「日本近代文学」という知の制度
中谷いずみなかやいずみ
大学生の時にはじめて手にとって以来、『日本近代文学大事典』を利用し続けてきた。不足している知識や情報を補い、確認し、オーソライズされた知と自分の調査した内容との距離を測り、また調査へと戻る。
考えてみれば、大事典は資料の大海原をさまよう際の灯台のような、不動の定点としての役割を果たすものといえるだろう。恐れ多くも自分がその編集委員の末席に連なることとなって考えたことを書いてみたい。
前言を翻すことになるが、知は不動のものではない。それは研究者には自明のことだが、今回のデジタル版大事典の特色の一つは、それを利用者側にも明確に示すつくりになっていることだろう。
本欄で諸氏が言及されているように、デジタル版では、旧版刊行後の作家や文学の動向を踏まえて新規立項や増補を行っている。旧版刊行後も長く活動した作家の場合は旧版の記述と増補の記述が執筆年とともに並置されるのだが、時に増補の記述が旧版後の情報追加で終わらず、現在の研究成果やパースペクティブに基づく作家像を提示する場合もある。
このように増補と旧版両方の記述が併記される点は、デジタル版の利点といえるだろう。
そのことの重要性は、事項や雑誌の項目を眺めた時により顕著になる。例えばデジタル版では「沖縄文学」「核・原爆文学」「少女小説」等を新規に立項したが、これらの項目で言及される作品や作家は旧版編集時も数多く存在し、おびただしい数の言説もあった。
にもかかわらず旧版で立項されなかったという事実は、当時何をどのような枠組みで「日本近代文学」と捉えていたか、その枠組みにはどのような権力関係や他者化の欲望が関わっていたのかという問いを誘発する。
『日本近代文学大事典』がオーソライズされた知の集積であればこそ、そこに潜む制度的枠組みを問い返すことができるのである。
ただ急いで付け加えるならば、私は「日本近代文学」から零れ落ちたもの(という捉え方自体が階層的な二項対立を前提としている)を発見し、組み込めばよいといっているわけではない。それはむしろ知の産出に付随する権力の作用を見えなくし、制度化の歴史を消失させ、すべてを包含し得る普遍的なカテゴリーとして「日本近代文学」を立ち上げることに繋がりかねない。
大切なのは、知の制度化をめぐって生じる排除、制限、侵犯、揺らぎなどが歴史的、社会的、文化的な諸権力とどのように関わり、現実の編成に寄与/加担してきたか、あるいはしているのかを問い続けることではないだろうか。
それは即ち、いまの私が何をして(しまって)いるかを考えることでもあり、「日本近代文学」研究者の責務であるように思う。
そしてこのような取り組みを続けるためにも、過去の記述を消し去ることなく更新し続けるデジタル版『日本近代文学大事典』は大きな意義を持つといえよう。
もちろんそこでは旧版のみならず、今回の編集によって新規に立項・増補したもの、「まだ」していないものも検証の対象となる。「日本近代文学」という知の制度がどのような枠組を立ち上げ、どのような権力関係を生産・再生産しているのか、またその権力関係を可視化し知を組み換え続けるための抵抗点はどこにあるのか。
『日本近代文学大事典』という看板をすげ替えるのではなく、「日本近代文学」が発動してしまった暴力の歴史を引き受けながら問い続け、明らかにし続けること。デジタル版『日本近代文学大事典』はその取り組みを可能にし、継承するための重要なツールでもあると思う。
(二松学舎大学教授)
2024年12月04日
『日本近代文学館』館報 No.318 2024.3.15掲載
※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。