高村光太郎記念会 北川太一
夢の様な時代が来たと思う。日々慌ただしい世情のなかで、新しくDVDになった『美術新報』を目の前にして、これだけはそう思う。
昭和31年に亡くなった高村光太郎の最初の全集を作った時には、複写機すら手許になかった。人々の力を借りて資料の所在を訪ね求め、ひとつひとつ筆写して原稿を作った。繰り返し繰り返しての照合や修正、いま思えば気の遠くなるような時間と労力の連続だった。ついこの間まで一本一本活字を拾っていた印刷の工程を思う。僅かな修正さえどんな面倒な作業を必要としたか。
だがいまさらこの小さなDVDの、巨大な容量や、機能について驚いていてもしかたがない。かんじんなのはそこに充填された内容の質と、利用のために設定されたその仕組みだ。
先頃、太平洋画会の明治期の変遷をたどる機会があって、丹念にこの雑誌の誌面に目をさらし、美術界の公器としての幅広い中正な目配りや、内容の信頼性、重要度によっては重複、改定も厭わぬ論評、報道の誠実さに心を打たれた。いままでも家蔵の大部な原誌を、ことあるごとにいくたび繰ったことか。そのたびにいつも貴重ないとぐちの発見があって、労は報いられる。ほとんど無限といってもいいその情報量は美術に関心を持つ誰もの、かけがえのない宝だ。
しかし近代の美術に関する資料の整備は、文学に比べて遅れていたように思う。『美術新報』でさえ、広告まで含む善本を集め、散逸しやすい付録を補って整備した努力は想像を超える。最初の復刻版を完成するまでの編者や書店の払った苦心に感謝しないわけにはいかない。ことに別巻として索引を含む総目録が添えられたことはその利用価値を格段に高めた。しかし書冊の形をとる索引には限度がある。記事の内容には及ばず、彙報記事は対象から除かれる。
しかし今度は格段に違う。まず画像で収録され、たちどころに思うがままのページの記事や図版を呼び出し得る機能は、扱いにくく大部の原誌を積み上げ、1ページずつめくり、必要な記事を探索する重労働から利用者を解放する。仕事は狭い机上で容易に足りる。プリントアウトは電話をかけながらの片手間でも済む。研究者にとって、これは強力自在な孫悟空の如意棒に近い。
しかも索引機構の充実はどうだ。先の復刻版からその企画に深く関与し、今度の索引項目編纂にあたった中島理壽さんのお仕事を早くから知っている。利用者はDVDの機能を信頼するのではない。そこにどんな信頼すべき内容が構成されているかを判断する。美術に関する雑誌はもちろん、展覧会のカタログ、片々たるパンフレットにいたるまで、およそ資料のありそうな場所に丹念に足を運び、所在をたしかめ、記録し、整理して、資料によって日本の近代美術史研究の基礎を固めたのは、中島さんの大きな仕事だ。このDVD版『美術新報』への信頼は編者への信頼に外ならない。美術資料を見通す広く深い視野、その理解、把握の確かさ、事の軽重をみわける調和感覚。縁の下の力もちの果てしない努力がこの仕事全体を支える。ことに彙報、時報、消息類の索引の殆ど完璧といっていい充実には驚く。
「高村光太郎」を引けば、たちまち62の項目の一覧表が画面に現れる。表題のみならず文中の光太郎まで拾い上げられ、見慣れているその名前さえ新たな相貌をもってたちあらわれる。例えば大正2年6月3日発行の第12巻第8号32頁3段の彙報で拾われる朱泥会の記事細目は「北川蝠亭/与謝野寛夫妻/森鷗外/角田浩々歌客/宇田川文海/淡島寒月/高村光太郎」を指示し、その篆刻頒布会によってさらに展開する交遊図を暗示する。三世蝠亭は北川英美子の女性名で『明星』に短歌をおくった、大阪に住む、かつての琅玕洞の陶印作者だ。パリから帰って光太郎が企てた日本で最初の画廊琅玕洞の名は、今ではよく知られている。しかし一年後に画家大槻弐(つぐ)雄に委譲され、そこで岸田劉生の最初の個展が催され、田村とし子の「あねさま」や長沼智恵子の沢山の「団扇絵」が陳列された、その後の琅玕洞の消息は美術史の表面にはほとんど取り上げられない。検索はただちに大正八年に及ぶ45件の項目を表示して、その探求の方向を与える。
一途に思う者は誰でも、ほんの小さな一語のいとぐちからさえ、おもいがけない展望が開ける可能性を知っている。研究者は整理され響き合うこの膨大な資料群に立ち向かって、新たなかぎりない情熱をかきたてられるに違いない。
早稲田大学教授 中島国彦
日本の近代文学の勉強を始めてから、時折文芸雑誌を継続的に繰っていく経験をすることがある。有名な作品を実際の誌面で確かめるのもうれしいが、それ以上に雑誌の片隅に記されている消息や記事を一つ一つ確認していくことも、貴重な体験であった。文学と美術とのつながりに注意しながら研究を進めるようになってから、『ホトトギス』『明星』『白樺』などを、1冊1冊開いていくことがどんなに大切かがわかった。口絵や図版にも、眼が離せない。どの1冊からも、時代の息吹きを読み取ることが出来る。
しばらくして、『美術新報』も視野に入ってきた。明治30年代半ばから大正にかけて、なにか美術とのかかわりで調べたいことがあると、図書館の書庫でこの雑誌を開けることが多くなった。明治から大正は『美術新報』、大正から昭和は『中央美術』―まず、そうこころがけた。しかし、わたくしの大学の図書館の『美術新報』には、かなりの欠号があった。ちょうど調べたいところが無かったりすると、ひどくがっかりする。書籍の復刻版が出た時の嬉しさは、だからひとしおだった。美術作品の図版がないかと探す時、復刻版の『総目録』のお世話になることが度重なった。『美術新報』復刻版がなければ書けなかった論文は、いくつもある。
そして、今度はDVD版である。その便利さは、実際に使った者でなければわからないだろう。たとえば、永井荷風の小品『浮世絵の夢』(明治44・6『三田文学』)を読むとする。大正期に高まる荷風の浮世絵熱の、最初のあらわれである。はしがきに、「明治四十四年四月中帝室博物館内に陳列されたる名画を見て書いたものである」とあるので、メインメニューの「巻号を選択して見る」〔注:オンライン版では「巻号を指定」もしくは「本棚」で任意の巻号に移動できます〕で、その年月近辺を一号一号探してみよう。10巻7号(明治44・5)の展覧会記事や「洋画家の浮世絵観」(久米桂一郎、藤島武二、長原孝太郎)も読める。この展覧会が、「徳川時代婦人風俗に関する絵画及服飾器具類」の特別展覧会であったことが、主要出品作と一緒にわかる。荷風の見方と洋画家の見方とを比較することも、出来るわけだ。荷風はその一篇「歌麿の女」で、歌麿の描く女の情感を見事に言葉にしている。『美術新報』のその号には、『男女』という歌麿の図版も見られるのである。拡大機能を使って、その図版を大きくしてみる。全ページ画面ではややぼけたように見えるものでも、拡大するとはっきりと細部まで観察することが出来る。
ここで視点を変えて、「歌麿」と入れて検索してみたい。83の項目のリストが、たちどころに年代順に画面に表示される。面白いことに、そのうち明治時代は、わずか12件なのである。この号の前は8巻13号(明治42・9)で、次は11巻6号(明治45・4)である。ということは、一年に一篇も記事が無いわけであり、明治末での歌麿の扱われ方が理解出来よう。それだけ、荷風の言及が際立つわけだ。『美術新報』誌上で歌麿が多く言及されるのは、大正4年の橋口五葉の文章からである。そういえば、竹久夢二がこの展覧会に何度か出かけて、「歌麿と長信がよし」と記していたことが、日記に見えていた。「竹久夢二」の項目は、12件。明治期は、わずか2件しかない。改めて、その位置が理解されよう。
この博物館の特別展の目玉の一つは、原六郎蔵の狩野長信『花下遊宴図屏風』だった。雑誌面から、それが理解出来る。しかし、『浮世絵の夢』を読むと、荷風は、それには見向きもしなかったようだ。この屏風作品を検索すれば、10巻12号(明治44・10)に図版二面があることが、すぐさまわかる。項目はそれだけだから、あまり出品されなかったものなのであろうか。荷風の小品から始まったわたくしの楽しい飛躍は、まだまだ続く。それを可能にしてくれるのが、おびただしい数の、このDVDのデータなのである。
明治から大正にかけての多くの人名が、きちんと整備されているのは、本当に圧巻である。かつて、筑摩書房版『明治文学全集』の別巻『総索引』を手作業で編集する一員となったことがあったが、やはり人名の整理には一苦労があった。このDVDは、それを見事にクリアーしている。講談社版『日本近代文学大事典』が出た時、担当した項目の一つに「山中古洞」があった。『挿絵節用』は手に入れたが、没年がわからない。今でもわからないままである。なつかしいこの画家の名を検索すると、四十件の項目がある。活躍の時期と『美術新報』の刊行時期が重なるからであるが、そこから彼の参加していた烏合会の動きも、手に取るように見える。昭和まで生きた山中古洞だが、もし『美術新報』がそのころまで出ていたのなら、追悼記事も誌面に掲げられていたはずで、すぐさま引けただろうに、と思わずにはいられない。
筑波大学教授 五十殿利治
今日、インターネットやコンピュータを利用しない美術史の研究は考えられなくなっているようにみえる。美術館収蔵作品の画像から研究文献のデータベースまで、インターネットの利用範囲はますます広がっている。なるほど作品調査をはじめ美術史学の方法論の基本は大きく揺るがないにせよ、たとえば、この学問を支えてきたといえるスライドはいまやデジタルカメラの普及を前に風前の灯火という感が拭えない。美術史学会でも、またたく間に、液晶プロジェクターによる発表が優勢になっている。
このたびのDVD版『美術新報』はまさにこうした時代の趨勢に即したものといえる。
実際に使用してみたところ、利用者にとって、書籍版『美術新報』と比較して格段に優れた利便性があると感じた。同一の情報を入手するのであれば、DVD版の速度はまさに快適である。書籍版は判型が大きく、一度にいくつもの冊子を机に拡げることはなかなか難しい。ところが、DVD版ならば、画面上で異なる号のページをいくつものウィンドウにたやすく展開することができる。しかも、求めている記事のプリントアウトをクリックひとつで手にすることが可能だ。
今回のDVD版でとりわけ歓迎したいのは、逐号目録や図版目録に加えて、彙報記事が検索対象に加えられたことである。主な美術雑誌には必ず消息欄があり、人物の動静、個展やグループ展の開催期日や場所、受賞等が雑然と記載されているのであるが、しかし、美術界の生きた様相を浮彫にする情報が詰め込まれているともいえる。ところが、この彙報欄を系統的に分析することは個人の手にはあまる作業である。人名ひとつをとっても、そこに登場するのは、巨匠から画学生まで、あまりにも雑多である。個人で、限られた数の美術家の名前を忍耐強くいちいちチェックすることなど、1年間なら1年間と期間を限定でもしないかぎり、初めからできない相談だろう。
ためしに三会堂を検索してみた。1913(大正2)年には白馬会展が開かれ、白樺派や草土社の会場ともなった明治末から大正初期の重要な展覧会場である。検索結果では32件の関連記事がみつかった。当時の三会堂は1904(明治37)年に新築された木造建築であり、関東大震災で焼失した。『美術新報』で最初にとりあげられたのは、1908(明治41)年末、美術同志倶楽部が春季皇霊祭の当日「先輩追弔会」を開催し、西洋音楽を演奏して、先輩の遺作と肖像を列べる予定という記事であり、最後は1919(大正8)年の草土社展の開催案内である。最初の記事はこれまで知らなかった。赤坂溜池1-2番地の三会堂のすぐそば、同3番地には白馬会溜池研究所があったが、それはもともと合田清の生巧館の位置した場所である。つまり、洋画の先達に捧げる「先輩追弔会」には相応しい場所のひとつであった。また、岸田劉生や木村荘八が通ったのも同じ白馬会研究所であり、その行き帰りに立ち寄った三会堂が草土社の会場となることになった。こうした時間的空間的な連関を浮かびあがらせることが彙報記事検索の妙味といえる。
関連情報の収集という点では文学研究がはるか先を行っている。読売新聞や時事新報の文芸欄を地道に整理したのは文学研究者たちである。DVD版『美術新報』によって、美術史も遅ればせとはいいながら、美術活動をより広範な社会史的な、そして学際的なフレームのなかで位置づけるツールを得たといえる。