日本近代文学館副理事長 十川信介
滝田樗陰は伝説どおり凄腕の編集者だった。このたび日本近代文学館に寄贈された旧蔵の原稿類を見て、まず驚いたのは彼が時には題名を変え、その指示には内容の改変にまで及んでいたらしいことだ。もちろん現在でも、作者とともに悩み、作品を完成に導く編集者がいないわけではない。だが彼の場合は、自分が作者に成りかわって推敲を重ね、決断した気味がある。杉森久英によると、彼は愛憎の念が激しい人だったそうだが、「中央公論」編集長の情熱には、彼に育てられた作家達はひとしく感激を味わったにちがいない。
たとえば志賀直哉を激怒させたことで知られる、里見弴「善心悪心」(大正5)は、「善意悪意」を朱で改められ、室生犀星「性に眼覚める頃」(大正8)は、当初の「発生時代」を貼り紙で直してある(犀星「私の履歴書」参照)。樗陰は作品の題は読者にアッピールすべきだと考えていたが、たしかに改訂後の方が作意を端的に表わし、訴える力も強い。
これに対して、彼の目利きから洩れた作家として稲垣足穂を挙げておきたい。足穂の回想では、「小さなソフィスト」なる原稿を樗陰に送ったが未掲載。次いで「Taruho et La Lune」を佐藤春夫に送ったところ賞賛されたという。それと同名の原稿が今度の寄贈の中にある。そこには、春夫の序文つきで刊行された『一千一秒物語』(大正12)と同題・同内容(ただし字句の修正多数)の小話が十数編含まれており、書体も樗陰宛書簡(原稿掲載催促の詫び状)と酷似するので、足穂の自筆原稿と見てよいだろう。これから推測すれば、この原稿は春夫が推薦して樗陰に渡ったものの、そのまま放置され、やがて大量の追加作を生んで、『一千一秒物語』を形成する核となったのではなかろうか。
いずれにせよ樗陰旧蔵の原稿類は、活字テクストが編集者との共同作業として生成していく様相をなまなましく伝えている。作品研究のみならず、出版文化の状態を考えるうえでも、貴重な文献の出現である。