若き日のお仕事を前にして
庄司達也しょうじたつや
過日、館から本コラムへの執筆の依頼が届いた。既に幾人もの方々がその思い出を披露されており、そこには、私の個人的なそれとも重なるものが多く見受けられた。
前号の執筆者の小谷瑛輔さんの「神保町と早稲田の古本街を何日かうろうろして、安く求められる店を探した」や、初夏の号にある石田仁志さんの「専門家への必須アイテム」と思われていたという言葉、前前号の河野龍也さんがこの事典をご自宅の書架に配した時に「やっと入門を『許された』という安堵」の思いを持たれたと綴られていることも、皆、私がこの六巻の『日本近代文学大事典』に対して持っている、若き日の少ししょっぱい思い出である。
それもそのはずである。一九八一年に大学に入学した私にとっては、学部生の初めから『日本近代文学大事典』は図書館や研究室の書棚など、直ぐに私の手が届く所にあり、この事典から学恩を受けて近代文学の勉強を進めてきたのだから。
その当時、教壇に立つ先生方からは、先ずは『大事典』で調べる処から発表やレポートを始めなさい、と繰り返し云われてきた。私が聞いたこの言葉は、恐らくは、全国の多くの大学の教壇でも同じように唱えられてきたお題目のような言葉であったに違いない。
今、勝手に想像を広げれば、そこには、この言葉を語る先生方の研究者としての自負と云うものがあったのではなかろうか。先生方にとっても、信頼に足る、待望の事典の刊行であったに違いない。
ところで、私には、新しい事典を手にすると決まって行う癖がある。これは、巻頭、或いは巻末に掲げられている「執筆者一覧」に、真っ先に目を通すことである。よく、書籍を読む際に巻末の「あとがき」から読むという方が居られるが(私もその一人)、それと同じようなことである。
いつから始まったのか、恐らくは、この『日本近代文学大事典』に恩師の名を見つけた時からではなかったろうか。もっとも、この癖が生まれるには前段の話がある。当時、理系(海洋生物)の研究者を目指していた年長の従兄から、研究の心構えのようなことを教わった。
大学院に進もうか、どうしようかと悩んでいた私に、次のようなことを伝えた。研究では「誰」が「何」を明らかにしているのかということも大切だが、この論者がここに至るまでに「何」を対象とし、「どのように」研究してきた人なのか、もっと掘り下げて知ることも大切だ、と。
そう教わった私は、その手始めとして、『日本近代文学大事典』での恩師の執筆項目を探しては付箋を付して読むと云うことを繰り返した。もちろん、そのころに教わっていた先生方のお名前も、探しては読んだ。
戦前の一九四〇年に生を受けた師は、『大事典』の刊行時には三十六歳になられていた。学界をあげてのこの一大事業に執筆者として関わった若き日の恩師は、この事典を前にされてどのような想いを持たれたのだろう。
本誌三一二号の本コラムには、武藤康史氏が編集長であった紅野敏郎氏との思い出話を披露されている。その時の紅野先生は四十九歳であられたという。この年齢のことは、紅野謙介氏も編集会議で話題にされていたのだが、わが師も含め、執筆依頼の時には、その多くがまだ若手とも呼ばれるような年齢の方々であったのだ。
『大事典』の刊行に近接する時期に、角川書店が『日本近代文学大系』全六十巻を同社の記念出版事業として刊行した。近代文学研究が学問としてあることを内外に広く知らしめた二つの刊行事業が、学界と文芸界、出版界との協働により実現したのである。近代文学研究の華やかな歴史の一齣と云って良いだろう。
先ごろ急逝された恩師に、『大事典』に執筆者としてお名前を連ねられた時の感慨などを伺う機会は持てなかったが、若き日の盛んだったお姿を思い浮かべながら、今日もまた、付箋のたくさん付いた『大事典』の頁を手繰っている。
(横浜市立大学教授)
2024年11月27日
『日本近代文学館』館報 No.317 2024.1.1掲載
※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。