「増補」することの責任
大原祐治おおはらゆうじ
大学院に進学し、日本近代文学研究について本格的に学び始めた一九九〇年代後半のこと、何かわからないことがあると『日本近代文学大事典』を引き、そのたびに、あれもこれもきちんと立項されていること、そして、このような事典が二〇年ほど前に整備されていたことに、何度も感嘆したことを思い出す。
『日本近代文学大事典』は、文学作品が発表される場としての新聞・雑誌やさまざまな事項・事象を扱った項目が幅広く立てられているところにその特徴があるが、何といってもそのコンテンツの核に、膨大な人名項目があるのは言うまでもない。
私自身は、このたびのデジタル増補版制作に当たって、主に既存人名項目の増補に関する編集作業に携わることとなったのだが、作業が進むにつれてその困難や責任の重さを痛感するようになった。
既存人名項目のうち、増補の対象となるのは主に旧版刊行時には存命中だった作家である。従って、単純に考えれば旧版刊行後の文業について加筆すればよい、ということになる。
しかし、事典利用者の視点に立てば、項目を引く時に知りたいのは、その作家の全体像である。そして、一人の作家の全体像は、没後における受容のあり方とも関わって遡及的に構築されるものでもある。
それゆえ、単純に旧版の記述の「つづき」を書くのではなく、新規に「書き直す」という形での「増補」が必要になる局面が生じる。
もちろん、旧版刊行時に存命だった作家に関する記述は、その時点における当該作家の評価や受容のあり方を考える上では、歴史的な価値を帯びた資料であるし、何より膨大な旧版事典の刊行に携わった方々への敬意は、どれだけ払っても払いすぎることはない。
しかし、新旧の情報を利用者に対してどのように示すのか、という点については、こうした敬意とは別の判断が必要となる。
編集会議の場で議論になったことの一つは、併存する新旧情報をどのような順序や形式で示すのか、ということだった。とりわけ今回の増補作業において、旧版の記述とは別に全体を新たに書き直した項目の場合が問題となる。
先人への敬意を優先するならば、まずは旧版の記述を先に示し、増補版の記述を後に添えるということになる。しかし、今日の利用者が求めるのは、あくまで現時点で把握しうる当該作家の全体像であろう。
そうだとすれば、先に提示すべきなのは新規に書き直した記述の方ではないのか。議論の末、選択された結論は後者、すなわち書き直しの記述を先に示し、旧版の記述は歴史的な資料という意味合いも込めて後に置くということだった(新旧それぞれの記述の最後には、執筆者の氏名とともに執筆年も付記されている)。
配列ということで言えば、今回のデジタル増補版がジャパンナレッジに搭載されたことで、『日本近代文学大事典』の項目は、他のさまざまな事典・辞典類の同項目と横並びの状態で出力されることとなった。一人の利用者の立場からすれば、これはとても便利なことである。
しかし、編集作業の当事者として考えるならば、これは大変な緊張にさらされる事態でもある。『日本近代文学大事典』の項目記述は、果たしてその名にふさわしい充実度を体現できているのかどうか。
このことは、現在のみならず未来の利用者たちによって、これから絶えず検証されていくことになる。それを思うと、いささか怖い気分にもなる。
(実践女子大学教授)
2024年11月06日
『日本近代文学館』館報 No.314 2023.7.15掲載
※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。