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五味渕典嗣ごみぶちのりつぐ
自分の不勉強を打ち明けるようで恥ずかしいのだが、『日本近代文学大事典』でいちばんお世話になったのは附録の地図だったように思う。
最初に勤めた高校の授業で漱石の『坊っちやん』や『門』を教材としたときは、同僚が退勤したあとの教科室で、窮屈に折り畳まれた二枚の地図を何度も広げては見入ったり、折り目のクセがついた部分を押さえながらコピーを取ったりした。
『東京府管内地図(明治十三年)』と『東京市全図(明治三十年代前半)』がなぜ選ばれたかはわからない。しかし、語り手が一八八二(明治一五)年生まれ、物語現在が一九〇五(明治三八)年頃と推測できる『坊っちやん』の世界を考える上では、格好の手がかりとなってくれた。
そんな思い出があったので、日本近代文学館での企画展「文学事典のこれまでとこれから」で「編集会議の様子」として紹介されたのが、テーブルいっぱいに地図を広げた場面だったことに妙な感慨を覚えてしまった。
講談社版『大事典』の編集の裏側を伝える展示も、じつに興味深いものだった。事典/辞典である以上形式上の統一は不可避だが、わたしの乏しい経験からしても、編集担当者の重要な仕事は型にはまらない(?)執筆者とやりとりすることだった。
今回展示された『大事典』の原稿でも、多くの作家・批評家が律儀に記事を整えている中で、欄外に〇・五枚オーバー、一枚オーバーと書き込まれたものがあった。書き直しが届いたので没原稿にするという注記も見られた。
小川国夫が書いた「島尾敏雄」の原稿には、大正六年四月横浜市に生まれた、という文のあとに「蒲柳の質だったらしく、六歳で大病をした際には、医者に助からないと言われたこともあった」と記され、一文で人物像を立ち上げていく作家の凄みを感じさせてくれる。
現在の『大事典』で、この記述の前に「小説家」という肩書きと「長崎高商を経て、九州帝大の東洋史科卒業」という学歴が書き込まれたのは、編集作業の中で補われたのだろう。
だが、いま読みなおすと、こうした「自由さ」が、『大事典』の個性と見えてくるから面白い。名だたる文学者たちが多く署名入り原稿を寄稿した『大事典』は、それぞれの項目が一つの魅力的な「作品」ともなっていた。
しかし、そのような楽しみ方は、書物という形態ならではのものだろう。デジタル化によって、ランダムにページをめくり、隣り合った項目を読むことから新たな気づきを得る、という楽しみは失われる。
JapanKnowledge の他のコンテンツと横並びに表示される中で、情報としての価値の方が問われることになる。だがそれは、オンライン化を選んだ必然として受け入れるべき変化なのだと思う。
その代わり『大事典』は、同じ土台を共有する情報の海と接続する可能性を持つことになった。例えば、冒頭で触れた地図はどうだろう。現在は『歴史地名大系』コンテンツにgoogle map へのリンクがある程度だが、ここに各時代の歴史地図が加わると、作家の生きた時代の土地をより視覚的に思い描けるようになるはずだ。
かつて筑摩書房が刊行した『明治大正図誌』のように、当時の人々の身のまわりにあったモノたちが画像で確認できるようになると、なおすばらしい。
コンテンツが増えるほど、接続可能性が広がっていくのがオンラインの利点である。信頼できるプラットフォームから複数の良質な情報にアクセスできることは、高校や大学の学習者たちにとって何より価値があることだ。夢はどんどん広がる。
(早稲田大学教授)
2024年09月25日
『日本近代文学館』館報 No.307 2022.5.15掲載
※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。