「古くは」の意味するところ
Series13-4
『日本国語大辞典』は、語釈冒頭に(古くは「○○」)と注することがあります。見出しに対して、かつては「○○」という語形だったという補注で、大方はその見出しの清濁について言及しており、かつてそれが見出し語形と併用されていた場合は(古くは「○○」とも)と記すことになります。語釈冒頭の(「◯◯」とも)については、以前、この往復書簡でも議論したことがありました。今回はそれが「古くは」と限定された場合の、「古くは」とはいつ頃のことなのかという問題をご提起いただいたということになります。
これがたとえば、「うろこ(鱗)」を古くは「うろくず」あるいは「いろこ」「いろくず」と言ったというような場合は、語釈冒頭で注することはなく、本文中で言及することになります。これは辞典の形式の問題で、語形が清濁の違いだけであれば、五十音順の見出しではすぐ隣か近くに並ぶ場合がほとんどなので、代表見出しでまとめられるという便宜があります。語形が大きく違う場合は、別途見出しを立てて説明することになるので、形式的には語釈の冒頭ではなく、語釈中で言及したり、末尾で言い換えたりします。
それでは、「古くは」とは一体いつ頃のことなのか? 古代の奈良時代のことなのか、平安時代のことなのか。あるいは、中世の鎌倉時代なのか室町時代なのか、はては、近世の江戸時代のことを指すのかという疑問が生じてきます。そういう目で見ると、確かに、「かがやく(輝)」の(古くは「かかやく」)は近世初めごろまでを指しますし、「あえぐ(喘)」の(古くは「あえく」)は院政期、あるいは鎌倉初期までを指しています。これでは、幅がありすぎて、一体いつ頃までを「古くは」で指しているのかということにもなります。
しかし、ご指摘のように、たとえば「あきたる(飽足)」の見出しに対して(古くは「あきだる」)と言った場合、それは、近世中頃までを「古くは」と言ったというよりは、現代日本語では「あきたる」が使われているが、しかるに、かつては「あきだる」と言っていたという意味合いで使われています。『日本国語大辞典』の見出しは基本的には現代日本語の語形で立項されます。もっとも、「あきたる」は清音化してから、近世後期頃に江戸で上一段化して「あきたりる」という形でも用いられるようになり、現在ではむしろこの形で使われることの方が多いかもしれません[1]。
つまり、語形の補注として「古くは」が語釈の冒頭に来た場合、多くは現代日本語から見て「古い」という言わば相対的な意味合いで使われています。大まかには近世以前を指し、それが中世であったり、中古であったり、上代であったりもするというわけです。見出し語形に対して「しかるに、かつては」と注しておいて、具体的にいつまでとたどれるものについては、〈音史〉で裏付けることになります。この部分は、資料収集から記述の方法に至るまで、初版では金田一春彦先生を中心とする発音部会で検討され、特に、秋永一枝先生には初版と二版に亘ってご覧いただいています。濁点が明確に打たれるようになる前の清濁は上代であれば万葉仮名で、平安時代であれば『類聚名義抄』や『色葉字類抄』などの確かな資料で裏付けられるものを取り上げています。
それでは、平安時代の『狭衣物語』の「あかぼし(赤星)」はどうなのかという話になります。ふつう、平安時代の仮名文献に濁点が施されることはないはずなのに、どうして用例には濁点があるのか。もちろん、万葉仮名を見れば上代から濁音があったことは確かなのですから[2]、それが平安時代になって、濁点がないからといって濁音がなくなったわけではない。けれども、書かれた仮名からそれが濁音か清音かを見極めるのは難しい[3]。そこで古辞書などの資料で推測したり、写本や刊本と校合して推定したりするしかなく、それには高度の専門家的な判断が必要とされます。となると信頼できる校訂本によるということになり、『狭衣物語』が、岩波書店の『日本古典文学大系』本に依拠したのは主にそのような理由によります。
もちろん、『日本国語大辞典』が日本語学や日本文学などの専門家の使用に堪えることを大前提としながらも、広く一般の読者にも馴染みやすいものを目指したという方針によるところもあります。とはいえ、本来ならば依拠した本が底本とする典籍にまでさかのぼるのが、出典検討としては筋を通すことになるのですが、それには限られた底本に丁寧にあたれる時間と予算が求められ、いかんせん、決められたスケジュールでは間に合いそうもなかったという理由もないわけではありません。そこでせめて、別冊の「主要出典一覧」[4]、に『日本国語大辞典』が引いた大方の用例の底本を示すことによって、必要に応じて底本の底本には戻れるようにした次第です。
アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』で、最初にAで始まる地名のどこかで名前がAで始まる誰かが殺されて現場にABC時刻表が置いてあり、次にBの地でBが殺されて同じ時刻表が置いてあれば、次はCの地でCで名前が始まる誰かが狙われるかも知れないとは、誰しもが思うところでしょう。同じように、「あかぼし(赤星)」の用例に、神楽歌の万葉仮名で書かれた例、『類聚名義抄』や『色葉字類抄』の清濁が区別されている典拠の例が並べば(以上3例は全て清音)、平安期の『狭衣物語』などの和文例に濁点があっても当然それは原典通りであろうと思われるかもしれません。実際にはここが言わばミッシングリンクであることにはなかなか気がつきません。
クリスティーの有名なこの小説では、一連の殺人事件の最初に容疑者と目された行商人にとって、B事件にはアリバイがありました。そこを突き詰めると、実は思わぬ真犯人が被害者の関係者にいたという話になるのですが、ポアロよろしく日本語文献の基礎知識がある人にとっては、「平安期の和文に濁点?」と気づき、『日本国語大辞典』が依拠した本をさらにさかのぼってその底本にあたることにもなるでしょう。そこで、日本語表記の歴史に突き当たるということになります。しかし、そうであればなおさらのこと、先生が提案されるように、『日本国語大辞典』の使い方、用例の読み方をわかりやすく記したマニュアルのようなものを一般の読者向けにも用意すべきなのかもしれません。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は7月7日(水)、今野教授の担当です。シリーズ14がスタートします。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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