用例の平仮名と片仮名
Series19-2
『日本国語大辞典』の「凡例」の「用例文について」の「2.見出しに当たる部分以外の扱い」の〈表記〉の(イ)には「和文は、原則として漢字ひらがな混り文とする。ただし、ローマ字資料や辞書については、かたかなを使う場合がある」と述べられている。
前回採りあげた『重訂本草綱目啓蒙』は、「辞書」にちかい文献にみえなくもない。筆者はなんらかの「編集」が加えられている文献を「辞書体資料」と呼んでいるが、筆者の定義でいえば、『重訂本草綱目啓蒙』は「辞書体資料」ということになる。しかし、言語辞書ではないので、『日本国語大辞典』は「辞書」ではないという判断をしているのだろう。これは「判断」だからそれはそれでいい。そしてその「判断」の結果、「原則」に従って「漢字ひらがな混り文」を使っているということになる。
筆者は『日本国語大辞典』にあげられている使用例を、もともとのテキストによって確認して、「もともとは片仮名書きされていたのだ」と思うことが時々ある。それは『日本国語大辞典』がもともとのテキスト通りに使用例を示していると勝手に思い込んでいたり、上記の「凡例」を忘れていたりするためであるが、とにかくそういうことがある。
現代日本語を文字化するための文字として、一般的には「漢字」と「仮名」とを使う。「ラテン文字」(アルファベット)を使うこともないではないが、それは一般的ではないので、ひとまずは「漢字」と「仮名」とに話題を絞る。その「仮名」の中に「平仮名」と「片仮名」と二種類ある、というのが一般的なとらえかたであろう。「平仮名」と「片仮名」とは字形が異なる。また「あサがオ」のように交用はしない。そのことからすると、機能からいえば、「平仮名」も「片仮名」も表音系文字(音節文字)であるが、文字体系(文字セット)として考えた場合には、別体系(別セット)である。現代日本語を母語としている人の「心性」においても、上記のように交用しないという点だけから考えても「平仮名」と「片仮名」とは別体系であろう。
明治22(1889)年2月11日に公布された「大日本帝国憲法」は「漢字片仮名交じり」で文字化されており、昭和21(1946)年11月3日に公布された「日本国憲法」は「漢字平仮名交じり」で文字化されている。なぜそうなっているか、という問いに対してのもっとも簡明な答えは、それがその時の「デフォルト」(標準的表記体)だったから、ということになる。このことをさらにいえば、日本語の文字化の「デフォルト」としては、ある時期までは「漢字片仮名交じり」であったが、ある時期からそれが「漢字平仮名交じり」になったということだ。これはある程度公性を帯びた表記体が変わったということで、日本語の歴史の中の「一齣」といってよい。
「日本国憲法」が「漢字平仮名交じり」で文字化されていることは多くの人が知っているだろう。その「日本国憲法」が「漢字片仮名交じり」で辞書に使用例として示されていたら、「多くの人」が「あれ?」と思うのではないだろうか。それと同じことが『重訂本草綱目啓蒙』にもいえなくもない。『重訂本草綱目啓蒙』が「漢字片仮名交じり」で文字化されていることを知っている人は、それが「漢字平仮名交じり」で文字化されていると「あれ?」と思うはずだ。いや、それを知っている人は少ないでしょう、と言われるかもしれない。それはそのとおりで、「日本国憲法」が「漢字平仮名交じり」で文字化されていることを知っている人よりも、『重訂本草綱目啓蒙』が「漢字片仮名交じり」で文字化されていることを知っている人は圧倒的に少ないと断言できるだろう。
ここで、「だったら『重訂本草綱目啓蒙』が「漢字平仮名交じり」で掲げられていても問題ないでしょ」の方向にいくか、「「歴史的事実」を重視しましょうよ」の方向にいくか、ということだ。
現在、出版されたり公表されたりするものが、現代日本語に基づくことは当然といえよう。そして「現代日本語」寄りの「かたち」に整えられるということも、当然のことといえよう。しかし、歴史的な「情報」、すなわち「現代」をいくらかでも離れた「情報」については考え方は分かれるのではないだろうか。わかりやすいことを重視して「現代」寄りに整える、例えばいわゆる「歴史的かなづかい」を「現代仮名遣い」に代えるというようなことはこうした「整理」にあたる。それはもちろん大事なことだ。その一方で、「現代」を離れた「情報」はできるだけそのまま保存するという考え方は当然あり得る。未来に伝えるために、そのまま保存するということだ。
『日本国語大辞典』のような辞書は、自然にアーカイブ的な性質を帯びやすい。そこでどうするか、ということになる。もとのテキストが「漢字片仮名交じり」であっても「漢字平仮名交じり」にするというのは、現代日本語のデフォルトがそうであるからであろうが、しかしこの「変換」は、「漢字片仮名交じり」を「漢字平仮名交じり」に代えても「同じ」だという「判断」を前提にしているように思われる。そういう「変換」をしたら違うものになってしまう、ということであれば、また別の「判断」があるのではないだろうか。
歴史的にみれば、「漢字片仮名交じり」と「漢字平仮名交じり」とは「等価」とはいいにくい。後者は使われる「場」が限定されていたようにみえる。つまり、「漢字片仮名交じり」の「片仮名」を「平仮名」に代えることは原理としてはできるが、そういうことができるようになったのは、「漢字平仮名交じり」がデフォルトになってからではないかと考える。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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