『日国』の用例
Series23-3
前回と前々回において、『日本国語大辞典』第二版が「用例」としてあげている「東京新繁昌記」について述べてきた。ささいな違いをあげつらっているようにみえるかもしれないけれども、そういう意図はまったくないので、念のために一言断っておきたい。
『東京新繁昌記』の場合、明治7(1874)~9(1876)年に出版された整版本6冊がまずある。これがすべてのもととなる「原本文」(テキスト)である。現在であれば、例えば「国立国会図書館デジタルコレクション」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764131/1新しいウィンドウで開く ほか)に画像が公開されていて、誰でもそれを閲覧することができる。つまり、インターネットを使う環境にあれば、誰でも「原本文」に遡ることができる。
そうした環境が整うまでは、自身で「原本文」を購入したり、所蔵している機関に行って閲覧したり、紙焼き写真をつくってもらったりということをしなければ「原本文」に接することはできなかった。そうであったから(といっておくが)、「原本文」を翻字して「翻刻」として出版するということが行なわれていた。現在は、上記のように「原本文」が公開されていることは少なくないが、「原本文」を「よむ」ためには一定のスキルが必要になる。
いわゆる「変体仮名」が使われているならば、それがよめなければいけないし、漢字が行書や草書で書かれているのであれば、それもよめなければいけない。「東京新繁昌記」のように漢文で書かれているテキストであれば、漢文がある程度にしてもよめる必要がある。こうなってくると、「原本文」の画像が公開されていても、それを使うことができる人の数は限られているともいえるだろう。やはり「翻字」の必要性はある。
そしてまた、現時点での「翻字」を考えた場合、それを将来に伝えることを視野に入れて、「来たるべき翻字」を考えた場合、「翻字」したデータが電子的に安定してやりとりできることがきわめて重要になってくる。そしてそこには「判断」が求められる。画像がたやすく公開されるようになると、それをみればいいということになるが、視覚的にとらえた文字をどのような文字と認めるか、という「判断」なくしては、1字たりともよめない、といってもいいかもしれない。
『日本国語大辞典』第二版が「用例」の「底本」についてどのように考えていたか、松井栄一『出逢った日本語・50万語』(2002年、小学館)は「初版のときは、現代の著作物の書誌的な研究がまだ不十分であったため、あまり悩まずに手近な文庫本や叢書本、個人全集などを底本に選んだものが非常に多い。ところが、仕事を進めていくうちに、これらの本は、作者が後に表現を手直ししたものによっているケースの多いことが次第にわかってきた。となると、用例の底本は、せめて最初の単行本にまでさかのぼるべきだと考えられる」(137頁)、「底本の候補として原本・複製本・活字本などがある場合どれを選ぶか、活字本を選んだ場合はあちこちから出版されているもののうちのどれにするかも取り決める必要がある。原本や複製本を使うことができれば最もよいはずだが、簡単には見られないし、慣れないと判読しにくいということもあり、利用者の便を考えると、信頼性の高い活字本を底本に選ぶことも多いのである」(144-145頁)と述べている。
1998年5月29日に国立国語研究所で行なわれた第154回近代語研究会の時だったのではないかと思うが、記憶がさだかではない。この日は「国語辞典を内側から見る」という題目で松井栄一氏が講演を行なっている。講演なので、質問する機会はなかったかもしれないから、この日ではないのかもしれない。とにかく、筆者が用例の底本はせめて初版本にする必要はないのだろうか、というような質問をして、「それはなかなか難しい」という回答を得たということがあった。その時はおそらく納得しなかっただろう。現在は納得しているかといえば、「納得する/納得しない」という「みかた」とは違う「みかた」をしている。
アーカイブを視野に入れるからといって、『日本国語大辞典』のような大型の国語辞書があげる「用例」すべてを原本や複製、そして初出や初版に基づくことはなかなか難しいし、なにより現実的ではないだろう。そうなると、「そうでないテキスト」に依ることもあることになる。「そうでないテキスト」はできるだけ、「原本文にちかいテキスト」がいいことはいうまでもない。しかし、必ずしも「原本文にちかいテキスト」がない場合もあるだろう。そういう場合は、「原本文」はこれであるという「情報」を示す、あるいはリンクをはることが望ましい。
『日本国語大辞典』には、「日国友の会」がある。例えば、そうした「友の会」のような組織のエネルギーによって、『日本国語大辞典』が見出しにしていない語を探すだけではなく、「用例」を「原本文」に突き合わせるという作業もして、徐々に「用例」を整えていくことができないだろうか。そのプロセスは作業にかかわる人のさまざまな「学び」になるだろう。共に学ぶ、「共学」プロジェクトになるかもしれない。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は4月19日(水)、『日本国語大辞典』佐藤宏元編集長による回答編です。
ジャパンナレッジの「日国」の使い方を今野ゼミの学生たちが【動画】で配信中!
“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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