この事典でとりあげる「架空」「伝承」の人名とは、日本武尊、かぐや姫、物くさ太郎、猿飛佐助のような、文字どおり架空で、この世に存在しなかった人物の名だけに限られません。それは、聖徳太子、空海、源義経、赤穂浪士など、史上に実在したことが認められる人物の名をも含むものであります。
すなわち本書は、その人物が実在したかどうかにかかわらず、民衆やもろもろの作者の想像力の中で生み出されたり、あるいは変形加工されるなどしてその名が伝わってきている人物に関する事典であります。
「架空」とか「伝承」とかの語は、これまでどちらかといえば、虚偽や仮託に属するというように、否定的な意味合いで用いられることが多かったかに思われます。しかしそれでは、歴史や文化史の風景がいかにも貧しいものになってしまいます。
私たちはむしろ逆に、「架空」や「伝承」をあるがままに受け取り、その中に新たな意味を見いだすことのほうが肝心ではないかという見地に立って、この事典を企画し編集してきました。「架空」や「伝承」には、それをただ事実でないという次元に差し戻すだけでは片づかぬ、独自の豊かさ、独自の真実性が蔵されているからです。むろん、事実の世界は排除さるべきではありません。私たちが知りたいのは、事実の世界と「架空」や「伝承」の世界とがどのように呼応し、交響しあっているかという点であります。それを知ることができたら、過去への私たちのまなざしは、いっそう生き生きとしたものになるに違いありません。
この前例のない試みは多くの困難を伴っており、私たちの意図したことがすべて実現していると言いがたいのはもとよりです。しかし、この事典が、従来よりも懐深く、奥行きのある、日本の文化や歴史の像を照らし出すのに、なにがしか寄与し役だつなら幸いであります。
日本架空伝承人名事典編集委員
大隅 和雄 西郷 信綱 阪下 圭八
服部 幸雄 廣末 保 山本 吉左右
日本架空伝承人名事典編集部