時空を超えて
Series17-3
前回は、萩原乙彦『音訓新聞字引』が見出しにしている語には中国の近代語と目される語があるようだ、というところまで述べた。今回はここからであるが、その「中国の近代語」がいわば「曲者」と考えられる。
『日本国語大辞典』が「補注」に伊藤東涯『名物六帖』をあげ、岡島冠山『唐話纂要』をあげ、岡白駒『小説精言』をあげているのは、いわゆる「唐話辞書」的なテキストに言及がありますよ、ということを示しているということだろう。これは筆者の理解なので、そうではないということがあるかもしれないが、とにかくそういう意図があるように思われる。
そのいわんとすることもわかる。「唐話」という用語を使う人もいれば、「白話」という用語を使う人もいる。「唐話」の定義も難しいし、「白話」はまずは中国語の「はなしことば」であろうが、その範囲を超えた意味合いをもたせて使う人もいる。今はそうした定義面については措いて、ここでは「唐話」「白話」を「近代中国語」という呼称でくくっておくことにする。
この「近代中国語」を特別視していないか、というのが筆者の疑問だ。古代中国語と近代中国語はもちろん違う。日本でもその違いはわかっていただろう。だから、近代中国語に興味をもった人が江戸時代に「読本」というジャンルで、その近代中国語を盛んに使った。例えば、「読本」の嚆矢とされている都賀庭鐘『英草紙』が出版された寛延2(1749)年から明治維新の1868年まで119年ある。この100年間で、これまで使っていた「古典中国語」と江戸時代に使われ始めた「近代中国語」が、日本語の語彙体系内に練られたかたちで落ち着き、ほどよくミックスされたということはないのだろうか、と思う。
どのあたりから「ほどよくミックスされた」か、ということをもっとはっきりさせる必要があるが、もしもそう考えてよいのだとすれば、『日本国語大辞典』の「補注」が、「近代中国語」を特別なものととらえる方向から附されていないだろうか、と気になる。もちろん、「補注」は「事実」をそのまま記しているだけだから、「方向」を感じるのは考えすぎだといわれれば、そうかもしれない。
何が言いたいかといえば、一つは、中国語を母語としない日本語母語話者にも「近代中国語が古典中国語と違う、ということが鮮明に感じられた時期」は限定的であったのではないかということだ。例えば中村正直『西国立志編』が「白話」を使っている、という言説があったとする。「白話」と呼ぶことができるような中国語が『西国立志編』において使われているという指摘は「事実」の指摘だからそれについて疑問に思う必要はない。しかし、「白話」をわざわざ使っているというような話になってくると、それは「事実」の指摘を超えているといわざるをえなくなる。
もう一つは、そこで『音訓新聞字引』だ。ここまでに述べたように、『水滸伝』で使われるような語が、当時の新聞で使われていたからこそ、『音訓新聞字引』がそうした語を見出しにしているというのがもっとも自然な推測だ。新聞記者は、「読本」風な記事にしたてようと思っていたわけではないだろう。いや、これも単なる推測だから、そういう記事がなかったとは断言できない。そこで、明治期の新聞記事を洗い直してみませんか、という話になる。
ジャパンナレッジ版の『日本国語大辞典』で、検索範囲を「用例(出典情報)」に設定して、「新聞」で検索をかけると6580件がヒットする。すべてが「新聞」からの例ではないが、かなりの数の使用例が抽出されている。十分かもしれない。それでも、漢語に注目した洗い直しはやってみる価値があると思う。虚心坦懐に新聞を読んでいく。誰がやるんだ? という気もするが、そういう作業によって、『音訓新聞字引』が見出しとして掲げていることの意味合いがわかってくるようにも思う。
今回のシリーズ「時空を超えて」は、実は、勤務先の大学の遠隔授業で学生が提出したレポートを読んでいて考えたことがきっかけとなっている。初めての遠隔授業は、最初は教員も学生もとまどいがあった。しかし、次第に「調子」がつかめてきたと思う。学生にはいろいろなことにチャレンジしてもらった。そのチャレンジの中で、ジャパンナレッジ版の『日本国語大辞典』はいわばフル稼動した。現時点では、学生もジャパンナレッジ版をよく使いこなしている。筆者がここで行なっているような検索はすぐにできるようになっている。そうやって、ジャパンナレッジ版をフル稼動していくといろいろと気付くことがある、ということに気付いた。
そこで最後にもう一つ欲を言わせてもらえば、幾つかの資料をくくったかたちの検索ができるといいなと思った。『音訓新聞字引』は「漢語辞書」の一つであるが、同じ「漢語辞書」といえる『漢語字類』や『布令字弁』などを「漢語辞書」とくくって、検索をする。すると、使用例に「漢語辞書」が含まれている項目がヒットする、ということだ。「漢語辞書」+「中国文献」で検索すると、「漢語辞書」と「中国文献」が使用例としてあげられている項目がヒットするということだ。そんな検索を誰がするのか、ということになりそうであるが、少なくとも大学の授業での使用には有効な検索だろう。検索機能が強化されれば、引き出せる「情報」はさらに幅がでてくる。こういうことも「来たるべき辞書」には期待したい。
▶︎清泉女子大学今野ゼミのみなさんが作ったジャパンナレッジ「日本国語大辞典」の使い方動画「【清泉女子大学】デジタルコンテンツを使った大学での学び」が清泉女子大学の公式youtubeチャンネルで配信中。ぜひご覧ください。
(今野教授から一言)ジャパンナレッジのオンラインコンテンツである『日本国語大辞典』。『大漢和辞典』『日本古典文学全集』などとあわせさまざまな検索をかけながら、この「来たるべき辞書のために」の原稿を書いています。その「スキル」はそのまま大学の授業へとつながっています。学生たちがどのようにオンラインコテンツを使っているかを簡単な動画にしてみました。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は3月2日(水)、佐藤宏さんによる回答編です。
ジャパンナレッジの「日国」の使い方を今野ゼミの学生たちが【動画】で配信中!
“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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