日本大百科全書(ニッポニカ)

天皇
てんのう

日本国憲法(第1章)に定められた日本国および日本国民統合の象徴。天皇の地位をさす場合と、天皇の地位にある特定の個人をさす場合とがある。7世紀ごろ大和(やまと)朝廷の大王(おおきみ)が用いた称号に始まり、その権能は古代、中世、近世、近代と変遷を経て、現代の象徴天皇制に及んでいる。
[村上重良]

天皇の称号

天皇という称号は、中国から取り入れたもので、スメラミコト、スベラギ、スベロギなどと訓(よ)んだ。古代中国では、神話伝説上の帝王に、天皇氏、地皇氏、人皇氏があるが、一般には、天皇とは道教系の神名で、北極星を神格化した神をいう。中国で皇帝が天皇と称した例は、唐の高宗(在位650~683)があるのみで、中国ではもっぱら宗教上の用語である。日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋(ずい)に送った国書に、「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとのてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀(さいし)を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。日本訓みのスメラミコトのスメラは、玉に紐(ひも)を通してその両端を握る意味の「統(す)べる」で、統治することをいう。ミコトは、神や身分の高い人の敬称で、神のことばを身に受け、神のことばを発する人を意味するミコトモチの略とされる。すなわち、スメラミコトとは、統治する尊い方という意味である。天皇は、神祇(じんぎ)に対しては、皇孫の意味でスメミマノミコトと称した。
 天皇の敬称、別称は、歴史上きわめて多彩である。7世紀中ごろからは、神と一体の尊い人として現人神(あらひとがみ)、現御神(あきつみかみ)とよばれ、また天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫の意味で「日の御子(みこ)」ともよばれた。古代以来の天皇の別称には、大君、上(うえ)、上(かみ)、主上、皇上、聖上、今上(きんじょう)、当代、当今(とうぎん)、至尊、聖(ひじり)、一人(いちじん)などがあり、上御一人(かみごいちにん)、すなわち現に上に在る尊い人という意味のことばが多い。また中国での皇帝の別称もそのまま用いられた。すなわち、天命を受けて天下を統治することから天子、天朝、一天の君、四海を統御する意味で御(ぎょ)、天子は南面し臣下は北面することから南面、天子は一万の兵車を出す広い土地を治めることから万乗(ばんじょう)、万乗の君、一天万乗の君などの称がある。さらに、仏教から出た天皇の別称があり、十善戒を守る功徳(くどく)で王となるとされることから十善の主、十善の王とよび、須弥四洲(しゅみししゅう)を治める王の意味で金輪(こんりん)、金輪聖王(じょうおう)、聖主、聖皇と称した。
 そのほか、天皇に関連のある事物で、間接的に天皇をさす別称も多い。皇居の門をいうミカド、内裏(だいり)をさすウチ、朝廷をさすオオヤケなどは広く用いられた。また、皇居は、みだりに立ち入りを許されないことから、禁裏、禁裡(きんり)、禁中とよび、皇居をさす宸儀(しんぎ)、天皇の乗り物をさす乗輿(じょうよ)、車駕(しゃが)などの称もある。天皇に付す敬称の陛下は、皇居の階下のことで、中国で、天子にはつねに近衛(このえ)の兵士が階下に連なっていることに由来する。対外的には、明治維新直後の1868年(慶応4)正月の国書で天皇の称号を用いることとしたが、皇帝の称号も併用された。のち1936年(昭和11)4月、対外的称号は天皇に統一された。
 なお、天皇には姓はなく、死後に追号が贈られる。生前の徳をたたえる追号は、諡号(しごう)ともいう。追号の制度は、律令(りつりょう)の公式令(くしきりょう)で確立した。追号には、在所、山陵の名、先の天皇の追号に「後」を付したもの、先の2人の天皇の追号から1字ずつを採り合わせたものなどがある。明治以後は一世一元制となり、元号が追号とされている。
[村上重良]

歴史上の天皇

古代

6~7世紀に、大和朝廷の大王は、キミ、ワケとよばれる各地の王を服属させて権力を強大にし、古代統一国家を形成した。8世紀には律令国家が確立し、祭司王としての天皇の権威と権力の根源をなす年ごとの新嘗祭(にいなめさい)は、天皇が神と一体となるもっとも重要な皇室祭祀となった。新たに天皇が即位すると、一代一度の新嘗祭の大祭を行い、大嘗祭(だいじょうさい)と称した。古代天皇制国家は平安前期に最盛期を迎え、天皇は政治上の統治権と、国の祭祀をつかさどる祭祀権を保持し、その権威と権力は『古事記』『日本書紀』の神話によって根拠づけられた。天皇の宗教的権威は仏教、道教・陰陽道(おんみょうどう)、儒教によって補強され、皇室の仏教化が進行したが、神祇祭祀の原基をなす皇室祭祀は、道教の儀礼を積極的に取り入れて、仏教との習合を拒み続けた。皇位のしるしとされる鏡、剣、璽(たま)の三種の神器は、歴代の天皇によって受け継がれ、思想的、道徳的に意義づけられた。天皇の統治権は、藤原氏の摂関政治と、これに続く院政によって力を弱めた。
[村上重良]

中世

12世紀末、鎌倉幕府が成立し、王朝勢力は政治の実権の大半を失った。たび重なる幕府との抗争に敗れて、天皇の統治権はしだいに有名無実となった。しかし、皇室祭祀の厳修は朝廷の最重要事とされ、大嘗祭の挙行にあたっては、売官等による資金の調達が行われた。14世紀なかばには、建武(けんむ)中興によって天皇の親政が復活したが、わずか3年で崩壊した。こののち半世紀余にわたり、南北朝が併立して抗争が続いた。皇統の分立で天皇の権威は低下し、南北朝合一後の15~16世紀には、朝廷は極度に衰微した。皇室祭祀の中心をなす新嘗祭は、15世紀なかばから220年にわたって廃絶した。大嘗祭も、この時期から225年間、明確な挙行の記録がなく、新嘗祭とともに江戸中期に再興された。立坊(りつぼう)(立太子礼(りったいしれい))は、14世紀後半から315年にわたって廃絶し、江戸中期に再興された。
[村上重良]

近世

16世紀後半から17世紀初頭に全国を統一した織豊(しょくほう)政権と、それに続く江戸幕府は、天皇を擁して、自らの政治支配を正当化し権威づけた。古代以来の律令制は形のうえでは生き続けていたから、幕府は朝廷に小大名なみの御料(領地)と公家(くげ)領を増進し、幕府の援助で祭祀、行事を再興して、天皇の権威を強化した。しかし、幕府は天皇が政治上の実権をもつことは許さず、朝廷を厳しい統制下に置いた。天皇は、名目的な作暦、改元、叙位任官の権限を保持していたにすぎなかった。幕府の尊王擁幕の姿勢は、やがて尊王論の発達を促す結果となり、江戸後期には、神道(しんとう)、国学、水戸学、儒教などにたつ擁幕あるいは反幕の尊王論が盛んになった。幕末、開国をめぐる政争の過程で、幕府は朝廷に異例の条約勅許を請い、天皇の政治的復活に道を開いた。1860年代には江戸と京都の二重政権が成立し、倒幕勢力は天皇を擁して幕府を打倒した。
[村上重良]

近代

1868年(慶応4・明治1)の明治維新によって、王政復古が実現し、祭政一致が政治理念の基本として掲げられた。近代天皇制における天皇の地位は、1889年(明治22)制定の大日本帝国憲法と旧「皇室典範」によって確立した。天皇は、国の元首として政治大権(統治権)、軍の統率者として軍事大権(統帥権(とうすいけん))を一身に保持するとともに、伝統的な祭祀大権を有し、しかも、天皇自身は神聖不可侵な現人神とされた。現人神の観念は、人と神の間に断絶のない日本古来の神観念からかけ離れた一神教の神観念を取り入れたもので、天皇は絶対的真理と普遍的道徳を体現する至高の存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された。天皇の権威と権力は記紀神話によって根拠づけられ、皇祖の神々および歴代天皇の神霊と天皇との一体化が進められた。皇室祭祀では、記紀神話に基づく元始祭、紀元節祭、神武(じんむ)天皇祭が新たにつくられ、また天皇の祖先である皇霊のための祭祀がおびただしく新定された。全国の神社は、皇祖神を祀(まつ)る伊勢(いせ)神宮を本宗(ほんそう)として一元的に再編成され、国家の祭祀を行う非宗教の国家的公的施設となった。天皇は国家神道のいわば最高祭司であり、神社の祭式は皇室祭祀を基準に整えられた。
[村上重良]

現代

1945年(昭和20)敗戦によって国家神道は解体し、翌年元日、天皇はいわゆる人間宣言の詔書で、自らの神格を否定した。1947年施行の日本国憲法は、天皇を日本国および日本国民統合の象徴と規定した。憲法は、皇位の世襲と、天皇が行う国事行為などを定め、天皇は政治上の権限をもたない儀礼的な存在となった。皇室祭祀をはじめ天皇の宗教的行為は、国家的・公的性格をもたない内廷行為(私事)とされた。憲法と同時に、新しい皇室典範が施行され、皇位の男系男子による継承、天皇の終身在位などが規定された。
[村上重良]
 2017年、天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、2019年に今上天皇から皇太子への譲位が行われることとなった。
[編集部]

天皇の衣食住

衣生活

奈良時代には、礼服として唐風の袞冕(こんべん)が用いられた。袞は赤色の袞竜の文様のある衣で、冕は冠である。平安時代には、初めて天皇の衣服が規定され、神事の祭服には帛衣(はくい)、礼服には袞冕を用い、それ以外には束帯の黄櫨染(こうろぜん)の袍(ほう)を着用した。また略装として裾(すそ)の長い御引直衣(おひきなおし)があった。のち礼服は、もっぱら即位礼に用いられるようになった。江戸時代には、即位礼に帛御服(はくのごふく)、神事に斎服を用い、日常は、御金巾子(おきんこじ)の冠に、白羽二重小袖(はぶたえこそで)、緋(ひ)の切袴(きりばかま)を着用した。江戸中期からは、冠は纓(えい)が直立した立纓(りゅうえい)の冠が用いられた。明治維新後は、祭祀、儀式に束帯、小直衣などを用いるほかは、洋服となり、陸軍式、海軍式の各種軍装が定められ、またモーニング、背広なども用いられた。現代では、儀服に束帯などが用いられるほかは、日常は背広、礼服には燕尾(えんび)服、モーニング、タキシードなどが着用される。
[村上重良]

食生活

平安時代以来、天皇の食事は、台盤に銀の食器をのせ、御飯、羹(あつもの)、魚貝、海草、木菓子、唐菓子などを調進した。江戸時代には、日常の供御(くご)と年中行事の供御があり、日常の食饌(しょくせん)では、白木の三方に染付の茶碗(ちゃわん)をのせ、土器の蓋(ふた)、楊箸(やなぎばし)を用いた。年中行事の供御には、元日の烹雑(ほうぞう)など独特のものがある。明治以後は宮内省大膳(だいぜん)寮、現代では宮内庁管理部大膳課が食饌を調進する。
[村上重良]

住生活

平安時代には、初め内裏の仁寿殿(じじゅうでん)が天皇の住居であったが、平安中期以降、寝殿造の清涼殿にかわった。江戸時代には、書院造の常御殿が住居となった。明治維新後は、東京の皇居内の西の丸が住居であったが、火災で焼失後、1889年(明治22)明治宮殿が成って、書院造の常御殿が住居となった。敗戦後は、洋風の御文庫が住居となったが、1961年(昭和36)新宮殿が完成し、吹上(ふきあげ)御所が住居となった。
[村上重良]