『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために 『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために

写真:五十嵐美弥

シリーズ 26 「漢語をめぐって 」目次

  1. 1. 今野真二:漢語に注目することの意義 2023年09月20日
  2. 2. 今野真二:漢語なのか、漢語風なのか?  2023年10月04日
  3. 3. 今野真二:情報強化で得られる「気づき」とは?  2023年10月18日
  4. 4. 佐藤宏:漢語は「泥沼」か? 2023年11月01日

漢語をめぐって
Series26-3

情報強化で得られる「気づき」とは?

今野真二より

 今回は「アツカイ」という語を取り上げてみよう。

あっかい【圧壊】
〔名〕
圧力を加えてつぶすこと。おしつぶすこと。
*西国立志編〔1870~71〕〈中村正直訳〉一三・一二「雪崩(なだれ)となりて、村落人家をも圧壊するに至るなり」
*自由之理〔1872〕〈中村正直訳〉三「上帝の旨といひ、君主の誥勅といひて、人民独自なるものを圧壊するものは、これを名づけて覇政といふべきなり」

 『大漢和辞典』の「圧」の項目/見出し「圧」に「圧壊」はあげられているが、そこには「ya1 huai4 圧し毀す。おしつぶす」と記されている。『大漢和辞典』は「凡例」の「語彙の解説」において「現代の中国語だけはウェード式発音記号法によつて表はした」と述べているので、「圧壊」は『大漢和辞典』が編集された時点で、「現代の中国語」とみなされた語であることがわかる。ここからもう少し踏み込んでみたい。

 『西国立志編』第13編の12は「習慣ハ始メヲ慎シムベシ」というタイトルで、『日本国語大辞典』があげている箇所を少し長く、『改正西国立志編』(1876年)によって引用する。

 雪花ノ飛ブヲ観ズヤ、片々地ニ点ズル、静カニシテ声ヲ成サズ、然レトモ山上ニ積堆スルトキハ雪崩トナリテ、村落人家ヲモ圧壊スルニ至ルナリ

 筆者は、明治18(1885)年9月に丸善株式会社書店から出版された『Self-Help』の第4版(明治30年5月4日発行)を所持しているので、上に対応しそうな箇所を探すと、「The small events of life, taken singly, may seem exceedingly unimportant, like snow that falls silently, flake by flake; yet accumulated, these snow-flakes form the avalanche. 」(424頁)が該当すると思われる。「avalanche」は「ナダレ」で、「村落人家ヲモ圧壊スルニ至ルナリ」に対応する英語表現は、筆者所持のテキストにはみられない。

 サミュエル・スマイルスの『Self-Help』は中村正直以外の人によっても翻訳されている。例えば、明治45年には、文部省の御用掛となって教科書の編纂なども行なった教育者、山県悌三郎(1859~1940)によって、「新訳」を謳い、タイトルも『自助論』としたテキストが内外出版協会から出版されている。このテキストでは、該当箇所は「人生の小事件は、之を一つ宛取りては、喩へば片々として静に落つる雪と同じく、極めて些細の観あらん。されど其の堆積するや、此の雪片も終に雪崩を成す」(795頁) とある。また、大正5(1916)年に出版された栗原元吉訳『新訳西国立志篇』(東亜堂書房)には「人生の小さな出来事は、一つ一つ手に取つて見れば極めて何でもないものに見えるけれども、静かに降りかゝる雪のやうに一片づゝ積り積ると、之が堆積して遂に大きな雪崩をも生ずるのである」(544頁)とある。山県悌三郎の訳文にも、栗原元吉の訳文にも「村落人家ヲモ圧壊スルニ至ルナリ」に該当する表現がみられない。

 このことからすると、「圧壊」は英語を日本語に翻訳するということを契機に「うまれた」語ではないことになるし、そうした際に使用した辞書が契機になっているのでもないことになる。つまり、「圧壊」は中村正直の「脳内辞書(mental lexicon)」にあった語ということになる。そのことと「現代の中国語」ということをどのように結びつければよいだろうか。

 大きくとらえれば、「①「現代の中国語」すなわち近代中国語を中村正直が自身の使用語彙としていた」「②中村正直が使った「圧壊」が中国語において借用された」のどちらかということになる。①にしても②にしても、証明するための手続きは難しく、かつ手間がかかりそうであり、証明ができれば、一つの論文として価値をもつであろう。

 『日本国語大辞典』が示している「情報」をもとに、さらに一歩踏み込めば、日本語の歴史にかかわる論文が書けるような、つまり日本語の歴史にかかわる「気づき」に至ることができると思われる。そしてそうした「気づき」に至ることをおもしろい、楽しいと思う人がいるのであれば、「気づき」に至る「道」を整備することは「来たるべき辞書」のためにいいことといえるだろう。「漢語みなおし隊」や「漢語整備隊」が『日本国語大辞典』の漢語情報を強化することを願う。

▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は11月1日(水)、『日本国語大辞典 第二版』元編集長佐藤宏さんによる回答編です。

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日本国語大辞典

“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった

筆者プロフィール

今野真二こんの・しんじ

1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。

佐藤 宏さとう・ひろし

1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。

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