名編集長紅野敏郎さんのこと
池内輝雄いけうちてるお
私が『日本近代文学館』の存在を知ったのは、昭和四一(一九六六)年の頃だったろうか。
その頃、うわさでは、日本近代文学館は膨大な資料を集めていると言われたが、国会図書館の支部上野図書館(旧帝国図書館)で整理中とのこと。見ることはかなわなかった。
私は修士論文か何かで東京下町のことを調べていて、東京大学の本郷、駒場、早稲田大学、東京教育大学(現筑波大学)など、各大学図書館をうろつかなければならなかった。
やがて日本近代文学館で編纂中の『日本近代文学大事典』のいくつかの項目の執筆を割り振られ、神田あたりの雑誌社の編集部を訪ねたり、千葉の房総に隠棲された元編集者の方に取材したりしたこともあった(私は大学を出て小さな業界誌の編集部にいたので、取材はあまり苦にならなかった)。
ただ、問題なのは、たとえば「波」、「VAN」などの雑誌はどこに行けば見られるのか、手掛かりがつかめず、原稿の締切り日に遅れ、編集長の紅野敏郎さんから、電話でひどく叱られ、言い訳のようなことを申し上げたこともあった。
しばらくして紅野さんから会って話がしたいという電話があり、神田の古書店街の喫茶店で待ち合わせをし、おそるおそる出かけて行った。
紅野さんに直接お会いするのは初めてなので、緊張したが、柔和な笑顔であいさつされ、両手をテーブルにつかれて深々と頭を下げられ、こちらは恐縮するばかり。
あとから聞くと、期日通りに書かなかった(書けなかった)友人たちも多く、みな叱られたという。改めて、編集作業の大変さを痛感し、紅野さんの誠実なお人柄に触れたことをうれしく感じた。私の知る限り、このような方はあまりいない。
昭和五二(一九七七)年十一月、無事『日本近代文学大事典』第一巻が出版された。
その巻頭に掲げられた小田切進日本近代文学館理事長の序文「『日本近代文学大事典』刊行の辞」によれば、執筆者八六〇名、関係スタッフの総数九〇〇名、六年を費やした大仕事だったという。
「編集委員」の一覧表を見ると、編集委員長稲垣達郎、編集長紅野敏郎、委員として太田三郎・奥野健男・小田切進・木俣修・楠本憲吉・塩田良平・瀬沼茂樹・中島健蔵・中村光夫・成瀬正勝・野口冨士男・平野謙・福田清人・舟橋聖一・保昌正夫・三好行雄・山本健吉・吉田精一・和田芳恵の諸氏のお名前が並ぶ。そうそうたる陣容だった。今はほとんどの方が物故された。
ほかに歴史・社会・哲学・思想・美術・演劇・映画・出版・新聞など関連領域を含む執筆者も多数。
私も八本の原稿を書いているが、どれも分量はわずか。駆け出しの書き手に過ぎなかった。
大袈裟に言えば、この事典(全六巻)により、日本の近代文学研究は新たな歩みを始めたといっても過言ではあるまい。しかしそれは紅野さんをはじめ、「編集実務」という影で支えた方々が多数いたことも長く記憶にとどめたいと思う。
(日本近代文学館副理事長)
2024年08月21日
『日本近代文学館』館報 No.302 2021.7.15掲載
※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。