない、「もの言わぬ教師」の形がどう変わっていくのかが、今後の大きな課題になる。

(東京大学准教授)

『日本近代文学館』館報 No.315 2023.9.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

「増補」することの責任

おおはらゆうおおはらゆうじ

大学院に進学し、日本近代文学研究について本格的に学び始めた一九九〇年代後半のこと、何かわからないことがあると『日本近代文学大事典』を引き、そのたびに、あれもこれもきちんと立項されていること、そして、このような事典が二〇年ほど前に整備されていたことに、何度も感嘆したことを思い出す。

『日本近代文学大事典』は、文学作品が発表される場としての新聞・雑誌やさまざまな事項・事象を扱った項目が幅広く立てられているところにその特徴があるが、何といってもそのコンテンツの核に、膨大な人名項目があるのは言うまでもない。
私自身は、このたびのデジタル増補版制作に当たって、主に既存人名項目の増補に関する編集作業に携わることとなったのだが、作業が進むにつれてその困難や責任の重さを痛感するようになった。

既存人名項目のうち、増補の対象となるのは主に旧版刊行時には存命中だった作家である。従って、単純に考えれば旧版刊行後の文業について加筆すればよい、ということになる。
しかし、事典利用者の視点に立てば、項目を引く時に知りたいのは、その作家の全体像である。そして、一人の作家の全体像は、没後における受容のあり方とも関わって遡及的に構築されるものでもある。
それゆえ、単純に旧版の記述の「つづき」を書くのではなく、新規に「書き直す」という形での「増補」が必要になる局面が生じる。

もちろん、旧版刊行時に存命だった作家に関する記述は、その時点における当該作家の評価や受容のあり方を考える上では、歴史的な価値を帯びた資料であるし、何より膨大な旧版事典の刊行に携わった方々への敬意は、どれだけ払っても払いすぎることはない。
しかし、新旧の情報を利用者に対してどのように示すのか、という点については、こうした敬意とは別の判断が必要となる。

編集会議の場で議論になったことの一つは、併存する新旧情報をどのような順序や形式で示すのか、ということだった。とりわけ今回の増補作業において、旧版の記述とは別に全体を新たに書き直した項目の場合が問題となる。
先人への敬意を優先するならば、まずは旧版の記述を先に示し、増補版の記述を後に添えるということになる。しかし、今日の利用者が求めるのは、あくまで現時点で把握しうる当該作家の全体像であろう。
そうだとすれば、先に提示すべきなのは新規に書き直した記述の方ではないのか。議論の末、選択された結論は後者、すなわち書き直しの記述を先に示し、旧版の記述は歴史的な資料という意味合いも込めて後に置くということだった(新旧それぞれの記述の最後には、執筆者の氏名とともに執筆年も付記されている)。

配列ということで言えば、今回のデジタル増補版がジャパンナレッジに搭載されたことで、『日本近代文学大事典』の項目は、他のさまざまな事典・辞典類の同項目と横並びの状態で出力されることとなった。一人の利用者の立場からすれば、これはとても便利なことである。
しかし、編集作業の当事者として考えるならば、これは大変な緊張にさらされる事態でもある。『日本近代文学大事典』の項目記述は、果たしてその名にふさわしい充実度を体現できているのかどうか。
このことは、現在のみならず未来の利用者たちによって、これから絶えず検証されていくことになる。それを思うと、いささか怖い気分にもなる。

(実践女子大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.314 2023.7.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

デジタル化のその先へ

いしひといしだひとし

『日本近代文学大事典』は、今から三〇年以上昔の学部生時代には、ゼミ発表の際に必ず引用する事典類の一つであった。大学図書館の参考図書欄にあったこの事典は、人名篇の第一巻〜第三巻はすでにかなり使い込まれていて、製本が壊れかかっていたのを覚えている。
自分が大学院に進学して研究者を目指す気持になったときに、最初に買ったのもこの事典だった。私にとっては、この事典は専門家への必須アイテムだったのである。
今の学部生や大学院生、若手研究者にとってはどのような位置づけになっているのだろうか。

今回、増補改訂版の編集委員として関わらせてもらっているが、この三年間はとても大変な時期であった。編集作業がスタートしたのが、二〇二〇年二月でコロナ禍の始まりと重なった。
編集会議はコア・メンバーの会議以外はすべてオンラインで開催され、新規立項案や執筆者案などの提案もすべてメール等でやりとりして決めていった。デジタル版の編集として、まさしくICTを活用することとなったが、項目執筆の作業そのものはそう簡単にはICT活用では進まない。

私もいくつかの人名の新規および増補項目を執筆したが、その作家の経歴や著作物などはデジタルブックですべてが入手できるわけではない。大学図書館や国会図書館も閉館したり、予約入館であったりと、調査作業は大きな制約下に置かれた。
何とか図書館でコピーを取ったり、古本屋で著作物を買い集めたり、雑誌の現物を確認したりと、結局はアナログチックな作業が基本となるしかなかった。辞書作りとはそういうものなのだろう(三浦しをん『舟を編む』ではないが)。
それでも、こうしてデジタル版としてジャパンナレッジLib で公開されて検索できるようになっていることは、今後、この事典を何年にもわたって更新し続けていくことを可能にしたわけで、とても大きな変化であり、成果であると思える。

ただ、現代の学部生や院生はまずはネット上の情報にアクセスする。この事典の最大のライバルはWikipedia なのかもしれない。むろん、Wiki は匿名執筆であるため、記述内容に学問的な裏付けが不十分である。
しかし、無料で手軽に検索できるので学生たちはすぐに飛びつく。ジャパンナレッジLib に個人で加入している人はほとんどいないだろうから、大学図書館などのデータベースからアクセスすることになり、それなりの手続きと手間がかかり、利用制約もあろう。
もちろん、それでもジャパンナレッジLib で検索すれば、信頼するに足る他のデジタル辞書類も横断的に検索が可能である。そうしたことは、教員が学生たちに地道に指導していくしか道はないのだろう。増補改訂すれば利用者が増えるということではないように思える。

最後に、日本語しかできない私が抱く無責任な「夢」を記す。それは、この事典の多言語化である(留学生を多く指導している身としての実感でもある)。
勝手にAI翻訳して利用することも可能であろうが、全項目でなくてもいいので、きちんとした外国語版をデジタルで公開すれば、日本近代文学への理解もさらに広がっていくのではないかと夢想する。
そうしたグローバル展開は、日本近代文学研究が今後目指す道の一つでもあり、また、それは〈日本近代〉というこの事典が背負っている地域性と時間性をも問い直すことにはなろうとは思う。テクストはむろんのこと、事典類も日本語だけで読めればいいという時代はすでに終わっていることは確かではないか。

(東洋大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.313 2023.5.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

親子二代の編纂事業

とうやすむとうやすし

いつのことだったかどうもはっきりしないのだが、紅野敏郎を囲む会に招かれ、そこで『日本近代文学大事典』の話を聞いたことがある。

場所は帝国ホテルだったような……宴会場ではなく普通の部屋だったような……恐らく数十人が詰めかけ、満員電車の車内さながらであった。立食式だが、食べ物のあるところに行けなかった。
知った顔はほとんどなく、途方に暮れた。高井有一の顔はわかった。面識はなかった。高井有一年譜を作ったのは私ですとよほど名乗り出ようかと思ったが、結局は近寄らなかった。
曾根博義に話しかけられたような記憶もある。初対面だったかもしれない。

スピーチが始まり、早稲田の後輩または受業生とおぼしき誰かが『日本近代文学大事典』編纂当時の思い出を語った。——しめきりを過ぎても原稿を書けずにいたら紅野先生に呼び集められ、みんなで御馳走になった……食べ終ったあと原稿の遅れを厳しく叱責され、震え上がった……というような話だった。
そのあと別の人(たしか東京教育大学出身)が、——わたしも『日本近代文学大事典』に書きましたが早稲田ではないので叱られることもなく幸いでありました……などと言った。

『日本近代文学大事典』の、紅野敏郎は「編集長」であった。三十七人の「編集委員」の中で稲垣達郎が「編集委員長」、紅野敏郎が「編集長」、と第一巻の初めに目立たぬ形でしるされている。
第六巻の「あとがき」によれば、事典の企劃が始まったのは昭和四十六年。すぐ「編集長」になったのだろうか。昭和四十六年なら、紅野敏郎満四十九歳の年だ。刊行開始は昭和五十二年。奥付を見ると、第一巻から第五巻まで——つまり「人名」の三巻と「事項」の第四巻、「新聞・雑誌」の第五巻が——昭和五十二年十一月十八日という同じ日付で出ている。
次の巻が出たのは昭和五十三年三月十五日付。わづか四か月後だが、それでも《第六巻「索引その他」は、予想以上に手間取りましたが、このほど完成致しましたのでお届け致します》《ここにお詫びとお礼を申し上げます》……という、講談社と日本近代文学館連名の「ご挨拶」というほぼB6版の紙片がはさまれている。

全巻をたった四か月で出すために、どれだけ準備を重ねたことか。どんなに粘り強い説得、督促がおこなわれたことか……周到に計画していても、原稿が集まらなければ進まない。「編集長」は煩悶し、懊悩し、あるいは憤慨したかもしれない。とりわけ早稲田で遅い人がいたとしたら……「編集委員長」も早稲田、「編集長」も早稲田なのに、早稲田の人間が原稿を遅らせるとは何事か、と怒髪天を衝いたことであろう。
しかし原稿の遅い人は𠮟咤激励されただけですぐ書くものではなく、それで、飲ませ食わせたそのあとで叱るという方法が採られた……と私は推理する。紅野敏郎は自腹を切ったのではないか。

二〇一〇年、紅野敏郎を見送る会で配られた『紅野敏郎 いかがであったでしょうか。』に略年譜が載っている。一九七六年の項には、《『志賀直哉全集』の終盤と『日本近代文学大事典』の編集が重なり、高血圧症にかかる。降圧剤を服用するようになる》……と書いてあった。

『日本近代文学大事典』増補改訂版の「編集長」が紅野謙介であることは秘密ではあるまい。親子二代または三代にわたる辞書、事典の編纂あるいは修訂事業の産物に『日本国語大辞典』、『中国学芸大事典』があるが、『日本近代文学大事典』もその一つとしておぼえておきたい。

(評論家・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.312 2023.3.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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