[平凡社刊「字通」より]
本書は、〔字統〕〔字訓〕につづいて、一般辞書としての編集を試みた。〔字統〕は字源、その字形学的な研究、〔字訓〕は漢字を国字化する過程についての問題をとり扱ったものであるが、本書では、それらの問題をも含みながら、字の用義法を中心として、辞書的な編集を試みることを趣旨とする。字の用義法は、主として二字の連語(連文ともいう。熟語)によって示されるものであるから、所収の語彙もその範囲のものにとどめ、ひろく名詞・名物、また語句の類に及ぶことを避けた。漢字の本来の字義と、その用義法を通じて示される字義の展開を明らかにすることを、主とするものである。それで書名にも「辞書」の「辞」を用いず、「字通」と名づけた。通とは体系、文字の形・声・義を、それぞれの体系においてとらえることを目的とするという意味である。この書は、文字に組織を与え、体系を与えることを目的としている。そのことが、漢字を理解し、使用する上に、基本的に必要な、基礎的なことと考えるからである。
文字に組織を与えるとともに、その用義例を通じて、中国の文献が、かつてわが国で占めていた古典の教養としての意味を回復し、そのような表現に親しむ機会を提供するということも、私の意図するところであった。中国の文献は、かつては訓読法によって、そのままわが国の人々にもよまれ、その教養の一部をなしていた。それは今日においても、古典として、他に匹敵するものをみないゆたかな世界であり、しかもそれは久しくわが国の文化の中に生きつづけ、今もその生命を保ちつづけているものである。漢文の教育が廃止されて久しいが、わが国が東洋の文化に回帰することの必要性は、おそらく今後次第に自覚されてくるのではないかと思う。そのためにも、古典への教養のみちは、つねに用意しておかなくてはならない。
この書では、文字の用義例として、かつて国民的な教養の書として親しまれていた文献や詩文からその例を求め、それを読み下し文で掲げることにした。表現が完結性をもち、文意や事実の関係が理解されるのでなければ、用例として掲げる意味のないことであるから、その意味で完全主義をとることにした。そこに一つの知識としての、具体的な事実や表現を求めうるものであることを意図した。
辞書の全体を、組織的に、体系あるものとして編集すること、そのために文字の形・声・義にわたる系列的な記述を加えること、またその用語例を通じて、中国の古典を、ひろく一般の教養として回復すること、この二点が、本書を編集するにあたって、私が意図し、特に留意を加えたところである。
明治以後のいわゆる漢和辞典は、おおむね定まった編集法によっている。まず字説としては、〔康熙字典〕の部首法により、部中の字を筆画によって排次し、漢・唐・宋の字書類によって訓義を加える。〔康熙字典〕は語彙を加えないが、これに語彙を加える編集法は、西洋の辞書の編集法をとり入れたもので、その方法は、中国でよりも、わが国でまず行われたようである。
今の漢和辞典の形式を創始したものは、おそらく三省堂の〔漢和大字典〕であろう。貴族院議員文学博士重野安繹、東宮侍講文学博士三島毅、北京大学堂教習文学博士服部宇之吉三者の監修に成り、貴族院議長学習院長公爵近衛篤麿および重野安繹が序を加え、近衛の序は日下部鳴鶴の書に成る。書名の題字には、北京大学堂総教習呉汝綸を煩わしている。重野・服部両博士が、実際に監修の任に当たった。その例言数条を録しておく。
一、 | 本書は泰西辭書中、最もしたるものの體裁に則りて、字を、易に且つ秩序正しく訓釋したるものとす。 |
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一、 | 字の排列の順序は殆んど康煕字典に據り、甚しき廢字の外は、すべて之を收め、力めて字のなからんことをせり。 |
一、 | 字に、其の下に、先づを記し、にを記し~切(反切)之にぎ、之にぐ。の四聲は、□の隅に小圈を附して、之をかてり。 |
一、 | 其の字のする異義に從ひ、項をかちて訓釋する場合には、原義をにし轉義を後にし、の順に之を排列せり。 |
一、 | 熟語・語はく書より之を抄し、すべて其の語末にあたれる字の後にせり。 |
最後の項は、語彙は下接語によるとするものである。〔佩文韻府〕の語彙は下接語によって収録しているので、それを利用するための便宜によるものであろうが、正法としがたい。本文の目次、索引、国訓国字表など、辞書として用意のわるもので、のちの辞書はほとんどこの形式を踏襲している。ただ字源の解釈がなく、そのため「原義をにし轉義を後にする」という原則は、必ずしも厳密には行われていない。たとえば「寡」は、未亡人が中に哀告する形で、金文にも「鰥寡」の語で初見、未亡人を原義とする字であるが、この書では
(1) | 多からず、すくなし |
---|---|
(2) | 勢力少きもの 立のもの 劣等の地位に立つ 少人數の |
(3) | 五十にて夫無き女 老いて夫無き女、夫に死に別れたる嫁 やもめ ごけ~ |
(4) | 少しとの義より、王侯の己れの~ |
(5) | 減らす 少くす |
の順に訓義を列する。また「」は文身の象であるが、その十四訓義のうちにその義を列することがない。字の形義を扱う項目がなく、その初形初義を説くことなくして訓義を次第することは、もとより困難なことである。しかし本書はその用意のわることからいえば、近衛の序に「泰西辭書中最もしたるものの體裁に則り」「匠斬新、完整無比、洵まことに斯學の津梁たり」というのも、決して誇称ではない。「此の書一たび出で、彼此の形、相融し、以て唇齒の誼を金かたくせば、東洋の治安の策に補ふことらんか」とは、近衛の一家言であるかも知れないが、編集者にもそのような気概は存していたであろうと思う。
この書は明治三十六年(一九〇三年)二月の出版であるが、中国では数年後〔辞源〕が出版された。おそらくこの書の出版が、その機運を促したのであろうと思われる。
中国における辞書の刊行は、〔辞源〕にはじまる。洋務運動の広まるにつれて、情報の交換も盛んとなり、海外文献の紹介なども急激に増加して、辞書の刊行を待望する声が強まってきていたが、わが国の〔漢和大字典〕の刊行は、それに強い刺激を与えたことと思われる。〔辞源〕は民国四年(大正四年、一九一五年)に出版されたが、その序に「癸卯・甲辰(明治三十六、七年)の際」、急にその議が起こって、同志五、六人、のちには数十人が、十余万巻の書を渉猟し、八年を経て、はじめてその功を終えたという。
編集の方法はほとんど〔漢和大字典〕と異なるところはないが、語彙はひろく翻訳語、科学用語などにも及び、明らかに百科辞書の用を兼ねようとするものであった。のち民国二十年、続編を刊行、附録に、正編末の「世界大事表」につづいて、「民国紀元以来世界大事表」のほか「行政区域表」「全国商埠表」「全国鉄路表」「化学元素表」「中外度量衡幣表」などを加える。のちまた正続の合訂本が出ている。
中国最初の辞書であった〔辞源〕は、のち修訂版が作られ、一九七九年第一巻刊、四巻より成る。一九七六年より改修に着手、「馬列(マルクス・レーニン)主義、毛沢東思想の立場・観点・方法を指導方針として」改訂したという。かなりの増補が加えられていて、中辞典というほどの分量のものである。
〔辞海〕は〔辞源〕の初版本が出た民国四年に編集企画が出され、十六年にいちおう完稿したが、「原稿中、已に死するの辭太はなはだ多く、行の新辭太だ少なきを覺え」、方針を変更して「刪新」の方針を定め、先後従事する者百数十名、一九四七年(昭和二十二年)に刊行、全書の条数十万以上、総字数約七、八百万、新造の活字は一万六千個に及んだが、なお不十分であったという。戯曲・小説など、白話系の語彙が甚だ多く、わが国でいえば、〔辞源〕が古語辞典であるのに対して、〔辞海〕は古語・近世語辞典という趣がある。編印者である陸費逵氏は、その「編印縁起」の末に「天如もし我に假するに年を以てせば、吾當まさに其の餘を賈かひ、再び一二十年のを以て、一部百條の大辭書を經營すべし」と述べている。そのころわが国では、すでに諸橋轍次博士による〔大漢和辞典〕が組版を完了していたが、組版はことごとく戦禍に失われていた。
〔大漢和辞典〕の構想は、著者の自序によると、大正末年の頃よりはじまり、その準に着手、昭和十八年に第一巻を発行、続刊の予定であったが、戦禍で一切の資料が失われた。ただ全巻一万五千頁分の校正刷三部が残されていたので、再び残稿の整理に入り、昭和三十四年(一九五九年)文化の日に第一巻を刊行、爾来四年の歳月を要して、本文十二巻、索引一巻を刊了した。収録字数四万八千八百九十九、語彙約五十万、語彙ははじめに採録した約百五十万より厳選したものであるという。戦禍の災厄もあり、著者も視力を喪うなどまことに苦難の多いことであったが、国家的な大事業としてその完成が祝福された。昭和六十一年にはその修訂版も出され、昭和の大出版として書史にも残る壮挙であった。地名・人名のほか現代白話、官用語なども多く収められている。
〔大漢和辞典〕が刊行された数年後、民国五十一年(昭和三十七年、一九六二年)、台湾でこれとほぼ同規模の〔中文大辞典〕三十六冊が刊行された。収録の字数四万九千八百八十八、語彙も各字条に番号を附して録しており、その数も〔大漢和辞典〕とほぼ相等しい。各字条に卜文・金文以下、明・清の書に至るまで、各体の字様を録入している。
近年に至って、中国では、二部の注目すべき辞書の出版が行われた。その一つは四川で出版された〔漢語大字典〕八冊で、一九八六年刊行を開始、一九九〇年に刊了した。文字の形・音・義の解釈を主とする字書で、徐中舒氏の主編、三百余名が十年を要して編集したもので、単字五万六千、収録の字数は〔康熙字典〕よりも遥かに多い。字形については卜文・金文のほか、侯馬盟書や睡虎地竹簡など新出の文字資料にも及び、篆・隷・漢碑、璽文の類をも網羅している。これよりさき、一九八〇年に刊行された〔漢語古文字字形表〕は、この書に録入する資料として用意されたものであろう。単字の字書として、これだけの規模のものでありながら、字形・字源についてはただ〔説文〕を徴引するのみで、近年の卜文・金文の研究に及んでいないことが惜しまれる。〔字形表〕にも字形についての考説や記述はない。
一九八六年十一月に第一巻を発行した〔漢語大詞典〕は、上海を中心とする華東諸大学の四百余人の協力によって編集、一九七五年以来十二年を経て完稿、全十二巻、別に附録・索引一巻、詞目三十七万条、五千余万字、僻字・死字を収めず、専門語は一般語としても通用するものに限って採録する。「釈義確切」「文字簡」、語例に踏襲少なく、典拠確実、校正もかなり厳密に行われている。解説部分には現行の簡体字を用いるが、徴引の文はすべて旧字による。「大辞典」としては、わが国の〔大漢和辞典〕、台湾の〔中文大辞典〕とともに、それぞれの出版文化を代表するものであり、特に後出のこの〔大詞典〕は、用意の最もわるものというこができる。
わが国の一冊本の常用辞典としては、大正五年(一九一六年)、服部宇之吉・小柳司気太両博士監修の〔詳解漢和大字典〕、大正十二年(一九二三年)、簡野道明博士の〔字源〕などがあり、のち改修・増補の書が相次ぎ、近年は角川書店の〔大字源〕、大修館の〔大漢語林〕など、一冊本で中辞典に相当するほどの内容をもつ書が出ている。検索用の辞書としては、十分世用に供しうるもので、あらためてこの種の辞書を編集する必要は、ほとんどないといってよい。そのような状況の中で、本書の編集を試みるのは、さきにもしるしたように、漢字を一つの文化、文化科学的対象として、そのありかたを組織的に整理し、体系として考察するということを、今日的な課題として、重要な目的の一つと考えるからである。
漢字に字形学的な解説を加えるときには、従来は〔説文解字〕によって説くことが普通であり、まれに編者の意見が加えられるときにも、字形学的体系の上に立つものは、ほとんどなかった。文字が成立した当時の初形を示す卜文・金文の資料の出土によって、説文学は基本的に改訂を必要としている。それで私は〔説文新義〕を書いて説文学の批判を試み、のち〔字統〕にその概要をしるした。「説文学」は、資料的にも方法的にも、ここに新しい体系を獲得することができたと確信している。
字の初形初義が明らかとなって、はじめて字義の展開を考えることができる。字義の展開は、いちおう歴史的なものであるから、文献の使用例によって追跡しうるが、ときにはその事例を欠くために、論理的に補充する必要のあることもある。たとえば「眞(真)」は倒のの従うところであり、もと死者の象であるが、その強烈な呪霊によって、真誠・真実在の意にまで昇華する。ただその昇華の過程は、訓詁の上では実証を欠くところがあり、一種の思弁的過程を経ているものと考えなければならない。また「(雅)」はからすの意であるが、それが雅正・風雅の意となるのは、おそらく通仮によるもので、その通仮の対象が「夏」であったというようなことは、訓詁的な論証を必要とする。このような演繹と通仮とによって、字義は複雑な展開をする。しかしこのような問題も、まず確かな起点を設定することからはじめるのでなければならない。そしてその声系・語系を明らかにすることによって、はじめて字義の展開を明らかにすることができる。そこにはときに、字義を通じての思惟過程の問題、精神史的な課題を含むことがある。
字義の展開には、訓詁の歴史をたどることが望ましい。それぞれの時期における辞書の訓義は、いわば最大公約数のようなもので、具体的な記述に即するものでなく、その点ではたとえば〔経籍詁〕のような資料を活用することが望ましい。それで本書の初稿にはその項目を用意し、採録排次を試みたが、分量の問題もあるので割愛した。辞書としての体系は、いちおう字形の解説、訓義の展開、また声系・語系を通じて、形・声・義の関係を明らかにすることによって、その大略を組織することができると思うからである。
漢字は、わが国でははじめから国字として用いられた。伝来された漢籍も、わが国で学習される時期には、訓読的な方法が用いられたであろう。新羅で行われていた「郷歌」の形式のように、漢語を交えた語法があったとすれば、その方法を訓読に適用することは、それほど困難であったとは思われない。それはたとえば、古代の朝鮮において、「鸚鵡能言(鸚鵡能く言ものいふ)」を、イディオムとしてそのまま音読するというような方法が、わが国にはその痕跡をも残していないということからも考えられる。複合の名詞も動詞の類もすべて訓読する〔日本書紀〕の文章は、はじめから訓読すべきものとして書かれており、後になって訓点を加えたという性質のものではない。
漢字が国語表記の方法として用いられた初期の状況は、特に重要な問題を含むものであるから、私は別に〔字訓〕にそのことをまとめておいた。それで本書では、内外典の典籍の訓読を通じて、字訓がどのように加えられてきたかを、いくらか歴史的にたどることを試みた。
わが国の字書は〔篆隷万象名義〕にはじまり、和訓を加えたものは〔和名類聚抄〕以来、〔字鏡〕〔音訓立〕、最もまとまったものでは〔類聚名義抄〕に代表される、一般に「和玉わごくへん」とよばれる仮名訓注本に至って完成する。和訓は文語としての訓であるから、文語の完成期までの資料を第一資料として、記録しておくのがよいと思われる。
わが国の字書の歴史は、そのような和訓の資料としての意味のほかにも、わが国における漢字文化の一環としての歴史的な意味をも担うものであるから、これらの書に簡単な解説を加えておきたい。
わが国の最も古い字書に、弘法大師のと伝える〔篆隷万象名義〕三十巻がある。京都の高山寺にその古写本を蔵し、国宝とされている。この書は〔玉〕三十巻の部立と次により、その反切・訓義を抄録したもので、各字上欄に篆字を加え、本文掲出字の隷字(今の楷字)と対照するものであるから、〔篆隷万象名義〕という。篆隷を併せ掲げることは唐の当時にもあり、また〔名義〕は「翻訳名義」の意で、多く仏典関係の字書名に用いた。しかしこの書は仏典とは関係なく、一般字書として作られている。いわば〔玉〕の節略本であるが、この書に篆体を加えているところに、大師の創意があったかとみられる。その篆体の字は、神田喜一郎博士の指摘にもあるように、古い〔説文〕系写本にみられる懸針体で、字形はやや狭長、懸垂の末筆は細く長くかかれている。大師在唐のときの篆体は、李陽冰のいわゆる玉体、今の篆刻印判のような字様であるから、懸針体の篆字を加えることには、特別の主張があったものとみなければならない。本文にもいくらか〔説文〕による説解が加えられている。ただ高山寺本の大部分に篆体を省略しているのは、字形学的あるいは書法的な問題の意識が、のちの人に失われていったからであろう。〔説文〕のような字形への理解は、篆字形がなくては不可能なことであった。
〔篆隷万象名義〕は、篆隷を併せ掲げることによって、字形学的な理解を加え、また「万象」にわたる字書として、「名義」類の仏典翻訳書の性格を脱し、一般字書としての方向をとろうとしたものであった。ただその訓は、たとえば「(神)」字条に、〔玉〕には〔説文〕〔書〕〔易、王弼注〕を引き、最後に「爾に云ふ、は重なり、治なり、愼なり。廣に云ふ、は弘なり」とあるうち、治・愼・重・弘の訓のみをとる。また「」には「大なり・なり」とあるが、「なり」は〔説文〕によって加えた訓である。このような〔玉〕と本書との間にある異同については、周祖氏の〔問学集〕に詳細な論述がある。字形に〔説文〕の篆体をとり、訓義に多く〔玉〕をとるという本書の方法は、字書としては、六朝以後〔切韻〕系の韻書が盛行し、字形・訓義の書が衰微してゆく傾向の中にあって、一種の見識を存するものであったということができよう。
〔篆隷万象名義〕より六十年ほどのち、昌泰(八九八―九〇一)のころに、昌住の〔新字鏡〕が作られた。〔玉〕は〔説文〕を増益して、所収の字は一万六千九百十七字に及んでいるが、〔新字鏡〕は所収約二万九百四十字、これを「天・日・・・雨・气・風・火」「人・・親、身・頁・面・目・口〜」のように、部門別に部首字を列する配列法をとる。〔爾雅〕の「釋天」「釋地」のような部立に似ており、後の類書の形式に近い。そして天・日・をそれぞれの部首とする字を録しているので、〔説文〕の部首法を、類書の分類法に分属する形式をとる。それでたとえば天部に、天・昊・・替・蚕などを録し、また九天の名を列するが、〔説文〕には天の部がなく、昊以下はみな他部の字、九天の名をあげるのは、類書の形式である。またの次にを列するのは形によるもので、は天の部門に入るものでない。類書の部門と字書の部首法とは、分類の方法が異なり、そのため天部のように部首の属に混乱が多く、ことに部首を立てがたいものが多くて、それらはすべて「雜」に収め、その字数は六百五十三字に及ぶ。部首の混乱と非部首字が多くて、この書は検索の極めて困難なものとなっている。また所部の字の多いものは四声別の配列により、〔切韻〕系字書のなごりをとどめている。文字にも古体・異体の字が多く、おそらく依拠するところがあったのであろう。〔新字鏡〕のような編集法が、昌住の創始したものであったのかどうかは、明らかでない。書名に「新」と冠することからいえば、先行の書に「字鏡」という題号の字書があったのであろう。
〔新字鏡〕の訓注は、著者が漢字学習の困難を嘆き、〔一切経音義〕のような訓注を字書として編集したいと考えて、諸書を渉猟して訓注を集めたものであるらしく、それに多く和訓を加えている。その形式は次のようなものである。
或作、於計・邑計二反、去、陰而風曰、亦翳也、言、奄翳日光、不也、无光也、太奈久(毛)礼利、、久留、、久毛利天加世不久
字の異体・別体につづいて、反切・四声・訓釈、そして万葉仮名による和訓を加える。万葉仮名による和訓は約三千七百条、多く古訓を存するため、その部分を節録した享和本や群書類従本の類がひろく行われたが、原本は一般にはかなり扱いにくいものとして、敬遠されていたようである。
字条の注は、「或いはに作る」は〔一切経音義、十〕、「陰りて風ふくをと曰ふ」は〔爾雅、釈天〕、「翳なり。言ふこころは、雲氣日光を掩翳して、らかならざらしむるなり」は〔釈名、釈天〕の文によって「雲氣」の二字を脱し、「光无きなり」は、あるいは編者が加えた訓であろう。のちの〔和名抄〕には字を収めず、これらの和訓もない。
本居宣長の〔玉かつま〕九四六に、次の一条がある。
新字は、かつて世にしられぬふみなりしに、めづらしくきころ出で、古學びするともはあまねく用ふるを、あつめたる人のつたなかりけむほど、序ののいと拙きにてしるく、すべてしるせるやう、いとも心得ぬ書なり。そはまづ其の字ども、多くは世にめなれず、いとあやしくて、から書きはさらにもいはず、こゝのいにしへ今のふみどもにも、かつて見ぬぞ多かる。
編集上、そのような欠点の多い書であるが、わが国最古の字書として、動かしがたい価値があることをも、宣長は認めている。
されば拙きながら、時世の上りたれば、おのづから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めづらしきこと多く、すべて彼の抄をたすくべき書にて、物まなびせん人の、かならず常に見るべき書にぞありける。
これらの古訓は、序に「或いは東倭の訓り、是れ書私記の字なり」とあり、編者が自ら書きとって集めたものである。全書にみられる音・訓の混乱も、そのような収録の過程で生まれたものであろうが、そこにかえって編者の労苦をみることができるようである。
源順の〔和名類聚抄〕は、略して〔和名抄〕とよぶことが多い。書名の示すように類聚形式のもので、全巻を「天地・人倫」巻一、「形體・疾・」巻二、「居處・舟車・珍寶・布帛」巻三〜「稻・・果」巻九、「木」巻十の十巻二十四部に分かつ。他に二十巻本、四十部二百六十八門とする増補本がある。この部立では文字は主として名詞に限られ、動詞・形容詞など用言の大部分を収めることができず、〔篆隷万象名義〕と同じく、字書としては大きな制約をもっている。
その説解には、〔爾雅〕〔説文〕〔玉〕〔切韻〕など、多く中国の字書を引き、またわが国の奈良期の字書とみられる〔楊氏漢語抄〕〔弁色立成〕や〔和名本草〕〔日本紀私記〕など、古い訓注類の引用が多い。この書は源順の序によると、帝の皇女勤子内親王の依嘱を受け、和訓を施すための字書として編修し、前記の諸書からその和訓を収めたものであるという。収録の字が名物に限られているため、古語を多くしるした〔私紀〕の資料などは多く棄てられているが、なお二千六百語に及ぶ和訓を存している。
その記述の形式は、多く内外の書を徴引し、和訓を施すもので、徴引の書は二百九十余種に及ぶ。原文の形式をみるため、一条を録する。
雷霹靂電附、名云、雷、一名雷師雷、力回反、和名、奈加美、一云、以加豆知 釋名云、霹靂辟二、和名、加美渡計、〜玉云、電甸、和名、以奈比加利、一云、以奈豆比、云、以奈豆末
泉 日本紀私記云、漁人阿辨色立云、泉和名同上、楊氏語抄、同、集云、人 (巻一)
この書には狩谷斎の〔箋注〕があり、詳審を極めている。また別に二十巻本があり、歳時・音楽・香薬・職官、また国郡名のような大量の実務的項目が加えられていて、官公署用の百科辞書的な性格が著しくなっている。
古訓和語の集録は、〔類聚名義抄〕に至って大成される。略して〔名義抄〕という。「名義」は「翻訳名義」の意で、もと仏典のためのものであるが、のち次第に改編されて、文字はひろく字書の全体に及び、和訓は仏典外の訓読書の訓義をも捜集し、わが国の古訓のすべてを網羅するものとなった。その成立には数次にわたる改編があったものと思われるが、現存の資料によっていえば、図書寮本が原に近く、蓮成院本系統に至ってややわり、観智院本に至って完成したといえよう。ただ観智院本も数次の書写を経たものであるらしく、誤写がかなり多い。いま各書からそれぞれ一条ずつを録しておく。
○図書寮本糸部
、玉()曰、、餘絹反、脩・東・由・因循・從・附・欺言、メグル ヨリテ コトノモト シタガヒテ ツラナル モトミス
なお以下に無(原)任、ヨシナシ以下、、因、等無、~、覺など、多く仏典の語を録し、仏典の文を引いている。
○観智院本白部
白帛 シロシ キヨシ マウス スサマジ サカヅキ スナホニ
イチジロシ カタチ カタラフ モノガタリ ト、ノフ カナフ 白シラ
カナリ 白地アカラサマ
イチジルシ
この条は鎮国守国本とほぼ同じであるが、「イチジロシ」の訓が多く、そこに斜線が加えられている。書中に多くみえるこの種の斜線は、他本との対校のときに加えられたものであろう。白皙・白地の連語も、ここに新たに加えられている。
〔本朝書籍目録〕に〔仮名玉〕三巻を録している。その書は佚して伝わらないが、これがいわゆる〔倭玉〕の祖本と考えられ、〔名義抄〕もなお「仏」「法」「僧」三部の編成である。同じくこの系統のものに〔音訓立〕〔字鏡〕があり、近年竜谷大学本〔字鏡集〕が刊行された。〔竜谷本〕は完本であり、和訓も多く、おそらくこの種の字書の、完成期の著作と考えられる。〔立〕以下はいずれも室町期の写本とみられ、いわゆる和訓は、ここに集大成されているといえよう。
以上に古訓の字書について概説したのは、〔字訓〕にとり扱った時期につづいて、平安・鎌倉・室町期は、漢字が国字として定着し、〔文選〕〔史記〕など漢籍の翻読がすすみ、抄物の著作、漢文の形式による詩文の制作などもひろく行われて、わが国における漢字の用義法が、ほぼ完成した時代と考えられるからである。それで本書には「古訓」の項目を設けて、〔新字鏡〕以下、和訓のとるべきものを収めることにした。漢字の訓義は、ほとんどここに網羅されているといってよい。そこにはわが国における、いわば漢字の生態をみることができよう。
文字の体系的研究をすすめる上に、字形学的研究とともに、声系・語系についても、その系列化を試みる必要がある。単音節語である中国語には、同音の字が多い。その同音関係は、端的には同じ声符で示される。同じ声符で示される文字の関係を、声系ということにする。声系に属する字には、声符のもつ本来の意味を継承するものが多い。たとえばky声(本字は。〔説文〕下に「謌ふなり」とし、「古弔切」とする)の字に
・徼・・ky 覈hek 激kyek
などの字があり、みなの声義を承ける。形と声において同じ系列の字であるから、字義においても同声相承けるところがあるはずであるが、しかしこの系列の字義と相承の関係を明らかにするためには、まずの字形とその意味するところを知らなくてはならない。
〔説文〕四下には、を放部に属し、「光景るるなり。白に從ひ放に從ふ。讀みて龠やくのごとくす」という。白光を放つ意の字と解したのであろう。光景を主とするならば、字は白部に属すべきであるが、〔段注〕に「白に從ひて白部に入らざるは、其の外に放つを重しとするなり」、すなわち放の意に従うものとする。徐の〔段注箋〕に「は疑ふらくはち字」として玉光の意とし、兪の〔兒笘録〕に、は放流の放とは関係がなく、白部に属しての正字とすべしというが、いずれもの字形を具体的に説くものではない。
〔説文〕放部に放・敖・の三字を列し、「放はふなり。攴に從ひ方聲」「敖は出游なり。出に從ひ、放に從ふ」という。この場合、方の形義が字の基本義をなすものと考えられるが、〔説文〕下は方を「なり」としており、放字条では方舟の解をとりえず「方聲」とする。およそ放のように攴に従う字は、の部分が攴(撃つ)の対象となる関係のものが多い。(啓)は神戸を啓ひらいて神意を問う形、數(数)さくは女の結いあげた髪(婁)をうち乱す形、敗は鼎(貝)銘を毀敗して、盟誓を破棄する意、敲は白骨を敲たたいて呪儀を行う意である。方は卜文・金文の字形によれば人を架する形。人を架してこれを殴うつことを放といい、それが邪霊を放逐する呪的な方法であった。敖とは長髪の人を架して殴つ形で、出に従う字ではない。敖声の字はおおむねその呪儀に関している。放は架屍、敖は長髪の人、白は髑髏の象であるから、とは白骨を架して殴つ呪儀をいう。その頭部を殴つ形が敲である。
kyを〔説文〕四下に「讀みて龠やくのごとくす」というのは、tjiakとの声の関係を考えたものであろうが、白骨に対する呪儀としては、殴つことのほかに、詠吟し、呵してその欲するところを求めることがあり、そのことをkyという。〔説文〕下に「謌うたふなり。欠に從ひ、の省聲。讀みて呼ののくす」とあり、声の関係を以ていえば、この声系の字はに従うべきである。おそらくもとは、・ともに声義の同じ字であったと考えられ、それで・徼の諸字は、みなの声でよまれるのである。
()声の字はみな()の声義を承け、白の意と、邪霊を祓い遠ざける呪儀とに関している。辺徼でその呪儀を行うことを徼といい、その呪霊を鼓舞することを檄といい、そのようにものを激することを激という。()声の字は、その声系がそのまま語系をなしている例である。
声系が同時に語系をなすということが、造字法の上からいえば原則であるけれども、また同声の他の字を借るということも少なくない。それで声系すなわち語系とは定めがたいところがある。
〔説文〕に(告)声の字として・(造)・誥・梏・窖・(浩)・など十八字を録する。これらの字に、声義の一貫した解釈を求めることは困難である。〔説文〕二上に「は牛、人に觸る。角に木をく。人にぐる以なり」と解し、牛が人に角をすりよせて告げようとする形と解するが、それは〔易、大畜、六四〕の「牛の」という語から附会したもので、今本は字をに作り、正字は梏で施梏の意。は卜文・金文の字形は小枝に祝告の器であるさいを著けた形、わが国でならばに申し文を結んだ形で、これを以て神に告げる意である。しかし〔説文〕に声とする十八字のうち、その声義を承けるものは「は祭なり」「誥はなり」の二条に過ぎず、は声も異なる。それで〔説文〕に声をとるものでも、会意とすべきものがあり、また他の声と別に語系の関係をもつものがあると考えられる。たとえばhuは「澆kyなり」とあり、澆は水をそそぐ意。は浩浩・浩のように用いる字である。その声義の関係からいえば、洪・鴻hong、宏hong、弘hung、(荒)xuangの系列に近い語であろう。また窖keuは「地なり」とあって、地窖をいう。その声義の関係からいえば谷kok、khut、竅khy、屈kiutなどの系列に属する語であろう。
声系の字が、その語系に属するかどうかは、声字のもつ形義の解釈によることであるから、声系の字を考えるときにおいても、基本字の字形解釈が正しく行われているかどうかが前提となる。を「光景る」、を「牛のにして、牛が人にげる」というような字形解釈の上に立つ限り、声系の問題も、正しい理解の方法に達することはできない。
清代に考証学が起こり、漢唐の訓詁学は考証学によって精密な検証が加えられ、清代の小学が成立する。清代小学は、考証学の精華ともいわれ、その大成者は王念孫・引之父子である。〔経義述聞〕はこの二代の小学家の業績の、総括を示すものといってよい。王引之の序に「大人(念孫)曰く、訓詁の旨は聲に存す。字の聲同じく聲きは、經傳々にして假借す。學聲を以て義を求め、其の假借の字を破り、讀むに本字を以てせば、則ち渙然として冰釋せん」とあり、「声近ければ義近し」という原則を以て字の通仮を論じた。巻末の〔通説、上下〕に字説の要約がある。その方法について、一、二の例をあげよう。
〔詩、唐風、鴇羽〕〔小雅、四牡・杜〕などに「王事靡」という句があり、旧注では「王事もろきこと靡なし」と訓んで、王家の命ずるところが厳にすぎることを怨む意であると解されている。しかし「きこと靡し」という否定態の表現はいかにも不自然であるので、王念孫は〔爾雅、釈詁〕に「は息なり」とあるのによってkaと(苦)khaとを同じ語とみて、「王事やむこと靡し」と解した。これで句意は通じやすいものとなる。
・は確かに声が近く、句意も通じやすいが、しかしそれならば「は息なり」とする訓を、文字学として字義に即して実証する必要がある。を息と訓する訓詁を証明しない限り、もまた通仮の字にすぎないからである。のち馬瑞辰の〔毛詩伝箋通釈〕に至って、〔玉〕〔広韻〕に「は息ふなり」とあることに注目し、をにして止息の意と解した。これによっての本字はka、一般に姑息という語の姑kaにあたるものであることが知られた。〔周礼〕に・通用の例はあるが、「靡」のはではなくであり、姑である。王念孫の苦説は、実は・姑のようなその本字を発見することによって、はじめて解決がえられるのである。
〔通説、上〕にまた弔字説がある。「引之んで按ずるに、弔字に善の義り。而れども學之れを察せず」として、〔書、大誥〕「弗弔なる天、を予にす」、〔誓〕「乃なんぢの甲冑を善ととの(繕)へ敕をさめ、~敢て弔よからざること無なかれ。〜乃の弓矢をへ、〜敢て善からざること無なかれ」と弔と善とを同義に用い、また〔詩、小雅、節南山〕「不弔なる昊天 亂定まることる靡し」、〔左伝、荘十一年〕「宋に大水あり、弔せしむ。曰く、天、雨を作し、粢をす。何いかんぞ不弔なる」などの例をあげ、みな不善の意であるという。そして
後人、弔のの丁の反(てき)なる、訓して「至る」と爲し、多嘯の反(たう)なる、訓して閔傷と爲し、強ひて別を加ふ。而して弔の善爲たるは、卒つひに之れを知る無し。故に〔玉〕〔廣〕竝びに「弔は善なり」の訓を收めず。し其の傳を失ふこと久し。
という。「不弔」の語は金文にもみえ、人の死をいう。弔は叔の初文にして淑、〔詩、風、君子偕老〕に「子の不淑なる ここに之れを如何いかんせん」とは、国君夫人の死を悼む語である。
王引之はここでは弔に善の意があるとし、いわゆる仮借説を提出していない。また弔を善とする訓詁上の語例を提示していないが、弔には善の義はない。金文にみえる弔は象形でしやく(いぐるみ)の形、すなわち弔字で示されるものはtjiakの初文。は淑tjiukと声近くして仮借して用いるもので、弔()は淑の声を写したものにすぎない。叔sjiukの左はそのいぐるみの形、叔がの初文、その叔を淑の義に用いるという関係であった。すなわちその字形と、また通仮という過程によって、「不弔」を「不淑」とする解釈がはじめて成立するのである。
清代小学の精華といわれた王念孫父子の訓詁の学は、その用例から帰納して通仮の関係を確かめるということに終始し、その字形・声義から考えて語系をたどるという、文字学の体系を考えるものではなかった。もとよりそのような作業は、古代音韻学の知識をも必要とすることであるが、古韻二十一部説を提示してその研究に道を開いた王氏父子においても、語系の問題は容易に企図しうることではなかったのかも知れない。
声符によって声系を求め、訓詁によって通用仮借字を求めるという方法に対して、音韻によって語系を求めるという方法がある。音韻は、単音節語である中国語においては、頭音を示す声母(また紐という)と、声母につづいて韻尾を占める部分(韻という)の、韻とによって構成される。たとえば東tongはtが声母、ongが韻。声母は三十六、古代の音韻については古紐といい、王力氏はその声母を三十三とする。
また古韻は二十九部、陰・入・陽の三声に分かつ。陰は母音、入は入声の字、陽はng・n・mで終わる音となる。
陰・入は之・、幽・覺など、横の関係で通韻することが多い。これを対転、陰入対転という。陰・入・陽の各声のうちで、たとえば之幽、質、陽元のように、両韻の間に通韻するものがある。この関係のものを旁転という。この同紐・旁紐、また通韻・対転・旁転の関係にある語の間には、語系の関係にあるものが多い。たとえば〔同源字典〕には、端母同紐の字として弔俶・俶淑の例をあげている。
弔tyk、俶thjiuk(端隣紐、沃覺旁転)
俶thjiuk、淑tjiuk(禪旁紐、覺部畳韻)
そして〔書、費誓〕「敢て弔よからざること無なかれ」、〔注〕「弔はほ善のごときなり」、〔説文〕「俶は善なり」、〔詩、周南、関雎〕「窈窕たる淑女」、〔伝〕「淑は善なり」など多く経注の例をあげ、これらがみな善の義で、同源の語であるとしている。ただこれらを同源の字とするのには、なぜ弔・俶・淑にそれぞれ善の義があるのか、その字義の因るところを、字源としても明らかにする必要があるが、〔同源字典〕は一切そのことに及んでいない。いわば訓詁学的・音韻学的な説明は加えられているが、文字学的な説明が試みられていないのである。弔葬の弔に善の意があるはずはない。金文に「不弔」というときの弔は、実はtjiakの象形で叔と釈すべく、は淑と審禪旁紐、同韻の字である。叔伯の叔はまた字形が異なり、叔の左のsjiukはtsyek(まさかり)の従うところであり、は儀器として玉を用いることもあり、その材質には精良なものを用いた。これを中におくことをtzyekといい、寂の初文。人においては俶thjiukといい、俶善の意。淑は〔説文〕に「湛なり」とあって清澄の水をいう。俶に借用して「淑人君子」「窈窕淑女」のようにいう。語の同源を論ずるならば、声のみではなく、このようにその字源にまでって論ずることが必要である。
同源の字を求めてその声義を考えるという方法は、古くから行われ、漢代にすでに〔釈名〕のような専門の書が出ている。「日njietは實djietなり」「ngiuatは闕khiuatなり」「春thjiunは蠢thjiunなり」「tumはtjiumなり」というような音義的な訓は、理解しやすい例である。(冬)は(終)の初文。は織り留めの結びの糸の形で、金文に終の意に用いる。闕は厥kiuatのほうがの声義に近い。
ただこのような同源説は、ときに恣意に陥りやすく、例えば〔釈名〕「天thyenは顯xianなり」は声義はなはだ遠く、むしろ〔説文〕一上に「天はtyenなり」というのが、声義ともに近い。天はの象形、人の頭部を大きく記した形で、その頂を示す。また「地dieiは底tyeiなり」とするが、地の初文はdiutに作り、神梯を示すの前に、犠牲として牲をおき、土神(社)を祀り、神の降格するところとする意で、神降ろしをするところをいう。底は氏厥(ナイフ)で物の底部を平らかに削る意で底平のところ、とは関係のない字である。地は(隊)diut、siutと関係があり、深の地をいう。は「高きよりおつるなり」とするが、神の降格するところ、「は深なり」とあって神聖の地をいう。神の降りるところをといい、それが地の初文である。
〔釈名〕のような方法は音義説とよばれるもので、〔説文〕の訓義にもそのような方法を用いることが多い。たとえば「王hiuangは天下の歸hiuangするなり」「士dzhiは事dzhiなり」は、まさに同声の字である。しかし同声であるから、その原義も等しく、同源同系の語であると定めうるものではない。王は鉞の刃部を下にしておき、玉座の象徴とするもので、鉞頭の象。戉(鉞)hiuatは王と同系、王の呼称もその儀器の名から出ていることが知られる。王の上部、柄を装着する部のところに、儀器として玉飾を加えることがあり、その字は皇huang、王の転音とみられる。
王の出幸のとき、王はこの儀器を足の上に加える。その字はわう、上部は之(止、趾の形)。儀器の呪力を足に移して出発するので、は(往)の初文。も古くはに従う字であった。王ととが同声であるのは、儀器としての王による出発の儀礼を、その儀器の名によって往といったからであって、王に帰往の意があるからではない。
士dzhiは、儀器としての王の小型の鉞頭の形。その身分を示す儀器である。事は卜文・金文では()・事一系の字。shiはもと祭祀。が祝冊を木の枝に著けるように、は祝冊を木に著けて奉持する形。卜辞によると、内祭を史祭という。外に出て祀ることをshiといい、祭祀の使者をいう。その使者の行う祭祀を事dzhiといい、大祭には大事といった。事の字形は、使者を示すの上部に、外に使することを示す偃游(吹き流しの類)を著けている形である。事は史の掌るところで、字形の上からも士とは関係がない。それで〔説文〕が「士は事なり」というのは誤りであり、同声ではあっても同源、同じ語系の語とはしがたいのである。
語系を考えるとき、まず声義の関係が問題となる。声が近く、義もまた近いというときに、語としての両者の関係を考えることができるからである。この場合、同じ声符をもつ字の関係、すなわち声系については、すでに述べた。ただ同じ声符をもつものであっても、それぞれの字の間にどのような共通義が生ずるのか、各字とその声符との間にどのような声義の関係があるのかという問題があり、また各字の字義が展開してゆくなかで、他の語系とどのように接触し、関わってゆくのかという問題がある。そのような展開を通じて、系は紀となり綱となり、語は万象に通ずるものとなる。
〔説文〕に曷声の字として(喝)・・(謁)・・歇・碣・・(渇)・(掲)など、二十六字をあげる。曷hatは曰(祝告)とkatとに従い、その会意字であり、の亦声の字である。は〔説文〕十二下に「气なり。人をと爲す。安のなり」とあり、亡人の象であるとするのは正しいが、「气なり」とするのは字義に合わず、は金文に求の意に用い、「用て年をもとむ」「用て眉壽をむ」「用て多をむ」のようにいう。が求の意となるのは、その屍骨を呪霊として、希求の呪祝を行うからであろう。その音系に希求の意があるらしく、乞khit(气の初文、气の字をも用いる)、gin()、(祈)giaiなども金文にみえ、(幾)kiiは経籍に多くみえる。
曷に求の義があり、求めることの実現を願って、激しく呵する意であろう。〔説文〕に「何なり」とあり、呵する意より「なんぞ」という疑問詞となる。その声をxatという。曷・はもと擬声的な語であろう。遏atは呪祝して抑止する意で、「鎭壓」の壓(圧)eapと声義が近い。壓は犬牲を供えて、邪気を鎮圧する意の字である。iatは曰hiuat、(説)jiuatに近く、懇願する意を含むようである。呪祝を行うときにも、威圧的な方法もあり、媚悦を以てする方法もある。声高で声の涸れることをkhat、一息つくことをkhiat、すっかり尽きることを歇xiatまた竭giat、呪祝を高く掲げて呪禁とすることをgiat、碑として墓域にとどめるものを碣kiatという。みな・曷より分岐して、その声義をえているものである。
声符の異なる字の間にも、声義近くして一系の語をなすものがある。これは、曷が曷声の諸字に声義ともに分化していったのと異なって、もと異なる声系に属するものが、共通義をもつ他の声系の字と接近して、そのような関係によって一つの語系をなすもので、本書でとり扱う「語系」とは、主としてそのような関係にあるものをいう。王力氏の〔同源字典〕も、主としてそのような声義の関係の字を扱っている。古くは〔釈名〕〔説文〕にみえる音義説的な解釈、のちには王念孫父子、段玉裁などの訓詁学的な研究、また下って章炳麟などの音韻研究も、多くこの問題をとり扱っている。ただ音義説はもとより、王念孫父子の訓詁学的方法、章炳麟の音韻学的方法には、それぞれその方法になお不十分なところがあることについては、すでに述べた。
王力氏の〔同源字典〕は、これら先行の研究者の成果を十分に顧慮しながら、同源の語を求める方法を詳論し、音韻学的な法則をも厳密に規定した上で、多くの同源の語群を録している。本書の「語系」の執筆には、主としてその書を参照したが、なお新たに加えたところも多く、特にその語系形成の基本となる字形学的・字源的な解釈を新たに加えた。王力氏のこの書は、同源の字について多く訓詁経注の類を引いて、訓詁的実証を試みている。その方法は清代小学家のなすところと、ほとんど異なるところがない。しかし訓詁は、いわば用字法上の慣例であり、結果としての現象であるから、同源の根拠は、字義そのものの系統的理解の上に立って、語系の各字に共通する声義の関係を、字形学的に説明するのでなければならない。本書では簡略であるがその方法を補うことによって、語系の問題に文字学的に依拠するところを与えることを試みた。たとえば否定詞の無の系列に属するものとして、〔同源字典〕には以下の諸字を表示している。
無(无)miua‥毋miua〈同音〉
無miua‥罔miuang〈魚陽対転〉
無miua‥mak〈魚鐸対転〉
無miua‥靡miai〈魚歌通転〉
靡miai‥miat〈歌対転〉
miat‥末muat〈部畳韻〉
miat‥未勿miut〈物旁転〉
これらはすべて(明)母の字で否定の意味をもつ語であること、また各字について多く訓注の例をあげ、訓詁上同義の字であるとする説明がある。
これらの字が、声近くして通用の関係にある字であることは、訓詁の例からも疑いのないことであるが、しかしこのように多様な文字の中には、本来その字義をもつものもあり、その演繹義によるものもあり、また仮借によるものもあると考えられる。それで字の本義に即した、字形学的な解釈を加えることが必要であると思われる。
そのような関係の最も知りやすい例としては、たとえば擬声語をあげることができよう。擬声語は音によって状態を示すものであるから、たとえば水の音、風の声などには、相似た声のものが多い。そのような類をこえて、たとえば「速く飛ぶ、速い」というような共通の意味をもつ語が、数多く生まれることになる。たとえば
蜚phiui 飛piui pi 飆pi bhi 飄phi 彭pi 驫pi phyen・phiuan
はそれぞれ声近く、みな疾飛・疾走の状をいう語である。蜚は虫が飛ぶこと、飛は鳥、その々として飛ぶをという。は犬、驫は馬、をなびかせることを彭という。は猛火で屍を焚き、ものの飃揺する象、そのような状態を風に移して飆といい、飄という。扶揺とは飄の長音化した語である。それぞれの字形と語において示されるものは異なるが、示すところの共通の観念があり、語として相近いという関係にある。このような関係のものを語系という。
語系をまとめるのには、単に声義の近い関係のものを集めて類比を試みるだけではなく、それぞれの声義の因るところを明らかにし、その共通義のあるところを明らかにして、はじめて語系を構成することができる。たとえば、句ko、曲khiok、局giokは、みな勾曲の義があり、一系の語をなすものと考えられる。句声・曲声・局声の字もそれぞれの声義を承けるものが多い。〔説文〕に「句は曲なり」「鉤は曲なり」「は曲背なり」、〔釈名〕に「曲は局なり」、〔玉〕に「跼は跼して伸びざるなり」など、訓詁の例は多いが、基本的には句・曲・局それぞれの字の原義を明らかにし、その原義のうちに、通用の義を求めうるのでなければならない。
句は、人の句曲した形である勹に、口を加えた形である。口は祝告の器で、この字は人を葬るときの形をいう。局はその繁文に近く、これも屈肢葬をいう字である。句・局は同義の字であるが、句には一くぎり、局に終局の意がある。曲の初文は竹で編んだ筐の形。祭器のほきも竹器を用いることが多く、金文のの字形は曲の形に従う。筐(匡)khiuangは曲と双声の語である。
局は屍を局束して葬る屈肢葬であるので、屈kiutもまたその声義が近い。局のような姿勢で人を罪することを亟kikという。上下を狭めたところに人をおしこめ、前に呪祝の器()をおき、後からおしこめる形の字。両手で強くかかえることをkiukという。これらはすべて窮屈な状態にあることを示す語で、それぞれ表現のしかたは異なるが、その共通項をもつ語であり、同源の語である。その語群を次第によって整理し、分派し演繹してゆく過程を追跡してゆくと、言語の体系の全体にわたる脈絡がみえてくるかも知れない。
どのような言語体系のものであっても、その語源学的研究に何らかの成果が求められるとすれば、それは言語一般の歴史の研究に大きく寄与することができると考えられる。多くの言語体系のなかでも、中国では文字の起源も古く、その文字資料も連綿としていて、各時代にわたり豊富を極めており、資料的にこれほどゆたかな世界はない。かつ単音節語の表記法として、一字一音節をとるほかなかった漢字は、語の形態に著しい変化を受けることもなかった。殷虚の甲骨文を、そのまま後世の文献と同じように読んで理解できるという事実は、他の言語・文字の体系のなかでは考えられない、まことに驚異的なことである。
単音節語には、語としての形態の発展が乏しく、漢字はその字形上に、文字成立当時の原初の観念をそのままとどめている。その後の字義の展開については、各時代の用義法をたどることによって、綿密に追跡することができる。また他の文字と結合して作られる連文(連綿字・連語とも。熟語)のありかたを通じて、語義の広がりを把握することができる。それで、本書に試みたような声系・語系の問題を単位として、その系列を群別として体系化し組織してゆくならば、この言語体系の原始の状態から、他に匹敵するもののない文字文化の展開の過程、そのみごとな成就の次第をうかがうことができよう。
単音節語である中国語、その表記法としての漢字は、また語の原始性を保存する上に、極めて好適な条件をもっている。与えられたその字形は、成立以来の形をもちつづけていて、変化することがなく、その字形にこめられている原初の観念を忠実に維持しており、そこには文字の成立した当時の心性が認められる。ことばの最も原始的なものはオノマトペ、擬声的な言語であるが、漢字にはオノマトペ的な語が多い。さきにあげた疾飛するもの、蜚・飛・・飆・・飄・彭・驫・なども、もとはみな擬声語であり、それを具体的なものに即してそれぞれに字形化したものにすぎない。擬声的な言語においては、一般に母音には曖昧さや暖かさ、やさしさがあり、歯音には寂寥・沈静・清澄の感があり、喉音には緊張と扞格、脣音には破裂・摩擦の状態を示すものが多い。二字連文の語彙にもその類のものが多く、曖昧・潺湲・剞・挑達・霹靂など、双声・畳韻の語となることがある。オノマトペの語が極めて基本的なものであったことは、その声系・語系によって語の展開を考えると、容易に知ることができる。
たとえば皮biaiは、獣皮をぎとる形を示す字であるが、同時にそれを取するときの音を示す語である。peokとは取する行為をいう。皮をぐという行為が、生活を営む上に重要なことであり、多くの事象がその観念と連鎖することによって、皮声の字が生まれた。披phiai、波puai、陂piai、被biai、坡phuai、簸puai、頗phuai、跛puaiはみな皮声の字であるが、皮は単なる声符でなく、皮に対するいわば原体験的なものが、ここに反映していると思われる。それはまた皮に近い声義をもつ(覇)peak(雨ざらしの皮)、白beak(頭顱)、ひらひらと分散するものの意をもつphe、phuat、phe、(薄)bak、byen、(平)bieng(手斧でぐ)、番buai(獣の掌の形)とも連なるもので、みなその状態に近い擬声語であり、それぞれの事象の具体的なありかたを字形化したものにほかならない。これらはまた合して、オノマトペの一群を構成する。このようにしてオノマトペとしての語群を拡大構成することができるのは、漢字のまた大きな特質の一つといえよう。
漢字の声系・語系について項目を設け、簡単な記述を試みたのは、このように漢字を通じての言語学的な問題への可能性を、いささかでも指摘しておきたいと考えるからである。
漢字を形・声・義にわたって体系的に理解するとともに、わが国の字訓の用法を確かめることは、漢字を国語表記に用いるときの基本の作業であるが、国語の語彙の半数以上が、その漢字を結合した連文、いわゆる熟語で占められている事実からいえば、語彙もまた重要な国語領域の問題である。
漢字は単音節語であるから、ひびきが強く、また多義的であるという特徴がある。それでそのような漢字の結合は、造語の上に種々のはたらきをする。たとえば同義字を重ねることによって、概念を集中し、強め、純化し、深化する。声義の近い字を連ねることによって、概念を拡大し、方向づけ、また相矛盾するものを連ねることによって、そのような対立を含む範疇の全体を示し、あるいはまた、修飾・被修飾の関係が容易であることから、語の構成が容易であり、かつ多様でありうるなど、孤立語特有の造語法がある。しかもそれは、同一の文字による、二千年にも及ぶ歴史の集積の上に成るものであるから、語彙そのものに歴史の背景がある。語彙の構造の上からも、その歴史の上からも、語彙そのものが一種の存在感ともいうべきものをもち、それによって比類のない表現の世界を展開している。中国が文字の国といわれるのは、そのような文字による表現の世界をもつからであり、一つの語彙が、ときには一つの思想の集約として、ときにはある歴史的な事実と関連するものとして、ときにはある作品に直接に連なるものとして、それらを想起させる。語彙はしばしば、その全体の支点をなしている。
わが国では、かつてはそのような中国の文献、その漢字による表現の世界を、わが国の古典を読みこなすような容易さで、国語として読むことができた。中国の文献は、また同時に、わが国の文献でもありえた。大量の漢語がわが国で国語化して用いられるのは、そのような状況のなかで可能であった。
語彙は、具体的な表現のなかで生きている。したがって語彙は、そのような表現のなかにあるものとして、扱わなければならない。語彙の解釈は、他の語におきかえるということだけで、終わるものではない。語彙は、本来はおきかえることを許さないものであるはずである。おきかえることを許さない固有の表現であるということが、語彙の条件であるといえよう。それで語彙の解説に用いる例文は、一つの完結した表現であることを要する。単に出所を示すだけのことならば、それを注記するだけでもよい。しかし語彙が語彙であるためには、その文例は具体的な表現であることを必要とするのである。
たとえば、「軽舟」という語がある。「軽い舟」「軽く小さい舟」「小さくて速い舟」と訳してみても、語感としては適当でなく、また十分でない。おきかえができないのである。しかし「輕舟にぐ重の山」というとき、「軽舟」は姿をあらわす。語釈というようなものを越えて、軽舟そのものが眼前に出てくる。「兩岸の猿聲いて盡きざるに」という上の句をつけ加えると、山川ともに動く躍動する世界のなかにある軽舟の姿が、いっそう鮮明となる。さらにもし「に辭す、白雲の 千里の江陵、一日にる」という上二句を加えれば、表現はもとより完璧となる。そしてこのとき、「軽舟」が天地の主である姿がうかぶ。
本書では、そのような意味で、例文に重点をおいた。例文によって感得されるものが、最も正しい、完全な解釈である。それで例文には、完結した表現をもつものであることが望ましい。また例文は、何びとにも理解しやすいものでなければならない。それで例文はすべて訓み下し文とし、難語には訓みをつけ、注を施した。徴引の文は経子史集の各分野にわたり、古典から近人の作家に至るまで、なるべく独自の主張をもち、独自の表現をもつものをえらんだ。既存の辞書に負うところも多いが、私自身が採録を試みたもの、協力者によって摘録されたものもあり、すべて原典により、原拠を確かめたうえで収録した。ただ表現の完結した例文を、訓み下し文によって収めるのには紙幅を要するので、結局は当初収録を予定していた文例の幾分を、節略せざるをえなかった。もし機会があれば、この書が有志者によって、さらに多くの例文を加え、中国における表現の精華を、より多く伝えるものとなることを希望している。
例文を収めえなかった語彙は、簡単な解釈を附して列挙することにした。これらの語はなお世用に供しうるものであり、造語法のみるべきもの、修辞の参考となるものなどを録し、廃語に近いものは略した。
また次に下接語を加えた。〔佩文韻府〕は各字条に下接語を録しているので、それを主とし、別に通用の語を求めて加えた。語彙や下接語は、適当な表現の語を検索するときの資料として、用意した。
付録として同訓異字、平仄一覧、作者・書名解説を加えた。
同訓異字には、その用法に自然に慣行とすべきものがあり、必ずしも厳密な区別を施すべきものではない。ただ古典を読むとき、表現の機微にわたることもあり、すでに各字条にしるしていることも、同訓の字を併せて考えるとき、その用法が明確となることもある。古くは伊藤東涯の〔操字訣〕、清の劉淇の〔助字弁略〕、王引之の〔経伝釈詞〕などが参考の書とされ、それによる解説が多い。それらは、用例から帰納してその用義を考えるという方法をとるが、本書では字の原義立意の上から解説することを試みた。これは従来にない解説の方法であるので、いくらか参考に供することができるように思う。
本書には、簡単な平仄一覧を加えることにした。一般の辞書には、〔広韻〕〔集韻〕などによって反切・韻を加える例であるが、漢字を国字とする立場をとる本書では、これを略することにした。平仄を必要とするのは、大体において詩賦の類を扱うときのことであるから、そのためには韻別に一括した平仄表を掲げることが便宜であろうと考えるからである。
漢詩を作ることは、昭和の初年にはまだ全国規模の詩社も数社あり、詩会なども行われていたが、今ではほとんど聞くことがない。しかし漢詩の鑑賞には、自らも作詩の経験をもつことが必要であり、平仄表や多数の語彙が、一書のうちに用意されていることが望ましい。
文例として掲げた文献や詩文、その書名や作者たちについては、語彙の辞典である本書には録入しなかったので、別に簡単な解説を加えることにした。文献はほぼ四部別、作者は時代別にした。主要な典籍や作者の、ほぼ全体にわたるものとなっている。
〔字統〕以来、本書の刊行に至るまでに、私はほぼ十三年の歳月を要した。〔字統〕〔字訓〕とともに、いささか世用に役立つものであることを願っている。
平成八年九月 白川 静