地名は,人類が各地に集団を形成し,社会生活を営みはじめる段階で発生したと考えられる。その発生は,生活上の必要な土地を示す記号として生まれ,その時期は文字の発生よりはるかに古いと思われ,その起源を正確に証明することはむつかしい。
しかし地名は,集団の社会生活と不可分であるばかりでなく,時には地名から集団の自然に対する愛着・恐怖・畏敬の念すらうかがうことも可能である。人間の地名への関心が深く根強いのも,こうしたところにその原因の一つがあろう。わが国最古の文献である「日本書紀」「古事記」には,数多くの地名伝説が取り入れられており,8世紀の「風土記」は,国家的規模で,全国の地名説話を集大成したものである。これらは,国政上の関心,あるいは必要から編まれたものであるが,そこには,民族の心のふるさととしての地名を後世に伝えようとする使命感すらうかがえる。
わが国のことを伝える最古の文献であるとされる中国の「論衡」や「山海経」にいう「倭」も,地名であるか,種族名であるか,にわかに断定できないが,確かな地名としては,「魏志」倭人伝に見える「対馬(つしま)」「一岐(いき)」「末廬(まつら)」などがある。また邪馬台国以下数十国にのぼる倭人の国名が記されているが,これらの国名も,おそらくそれぞれの所在する地名に基づいているものと推測される。その大部分は,今日のどの地名にあたるか決定困難であるが,「対馬」「壱岐」などは,7世紀末には出そろった他の国々の名とともに,近代の廃藩置県実施の時まで1,000年以上も実効をもった地名として生きていたことは,世界的にも希有な現象といわねばならぬ。
それに反して,8世紀の国郡制の下に登録された数千にのぼる郷名は,今日,その名のみあってその地を確定できぬものが多い。これは,社会生活が刻々と複雑化するにつれて,さまざまな変遷や,時には消滅さえも余儀なくされる地名の運命を物語るものである。地名の原点が小字(こあざ)に象徴されるごとく,本来,小地域の人間生活の投影として出発している以上,社会が拡大し,国家体制が強化されるという段階になれば,それに伴う国家支配の必要から,地名が影響を受けるという事態は避けがたく,その趨勢は,一種の歴史的必然といってよいかもしれない。
事実,歴史を通観してみても,地名は時代の推移とともに,興亡盛衰の常なき過程を経つつ今日に至っていることがわかる。地名は,在地の集団の必要上の,地域集団の私製に始まり,国家体制の進展によって官製化されるという趨勢の中で,強く己れを主張しつつも,後退を余儀なくされつつ,今日を迎えている。この状況は,20世紀を終わろうとする今日,その極点に立っているといえる。それは,地名の性格からいえば,本来,地域生活の中から発生した地名から国家行政上の地名へ――生活から政治の地名へという,地名の質的転換であり,歴史的にみれば,民族遺産としての地名が,その最後の姿を喪失しようとする時期でもある。民族遺産としての地名を書きとめること,今日ほど急務の時はない。
「角川日本地名大辞典」は,こうした地名の転換期にあたり,民族遺産としての地名を将来に伝えることを目的として計画されたものである。同時にまた,現時点での地名を収録し,現代の社会生活上の必要を満たし,地域の現状を歴史として後世に伝えることも企図するものである。執筆には全国各地の研究者の方々の参加を仰ぎ,記述には一々典拠を明示し,以て将来の不審に備えた。本辞典が質量とともに,百世不朽の文献たらんことを念願する次第である。